ども。 自己紹介を真面目キャラで頑張ったら、体調を心配されたsakullaです。
はい、もう開き直りました!! 地でいきますよぉ!
えっと、先日お寺に嫁いだ友人の結婚式に行ってきました。
だから結婚式のスタイルも、仏前結婚。
あんまり見た人がいないかもしれないけど、最近じゃつんく♂氏が京都の西本願寺で挙式したから、すこぉし認知されてるかもしれないかな。
それでも、神様の前で永遠の愛を誓うのが、まだまだ一般的な結婚式のスタイル。
けれど、その永遠の愛には限りがあるようで。
「死が2人を別つまで…」
愛は死に敵わないものなのか?
ちょっとイジワルな考え方をしちゃうけど、正直、神様の前で誓う愛がイマイチ分かっていないことに気がづいた。
健やかなるときも、病めるときも、相手を愛し、敬い、慈しみ、助けることを誓う。
誓いの言葉にある、それが愛のすべてなのかも分かんないけど。
もっと分かっていないのが、自分が何に愛を誓っているかということなんじゃないかな。
そういう一番分かってなきゃいけないことへの関心がないことが、本当に恐いと思ったわけですよ。
友人は、結婚するお相手のお寺で挙式をしました。
正直、お寺の本堂って、結婚式のために作られたチャペルみたいに明るいわけじゃないし、法事のイメージとかもあるから、あんまり魅力的だなんて思わないかもしれないし、気が進まないかもしれないけど。
でも、「荘厳」って言葉がぴったりくる場所。
だってお寺の本堂って、ご本尊さまと向き合って、自分の生死という人生そのものと向き合うところだから。
この仏前結婚で、一番重んじるのはご縁ということ。
「縁」とは「つながり」ということ。
これだけ多くの人々がいる中で、たった一人の人と出遇えたという縁。
そして、そのたった一人の人と出遇えた自分がいるという縁。
ここ数年、毎年夏に再放送されてる『さとうきび畑の唄』ってドラマで、小学校の先生役をしていた仲間由紀恵さんが、家系を自分から10代遡ると1024人もいると子供達に話してたのを聞きました。
だから、命は大事なんだと、生きてくれと言っていた…。
自分がいるということは、最低でも1024人もの縁があり、更に遡れば限りはない。
縦のつながりだけじゃなくって、そこから更に横へといろんなご縁が広がっていて。
それにご縁って、血がつながってるなんてだけじゃないし、人間だけにあるってもんでもない。
その縁はたまたま知り合った人とも、既につながっているかもしれないし。
結婚を決意した相手とも、知らないところでつながっていたのかもしれないし。
こうした縁を改めて結ぶということが結婚式を挙げるということ。
すべてのものが、形を止めておくことができないように。
人の気持ちも移ろいゆくもので、永遠に変わらないことなどないけれど。
だからこそ、いつもいつまでも、変わることのない仏さまの前で、自分たちのこれからを誓う意味があるのだろう。
苦の世界を一緒に生きて、どちらかが先に死を迎えたら、残された者を導いて。
残された者は、相手の残した縁をたどる。
そうして一緒に仏になりましょう!っていう、死が2人を別つことのない愛もある。
ここらへんはるるさんや、チスイさんや、ケンユウさんも書かれていることだけど、やっぱりここを強調したいのです。
仏になるということは、個からは離れること。
それは私という個に執われないってことで、個なんかじゃ納まりきれない大きな心持ちになるってこと。
生きているとき、大切な人へ向けていた気持ち。
「愛してる」
「あなたが大事」
「幸せになってね」
「どうか笑っていて」
「悲しいときにも側にいるから」
そういう誰かを愛する心を、特定の人だけじゃなくって、生きとし生けるもの全てに向けるということ。
一人一人、一つ一つに向けるってこと。
そして今も、その大きな愛が私に向けられているってこと。
究極の愛の形だと思わない?
お寺に嫁いだ友人とは、腐れ縁というか、腐って欲しいと思うほどの縁でつながっている人。
だからこそ、願わずにはいられない。
移ろいゆく世界の中で、移ろいゆくことを共に楽しめる関係を、2人で築いていってほしい。
あ~あ、どうでもいいけど結婚したいねぇ。