サクラさんの提案に答え、恋愛の良さについて肩を張って語りたいと思います。
恋愛至上主義という一つの立場に立って。(註:実際には恋愛至上主義者ではないです。)
結局のところ、恋愛とは、突き詰めて言えば「出逢い」だと思うのだ。
世界中に何十億という人がいて、二人が出逢ったことが恋愛である。
だから、そこには様々なご縁がある。一歩間違えば、一生逢えていない可能性だってあるのだ。
あの日あの時、あの場所で、すれ違わなければ、友だちに紹介されなければ、あの場所に行かなければ、あの別れがなければ、二人は恋に落ちなかっただろう。昔の歌詞みたいだけれど本当のことだ。
恋愛は出逢い。出逢いは一瞬だけれど、それは永遠を孕んでいる。そこに僕は仏教を感じる。
小乗仏教では時間は川の流れのようなものと説く。過去から現在に。現在から未来にさらさらと川の様に流れていく。過去は過ぎ去りもうない。未来はいまだ来たらずまだない。
しかし、大乗仏教で言う時間は違う。
○現在が過去を意味づけ、また未来を意味づける。また、未来が現在を意味づけ、過去が現在を意味づける。
つまり現在、好きな人に出逢えて良かったという思いがあるということは、過去に意味があるということになる。
どんなに辛く消し去りたい過去があっても、その過去が無駄にならず、むしろ現在に至る大切な思い出となる。
充実した現在があるから、未来を意味づけていく。また未来に目標、達されることが決まったのなら、今現在なすべきことが見えてくる。
大乗仏教で言う「時間」とは現在、それこそ「今」の出逢いに集約される時間の見方なのだ。
とすると、今好きな人との出逢いは、過去と未来に集約された今であり、
今好きな人との手と手の出逢い、唇と唇の出逢いは、人生の時間に垂直に立つ。
そこには過去も未来も含まれている。一瞬は永遠を孕んでいるのだ。
たとえ、いずれ不幸な別れ方をする恋愛でも、いずれ二人が一緒に生活しだして、お互いに退屈したり、億劫に感じたりするに堕する出逢いでも良いじゃないか。
その一瞬は何にも変えることが出来ない一瞬なのだ。
その一瞬のために生きてきたともいえる一瞬だ。
その様な一瞬を手にすることは難しいのかもしれない。しかし恋愛にはそれを生み出す不思議な力があるようにも思う。
だがしかし、ここで残念なお知らせがある。
人間同士の出逢いっていうものは、確かじゃない。それはお釈迦様が見出した真実。それはとても悲しいことだけれど。
別れるのに出会って嬉しいっていうのは、所詮気休め、誤魔化しでしかないのだ。
さっき言っていたこととは全く反対で恐縮だけれど。
別れや堕落を孕んだ出逢いって本当のであいだろうか?
それは実はエゴとエゴの出遭う一瞬でもある。
愛の反対は憎しみ、というより、愛と憎しみは表裏一体。憎しみの全くない愛は残念ながら僕たち人間の上には存在しない。
本当の出遇いっていうは、私と仏との間にしか存在しないのだろう。
ここに浄土真宗でいう「信の一念」という今の考え方があるのだが、それはまた別の話だ。
えーと。
すみません!恋愛至上主義の立場は残念ながらやっぱり無理でした。
皆さんのご意見頂戴したいです。
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クリスマスにメリシャカ!チスイです。
最近寮生活で仏教を勉強してきて、寮を出たら、妙にクリスマスイルミネーションが目に染みました。
ミニスカサンタに目を奪われます、目の保養しました。
凡夫です。
メリシャカ!