2007年12月14日

恋するハリネズミ①

真冬に二匹のハリネズミがいます。二匹はお互い寒がりで、温めあおうと二匹身体を近づけます。
近づきすぎると大変です。
だって、自分の針が相手を身体を刺してしまうのです!
ハリネズミは互いに刺しあい、吃驚して離れていきます。
しかし、しばらくすると、また寒いし寂しいので近づけていきます。

これはもちろん実際にあったハリネズミの不幸な出来事なんかじゃなく、「ハリネズミのジレンマ」という心理学のことばです。僕の友人の僧侶がよくご法話で話されているものです。僕はそれを聴いて感動したので、紹介させていただこうと思います。

「ジレンマ」とは、自分の思い通りにしたい二つの事柄のうち、一方を思い通りにすると他の一方が必然的に不都合な結果になるという苦しい立場のこと。つまり板ばさみの状態です。

このハリネズミとは他人事ではなく、実は僕のこと、そしてこのコラムを御覧の皆さんのことを言っているようです。
僕たちの背中には目に見えないけれど、背中になんと鋭く長い針があるみたいです!

普段はこの針は制御されているのですが、特に大切に想う人と近づき分かり合おうとすると、この針が相手を刺します。「どうして自分のことを分かってくれないんだ」と、針は相手を傷つけてしまうようです。

この針は相手が自分にとって重要な大切な人であればあるほど、不本意ながらブスッと刺してしまうようです。自分の生活にとって関係のない人であれば見過ごしやりすごせることを、大好きな人だからこそ許せないということがあるようです。

この背中に生えている目に見えない針は何のことを言っているのでしょうか?
エゴでしょうか。
仏教で言うならば「我執」「煩悩」でしょうか。
エヴァンゲリオンの世界で言うなら「ATフィールド」でしょうか。


突然ですが、ピコーン!ここで、さっきのハリネズミを絵で現せないかと閃いてしまいました!


*←ハリネズミA

*←ハリネズミB


  サムイヨー>*         *<サムイネー


            ・・・*  *…

 
         イタイ!!**!!イタッ!


サシヤガッタナ!*>         <*サイアクダ!


     デモサムイナ・・*    *・・サミシイナ~



予想を超えてショボイ絵になりました!ごめんなさい。

このハリネズミのジレンマを解決する方法があるでしょうか?愛深きゆえに憎しみも深くならざるを得ない。なかなか難しい問題です。
もしもご意見がございましたら、コメントいただけると有難いです。

つづく?

2007年07月13日

恋に落ちる世界

恋に落ちると眩暈を起こす友人に会った。

彼女の目に映る世界の、男性の話を聞くのが好き。

彼女は男と女の友情はないという考えの持ち主。
だから男性に会うと、彼女はまず、その男性が自分に気があるかどうかを感じ取る。
自分に気がない男性だったら、興味をまったく示さない。
そして、気がある男性でも、色気がなければ興味はない。
けど気があって、しかも色気があると、彼女は眩暈を起こして、自分が恋に落ちたことを知る。
そして、「私を落とせるなら落としてごらん」と視線を送るという、彼女の伝わり難いアプローチがその瞬間から始まる。

気があるかどうかを、どういうふうに感じ取るのかと尋ねると、
「私は敏感だから、雰囲気で分かる」
彼女はそう断言する。

だが、眩暈を起こした恋が成就したことはないともいう。

それは、私から見たら全て勘違いだとツッコミたくなる話だけど。
彼女にしたら、至極当然の成り行きらしい。

「人は皆、一人ひとり異なった世界を見て、見たものを異なった世間として理解しているはずである。
それでも、誰もが自分の見ているものは他人が見ているものと同じだと思い込んでいる」

なんとなく、『邪魅の雫』という京極夏彦の小説にある一説を思い出した。
男性の何気ない仕草に色気を見るものもいれば、その仕草に不快感を覚えるものもいるように。
見ている対象は同じでも、その対象への意味づけが異なれば、見ている世界も変わるのだろう。

