「イタイ話」をテーマにこちらでまわしているメンバーコラム。すっかり滞らせてしまいました。
ご無沙汰です。みなさんお盆はいかがお過ごしでしたでしょうか?
お坊さんにとって、まずイタイと言えば、正座です。これは何年やっていても痛いものは痛いです。痛さがなくなるわけではなくて、痛さに慣れるといった感じでしょうか。とは言っても、現場ではそれほど長い法要はないので、取り立ててイタイ話ではなく、むしろおつとめ中はそれだけをやっていればよいので、ある意味ラクなわけですが、今回はあえて「正座」をピックアップして書いてみます。
正座のコツは?と言えば、とにかく“動かない”ことです。痛さに負けて、足を組み替えたりすると、一瞬痛みは和らぐのですが、その後、痛さがより増します。動かさないことによって、痛さを最小限に抑えつつ、結局は痛さに慣れるしかありません。
肉体的“痛さ”はいろんな感情を生みだしますが、これを、精神科医キューブラー・ロスさんの著書「死ぬ瞬間」にある“死にゆく過程の五段階”に(無理やり)当てはめてみると以下のようになりました。
①認めない
まずは、現状が認められません。
一時間以上も正座することになんの意味があるんだ?!
イスでいいじゃないか!そもそも、仏教を学ぶのになんで正座なんか必要がある!
などと、とにかく、認めないことですね。
②怒り
いくら自分が認められなくても、現状が変わらないことを知ると、次に「怒り」がやってきます。
痛さを全く感じていない人を見れば、なんであいつは痛がっていないのに、俺はこんなに痛いんだ?!と思ったり、この現状を作り出したのは誰だ!と、言い知れぬ怒りを他人に探します。
③取引き
自分の力ではどうにもならないことを知ると「どうか私を助けてください」というように奇跡を期待します。
④抑鬱
どれも効果がないことを知ると、次はウツ。深いため息と絶望に襲われます。
⑤諦めと別離への準備
最後に、この現状から逃れようとする心を止めて、すべてを受け入れます。
痛い時は痛いままに。正座と共に生きていこうじゃないか。
そうすると、なぜか、フッと楽になるでしょう。
たかが正座を“死ぬ過程”と比較するのはおかしな話ですが、この五段階は、いろんな場面でピタッと来る時があるように思います。⑤の“諦め”とは、「あきらかにみる、ありのままをみる」という仏教観に近いかもしれません。自分自身を考えてみると、①から④をグルグル回っているのかも。
みなさんもお試しあれ。
