街はイルミネーションに溢れ、ジングルベルや聖しこの夜の曲が鳴り響く。
恋人たちはプレゼントし合って、家族は夕食にチキンやケーキを食べる。都会だけではなく、故郷の田舎でもまた電飾の飾りをつけて賑やかにする家が多い。そして子どもたちにはサンタクロースがプレゼントをしにやってくる。一人の夜は明石家サンタを見て笑う。
メリークリスマス!
正直に打ち明けるが、うちはお寺なのに子どもの頃にサンタクロースが来た。周りの友達がプレゼントを貰っていて自分の子どもが寂しがるのがかわいそうと思った両親の親心であろうか。今からしたら、そんなんで良いの?と少し恥ずかしくなるけれど。
僕は仏教徒としてクリスマスという行事が正直羨ましい。その影響力が羨ましい。
商業的な行事として日本に根付いたという見方もある。しかし、以前行ったことがあるのだが、クリスマスに教会に行き賛美歌を聞くと心が洗われるような気がする。世界中の誰かが他の誰かや何かに「祈り」を捧げる日というのは、すごく影響力があるのではないか。
しかし僕は仏教徒である。キリスト教のお祝いをするということ、そして「祈り」というものを肯定することに、何処か後ろめたさを感じてしまっていた。
先日クリスマスの話をしていたら、僧侶の先輩がこう言った。
「そんなん仏教徒として、キリストさんの誕生日をお祝いしたらええやん!」
頑なに否定しようとしていた心が溶けるように感じた。
仏教は「縁起」を説く。
縁起とは関係性で、お互いがお互いを成り立たせるということだ。
ふと、クリスマスがあったから、メリシャカが生まれたのだと思った。
「メリクリ」がなければ、「メリシャカ」はなかった。
仏教徒ならメリーシャカ!お釈迦様のお誕生日も世界中に知ってもらいたい、ネットを通して何かしらこの想いを伝えたい。メリシャカはこうして生まれた。
対立するのではなく、お互いにお互いを認め合うことが大切で、お互いの立ち位置から対話をしていくことが大事。
そのことを「縁起」は教えてくれるんだろうなと思った今年のクリスマスだった。メリシャカをもっと頑張ろう。

コメント (1)
初めての参加です。
訪問はしばしばさせていただいていまして、楽しんでいました。
私は本願寺派寺院のものですが、住職とか仏教者とかというカテゴリーにはほとんど関与することを望まないものです。
「ただ無辺なる法に依るべし」との釈尊と親鸞聖人のお示しを尊く頷けるからです。
ですから、はなはだ恐縮でありますが、ほとんど関心がないキリストさんの誕生を祝う動機がありません。
友人の誕生日の方が私には自然なのです。
敬虔なクリスチャンである星野富弘さんの言葉は大好きです。
しかしそれは彼の紡ぎ出してくる言葉の数々に本願のいわれとそれを聞く覚束ない存在の心根を聞くからです。
私にとってキリストの存在はほとんど意味をもちません。
恐らく敬虔なクリスチャンにとって弥陀・釈迦の存在が補足的な意味にもならないであろう事と同じでしょう。
それは対立でも比較でもない世界の事だと思いますよ。
だから私にとってクリスマスは全く関心の外の出来事なのです。
初めてのコメントでこんなのはと逡巡したのですが。
投稿者: tamon | 2007年12月31日 23:53
日時: 2007年12月31日 23:53