「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によって作り出される」

おシャカさまの残された言葉を集めたとされる『ダンマパダ』の冒頭にもあるように、私の見る世界は私の心によって作り出されたもので、他者の見る世界とは別物だ。
あらゆる現象は、ただ心の現れに過ぎないという思想を、仏教では唯心と言い、それが唯識へと発展する。
だけど、この心もまたコロコロ変わる不確かなものだから絶対的なものじゃないという、とても複雑な考え方をする思想。
このスペースだけじゃ、到底説明できやしないので以下省略。

さっきの小説の一説には続きがある。

「思い込むのみならず、差違を認めない者、差違を生じること怖れている者が殆どである」

友人は、その恋は勘違いであると、私以外から既に何度も指摘されている。
けれど彼女は他者との違いを歯牙にもかけず、恋に落ち続けている。
私には、他者との違いを認め、それでもその違いを恐れず、マイペースに歩く彼女の世界は、とても眩しく魅力的に見えるのだ。

彼女に、色気がある人を芸能人でいうなら誰かと尋ねると、
「テリー伊藤」
彼女はそう断言した。

やっぱり、彼女の見る世界は面白い。

2007年03月13日

肝の座ったレンアイ

こんにちは~るるです!
久しぶりに恋愛論を書いてみました。

今回は、「肝に据えたいこと」がテーマです。
既婚者目線になってますが、そこはひとつそれぞれの立場で読み替えてくださいね~
(どうも、今更恋を語るのはイケナイ気がして・・・苦笑)


私の母は、父が出かけるとき、玄関先まで見送っています。
多分、今でもそうしていると思います。
帰ってきたときも、車の音がすると玄関まで出迎えています。

当たり前、と思われるか。さすが九州女、と思われるか。

私にとっては当たり前のことでした。
というより、その意味を考えたこともありませんでした。


でも、私が結婚して、母の行為がけっこう大変だってことに気がつきました。

夫が先に出勤する時、そして私が台所に居て彼が帰ってきた時。
自分がやっていることの手を止めて玄関まで行かなければならないのです。
自分の化粧の最中だろうが、洗い物の最中だろうが。
出勤の時間を見計らうと、トイレにも行けない。
ケンカのあとなら、顔も見たくないってこともあるわけです。

こりゃけっこう大変だと思いました。
行ってらっしゃいを言うくらいなら、狭い家ですからできます。
おかえり、も一言言うだけですから簡単です。

もういいや、声をかけるだけで。
だんだんそうなっていった頃、の話です。


友人と話していたとき、その人が自分の彼女のことをこういったんです。
「自分は、彼女のことを考えると、明日自分が死んでしまって逢えなくなるんじゃないかとか、
彼女に何かあって逢えなくなるんじゃないかと考えて、いてもたってもいられなくなる。
そう思ったら、どんなことでもしてあげようと思うし、ケンカなんかしている暇はない。
だって、このいのちは不確かで、保障なんてどこにもないんだから」

「ラブラブな証拠・・・ごちそうさま」とからかうことも出来ました。
だけど、彼が本当に真剣にそういうから、・・・確かに!と納得したのです。

行ってらっしゃい、と言って送り出した日、彼が帰ってこなかったら?
私が帰れなかったら?
きっと、最後の会話は何だっただろうか、と思い出すでしょう。
その時、笑顔で行ってらっしゃい、行ってきますと言ってたなと思えたなら、
最後の会話は声だけだったとか、何だったか覚えていないとか、
大ケンカしたあとで、罵声をあびせたあとだった・・・とか、
そういう種類の“後悔”はしないんじゃないかな、と思うわけです。


人の気持ちは変わるもの。
どんなに好きで愛していると思っていても、いずれその気持ちは変わります。
なくなるのか、深くなるのか、質が変わるのか、そのへんはイロイロですがね。

