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永遠の愛

皆さんこんにちは。
シャカ斬りでおなじみの、なんでもかんでも一言物申してみたいケンユウです。
今日はちょっと趣向を変えて、恋愛について語ってみるとしましょう。
と、言っても、私も決して人様に恋愛論を振りかざせるほど恋愛経験豊富なほうではありません。
それでもまあいい恋もしてまいりましたので、ちょっと恋愛について語らしてもらいましょう。

んで、
今日のお話のテーマは「永遠」です。
皆さん、この言葉、お好きではないでしょうか。
永遠の愛はもちろんの事、永遠の命、と言うものに誰もが一度は憧れた事があるはずです。

ところが実際自分の姿を考えてみた時に、まずこの肉体が永遠に続く、ということはありません。
人は必ず年をとり、体は衰え、いつかこの肉体は動かなくなっていってしまいます。それが「死」というものであります。
自分の命と言うものを、肉体の存続というところで考えると、私達の命には永遠、ということは無い、ということになります。

では「愛」の永遠についてはどうでしょうか。
結婚式などで、よく二人の永遠に変わらぬ愛を誓う、ということをします。
二人の男女がお互いに愛し合い、敬い、尊重しあい、共に生きていく、ということが、ずっと永遠に続くと言うことは、とても素晴らしい事であります。
でもそれは本当に可能なのでしょうか?
なんだかものすごく夢のないというか、無粋な話をしているような気がしますが、ちゃんとついてきてくださいね。

まず、私達は、いくら愛し合っていたとしても、必ず別れていかねばなりません。それは、先ほど申しました肉体の「死」というものがあるからです。
しかし、二人のうち片方が死んだとしても、残された人が、その人を思う気持ちは続いていきます。
それでもやはり、その人が死を迎えれば、その気持ちもまた途絶えてしまう事になります。

そして、私達人の心というものは大変に移ろいやすいものであります。
好きだ、と思う相手であっても、時には腹が立つこと、憎む事、あるのじゃないかな、と思います。それは、愛するからこそ起こって来る気持ちなのかもしれませんが、そういう言わば尊重や愛する気持ちとは対極にある感情が続けば、愛する気持ちも薄らいでいってしまうでしょう。
そうすると、死に別れなくとも、自然と二人の距離は離れ、誓ったはずの愛する気持ちも薄らぎ、別れを迎えることもあるのじゃないかな、と思います。
そう思うと、相手を愛する気持ちを全く変わることなく永遠に、というのは、肉体的にも、心情としても、難しい事ではないのかな、と思うわけです。
まあ、そういう難しい事、なかなか実現できない事だからこそ、私達は永遠、不変、というものに憧れるのかもしれません。
もちろん、結婚生活や恋愛状態ということだけを考えるのであれば、不変ではなく、時々に変わりながらでも愛する気持ちが持続すれば、問題は無いのかもしれませんけれどね。

しかし、この「永遠の愛」ということに関して不思議な事があります。
よく歌なんかで歌われるのは、この「永遠の愛」への憧れです。
ところが、どうも永遠に続くものというのは、面白くないようなんです。
どういうことかと申しますと、最近よくある純愛系の映画を考えてみてください。そこには必ず、と言っていいほど、死や別れというものが付き纏います。中にはハッピーエンドで終わるものもありますが、永遠を誓いながらも、それが叶えられない、悲恋がテーマになっている事が多いような気がします。
仮に、二人が何の障害も無くずーっと愛し合っている、なんて映画があったとしたら、ストーリーとして、何の面白味もないでしょう。
いろんな山や谷、そして別れと言う、永遠の愛を引き裂く大きな障害があってこそ、二人の愛が輝き、私達の感動を誘うのです。
でもこれって、なんだか矛盾しているような気がしませんか?
「永遠の愛」を求める反面、それが叶えられる事が無い、別れや儚さと言うところに美学と言うか、愛の輝きと言うか、愛の素晴らしさを感じてしまう。
それはつまり、変わらないものが良いと思う反面、そこに障害が無いと、愛を実感できないということ、或いは、いつか散りゆくものであるからこそ美しい、と感じるのかもしれません。
不変を望むにも関わらず、愛が輝くには儚さや障害が必要となってくる。
愛とは実に不思議なものであります。


では「永遠」というものは存在し得ないのしょうか。
仏教では「無量寿」と言う考え方があります。それはつまり、計り知れないほど長い命、ということです。つまり、永遠の命、と言っても過言ではありません。しかしその永遠の命は、私達が肉体というところや、「私」というものにとらわれていては、決して得ることができないものであります。
どういうことかと申しますと、
肉体は必ず滅びます。それはとてもわかりやすい事ですが、では肉体が滅んで、何が永遠に残るのでしょうか。
そうすると、想像しやすいのは、私の「精神」とか「魂」とか言うもの、となると思うのです。ところが仏教はそれを否定します。不変の「私」など存在しないのだ、と。つまり「変わる事の無い私の魂」などというものはありはしない、ということです。
そうすると、肉体も残らない、魂と言うものも無い、となると、何も残らないのではないか、ということになります。
確かにそうです。
でもそれは「私」というところにとらわれた話、なんです。
「私」というところから離れると、私は私でなくなります。
では私が私でなくなると、どうなるのか。
全てになるのです。
私という「個」、あるいは「殻」から離れることができた時、私はあらゆる命の中に溶け込み、一緒になっていくのです。その時初めて永遠の命というものが見えてくるのではないでしょうか。、
そしてそれが、仏となる、という状態だと思います。
仏というのも、私というところから離れて物事を考える事ができる存在であります。それは、あらゆる命が自分の命と同じであると感じ、あらゆる命を自分の命と同じように、あるいはそれ以上に大切にしていける、ということです。つまり、私達が永遠と言うものを手に入れるには、
自分という「個」から離れ、あらゆる命と一緒になっていける状態、仏と成っていかなければならないのです。
そして、仏と成れば、永遠の命だけではなく、永遠の愛をも手に入れることができます。しかもそれは、一人の人に対する、偏ったもの、所有欲や自己愛の延長上にあるような自分勝手な愛でなく、全ての命に振り向ける事ができる、大きな大きな愛情=慈悲の心であります。

あ、誤解の無いように言っておきますが、
人の気持ちは移ろいやすいものだから、と言って離婚を勧めているわけでもないですし、一人に向ける愛より多くに向ける愛のほうがすばらしいといって浮気を勧めているわけではないですよ。
一人の人を大切に思う気持ちは、とても大事だと思いますし、尊いものだと思います。

と、まあちょっと後半は恋愛とはかけ離れたお話になってしまいましたし、皆さんの望むような美しい愛については書いてなかったと思います。
以前るるさんの書かれた文章にあったように、お坊さんというのは、ちょっと「愛」に冷めた部分があるのかも?しれません。こんな文章を読むと、この人とは付き合えないわ、なんて女性もおられるかもしれませんね。
それでも、愛というものの本質を垣間見ているだけに、一人の人に出遇い、ともに歩む事ができるということの大切さ、素晴らしさにもまた気がつくこともできるのではないかな、と思います。

と、今更フォローしても遅いのかもしれませんが。

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2006.4.26-
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