2007年12月14日

恋するハリネズミ①

真冬に二匹のハリネズミがいます。二匹はお互い寒がりで、温めあおうと二匹身体を近づけます。
近づきすぎると大変です。
だって、自分の針が相手を身体を刺してしまうのです!
ハリネズミは互いに刺しあい、吃驚して離れていきます。
しかし、しばらくすると、また寒いし寂しいので近づけていきます。

これはもちろん実際にあったハリネズミの不幸な出来事なんかじゃなく、「ハリネズミのジレンマ」という心理学のことばです。僕の友人の僧侶がよくご法話で話されているものです。僕はそれを聴いて感動したので、紹介させていただこうと思います。

「ジレンマ」とは、自分の思い通りにしたい二つの事柄のうち、一方を思い通りにすると他の一方が必然的に不都合な結果になるという苦しい立場のこと。つまり板ばさみの状態です。

このハリネズミとは他人事ではなく、実は僕のこと、そしてこのコラムを御覧の皆さんのことを言っているようです。
僕たちの背中には目に見えないけれど、背中になんと鋭く長い針があるみたいです!

普段はこの針は制御されているのですが、特に大切に想う人と近づき分かり合おうとすると、この針が相手を刺します。「どうして自分のことを分かってくれないんだ」と、針は相手を傷つけてしまうようです。

この針は相手が自分にとって重要な大切な人であればあるほど、不本意ながらブスッと刺してしまうようです。自分の生活にとって関係のない人であれば見過ごしやりすごせることを、大好きな人だからこそ許せないということがあるようです。

この背中に生えている目に見えない針は何のことを言っているのでしょうか?
エゴでしょうか。
仏教で言うならば「我執」「煩悩」でしょうか。
エヴァンゲリオンの世界で言うなら「ATフィールド」でしょうか。


突然ですが、ピコーン!ここで、さっきのハリネズミを絵で現せないかと閃いてしまいました!


*←ハリネズミA

*←ハリネズミB


  サムイヨー>*         *<サムイネー


            ・・・*  *…

 
         イタイ!!**!!イタッ!


サシヤガッタナ!*>         <*サイアクダ!


     デモサムイナ・・*    *・・サミシイナ~



予想を超えてショボイ絵になりました!ごめんなさい。

このハリネズミのジレンマを解決する方法があるでしょうか?愛深きゆえに憎しみも深くならざるを得ない。なかなか難しい問題です。
もしもご意見がございましたら、コメントいただけると有難いです。

つづく?

2007年07月13日

恋に落ちる世界

恋に落ちると眩暈を起こす友人に会った。

彼女の目に映る世界の、男性の話を聞くのが好き。

彼女は男と女の友情はないという考えの持ち主。
だから男性に会うと、彼女はまず、その男性が自分に気があるかどうかを感じ取る。
自分に気がない男性だったら、興味をまったく示さない。
そして、気がある男性でも、色気がなければ興味はない。
けど気があって、しかも色気があると、彼女は眩暈を起こして、自分が恋に落ちたことを知る。
そして、「私を落とせるなら落としてごらん」と視線を送るという、彼女の伝わり難いアプローチがその瞬間から始まる。

気があるかどうかを、どういうふうに感じ取るのかと尋ねると、
「私は敏感だから、雰囲気で分かる」
彼女はそう断言する。

だが、眩暈を起こした恋が成就したことはないともいう。

それは、私から見たら全て勘違いだとツッコミたくなる話だけど。
彼女にしたら、至極当然の成り行きらしい。

「人は皆、一人ひとり異なった世界を見て、見たものを異なった世間として理解しているはずである。
それでも、誰もが自分の見ているものは他人が見ているものと同じだと思い込んでいる」

なんとなく、『邪魅の雫』という京極夏彦の小説にある一説を思い出した。
男性の何気ない仕草に色気を見るものもいれば、その仕草に不快感を覚えるものもいるように。
見ている対象は同じでも、その対象への意味づけが異なれば、見ている世界も変わるのだろう。

「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によって作り出される」

おシャカさまの残された言葉を集めたとされる『ダンマパダ』の冒頭にもあるように、私の見る世界は私の心によって作り出されたもので、他者の見る世界とは別物だ。
あらゆる現象は、ただ心の現れに過ぎないという思想を、仏教では唯心と言い、それが唯識へと発展する。
だけど、この心もまたコロコロ変わる不確かなものだから絶対的なものじゃないという、とても複雑な考え方をする思想。
このスペースだけじゃ、到底説明できやしないので以下省略。

さっきの小説の一説には続きがある。

「思い込むのみならず、差違を認めない者、差違を生じること怖れている者が殆どである」

友人は、その恋は勘違いであると、私以外から既に何度も指摘されている。
けれど彼女は他者との違いを歯牙にもかけず、恋に落ち続けている。
私には、他者との違いを認め、それでもその違いを恐れず、マイペースに歩く彼女の世界は、とても眩しく魅力的に見えるのだ。

彼女に、色気がある人を芸能人でいうなら誰かと尋ねると、
「テリー伊藤」
彼女はそう断言した。

やっぱり、彼女の見る世界は面白い。

2007年03月08日

偏っている鏡

昨年末、10年来の友人が結婚した。

その半年ほど前、友人から結婚の報告を受けたとき、少なからず衝撃が走った。
どれくらいの衝撃かというと、思わず携帯を切って、胸に手を当てて、ショックで心臓が止まっていないか確認するほど。
彼女の友人の誰にとっても、同じくらいの殺人的な破壊力を持つ報告だった。

こういった反応で、彼女という存在の凄まじさを想像していただけたら有り難い。

そんな嵐が起きる前に、いまだ結婚の予定のない共通の友人たちと集まって、自分達に足りないものを考えあっていた。

足りないものは、この人でなけきゃダメという愛。
足りているものは、自分への愛。

前にも書いたが、仏教の愛は、いくらそそいでも満たされず、もっとと求める欲望。
煩悩であり、とらわれる執着でもあるから、原始仏教では歓迎されるものではない。
そして、自分に対する愛もまた、自分にとらわれた「我執」という。

執着とは「とらわれる」ことだけど、きっと「偏る」ことでもあると思う。
偏ると、真っ直ぐにものごとを見ることができない。
見えるものが見えなくなったり、ないものをあるように見てしまったり。

だから本当は執着は手放してしまえればいい。
けれど、その執着が自分の有り様を見せてくれるのも事実。
自分中心の価値観に執われていた自分に気づいて、「これじゃダメだ」と思い直しても、またすぐ自分のエゴでコロコロ変わる曖昧な判断に執われしまっている、どうしようもない自分に気づく。