でも、「いつかこのひととの別れが来る」ということは、変わりのない真実です。
でも、恋愛中はなかなかそういうことは思えません。
付き合っている人に「いずれ別れは来るものだ」と言ってしまって機嫌を損ねたこと、実はあります。苦笑。
恋は盲目、とは相手の欠点が見えなくなってしまう、と言うことだけじゃなくて、
こういう類の真実が見えなくなることなんだろうなと思うのです。


けど、その真実を肝に据えているとね、不毛なケンカなんかしなくなりますよ、きっと。
大事なことは何か、という気持ちになります。
瑣末なことで腹を立てているのが、もったいないって思います。
行ってらっしゃい、と笑顔で言えることがどれほど幸せでありがたいことか、と感謝したくもなります。

なので、私もどんなに手がふさがっていてもトイレに行きたくても、
玄関先まで行って、行ってらっしゃいと言うようになりました。
お帰り、は最近私のほうが帰りが遅いので、なかなかできませんが・・・

私の父と母が、どんな風に思ってそういう習慣を続けているのかは聞いたことありません。
そして、夫も私の真意は知らないかも。笑。


想像してみることは、少し大事なことかもしれません。


今、大切に思っている人が明日いなくなるかもしれない。
そして、自分自身が明日いなくなるかもしれない。

では、今日、今、やらなければならないことは何か。
今日とも明日ともしれないいのちということを目の当たりにした私たちが、
考えなければならない問題は何なのか。
今日たった今のいのちをどう生きるのか。

仏教の考え方は「諸行無常」(=変わらないものはない)です。
それを諦観(=あきらかに見る)することによって、大事なことが見えてくるのではないかな、と思うわけです。

2007年03月08日

偏っている鏡

昨年末、10年来の友人が結婚した。

その半年ほど前、友人から結婚の報告を受けたとき、少なからず衝撃が走った。
どれくらいの衝撃かというと、思わず携帯を切って、胸に手を当てて、ショックで心臓が止まっていないか確認するほど。
彼女の友人の誰にとっても、同じくらいの殺人的な破壊力を持つ報告だった。

こういった反応で、彼女という存在の凄まじさを想像していただけたら有り難い。

そんな嵐が起きる前に、いまだ結婚の予定のない共通の友人たちと集まって、自分達に足りないものを考えあっていた。

足りないものは、この人でなけきゃダメという愛。
足りているものは、自分への愛。

前にも書いたが、仏教の愛は、いくらそそいでも満たされず、もっとと求める欲望。
煩悩であり、とらわれる執着でもあるから、原始仏教では歓迎されるものではない。
そして、自分に対する愛もまた、自分にとらわれた「我執」という。

執着とは「とらわれる」ことだけど、きっと「偏る」ことでもあると思う。
偏ると、真っ直ぐにものごとを見ることができない。
見えるものが見えなくなったり、ないものをあるように見てしまったり。

だから本当は執着は手放してしまえればいい。
けれど、その執着が自分の有り様を見せてくれるのも事実。
自分中心の価値観に執われていた自分に気づいて、「これじゃダメだ」と思い直しても、またすぐ自分のエゴでコロコロ変わる曖昧な判断に執われしまっている、どうしようもない自分に気づく。

手放そうとしても、手放せない。
その手放せない執着こそ、ありのままの自分を映す鏡。

けど、相手への愛も自分への愛も、強すぎると、思い通りにならないことを許せなくなって、結局、苦を生むということを忘れてはならない。
ならばどちらにも偏らない道を邁進しようと、未婚の同志を慰め合っていた。


冒頭に戻るが、脈拍が落ち着くのを待って、とりあえず「おめでとう」と言うため、友人に電話を掛け直す。
「幸せになれよ」
動揺を隠して、そう言うと、
「ああ、無理無理。
出会って2ヶ月なのに、親達に外堀埋められちゃって、強制的に結婚だから。
けど、生活に困ることはなさそうだからいいや」

