初めまして。
メリシャカ!リニューアルに伴い、新規参入を果たしましたsakullaと申します。
では、まずは軽く自己紹介などを。
私は神奈川県にある浄土真宗のお寺に、2人姉妹の次女として生まれました。
そう、次女として生まれたハズなんですよ、確か…。
けど気がついたら、いつの間にか跡取り娘になっていました。
これは勉強しなきゃなぁって感じで、関東の仏教系の大学に進学。
そこの仏教学科でせっせと学び始めるも、その大学はうちのお寺の宗派とは違う宗派の学校。
これは宗門の勉強もしなきゃなぁって感じで、東京仏教学院という浄土真宗の夜間学校にも入学。
仏教のダブルスクール状態で両校を卒業しました。
その後もしばらく学生を続けさせて頂き、大学院(修士)で奈良時代の国家と仏教の関係について研究するという、またまた宗門とは離れた分野に没頭する日々を過ごしていました。
そして、フリーター生活を経て、お坊さんになったはいいけど、その時は既に夜学を卒業してから4年近くが経っていて…。
正直、頭がリセットされていたことに危機感を感じ、現在は寺務のかたわら再び東京仏教学院の研究科へ聴講生として通っているという毎日です。
にしても、今まで読む側だったのに、こうして読まれる側になるとは…。
結構テレちゃうもんですが、これも有り難いご縁ですし、本当に光栄なことだと思ってます。
さて、メリシャカ!に参加するときに、自分のプロフィールを書いたんだけど、その項目の中に、「自分にとって仏教は?」っていうのがありました。
そのとき、パッと出てきたのが「目を見開くこと」だったわけです。
よく使われるし、数行前にもある「有り難い」って言葉、これはお釈迦さまが語られた言葉として経典にあるお話から広まったもの。
どんな話かというと。
人間に生まれるということは、100年に一度、海上に頭を出す亀がいて、その頭が大海に浮かぶ板に開いた穴にスポッと入ることより稀で、有り得ないことだっていう話。
ここから「有ることが難しい」=「有り難い」って言葉ができたというわけです。
普段、何にも考えないで「ある」ということが当然だと思って生きている。
それは家族であったり、友人だったり、食べ物だったり、生きていることだったり。
そんな意識することさえ忘れた、数限りない当たり前のなかで、私たちは生活をしているけど。
でもそれは、全然当たり前のことじゃなくって、その全てが、ただ有るだけでも難しいことばかりです。
人間に限らず、この世界に生を受けたものは、ただ有ることだけでも難しい存在。
それは生のないモノだって同じこと。
なぜなら、全てが想像するなんてできないほどの、無数のつながりによって、ようやく存在することができているから。
このつながりとはご縁のことです。
そのご縁の一つ一つも、当たり前にあるもんじゃない。
そのうちの一つでも欠けたら、それは存在しえなかったかもしれないし。
そして私も、いなかったかもしれないってくら大切なものです。
そんなつながりに、私は支えられて生かされてる。
「あって当然」のものなんて何一つない。
有り難いことを、有り難いと思わず、当然と思って生きてきた自分の姿を、目を反らさずに見ること。
有り難いことを、有り難いと、そのままを見ること。
こういうことが、私にとっては「目を見開くこと」って表現になったわけです。
当たり前のことが当たり前じゃないことに気づいたとき、感謝という思いが生まれるんだと思うから。
そして、そのことに一人一人に気づかせてくれるのが、仏教いう宗教の姿なんだと思うのです。
大事なことは、そういうことに、1人では気づけないということ。
仏法に出遇い、いろんな人と、いろんなことに出会い、そういうご縁に触れることで、見えなかったことや見ようとしなかったことが見えてくるんじゃないかな。
メリシャカ!に、そして皆さんに、出遇い難くして出遇えたご縁に感謝して…メリシャカ!!
…とかなんとか書いてはみたものの…こんなんでイイんですかね?
何はともあれ、今後ともヨロシクお願いしまーす。
