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      <title>仏教恋愛論</title>
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      <description></description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2008</copyright>
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         <title>恋するハリネズミ①</title>
         <description><![CDATA[真冬に二匹のハリネズミがいます。二匹はお互い寒がりで、温めあおうと二匹身体を近づけます。
近づきすぎると大変です。
だって、自分の針が相手を身体を刺してしまうのです！
ハリネズミは互いに刺しあい、吃驚して離れていきます。
しかし、しばらくすると、また寒いし寂しいので近づけていきます。

これはもちろん実際にあったハリネズミの不幸な出来事なんかじゃなく、「ハリネズミのジレンマ」という心理学のことばです。僕の友人の僧侶がよくご法話で話されているものです。僕はそれを聴いて感動したので、紹介させていただこうと思います。

「ジレンマ」とは、自分の思い通りにしたい二つの事柄のうち、一方を思い通りにすると他の一方が必然的に不都合な結果になるという苦しい立場のこと。つまり板ばさみの状態です。

このハリネズミとは他人事ではなく、実は僕のこと、そしてこのコラムを御覧の皆さんのことを言っているようです。
僕たちの背中には目に見えないけれど、背中になんと鋭く長い針があるみたいです！

普段はこの針は制御されているのですが、特に大切に想う人と近づき分かり合おうとすると、この針が相手を刺します。「どうして自分のことを分かってくれないんだ」と、針は相手を傷つけてしまうようです。

この針は相手が自分にとって重要な大切な人であればあるほど、不本意ながらブスッと刺してしまうようです。自分の生活にとって関係のない人であれば見過ごしやりすごせることを、大好きな人だからこそ許せないということがあるようです。

この背中に生えている目に見えない針は何のことを言っているのでしょうか？
エゴでしょうか。
仏教で言うならば「我執」「煩悩」でしょうか。
エヴァンゲリオンの世界で言うなら「ＡＴフィールド」でしょうか。


突然ですが、<strong>ピコーン！</strong>ここで、さっきのハリネズミを絵で現せないかと閃いてしまいました！


＊←ハリネズミＡ

＊←ハリネズミＢ


　　サムイヨー＞＊　　　　　　　　　＊＜サムイネー


　　　　　　　　　　　　･･･＊　　＊…

　
　　　　　　　　　イタイ！！＊＊！！イタッ！


サシヤガッタナ！＊＞　　　　　　　　　＜＊サイアクダ！


　　　　　デモサムイナ・・＊　　　　＊・・サミシイナ～


<strong>
予想を超えてショボイ絵になりました！ごめんなさい。</strong>

このハリネズミのジレンマを解決する方法があるでしょうか？愛深きゆえに憎しみも深くならざるを得ない。なかなか難しい問題です。
もしもご意見がございましたら、コメントいただけると有難いです。

つづく？]]></description>
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         <pubDate>Fri, 14 Dec 2007 01:54:33 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>恋に落ちる世界</title>
         <description>恋に落ちると眩暈を起こす友人に会った。

彼女の目に映る世界の、男性の話を聞くのが好き。

彼女は男と女の友情はないという考えの持ち主。
だから男性に会うと、彼女はまず、その男性が自分に気があるかどうかを感じ取る。
自分に気がない男性だったら、興味をまったく示さない。
そして、気がある男性でも、色気がなければ興味はない。
けど気があって、しかも色気があると、彼女は眩暈を起こして、自分が恋に落ちたことを知る。
そして、「私を落とせるなら落としてごらん」と視線を送るという、彼女の伝わり難いアプローチがその瞬間から始まる。

気があるかどうかを、どういうふうに感じ取るのかと尋ねると、
「私は敏感だから、雰囲気で分かる」
彼女はそう断言する。

だが、眩暈を起こした恋が成就したことはないともいう。

それは、私から見たら全て勘違いだとツッコミたくなる話だけど。
彼女にしたら、至極当然の成り行きらしい。

「人は皆、一人ひとり異なった世界を見て、見たものを異なった世間として理解しているはずである。
 それでも、誰もが自分の見ているものは他人が見ているものと同じだと思い込んでいる」

なんとなく、『邪魅の雫』という京極夏彦の小説にある一説を思い出した。
男性の何気ない仕草に色気を見るものもいれば、その仕草に不快感を覚えるものもいるように。
見ている対象は同じでも、その対象への意味づけが異なれば、見ている世界も変わるのだろう。

「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によって作り出される」

おシャカさまの残された言葉を集めたとされる『ダンマパダ』の冒頭にもあるように、私の見る世界は私の心によって作り出されたもので、他者の見る世界とは別物だ。
あらゆる現象は、ただ心の現れに過ぎないという思想を、仏教では唯心と言い、それが唯識へと発展する。
だけど、この心もまたコロコロ変わる不確かなものだから絶対的なものじゃないという、とても複雑な考え方をする思想。
このスペースだけじゃ、到底説明できやしないので以下省略。