…同志よ、自分たちに足りないものが見つかった。
「愛」じゃなくて「妥協」と「打算」だ。

2006年12月25日

恋愛至上主義~クリスマスに坊主は思う~

サクラさんの提案に答え、恋愛の良さについて肩を張って語りたいと思います。
恋愛至上主義という一つの立場に立って。(註:実際には恋愛至上主義者ではないです。)

結局のところ、恋愛とは、突き詰めて言えば「出逢い」だと思うのだ。
世界中に何十億という人がいて、二人が出逢ったことが恋愛である。

だから、そこには様々なご縁がある。一歩間違えば、一生逢えていない可能性だってあるのだ。

あの日あの時、あの場所で、すれ違わなければ、友だちに紹介されなければ、あの場所に行かなければ、あの別れがなければ、二人は恋に落ちなかっただろう。昔の歌詞みたいだけれど本当のことだ。

恋愛は出逢い。出逢いは一瞬だけれど、それは永遠を孕んでいる。そこに僕は仏教を感じる。
小乗仏教では時間は川の流れのようなものと説く。過去から現在に。現在から未来にさらさらと川の様に流れていく。過去は過ぎ去りもうない。未来はいまだ来たらずまだない。

しかし、大乗仏教で言う時間は違う。
○現在が過去を意味づけ、また未来を意味づける。また、未来が現在を意味づけ、過去が現在を意味づける。

つまり現在、好きな人に出逢えて良かったという思いがあるということは、過去に意味があるということになる。
どんなに辛く消し去りたい過去があっても、その過去が無駄にならず、むしろ現在に至る大切な思い出となる。
充実した現在があるから、未来を意味づけていく。また未来に目標、達されることが決まったのなら、今現在なすべきことが見えてくる。

大乗仏教で言う「時間」とは現在、それこそ「今」の出逢いに集約される時間の見方なのだ。

とすると、今好きな人との出逢いは、過去と未来に集約された今であり、
今好きな人との手と手の出逢い、唇と唇の出逢いは、人生の時間に垂直に立つ。

そこには過去も未来も含まれている。一瞬は永遠を孕んでいるのだ。

たとえ、いずれ不幸な別れ方をする恋愛でも、いずれ二人が一緒に生活しだして、お互いに退屈したり、億劫に感じたりするに堕する出逢いでも良いじゃないか。
その一瞬は何にも変えることが出来ない一瞬なのだ。
その一瞬のために生きてきたともいえる一瞬だ。

その様な一瞬を手にすることは難しいのかもしれない。しかし恋愛にはそれを生み出す不思議な力があるようにも思う。

だがしかし、ここで残念なお知らせがある。
人間同士の出逢いっていうものは、確かじゃない。それはお釈迦様が見出した真実。それはとても悲しいことだけれど。
別れるのに出会って嬉しいっていうのは、所詮気休め、誤魔化しでしかないのだ。
さっき言っていたこととは全く反対で恐縮だけれど。
別れや堕落を孕んだ出逢いって本当のであいだろうか?
それは実はエゴとエゴの出遭う一瞬でもある。
愛の反対は憎しみ、というより、愛と憎しみは表裏一体。憎しみの全くない愛は残念ながら僕たち人間の上には存在しない。

本当の出遇いっていうは、私と仏との間にしか存在しないのだろう。
ここに浄土真宗でいう「信の一念」という今の考え方があるのだが、それはまた別の話だ。

えーと。
すみません!恋愛至上主義の立場は残念ながらやっぱり無理でした。
皆さんのご意見頂戴したいです。

☆ ☆ ☆
クリスマスにメリシャカ!チスイです。
最近寮生活で仏教を勉強してきて、寮を出たら、妙にクリスマスイルミネーションが目に染みました。
ミニスカサンタに目を奪われます、目の保養しました。
凡夫です。
メリシャカ!

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2006.4.26-
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