ちょっとの段差につまづいて膝をついた。
家の中は、建て替えときに祖父母に合わせてバリアフリーになっている。
階段以外、生活空間で足を上げる機会が少なくなった。
段差のないことが、私の中で当たり前になってきている。
バリアフリーに慣れると、段差があることを忘れてしまう。
段差があることのほうが、悪いことのように思えてくる。
小さな段差に敏感になり、つまづくと目くじらを立ててしまう。
人と人との関係も、なんとなく似てるなぁと思えてきた。
すべてが同じなわけはないし、並べば平坦になることもない。
それぞれが違うのだから、それは当然のこと。
だけど、違うなりにも同類と判断したグループはできるわけで。
そうすると、そのグループに入らないものの違いに対して、敏感になってくる。
自分の価値観で、違うものを、時には嫌悪し、攻撃し、差別し、排除する。
違って当然ということを、認めることができなくなる。
そういう心の段差が生じることもあるということ。
「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」
『阿弥陀経』という経典にある一節。
浄土に咲く蓮華の華のことで、それぞれがそれぞれの色に光を放ち合い、照らし合っているさまを説いている。
一人一人の持つ特質を発揮し、また発揮されたものを受ける止める。
せっかく違うのだから、その違いを認め、違いを尊重し、違いを愛する…そういう心持ちでありたい。
「みんなちがって みんないい」
まったくその通りだ。
段差をなくすことが根本的な解決ではない場合もある。
段差があることを知る、認識する。
まず、そこから始めないと、たまに遭遇する段差に驚き、排除しようと躍起になる。
自分のほうがスタンダードだと、ぶつかり合うこともあるかもしれない。
段差はあって当然という認識。
その上で、その段差を超える懐の深さというか、なんというか…。
まあ、そんなものが、人間同士それぞれが関係することによって培われていけたら…。
などと、つまづいて膝をついたまま考えてた。
それは本堂での法事が終わり、墓地へ移動する途中のこと。
お参りの方々の目の前で転んで、持っていた携帯用の鐘が虚しい音を響かせながら飛んでいった。
その状況のあまり痛さと恥ずかしさに、思考が現実逃避したらしい。
誰にも手を差し伸ばされなかったことに、自分の魅力のなさを痛感する…。
肉体的にも精神的にイタイなぁ。