さっきの小説の一説には続きがある。

「思い込むのみならず、差違を認めない者、差違を生じること怖れている者が殆どである」

友人は、その恋は勘違いであると、私以外から既に何度も指摘されている。
けれど彼女は他者との違いを歯牙にもかけず、恋に落ち続けている。
私には、他者との違いを認め、それでもその違いを恐れず、マイペースに歩く彼女の世界は、とても眩しく魅力的に見えるのだ。

彼女に、色気がある人を芸能人でいうなら誰かと尋ねると、
「テリー伊藤」
彼女はそう断言した。

やっぱり、彼女の見る世界は面白い。

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         <pubDate>Fri, 13 Jul 2007 01:00:31 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>肝の座ったレンアイ</title>
         <description><![CDATA[こんにちは～るるです！
久しぶりに恋愛論を書いてみました。

今回は、「肝に据えたいこと」がテーマです。
既婚者目線になってますが、そこはひとつそれぞれの立場で読み替えてくださいね～
（どうも、今更恋を語るのはイケナイ気がして・・・苦笑）


私の母は、父が出かけるとき、玄関先まで見送っています。
多分、今でもそうしていると思います。
帰ってきたときも、車の音がすると玄関まで出迎えています。

当たり前、と思われるか。さすが九州女、と思われるか。

私にとっては当たり前のことでした。
というより、その意味を考えたこともありませんでした。


でも、私が結婚して、母の行為がけっこう大変だってことに気がつきました。

夫が先に出勤する時、そして私が台所に居て彼が帰ってきた時。
自分がやっていることの手を止めて玄関まで行かなければならないのです。
自分の化粧の最中だろうが、洗い物の最中だろうが。
出勤の時間を見計らうと、トイレにも行けない。
ケンカのあとなら、顔も見たくないってこともあるわけです。

こりゃけっこう大変だと思いました。
行ってらっしゃいを言うくらいなら、狭い家ですからできます。
おかえり、も一言言うだけですから簡単です。

もういいや、声をかけるだけで。
だんだんそうなっていった頃、の話です。


友人と話していたとき、その人が自分の彼女のことをこういったんです。
<strong>「自分は、彼女のことを考えると、明日自分が死んでしまって逢えなくなるんじゃないかとか、
彼女に何かあって逢えなくなるんじゃないかと考えて、いてもたってもいられなくなる。
そう思ったら、どんなことでもしてあげようと思うし、ケンカなんかしている暇はない。
だって、このいのちは不確かで、保障なんてどこにもないんだから」</strong>

「ラブラブな証拠・・・ごちそうさま」とからかうことも出来ました。
だけど、彼が本当に真剣にそういうから、・・・確かに！と納得したのです。

行ってらっしゃい、と言って送り出した日、彼が帰ってこなかったら？
私が帰れなかったら？
きっと、最後の会話は何だっただろうか、と思い出すでしょう。
その時、笑顔で行ってらっしゃい、行ってきますと言ってたなと思えたなら、
最後の会話は声だけだったとか、何だったか覚えていないとか、
大ケンカしたあとで、罵声をあびせたあとだった・・・とか、
そういう種類の“後悔”はしないんじゃないかな、と思うわけです。


人の気持ちは変わるもの。
どんなに好きで愛していると思っていても、いずれその気持ちは変わります。
なくなるのか、深くなるのか、質が変わるのか、そのへんはイロイロですがね。

<strong>でも、「いつかこのひととの別れが来る」ということは、変わりのない真実です。</strong>
でも、恋愛中はなかなかそういうことは思えません。
付き合っている人に「いずれ別れは来るものだ」と言ってしまって機嫌を損ねたこと、実はあります。苦笑。
恋は盲目、とは相手の欠点が見えなくなってしまう、と言うことだけじゃなくて、
こういう類の真実が見えなくなることなんだろうなと思うのです。


けど、その真実を肝に据えているとね、不毛なケンカなんかしなくなりますよ、きっと。
大事なことは何か、という気持ちになります。
瑣末なことで腹を立てているのが、もったいないって思います。
行ってらっしゃい、と笑顔で言えることがどれほど幸せでありがたいことか、と感謝したくもなります。

なので、私もどんなに手がふさがっていてもトイレに行きたくても、
玄関先まで行って、行ってらっしゃいと言うようになりました。
お帰り、は最近私のほうが帰りが遅いので、なかなかできませんが・・・

