ども、ケンユウです。
今回は、「ちょっといい話」というコラムのようですが、いざ、考えてみると、ありそうなようでなかなかないものですねえ。
で、一つ思い出したのが、ウチで昔飼っていた、猫の事です。
まだ私が小学生くらいの時に、ウチで「マタ」という猫を飼っていました。
その猫は、もともと野良で、ウチのじいちゃんがお参りに行っている途中で、えらくなついて擦り寄って来たらしく、ウチに連れ帰ってきました。
ところがその当時、既にウチでは1匹猫を買っていましたので、その猫と仲良くできるかとか、2匹飼えるかどうかを、家族で話し合い、結局飼えないかもしれない、ということになって、かわいそうでしたが、その猫を、もといた場所に連れて行くことになりました。
ところが明くる朝、なんと、その猫が、ウチまで戻ってきてるんです。
じいちゃんは、車でお参りに行っていて、ウチから3kmほど離れたところからその猫を連れてきて、またそこまで車で一度戻しに行ったのに、一晩かけて、3kmの道を歩いてウチまでやって来たんです。
それにはさすがに家族一同驚いて、一度は捨ててしまったけれど、自分の力でお寺まで戻ってきた、これはお寺に縁のある猫だ、ということで飼う事にしました。
「マタ」という名前は、その一度捨てたにも関わらず、また戻ってきた猫だから、というのが由来です。
で、幸い、ウチで元々飼っていた猫はメスで、マタはオスで、意外と仲良くなりましたし、
マタは愛想が良いと言うか、人懐こい猫でしたので、最初は飼えるかどうか、と心配しましたが、すぐにウチにもなじみ、みんなに可愛がられました。
でも、元は野良猫でしたので、外に遊びに行くのが好きで、夜になっては外でケンカして、朝になると怪我をして帰ってくるような事もよくありました。
そしてそれが悪かったようで、いつしか他の猫から病気をもらい、かさぶたが沢山できるような病気にかかってしまいました。
まあもともと、若い猫ではなかったのもあるのかな、とは思いますが、家に来て3年程たったころ、病気もあってだんだん体が痩せて、弱々しくなっていきました。
その頃ウチでは、
毎晩寝る前に、母と祖母と、私の兄弟3人で、お勤めをするということが習慣でした。
その夜も、いつも通りにお経をあげていると、
そんな時に普段やって来ないマタが、弱々しい足取りながら、ちょこん、と座り、お勤めが終わるまで、じーっ私たちのかたわらに座っておりました。
お勤めが終わると、またどこかへ行ってしまい、みんな、なにやら珍しい事もあるもんやねー、というようなぐらいにしか思っていませんでしたが、
次の日の朝、
そのお仏壇のある部屋の隣の部屋で、マタはもう、動かなくなっていました。
病気で弱っていたとは言え、家族みんな、マタの死には驚いたし、可愛がっていた猫の死は、すごく悲しいものでした。
しかし、マタが、死ぬその前の晩に、お参りしているところにやってきた、ということ事が、すごく不思議でした。
もちろんそれは、たまたま、偶然の事なのかもしれませんでしたが、マタは自分の死期を悟って、最後にお参りをしに来たようにも感じられました。
人間でも、死の直前にそんなことはなかなかできないだろうに、猫に、死ぬ前に仏様にお参りをしたい、というような気持ちが起こる、なんてことは、普通では考えられませんが、それでも、死ぬ前の晩にお参りの場にやってきたことは、事実です。
私たちはよく、仏法は人間にしかわからない、伝わらない、と言うような事を言います。もちろん、それは人の言葉がわかるのは人間だけだし、生老病死の苦しみに悩むからこそ、仏法が響くのであって、それについて、人間のように思い悩まない動物には、仏法は響かないし、仏様の救いの手は届かない、そう言う風に考えてしまいます。
それでも、一度捨てたにも関わらずお寺にまたやって来て、死ぬ間際には、私たちと一緒にお参りをしたマタの姿を思うと、そんなことは、ないのかもしれません。
人間にしかわからないとか、人間の命を得て仏教に触れたものしか救われないと言うのは、私たちの側の勝手な「はからい」であって、
マタにも、お寺、そして仏教と、何らかの縁があったのでしょうし、
そうでなくとも、私たちには思い計る事の出来ない大きなはたらき、一切の命を平等に照らす仏の光に、マタだけじゃなくて、あらゆる命が包まれて生きているのでしょうね。
今こうやって考えてみると、もしかすると、そんなことを、私たちにマタは教えてくれるために、我が家にやってきてくれた猫だったのかも、しれません。

コメント (1)
やばっ・・・泣けたっ・・・
猫の話にはめっぽう弱いっ・・・
投稿者: るる | 2007年04月02日 19:54
日時: 2007年04月02日 19:54