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偏っている鏡

昨年末、10年来の友人が結婚した。

その半年ほど前、友人から結婚の報告を受けたとき、少なからず衝撃が走った。
どれくらいの衝撃かというと、思わず携帯を切って、胸に手を当てて、ショックで心臓が止まっていないか確認するほど。
彼女の友人の誰にとっても、同じくらいの殺人的な破壊力を持つ報告だった。

こういった反応で、彼女という存在の凄まじさを想像していただけたら有り難い。

そんな嵐が起きる前に、いまだ結婚の予定のない共通の友人たちと集まって、自分達に足りないものを考えあっていた。

足りないものは、この人でなけきゃダメという愛。
足りているものは、自分への愛。

前にも書いたが、仏教の愛は、いくらそそいでも満たされず、もっとと求める欲望。
煩悩であり、とらわれる執着でもあるから、原始仏教では歓迎されるものではない。
そして、自分に対する愛もまた、自分にとらわれた「我執」という。

執着とは「とらわれる」ことだけど、きっと「偏る」ことでもあると思う。
偏ると、真っ直ぐにものごとを見ることができない。
見えるものが見えなくなったり、ないものをあるように見てしまったり。

だから本当は執着は手放してしまえればいい。
けれど、その執着が自分の有り様を見せてくれるのも事実。
自分中心の価値観に執われていた自分に気づいて、「これじゃダメだ」と思い直しても、またすぐ自分のエゴでコロコロ変わる曖昧な判断に執われしまっている、どうしようもない自分に気づく。

手放そうとしても、手放せない。
その手放せない執着こそ、ありのままの自分を映す鏡。

けど、相手への愛も自分への愛も、強すぎると、思い通りにならないことを許せなくなって、結局、苦を生むということを忘れてはならない。
ならばどちらにも偏らない道を邁進しようと、未婚の同志を慰め合っていた。


冒頭に戻るが、脈拍が落ち着くのを待って、とりあえず「おめでとう」と言うため、友人に電話を掛け直す。
「幸せになれよ」
動揺を隠して、そう言うと、
「ああ、無理無理。
出会って2ヶ月なのに、親達に外堀埋められちゃって、強制的に結婚だから。
けど、生活に困ることはなさそうだからいいや」

…同志よ、自分たちに足りないものが見つかった。
「愛」じゃなくて「妥協」と「打算」だ。

コメント (1)

るる:

最後の文章に、思わずニヤリとしてしまいました。

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2006.4.26-
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