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諦めるということⅡ

皆さんは覚えているでしょうか?仏教恋愛論のログ『諦めるということ』を。
るるちゃんの恋愛論vol.2を読み、僕は正直すごく感動してしまいました。そして自分でも色々と考える機縁になりました。今回vol.6は、相聞歌としてのチスイ版『諦めるということ』でお楽しみ下さい。

失恋は痛い。
歯痛も頭痛も、こむらがえりも痛いけれど、失恋よりは痛くない。
聞いた所によると、なんと骨折よりも痛いらしいよ。

秋から冬にかけて二人は別れた。男は失恋がこんなにも痛いものだとは思わなかった。
仕事をしていたら思い出が浮かんでなんか涙が出てきた。

自暴自棄になって、お酒を飲んでも、友達と遊んでも空しさはいつまでも続いた。どんなに仲の良い友達にも言えやしない自分の苦しさ、つらさをそれでも誰かに伝えたくて、色々な人に電話したりした。

男は想像した。これ以上は悪くならない。今が一番底だ。多分、これから良い風に事態は転がっていくだろう。多分いつかあきらめがつくんだ。

いつか、二人で歩いた桜並木の道も、夏祭りの花火の風景も、赤とんぼのシルエットが浮かんだ秋の日の夕焼けや、二人っきりの鍋や、、
そういう楽しかった思い出すだけで切なくなる様な光景も、月日が全部解決してくれる。皆忘れていくのだろう。いつか、いつの日かあきらめがつくのだろう。

本当か?

いや、だが、

しかし、

・・・簡単にあきらめられるかい!

って事ですよ(笑)大体どうして二人は別れたんだ。何がいけなかったんだ。自分の何が悪いんだ。もっと良い様に自分が立ち振る舞えたはずだ。「あの時ああしておいたら」とか、「もっと考えて行動していたら」とか。どうして自分だけこんな目に合わないといけないんだ。

月日は何も解決してくれなかった。ますます男を想いに耽らせた。時間は何も解決してくれなかった。
「あきらめ」って、そんな消極的なことではなかったんだ。
考えろ。苦しい思いの根源を考えろ!そこにしか、きっと解決はない。男はそして考えていった。

失恋は苦しい。そして痛い。

そもそも、どうして人はそんな苦しみを覚えるのだろうか?

それは「自分の思うようにいかない」からだ。生老病死しかり。

「自分はあの人のことが好きだ。ずっと一緒にいたい」

しかし「あの人は、、もう自分のことが好きではない」むしろ「自分以外の他の誰かのことが好きだ」

そうか、自分は徹底的に振られたんだ。それでも、まだ自分はあの人のことが好きなんだ。

あきらめたいけど、あきらめられない自分が、ここにいることも、悲しいけれど事実なんだ。

「あきらめるとは、自暴自棄になることではない。
真実を見極める、明らかにするということだ。
それが、諦めるということである」

そうだ。あきらめるとは、自分の心を勝手に放って置くってことではない。自分を痛めつけても、誰かに愚痴っても解決されることではない。本当のことを見極めるってことなんだ。

あー。真実を知るって、なんて痛いんだろう(苦笑)

それでも、最初の痛みとは、幾分種類が違っていた。

時間が解決してくれることもある。
誰かに自分の寂しさを言うこともある。
寂しさを紛らわそうと酒を飲むこともある。
夢に見てまたせつなさを思い出すこともある。
裏切りや自分のおろかさに絶望することもある。

でも、それが、「失恋」ってことなのだ。

でも、それが、「生きる」ってことなのだ。

自分の思うようにならないことが苦である。
人生は苦である。

今から2500年も前にお釈迦様が「諦められ」たこと。悟られたこと。

2500年後の自分に伝えようとしたかったこと。

『人生は苦なり』というあたりまえのことだったんだ。

あたりまえだけど、あたりまえすぎて、幸せすぎた自分には見えなかったことだったんだ。

そこで男は一人で小さなくしゃみをした。

あたりまえだけど、季節は巡り、また秋が来たのだ。

この話は、私が、大好きなゆうこりんが、よゐこの濱口と付き合っていると知った時に『諦めた』ことです。

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2006.4.26-
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