手放そうとしても、手放せない。
その手放せない執着こそ、ありのままの自分を映す鏡。

けど、相手への愛も自分への愛も、強すぎると、思い通りにならないことを許せなくなって、結局、苦を生むということを忘れてはならない。
ならばどちらにも偏らない道を邁進しようと、未婚の同志を慰め合っていた。


冒頭に戻るが、脈拍が落ち着くのを待って、とりあえず「おめでとう」と言うため、友人に電話を掛け直す。
「幸せになれよ」
動揺を隠して、そう言うと、
「ああ、無理無理。
出会って2ヶ月なのに、親達に外堀埋められちゃって、強制的に結婚だから。
けど、生活に困ることはなさそうだからいいや」

…同志よ、自分たちに足りないものが見つかった。
「愛」じゃなくて「妥協」と「打算」だ。

2006年12月25日

恋愛至上主義~クリスマスに坊主は思う~

サクラさんの提案に答え、恋愛の良さについて肩を張って語りたいと思います。
恋愛至上主義という一つの立場に立って。(註:実際には恋愛至上主義者ではないです。)

結局のところ、恋愛とは、突き詰めて言えば「出逢い」だと思うのだ。
世界中に何十億という人がいて、二人が出逢ったことが恋愛である。

だから、そこには様々なご縁がある。一歩間違えば、一生逢えていない可能性だってあるのだ。

あの日あの時、あの場所で、すれ違わなければ、友だちに紹介されなければ、あの場所に行かなければ、あの別れがなければ、二人は恋に落ちなかっただろう。昔の歌詞みたいだけれど本当のことだ。

恋愛は出逢い。出逢いは一瞬だけれど、それは永遠を孕んでいる。そこに僕は仏教を感じる。
小乗仏教では時間は川の流れのようなものと説く。過去から現在に。現在から未来にさらさらと川の様に流れていく。過去は過ぎ去りもうない。未来はいまだ来たらずまだない。

しかし、大乗仏教で言う時間は違う。
○現在が過去を意味づけ、また未来を意味づける。また、未来が現在を意味づけ、過去が現在を意味づける。

つまり現在、好きな人に出逢えて良かったという思いがあるということは、過去に意味があるということになる。
どんなに辛く消し去りたい過去があっても、その過去が無駄にならず、むしろ現在に至る大切な思い出となる。
充実した現在があるから、未来を意味づけていく。また未来に目標、達されることが決まったのなら、今現在なすべきことが見えてくる。

大乗仏教で言う「時間」とは現在、それこそ「今」の出逢いに集約される時間の見方なのだ。

とすると、今好きな人との出逢いは、過去と未来に集約された今であり、
今好きな人との手と手の出逢い、唇と唇の出逢いは、人生の時間に垂直に立つ。

そこには過去も未来も含まれている。一瞬は永遠を孕んでいるのだ。

たとえ、いずれ不幸な別れ方をする恋愛でも、いずれ二人が一緒に生活しだして、お互いに退屈したり、億劫に感じたりするに堕する出逢いでも良いじゃないか。
その一瞬は何にも変えることが出来ない一瞬なのだ。
その一瞬のために生きてきたともいえる一瞬だ。

その様な一瞬を手にすることは難しいのかもしれない。しかし恋愛にはそれを生み出す不思議な力があるようにも思う。

だがしかし、ここで残念なお知らせがある。
人間同士の出逢いっていうものは、確かじゃない。それはお釈迦様が見出した真実。それはとても悲しいことだけれど。
別れるのに出会って嬉しいっていうのは、所詮気休め、誤魔化しでしかないのだ。
さっき言っていたこととは全く反対で恐縮だけれど。
別れや堕落を孕んだ出逢いって本当のであいだろうか?
それは実はエゴとエゴの出遭う一瞬でもある。
愛の反対は憎しみ、というより、愛と憎しみは表裏一体。憎しみの全くない愛は残念ながら僕たち人間の上には存在しない。

本当の出遇いっていうは、私と仏との間にしか存在しないのだろう。
ここに浄土真宗でいう「信の一念」という今の考え方があるのだが、それはまた別の話だ。

えーと。
すみません!恋愛至上主義の立場は残念ながらやっぱり無理でした。
皆さんのご意見頂戴したいです。

☆ ☆ ☆
クリスマスにメリシャカ!チスイです。
最近寮生活で仏教を勉強してきて、寮を出たら、妙にクリスマスイルミネーションが目に染みました。
ミニスカサンタに目を奪われます、目の保養しました。
凡夫です。
メリシャカ!

2006年12月18日

LOVE ME

ども、ご無沙汰です。
ちょっと忙しくて、愛だの恋だの考える余裕がないくらい涸れてたんだけど、なんとなく見た落書きで目が覚めた。

LOVE ME

たまたま入ったファーストフードのテーブルに、ちっちゃく書かれてた。
「私を愛して」なんてイイ歳こいた女が言うとナマナマしいけど。
書いた人には、もしかしたら切実な思いがあったのかもしれないし…私の切実な思いとも重なるわけで。

恋と愛の違いは何かって聞かれたら。
「恋」は見返りを求めないもので。
「愛」は見返りを求めるものっていうのが私の自論。

そもそも仏教で考えられてた「愛」っていうのは、人間の根源的な欲望のこと。
喉の渇いた人が、もっともっとと激しく水を求めるような衝動的な欲望。
満たされるまで求め、けどいくらそそがれても満たされない欲望。
それが愛。

例えば好きな人には好かれたい。
けど、その人に好きと言われても安心はできない。
その好きを、ずっと続けてもらいたいから。
ずっと愛されてる実感が欲しいから、そう言ってもらいたいし、態度で示して欲しい。
見返りを求めるように、愛した分だけ愛して欲しいし、それこそ死ぬまで愛して欲しいわけだ。

だけど、これが逆の立場だったら結構ウザイ…かもしれない。
人の気持ちは変わるもの。
同じことをずーっと考え続けることができないように。
同じ思いを変わらず抱き続けることはできない。
もし、ずっと好きだと思っていても、その好きがいつも同じ好きではないはず。

すべては、縁にふれ、一瞬一瞬で生じては滅して変化を繰り返す。
同じままではいられない。
だから、ちょっとしたキッカケで、好きな人を嫌いになることもある。
ずっと同じじゃいられない、移ろいゆくのが現実、これが常ならぬ無常。

とまぁ、愛し愛されるのは大変なことだ。

自分の欲望を相手に向けるということは、相手の気持ちを思い通りにしたいっていうことでもあるわけで。
人の気持ちなんて、相手のどころか、自分のさえも思い通りにできない、だから苦しいし。
愛が満たされ続けるかどうかもわからないから、やっぱり苦しい。
それに、ずっと同じ気持ちでいられないことも、やっぱり悲しいし苦しい。

そういうことが分かってんのに、それでも苦しむことを選んで、「私を愛して」って叫び続けてる私は…。
結局、夢見る乙女(失笑)…じゃなくって、道理を見失った煩悩のカタマリだってことなんだろう。


…なんか、こういう結論に辿り着く時点で、やっぱ涸れてんだね、私…。
誰か、恋愛の素晴らしさを私に説いてくれ。

2006年12月01日

愛を得られずに憎んでしまう苦しみ…って長っ!