私の父と母が、どんな風に思ってそういう習慣を続けているのかは聞いたことありません。
そして、夫も私の真意は知らないかも。笑。


想像してみることは、少し大事なことかもしれません。


<strong><span style="color:#ff0000">今、大切に思っている人が明日いなくなるかもしれない。
そして、自分自身が明日いなくなるかもしれない。

では、今日、今、やらなければならないことは何か。
今日とも明日ともしれないいのちということを目の当たりにした私たちが、
考えなければならない問題は何なのか。
今日たった今のいのちをどう生きるのか。</span></strong>

仏教の考え方は<strong>「諸行無常」（＝変わらないものはない）</strong>です。
それを<strong>諦観（＝あきらかに見る）</strong>することによって、大事なことが見えてくるのではないかな、と思うわけです。

]]></description>
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         <pubDate>Tue, 13 Mar 2007 09:51:56 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>偏っている鏡</title>
         <description>昨年末、10年来の友人が結婚した。

その半年ほど前、友人から結婚の報告を受けたとき、少なからず衝撃が走った。
どれくらいの衝撃かというと、思わず携帯を切って、胸に手を当てて、ショックで心臓が止まっていないか確認するほど。
彼女の友人の誰にとっても、同じくらいの殺人的な破壊力を持つ報告だった。

こういった反応で、彼女という存在の凄まじさを想像していただけたら有り難い。

そんな嵐が起きる前に、いまだ結婚の予定のない共通の友人たちと集まって、自分達に足りないものを考えあっていた。

足りないものは、この人でなけきゃダメという愛。
足りているものは、自分への愛。

前にも書いたが、仏教の愛は、いくらそそいでも満たされず、もっとと求める欲望。
煩悩であり、とらわれる執着でもあるから、原始仏教では歓迎されるものではない。
そして、自分に対する愛もまた、自分にとらわれた「我執」という。

執着とは「とらわれる」ことだけど、きっと「偏る」ことでもあると思う。
偏ると、真っ直ぐにものごとを見ることができない。
見えるものが見えなくなったり、ないものをあるように見てしまったり。

だから本当は執着は手放してしまえればいい。
けれど、その執着が自分の有り様を見せてくれるのも事実。
自分中心の価値観に執われていた自分に気づいて、「これじゃダメだ」と思い直しても、またすぐ自分のエゴでコロコロ変わる曖昧な判断に執われしまっている、どうしようもない自分に気づく。

手放そうとしても、手放せない。
その手放せない執着こそ、ありのままの自分を映す鏡。

けど、相手への愛も自分への愛も、強すぎると、思い通りにならないことを許せなくなって、結局、苦を生むということを忘れてはならない。
ならばどちらにも偏らない道を邁進しようと、未婚の同志を慰め合っていた。


冒頭に戻るが、脈拍が落ち着くのを待って、とりあえず「おめでとう」と言うため、友人に電話を掛け直す。
「幸せになれよ」
動揺を隠して、そう言うと、
「ああ、無理無理。
 出会って２ヶ月なのに、親達に外堀埋められちゃって、強制的に結婚だから。
 けど、生活に困ることはなさそうだからいいや」

…同志よ、自分たちに足りないものが見つかった。
「愛」じゃなくて「妥協」と「打算」だ。
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         <pubDate>Thu, 08 Mar 2007 01:05:27 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>恋愛至上主義～クリスマスに坊主は思う～</title>
         <description>サクラさんの提案に答え、恋愛の良さについて肩を張って語りたいと思います。
恋愛至上主義という一つの立場に立って。（註：実際には恋愛至上主義者ではないです。）

結局のところ、恋愛とは、突き詰めて言えば「出逢い」だと思うのだ。
世界中に何十億という人がいて、二人が出逢ったことが恋愛である。

だから、そこには様々なご縁がある。一歩間違えば、一生逢えていない可能性だってあるのだ。

あの日あの時、あの場所で、すれ違わなければ、友だちに紹介されなければ、あの場所に行かなければ、あの別れがなければ、二人は恋に落ちなかっただろう。昔の歌詞みたいだけれど本当のことだ。

恋愛は出逢い。出逢いは一瞬だけれど、それは永遠を孕んでいる。そこに僕は仏教を感じる。
小乗仏教では時間は川の流れのようなものと説く。過去から現在に。現在から未来にさらさらと川の様に流れていく。過去は過ぎ去りもうない。未来はいまだ来たらずまだない。

しかし、大乗仏教で言う時間は違う。
○現在が過去を意味づけ、また未来を意味づける。また、未来が現在を意味づけ、過去が現在を意味づける。

つまり現在、好きな人に出逢えて良かったという思いがあるということは、過去に意味があるということになる。
どんなに辛く消し去りたい過去があっても、その過去が無駄にならず、むしろ現在に至る大切な思い出となる。
充実した現在があるから、未来を意味づけていく。また未来に目標、達されることが決まったのなら、今現在なすべきことが見えてくる。