10年間付き合っていた男性に、突然別れを告げられ、

「別れるくらいなら死んでやるっ」

そう叫んで、女は台所から包丁を持ち出した。
けど、その切っ先は「死んでやる」と言いつつも、自分じゃなくて男のほうを向いていた…っていう知り合いの話がある。(←私ではない)

愛する人との別れは苦しいもの。
仏教は生きるうえでの苦しみと向き合うことを大切にしているから、いろんな苦しみを挙げていて、この愛する人との別れも「愛別離苦(あいべつりく)」って言葉で表現してる。
それは包丁を握ってしまうほど愛した人と別れるのは苦しいし。
愛する我が子と離れなければならないこともツライだろう。
それから、愛する人とどんなに長く添い遂げようと、いつか必ず別れはくる…死という別れが。

けど、愛を得られない苦しみっていうのもある。
包丁を握って脅しても、失った愛は得られない。
好きになった人に、好きになってもらえるとは限らない。
親の愛を得られない子供もいる。
どんなに努力しても、どんなに欲しいと願っても、手に入らない苦しみがある。
それを「求不得苦(ぐふどっく)」という。

そして、愛は憎しみに変わることもある。
彼女は思いとどまったけど、結婚すると思って10年を過ごしていたのに、いきなり別れようなんて言われたら…。
結婚したいと思うほど愛する人でも、その感情は一瞬で憎しみに変わることもあるはず。
そういう人には会いたくない…けど会ってしまう苦しみ、それを「怨憎会苦(おんぞうえく)」という。

あと1つは「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」。
彼女だって、包丁を握りたくて握ったわけじゃない。
なのに、気がついたら包丁を彼に向けていた。
人間の心身は5つの構成要素でできていて、それらが思い通りにならないことをいう。

これら4つの苦しみは、生・老・病・死っていう苦しみに加えると8つになるから、「四苦八苦」と言われる、人間の根本的な苦しみを表してる。

苦しみっていうのは「思い通りにならない」ってこと。
人を愛するっていうことは、思い通りにならないことだらけだ。
思い通りにできてたら、きっと私はとっくに結婚していただろうしね。
けど、私が今苦しんでいることは、紀元前のすんごく昔の人たちも、同じように同じようなことで悩み苦しんでいたわけだ。
そう考えると、その昔の人たちに起こったことも、遠くの国の見たことのない人たち起こっていることも、無関係な他人事だとは思えなくなってくるから不思議。

うーん、何が言いたいのかっていうと…。
別れ話をするときは、台所の近くはやめましょう。
それから、包丁は用法を守り正しく扱いましょう…?

2006年11月28日

僕は君以上に

惚れた腫れたがありまして、恋愛において必ず起こるってくるのは相手への「不満」でしょうね。

「自分はこんなに我慢しているんだ」とか、
「今まで言わなかったけれど、実はあの時酷いこと言ったんだよ」とか、言う会話。

心当たりがある人っていませんか。僕はあります(笑)正直。
それで、後で思うんですよね。

「あー、言わなきゃ良かった」って。

人と人が付き合うに当たって、我慢ってものはどうしても不可避で。
それは社会生活において全部そうなのですが、特に恋愛する相手には、
自分を分かって受け入れて欲しいと思うじゃないですか。
そして、そうならなかった時に、ストレスが溜まってくる。

言わなきゃ良かったって言う言葉を、何度も言ってしまい、後で後悔することになる。
僕が好きなバンド銀杏BOYZの歌で、『東京』という歌詞にはこうあります。

人を愛するということはきっと
君が君以上に僕を愛してくれたこと
僕は僕以上に君を愛せていたのかな
僕はそんな君以上に君を愛せていたのかな

恋愛の良さっていうのは、一つには自分よりも大切な人に遇うということではないだろうか。
そして、自分よりも相手に元気になってもらいたい、幸せになってもらいたいっていうのが、
恋愛というか、愛の素敵な所だろう。

しかし、そこは人間、いろいろあるのでしょう。駆け引きっていうのもあるじゃないですか(笑)
自分のことは全然考えずに、相手に無償の愛を捧げるっていうのは、無理だし、危険な気もします。
周りが見えなくなりますし、我慢している自分に酔うっていうのも、なんだか難しい。

それでも時に思うのです。

「自分が相手に我慢している、
しかし、それと同じかそれ以上に、
相手も自分にがまんしていることがあるのではないか?」

「自分は相手を大切にしている、
もしかして、それと同じかそれ以上に
相手も自分のことを大切にしてくれているのではないか?」

そんなことを思える瞬間があれば、なんだか見方が変わってくるような気がします。
喧嘩は二人の絆を深くするってこともありますしね。

銀杏BOYZの峯田は、その歌詞の後にこう唄う。

僕が歌うことは全部
君が僕に教えてくれたものさ
ふたりを通り過ぎたなんでもない毎日が
僕にとってはそれこそが歌になるのさ

僕は恥ずかしながら、ここの部分でいつも泣けます。

2006年11月11日

移ろいゆく世界の中で

ども。 自己紹介を真面目キャラで頑張ったら、体調を心配されたsakullaです。
はい、もう開き直りました!! 地でいきますよぉ!

えっと、先日お寺に嫁いだ友人の結婚式に行ってきました。
だから結婚式のスタイルも、仏前結婚。
あんまり見た人がいないかもしれないけど、最近じゃつんく♂氏が京都の西本願寺で挙式したから、すこぉし認知されてるかもしれないかな。

それでも、神様の前で永遠の愛を誓うのが、まだまだ一般的な結婚式のスタイル。
けれど、その永遠の愛には限りがあるようで。

「死が2人を別つまで…」

愛は死に敵わないものなのか?
ちょっとイジワルな考え方をしちゃうけど、正直、神様の前で誓う愛がイマイチ分かっていないことに気がづいた。

健やかなるときも、病めるときも、相手を愛し、敬い、慈しみ、助けることを誓う。

誓いの言葉にある、それが愛のすべてなのかも分かんないけど。
もっと分かっていないのが、自分が何に愛を誓っているかということなんじゃないかな。
そういう一番分かってなきゃいけないことへの関心がないことが、本当に恐いと思ったわけですよ。

友人は、結婚するお相手のお寺で挙式をしました。
正直、お寺の本堂って、結婚式のために作られたチャペルみたいに明るいわけじゃないし、法事のイメージとかもあるから、あんまり魅力的だなんて思わないかもしれないし、気が進まないかもしれないけど。
でも、「荘厳」って言葉がぴったりくる場所。
だってお寺の本堂って、ご本尊さまと向き合って、自分の生死という人生そのものと向き合うところだから。

この仏前結婚で、一番重んじるのはご縁ということ。
「縁」とは「つながり」ということ。

これだけ多くの人々がいる中で、たった一人の人と出遇えたという縁。
そして、そのたった一人の人と出遇えた自分がいるという縁。

ここ数年、毎年夏に再放送されてる『さとうきび畑の唄』ってドラマで、小学校の先生役をしていた仲間由紀恵さんが、家系を自分から10代遡ると1024人もいると子供達に話してたのを聞きました。
だから、命は大事なんだと、生きてくれと言っていた…。

自分がいるということは、最低でも1024人もの縁があり、更に遡れば限りはない。
縦のつながりだけじゃなくって、そこから更に横へといろんなご縁が広がっていて。
それにご縁って、血がつながってるなんてだけじゃないし、人間だけにあるってもんでもない。
その縁はたまたま知り合った人とも、既につながっているかもしれないし。
結婚を決意した相手とも、知らないところでつながっていたのかもしれないし。

こうした縁を改めて結ぶということが結婚式を挙げるということ。

すべてのものが、形を止めておくことができないように。
人の気持ちも移ろいゆくもので、永遠に変わらないことなどないけれど。
だからこそ、いつもいつまでも、変わることのない仏さまの前で、自分たちのこれからを誓う意味があるのだろう。

苦の世界を一緒に生きて、どちらかが先に死を迎えたら、残された者を導いて。
残された者は、相手の残した縁をたどる。
そうして一緒に仏になりましょう!っていう、死が2人を別つことのない愛もある。

ここらへんはるるさんや、チスイさんや、ケンユウさんも書かれていることだけど、やっぱりここを強調したいのです。

仏になるということは、個からは離れること。
それは私という個に執われないってことで、個なんかじゃ納まりきれない大きな心持ちになるってこと。

生きているとき、大切な人へ向けていた気持ち。
「愛してる」
「あなたが大事」
「幸せになってね」
「どうか笑っていて」
「悲しいときにも側にいるから」
そういう誰かを愛する心を、特定の人だけじゃなくって、生きとし生けるもの全てに向けるということ。
一人一人、一つ一つに向けるってこと。
そして今も、その大きな愛が私に向けられているってこと。

究極の愛の形だと思わない?


お寺に嫁いだ友人とは、腐れ縁というか、腐って欲しいと思うほどの縁でつながっている人。
だからこそ、願わずにはいられない。

移ろいゆく世界の中で、移ろいゆくことを共に楽しめる関係を、2人で築いていってほしい。


あ~あ、どうでもいいけど結婚したいねぇ。

2006年10月06日

永遠の愛

皆さんこんにちは。
シャカ斬りでおなじみの、なんでもかんでも一言物申してみたいケンユウです。
今日はちょっと趣向を変えて、恋愛について語ってみるとしましょう。
と、言っても、私も決して人様に恋愛論を振りかざせるほど恋愛経験豊富なほうではありません。
それでもまあいい恋もしてまいりましたので、ちょっと恋愛について語らしてもらいましょう。

んで、
今日のお話のテーマは「永遠」です。
皆さん、この言葉、お好きではないでしょうか。
永遠の愛はもちろんの事、永遠の命、と言うものに誰もが一度は憧れた事があるはずです。

ところが実際自分の姿を考えてみた時に、まずこの肉体が永遠に続く、ということはありません。
人は必ず年をとり、体は衰え、いつかこの肉体は動かなくなっていってしまいます。それが「死」というものであります。
自分の命と言うものを、肉体の存続というところで考えると、私達の命には永遠、ということは無い、ということになります。

では「愛」の永遠についてはどうでしょうか。
結婚式などで、よく二人の永遠に変わらぬ愛を誓う、ということをします。
二人の男女がお互いに愛し合い、敬い、尊重しあい、共に生きていく、ということが、ずっと永遠に続くと言うことは、とても素晴らしい事であります。
でもそれは本当に可能なのでしょうか?
なんだかものすごく夢のないというか、無粋な話をしているような気がしますが、ちゃんとついてきてくださいね。

まず、私達は、いくら愛し合っていたとしても、必ず別れていかねばなりません。それは、先ほど申しました肉体の「死」というものがあるからです。
しかし、二人のうち片方が死んだとしても、残された人が、その人を思う気持ちは続いていきます。
それでもやはり、その人が死を迎えれば、その気持ちもまた途絶えてしまう事になります。

そして、私達人の心というものは大変に移ろいやすいものであります。
好きだ、と思う相手であっても、時には腹が立つこと、憎む事、あるのじゃないかな、と思います。それは、愛するからこそ起こって来る気持ちなのかもしれませんが、そういう言わば尊重や愛する気持ちとは対極にある感情が続けば、愛する気持ちも薄らいでいってしまうでしょう。
そうすると、死に別れなくとも、自然と二人の距離は離れ、誓ったはずの愛する気持ちも薄らぎ、別れを迎えることもあるのじゃないかな、と思います。
そう思うと、相手を愛する気持ちを全く変わることなく永遠に、というのは、肉体的にも、心情としても、難しい事ではないのかな、と思うわけです。
まあ、そういう難しい事、なかなか実現できない事だからこそ、私達は永遠、不変、というものに憧れるのかもしれません。
もちろん、結婚生活や恋愛状態ということだけを考えるのであれば、不変ではなく、時々に変わりながらでも愛する気持ちが持続すれば、問題は無いのかもしれませんけれどね。

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2006年09月16日

諦めるということⅡ

皆さんは覚えているでしょうか?仏教恋愛論のログ『諦めるということ』を。
るるちゃんの恋愛論vol.2を読み、僕は正直すごく感動してしまいました。そして自分でも色々と考える機縁になりました。今回vol.6は、相聞歌としてのチスイ版『諦めるということ』でお楽しみ下さい。

失恋は痛い。
歯痛も頭痛も、こむらがえりも痛いけれど、失恋よりは痛くない。
聞いた所によると、なんと骨折よりも痛いらしいよ。

秋から冬にかけて二人は別れた。男は失恋がこんなにも痛いものだとは思わなかった。
仕事をしていたら思い出が浮かんでなんか涙が出てきた。

自暴自棄になって、お酒を飲んでも、友達と遊んでも空しさはいつまでも続いた。どんなに仲の良い友達にも言えやしない自分の苦しさ、つらさをそれでも誰かに伝えたくて、色々な人に電話したりした。

男は想像した。これ以上は悪くならない。今が一番底だ。多分、これから良い風に事態は転がっていくだろう。多分いつかあきらめがつくんだ。

いつか、二人で歩いた桜並木の道も、夏祭りの花火の風景も、赤とんぼのシルエットが浮かんだ秋の日の夕焼けや、二人っきりの鍋や、、
そういう楽しかった思い出すだけで切なくなる様な光景も、月日が全部解決してくれる。皆忘れていくのだろう。いつか、いつの日かあきらめがつくのだろう。

本当か?

いや、だが、

しかし、

・・・簡単にあきらめられるかい!

って事ですよ(笑)大体どうして二人は別れたんだ。何がいけなかったんだ。自分の何が悪いんだ。もっと良い様に自分が立ち振る舞えたはずだ。「あの時ああしておいたら」とか、「もっと考えて行動していたら」とか。どうして自分だけこんな目に合わないといけないんだ。

月日は何も解決してくれなかった。ますます男を想いに耽らせた。時間は何も解決してくれなかった。
「あきらめ」って、そんな消極的なことではなかったんだ。
考えろ。苦しい思いの根源を考えろ!そこにしか、きっと解決はない。男はそして考えていった。

失恋は苦しい。そして痛い。

そもそも、どうして人はそんな苦しみを覚えるのだろうか?

それは「自分の思うようにいかない」からだ。生老病死しかり。

「自分はあの人のことが好きだ。ずっと一緒にいたい」

しかし「あの人は、、もう自分のことが好きではない」むしろ「自分以外の他の誰かのことが好きだ」

そうか、自分は徹底的に振られたんだ。それでも、まだ自分はあの人のことが好きなんだ。

あきらめたいけど、あきらめられない自分が、ここにいることも、悲しいけれど事実なんだ。

「あきらめるとは、自暴自棄になることではない。
真実を見極める、明らかにするということだ。
それが、諦めるということである」

そうだ。あきらめるとは、自分の心を勝手に放って置くってことではない。自分を痛めつけても、誰かに愚痴っても解決されることではない。本当のことを見極めるってことなんだ。

あー。真実を知るって、なんて痛いんだろう(苦笑)

それでも、最初の痛みとは、幾分種類が違っていた。

時間が解決してくれることもある。
誰かに自分の寂しさを言うこともある。
寂しさを紛らわそうと酒を飲むこともある。
夢に見てまたせつなさを思い出すこともある。
裏切りや自分のおろかさに絶望することもある。

でも、それが、「失恋」ってことなのだ。

でも、それが、「生きる」ってことなのだ。

自分の思うようにならないことが苦である。
人生は苦である。

今から2500年も前にお釈迦様が「諦められ」たこと。悟られたこと。

2500年後の自分に伝えようとしたかったこと。

『人生は苦なり』というあたりまえのことだったんだ。

あたりまえだけど、あたりまえすぎて、幸せすぎた自分には見えなかったことだったんだ。

そこで男は一人で小さなくしゃみをした。

あたりまえだけど、季節は巡り、また秋が来たのだ。

この話は、私が、大好きなゆうこりんが、よゐこの濱口と付き合っていると知った時に『諦めた』ことです。

2006年08月07日

もしも、ほかで出遇っていたら・・・?

お久しぶりです。るるです。
ずいぶん間があいてしましましたが、こんな恋愛論でも待っていてくれるありがたい方々の声援を受けまして、復活いたします。
最後までおつきあいくださいませ。

男の子から、彼女を泣かせてしまった、と相談を受けました。
どうして?と聞くとこういう答えが。

付き合って間もない頃。
デートの時間は、何より最優先で、逢いたくて逢いたくて。
ただ見つめあって、出逢った頃の話を何度も何度も繰り返す。
あの時、あんなことがあったよね、あの時どう思ってたの?
そういえば、あの時どうしてあんな風にしたの?
オレのどこが好き?
私のどこが好き?

なぁんて。他愛もない話をどれだけしても、それは全部が甘いささやき。
周りのことなんて何も見えなくて、ただそばにいるだけで幸せ。
そんな時の出来事だったのです。

彼女は、いつもの甘い言葉の続きでこう口にしました。
「ねぇ、わたし、どこであなたに出逢っても、必ず好きになったと思う」
彼女が期待した言葉は、おそらく「オレもそう思うよ」でしょう。

しかし、彼はお寺に生まれた子でした。
だから、当然のようにこう答えたのでした。
「いや、そもそもこれ以外だったら逢ってないし、恋愛してないと思うよ」

それを聞いた彼女は泣いてしまった、というのです。

私は、その時の彼のあわてふためいた姿を思い浮かべて、気の毒やらおかしいやら。
彼には、彼女がなぜ泣くのかがわからなかったのでしょう。

そう彼は、真実を口にしただけ。
私たちの出遇いには、「もしも」はないのです。
人智を超えた、不可思議としか言いようのない縁に導かれて、ひとつひとつの縁があり、出遇いがあるのです。
だからこそ、この出遇いがどれほど大切で、どれほど輝いているか。
ここで、こうして出遇って、しかも気持ちの通じ合ったふたりだからこそ、尊いのです。
だからこそ、お互いの気持ちを思いあい、助け合い、一緒の時間を過ごすことが幸せなのです。

考えてみてください。
私たちは生まれてこの方、どれだけのひとと出遇ったでしょうか。
数え切れないほどの出遇いがあり、いろんな関係性があり、名前や顔さえ覚えていない人のほうが多いのに、
そんな中で、家族でもない人と友達になり、そして恋をする。

それは、とてもとてもはかりしれないご縁ではないでしょうか。
そこから学ぶべきことは山ほどあるはず。
大切にしなければならないことは山ほどあるはず。
変わらないものはありません。
その人との恋も、必ず終わりがあります。
どういう形であれ、ね。

自分の思い通りにいかないからと言って、泣いている暇も、怒っている暇もないのです。
そんな無駄なことに時間を費やさず、そこから何を学べるかを考えた方がいい。

恋愛状態にあるとき、私たちはお互いが向かい合っている感じがします。
でも、そこから相手だけを見つめて、前に進んでみてください。
そう、それでは「正面衝突」です。
でも、お互いが手をつなぎ、同じ方向を向いていたらどうでしょう。
絶対にぶつかることはありませんよね。

有難いことに、親鸞聖人は誰よりもそのことを実践された方です。
最愛の妻と共に仏道を歩まれ、その姿を後世にお示しくださいました。
互いを菩薩と尊敬しあい、同じ方向を向いて生きられた、まさに理想の夫婦です。

思い通りにならない人生だからこそ、この出遇いを大事にしたいものです。


例の彼は、その後、うまくフォローをしたのか、失敗したのか・・・。
今は、違う女の子と付き合っているみたいですがね。笑。

では、このへんで。るるでした。

2006年05月01日

死ぬまでキミを離さない・・・?

こんにちは。
世の中はゴールデンウィーク。
お出かけする方も多いことでしょうが、法事を営む方もけっこうおいでのようです。
いい季節ですからね、親戚一同が会して近況報告をしたりされたり、
一杯酌み交わし、季節のお野菜をいただいて、

家族ってなんだろー
親戚ってなんだろー
いのちってなんだろー
わたしってなんだろー

と軽く思索にふけるのも、また素敵な休日ではないでしょうか。
それこそ、実りの休日、ゴールデンウィークでございますね。
とか言いながら、自分はなんら変わりのない時間を過ごしている、るるです。

仏教恋愛論、数々の反響をいただいて大変嬉しく思っております。
ホントにありがとうございます。

さて、vol4は、ちょっとポエムチックにまいりたいと思います。
では、ごゆるりと。

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「キミのことが大好きだ。死ぬまでキミを離さない」
「こころから愛してる。死ぬまで一緒にいよう」

情熱的な瞳で、あなたは言った。
あたしは嬉しくて幸せで、ただうなずくだけだった。
あの日から、片思いが恋に変わったの。
そして、恋は愛へと変わっていくのね。

でも、不思議なことがあるの。
手に入った瞬間から、失うことが怖くなる。
ひとりの時間はとても不安。
恋が恋愛になったとたん、我慢も始まる。

あなたを想うととても強くなれたの。
でも今は、同じくらい弱くなってるあたしがいる。


・・・あたしは、欲張りかしら。

「死ぬまでキミを離さない。死ぬまで一緒にいよう」
そんな言葉じゃ足りないの。
だって、あなたが死んでしまったり、あたしが死んでしまったら、
それで終わりってことなの?

いのちはいつか尽きる。
どんなに愛しても、どんなに寄り添っていても、いつか別れは訪れる。
これは、仕方のない真実なの。

「僕はキミを置いては死なないよ」なんて笑っているけど、
ねぇ、あなた。
そんなこと、誰も約束してくれないのよ。

さびしいね。
かなしいね。
・・・でも、それが生きるってことなのかしら。

でも、教えてもらったの。
あたしは、死んでもあなたと一緒にいることができるって。
あたしが先にいってしまったら、あなたを待ってるなんて言わないで、
ずっとそばにいるからね。
天国で安らかに眠ったりしないし、草葉の陰から泣いたりもしない。
あたしは、光となり風となって、ずっとあなたのそばにいる。
あなたのいのちを、一緒に生きる。
あなたの悲しみは、あたしの悲しみ。
あなたの喜びは、あたしの喜び。

こんな愛し方、素敵でしょう?

あなたも同じよ。
先に死んでしまっても、ずっとあたしのそばにいてよね。


わかった?
・・・約束してくれるの?
でもその約束は、あたしとしてもだめなのよ。
あたしや、あなたの力でそうできるわけじゃないから。
ずうっと前から、「心配しなくっていいよ、ちゃんと一緒にいられるよ」
って言ってくれる存在があったのに、
あたしたちはそれに気づかなかったのね。


指切りじゃなくて、手を合わせて。
あたしの名前じゃなくて、その働きの名前を言って。

変わらないものなんてないけれど、あなたと一緒にいられるのなら、
あたしはもう、不安なんて感じなくてもいいのよね。

ずっと一緒に生きていこうね。
苦しいことも悲しいことも、全部一緒に味わっていこうね。
思い通りにならない時も、ふたりの気持ちが遠くなった時も。

お互いのことを見つめるのも大事だけど、そうすると前に行こうとした時に
ぶつかってしまうの。
だから、あたしたちは、同じ方向を見ていよう。
同じ方向へ歩いていこう。


えっ?
今なんて言ったの?
・・・・・・それは、プロポーズ?

もちろん、返事はイエス!

ただし。

結婚式は、あたしたちがいつも一緒にいられるってことを教えてくれた仏さまの前で、しようね。
あなたが生まれてきてくれたこと。あたしが生まれてきたこと。
たくさんのいのちのおかげであたしたちが出遇えたこと。
いっぱい感謝できるような結婚式にしようね。

ありがとう。
あなたに遇えてホントによかった。

大好きなあなたへ。


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乙女チックすぎますか?笑。
いやいや、恋愛真っ只中にいるひとは、歯の浮くようなセリフも平気なんです。
それが、恋でございますわね。

浄土真宗の宗祖親鸞聖人は、妻帯をした方です。公然と、という意味です。
恵心尼とおっしゃる奥様と、それはそれは信じあい助け合っておられたようです。
お互いを仏様の化身だ、と敬いあっておられたことが、文献から分かります。

まさに、理想のふたりなのです。

そして、ひと組でも多くのおふたりが、
仏前結婚式の意味合いやよさを知ってくれたらなぁ。


以上、るるでございました。

2006年04月22日

恋という病

『仏教恋愛論』をご覧の皆さん、こちらでは初めまして!チスイと申します。
ステキで温かいるるさんの文章を読まれて、今後を期待されている方が多いと思います。
いきなりむさくるしいのが出てきてスミマセン、、
るるさんの文章を読んでいると自分もどうしても仏教恋愛論が書きたくなりました!

それ程彼女の恋愛論は読ませました!前回の文章なんて、自分に思う所があり、泣きそうになりましたヨ!(苦笑)

知人・友人から「ちょ・・お前が恋愛語るな!」と突込みが入るであろうチスイではありますが、これからちょくちょく顔を出させていただきます。よろしくお願いします。


vol.3では「恋愛」を仏教ではどのように捉えられているのか考えてみたいと思います。もちろんお経に「恋愛」という字は出てこないのですが。

まず、仏教では僕たち一人残らず皆、煩悩を抱えている存在であると説かれています。
じゃあ煩悩って一体なに?って問われて、おしゃかさまは『三毒の煩悩』というものに大まかに分けられて説明されます。


『三毒の煩悩』とは、以下のものです。

○貪欲【とんよく】(むさぼりの心)

○瞋恚【しんに】(いかりの心)

○愚痴【ぐち】(ねたむ心・おろかさ)

そしてそして、その貪欲(むさぼりの心)の中に、詳しくは5つの欲があります。

●食欲

●財欲

●色欲

●名誉欲

●睡眠欲

3番目に『色欲』が出てきます。これがすなわち、男女の欲のことです。

たとえば町に出たら、可愛い女の子(石原さとみちゃん似)に目が奪われてしまう。
ステキな出逢いがないかと、どんよくに友だちに「えっと、確か前にご飯おごった貸しあったよね!貸しあるよねー。今度友だち紹介してなっ!」と言う。

全部チスイに限りなく近い誰かさんのことなんですけど、つまりそれが仏教で言うところの『色欲』だと思います(笑)

例えば、好きな人ができたとしても、その人が自分を好きになってくれる確証はないんです。
恋をしたら苦しいことが多い。恋煩いって言いますよね!
つまりこれも『煩悩』な訳です。

好きな子と交わした会話に一喜一憂して、夜眠れなかったり。
求めても求めても好きな人となかなか一緒になれず苦しんだり。
(結構それが恋愛の良さだとも言えるけどね)

たとえお互いに好きになれたとしても、その満足はいつまでも続かないかもしれないですよ。
相手を思う余り独占欲が働いて、すれ違ったり、嫉妬したり、重く思ったり、傷つけてしまったり、、
それは仏教で言う『執着』でしょう。

結局お互いの気持ちがすれ違い、どうしようもなくなって、別れてしまったりする。
失恋の痛みは骨折の比じゃないですよね!いつまでもいつまでも胸の深くで疼くものだと思います。

そして仏教の根本思想は「人生は苦」であるということ。
自分の思い通りにはならないのが苦です。
自分の思い通りにならないことを、思い通りにしたいから、そこに苦しみが生まれるんです。
でもそれって恋愛そのものじゃないですかね?

としたら、恋愛は「苦」であり、「欲」であり、「煩悩」、「執着」であると言えます。
仏教ではあまり誉められたもではないのかもしれません。
なぜなら、身を煩わせたり心を煩わせたりして、そのことばっかり悩んで、落ち着いて仏法を聞くことや、仏道修行が出来ないからです。
だから仏教では欲は否定されるもので、そこには性愛や恋愛も含まれるのです。

それでも僕たちは恋をしていく。恋はするのではなく落ちるものともいいますしね。
もしも「恋」が自分を煩わせる病であるならば、しかしそれはこの世で一番美しい病かもしれない。

なーんて青臭いことを言ってしまいましたが、愛する人と共に仏道を歩んでいく道も仏教にはある訳です。

僕たちに一番身近な大問題「恋愛」を、仏教と絡めて見つめると面白いのではないかと思い、僕は仏教恋愛論が書きたいのです。

2006年04月16日

諦めるということ

こんばんは。るるです。

仏教恋愛論vol.2です。
出遇いと別れの春でございますが、皆様いかがお過ごしですか。
素敵な出会いはありましたか?

今回は、あるお年頃な女の子の話を。

彼女は、高校生です。
友達も増え、出会いも増え、青春時代を謳歌していました。
好きな人もできました。
相手も憎からず思ってくれているようです。
朝は、待ち合わせをして学校に行きました。
帰りは、駅まで一緒に歩きました。

ふと、廊下ですれ違う瞬間のときめき。
クラスメイトの女の子と話をしているのを見たときの不安感。
でも、一緒にいるときの楽しさ。
ふと手が触れた瞬間の鼓動。
デートとは言っても図書館に行って、ファーストフードでランチして。
自転車で、あちこちを走り回った。
菜の花。桜。あじさい。
毎日が楽しくて、嬉しくて。
一緒の大学に行こうね、なんて話して、だから勉強だって楽しかった。


ところが。
ひとの気持ちは変わるもの。
そう。
変わらないものはありません。
どんなに好きでも、いつか変わっていくもの。
諸行無常・・・とはこのことです。

彼の様子が変です。
一緒にいても、つまらなさそうです。
ささいなことでけんかをします。
どうして?と問いかけても何の返事もない・・・。

いつもならふたりで帰るはずの駅までの道。
雨が降っていました。
ひとりで、彼のことを思って歩いていました。
もう、これで終わるのかな・・・。
雨が、涙みたい。
こんなに好きなのに・・・何が悪いの?
いつの間にか、下を向いて歩いていました。
肩にかけた傘が重くて、重くて。

大きなため息をついて、思い切って傘と顔を上げました。
その時、雨の道路越しに彼女が見たもの。
それは。

大好きな彼と、彼女の親友の姿でした。
ひとつの傘。
寄せ合う肩。
見詰め合う瞳。
楽しげな表情。

息が止まるかと思いました。
傘が、落ちたのにも気づきませんでした。
涙なのか雨なのか、もうわからなくなりました。
どうして?
どうして!


それからしばらくは苦しかった。
親友とは強がって話をしたけれど、彼女も苦しんでいることは分かった。
彼とも話をしたいけれど、思うように話が出来ない。
君には関係ない、なんていわれたりして。

枕を抱いて、泣きながら眠る日が続きました。
どうして?なんでこんな目にあうの?
彼もひどい。私の気持ちを知ってて、心変わりするなんて。
彼女もひどい。親友の好きな人をとるなんて。
私のことをいったいなんだと思っているのよ。
どうして、私じゃだめなの。
かわいそうな私。
こんなことになるなら、恋なんてするんじゃなかった。
あきらめなきゃいけない?
でも、うらむよ。
私をこんな目にあわせたふたり。許せない。
絶対に許さない。

親友とは、話をしなくなりました。
恋も友達も、なくしました。
でも、なくしたのはそれだけじゃなかったみたい。

彼女の顔から笑顔が消えました。
生活態度が悪くなって、学校も休みがちになって、暗い目をするようになりました。
彼女の心の中には、なんともやり場のない気持ちが渦巻いていて、気がつけばあのふたりの悪口ばかり。他の友達もだんだん彼女の話を聞かなくなります。

どうして?
私が悪いんじゃない。私は被害者よ。
どうしてみんな、私が悪いみたいに言うの?
かわいそうなのは、私。
あの人たちが苦しむのは、当然よ。
だって、私をこんなに苦しめているんだから。

そんな自分の気持ちをもてあまし、自分で自分の首をしめているような感覚。
彼女は、疲れてきました。
もう、どうしていいのかわかりませんでした。


そんなとき、ふと彼女の心に飛び込んできた言葉がありました。

「あきらめるとは、自暴自棄になることではない。
真実を見極める、明らかにするということだ。
それが、諦めるということである」

はっ、としました。ドキリ、としました。愕然としました。
私は何にとらわれていたのか。
私は何に固執していたのか。
それは、もはや恋ではありませんでした。
その正体は、「我執」。
でも、怒りや恨みに曇った目では、その正体は見えなかたったのです。

涙とともに、何かが落ちていきました。
まなざしに、力が戻ってきました。
真実を見極める。明らかにするということ。
恋は終わったのだという真実。
私では、だめだったのだという真実。
人生は思い通りになるものではないという真実。
変わらないものはないという真実。
思いもかけないことがおこる、という真実。
誰にも、苦しみはあるという真実。

彼女は静かに涙を流しました。
一晩、終わった恋を思い出していました。
親友との会話も、思い出しました。

余分なものが消えてなくなった気がしました。
鏡を見ると、最近の嫌な顔じゃないことに気がつきました。
むしろ、恋をしているときより綺麗になったかもしれない。
そんな気さえします。

素敵な思い出だって、たくさんあった。
それで、いいか。
私には新しい未来がある。
もっと大事なことがある。
それで、いい。

そんな風に思うようになりました。
立ち上がり、窓を開けました。
朝が来ます。

背伸びをしました。
新しい季節が始まろうとしています。

彼女は、ひとつ、大人になったのかもしれません。

「あきらめるとは、自暴自棄になることではない。
真実を見極める、明らかにするということだ。
それが、諦めるということである」

この言葉は、今でも彼女の心に生きているのです。


~ある恋の話~ おしまい。
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・・・えっ?”彼女”は誰かって?
それは、ナイショです。笑。

るるでした。

2006年04月08日

運命の出会い

こんにちは。。初めまして。
メリシャカの るる と申します。
ここで、仏教恋愛論を語らせていただきますね。

あ、ちなみにちゃんと僧侶の籍をいただいております。
みなさま、よろしくお付き合いくださいね!


さて、4月。出会いと別れの季節といいますが。

仏教恋愛論vol.1では、あの魔法の言葉「運命の出会い」について語ってみたいと思います。

恋の始まりにはいろんなパターンがありますねぇ。
ですが、この「運命の出会い」という言葉は、どういうニュアンスで使われるかというと、

1、「出会うべくして出会ったんだよ、僕たちは・・・」
2、「思いがけず出会ってしまった2人なんだわ・・・」

大きく分けるとこの二通りなのではないでしょうかね。
つまり、運命に従って出会った。または、運命を変えるほどの出来事である。
「運命の出会い」には、そういう意味合いがあるような気がします。

そして、「運命」という言葉をつけたが最後、ふたりの気持ちはいやおうなく盛り上がるわけです。
「運命」にしたがって愛を育むか、「運命」に逆らって愛を貫くか。実にドラマチック・ロマンチックであります。

でも、運命って何なんでしょうね。

1 超自然的な力に支配されて、人の上に訪れるめぐりあわせ。天命によって定められた人の運。
「すべて―のしからしめるところ」「これも―とあきらめる」

2 今後の成り行き。将来。
「主人公の―やいかに」

とまぁ、大辞林さんでも二通りの解釈をつけてますね。
「超自然的な力に支配されて・・・」「天命によって定められた・・・」ここです。

支配されて?定められた?

そんなことがあるのでしょうか。

運命によって出会い、運命によってデコレーションされて恋愛を経験し、運命を変えるほどの出来事を経て、運命によって別れる・・・それも、決まっていたと言うのでしょうか?

なんだかね。

恋愛感情ってとても素晴らしいものだと思うわけです。
大好きな人と一緒にいられることの幸せをかみしめたり、切ない思いをしたり、相手を思いやる心が芽生えたり、苦しい感情を経験したり、、、毎日毎日新しい自分に会える。かけがえのない経験です。生活に彩りを与えます。生き生きと生きられます。苦しいこともあるけれど、乗り越える力があれば、それを糧に必ず成長できるのが、恋です。

それなのに。
「運命」と言ったとたん、“自分の覚悟”や“責任”から逃れているような気がします。
ロマンチックさやドラマチックさだけに酔っている気がします。
それは、何のための恋愛なのでしょうね。

「超自然的な力」「天命」・・・そんなことでかけがえのない大好きなあのひととの出来事を片付けてしまいたくないなぁ、と思ったことありませんか?
結末はどうであれ、自分を成長させてくれた恋に対して感謝をしたいな、って思ったことありませんか?


天命なんかへの人任せではなく、しかも恋愛のドラマチックさやロマンチックさを失うことなく、静かな暖かな感謝の想いを抱ける。
そんな、素敵な言葉が、私たちの仏教にはございますのですよ。

それは・・・そう、「縁」という言葉です。

あのひとに出会ったのは、合コンだった。
その合コンに行かなければ出会うことはなかった。
友達が誘ってくれなかったら、行かなかった。
その友達とは、バイト先で知り合った。
バイトは、何でもよかったけどたまたま、バイト募集のチラシを見た。
そのチラシを見たのは、引越しをした新しい街だった。
その街に来たのは、大学進学のためだ。
大学は、第一志望ではなかったけど、仕方がなかった。
第一志望校に落ちたのは、数学が苦手だったからだ。
そういえば、うちの家系はみんな数学苦手だ。
父と母は、詩を作るサークルで知り合って結婚した。

とまぁ、どこまでもさかのぼることができる。
一つの出来事が、原因やきっかけになり、次のアクションを生み出す。
その結果が、また原因やきっかけになって、さらなる出来事を作り出す。
これを因果といいます。
自分の意思で選んできたこと、自分の力だけではどうしようもなかったこと、いろんな要素がからんで今の私がある。
決して人任せではありません。その時その時で、みんな自分で何かを選んできたんです。
その結果=果が、現在です。そして、現在はまた原因ときっかけ=因・縁となって、次の果を生む。
内的な原因を因といい、外的な原因を縁と言うのですが、一まとめにして“縁”と表現します。

素敵な恋は、運命によって突然与えられるものではありません。
たった今の自分がどう生きるかによって、次の恋のための因になるんだよ。
今の恋は、必ず何かにつながるよ。何につなげるかは、あなた次第。


春。
出会いの春。
あなたに、素敵なご縁がありますように。

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2006.4.26-
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