大乗仏教で言う「時間」とは現在、それこそ「今」の出逢いに集約される時間の見方なのだ。

とすると、今好きな人との出逢いは、過去と未来に集約された今であり、
今好きな人との手と手の出逢い、唇と唇の出逢いは、人生の時間に垂直に立つ。

そこには過去も未来も含まれている。一瞬は永遠を孕んでいるのだ。

たとえ、いずれ不幸な別れ方をする恋愛でも、いずれ二人が一緒に生活しだして、お互いに退屈したり、億劫に感じたりするに堕する出逢いでも良いじゃないか。
その一瞬は何にも変えることが出来ない一瞬なのだ。
その一瞬のために生きてきたともいえる一瞬だ。

その様な一瞬を手にすることは難しいのかもしれない。しかし恋愛にはそれを生み出す不思議な力があるようにも思う。

だがしかし、ここで残念なお知らせがある。
人間同士の出逢いっていうものは、確かじゃない。それはお釈迦様が見出した真実。それはとても悲しいことだけれど。
別れるのに出会って嬉しいっていうのは、所詮気休め、誤魔化しでしかないのだ。
さっき言っていたこととは全く反対で恐縮だけれど。
別れや堕落を孕んだ出逢いって本当のであいだろうか？
それは実はエゴとエゴの出遭う一瞬でもある。
愛の反対は憎しみ、というより、愛と憎しみは表裏一体。憎しみの全くない愛は残念ながら僕たち人間の上には存在しない。

本当の出遇いっていうは、私と仏との間にしか存在しないのだろう。
ここに浄土真宗でいう「信の一念」という今の考え方があるのだが、それはまた別の話だ。

えーと。
すみません！恋愛至上主義の立場は残念ながらやっぱり無理でした。
皆さんのご意見頂戴したいです。

☆　☆　☆
クリスマスにメリシャカ！チスイです。
最近寮生活で仏教を勉強してきて、寮を出たら、妙にクリスマスイルミネーションが目に染みました。
ミニスカサンタに目を奪われます、目の保養しました。
凡夫です。
メリシャカ！
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         <link>http://www.merry-shaka.com/ai/2006/12/post_9.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">恋愛坊主</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 25 Dec 2006 22:20:43 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>LOVE ME</title>
         <description>ども、ご無沙汰です。
ちょっと忙しくて、愛だの恋だの考える余裕がないくらい涸れてたんだけど、なんとなく見た落書きで目が覚めた。

LOVE　ME

たまたま入ったファーストフードのテーブルに、ちっちゃく書かれてた。
「私を愛して」なんてイイ歳こいた女が言うとナマナマしいけど。
書いた人には、もしかしたら切実な思いがあったのかもしれないし…私の切実な思いとも重なるわけで。

恋と愛の違いは何かって聞かれたら。
「恋」は見返りを求めないもので。
「愛」は見返りを求めるものっていうのが私の自論。

そもそも仏教で考えられてた「愛」っていうのは、人間の根源的な欲望のこと。
喉の渇いた人が、もっともっとと激しく水を求めるような衝動的な欲望。
満たされるまで求め、けどいくらそそがれても満たされない欲望。
それが愛。

例えば好きな人には好かれたい。
けど、その人に好きと言われても安心はできない。
その好きを、ずっと続けてもらいたいから。
ずっと愛されてる実感が欲しいから、そう言ってもらいたいし、態度で示して欲しい。
見返りを求めるように、愛した分だけ愛して欲しいし、それこそ死ぬまで愛して欲しいわけだ。

だけど、これが逆の立場だったら結構ウザイ…かもしれない。
人の気持ちは変わるもの。
同じことをずーっと考え続けることができないように。
同じ思いを変わらず抱き続けることはできない。
もし、ずっと好きだと思っていても、その好きがいつも同じ好きではないはず。

すべては、縁にふれ、一瞬一瞬で生じては滅して変化を繰り返す。
同じままではいられない。
だから、ちょっとしたキッカケで、好きな人を嫌いになることもある。
ずっと同じじゃいられない、移ろいゆくのが現実、これが常ならぬ無常。

とまぁ、愛し愛されるのは大変なことだ。

自分の欲望を相手に向けるということは、相手の気持ちを思い通りにしたいっていうことでもあるわけで。
人の気持ちなんて、相手のどころか、自分のさえも思い通りにできない、だから苦しいし。
愛が満たされ続けるかどうかもわからないから、やっぱり苦しい。
それに、ずっと同じ気持ちでいられないことも、やっぱり悲しいし苦しい。

そういうことが分かってんのに、それでも苦しむことを選んで、「私を愛して」って叫び続けてる私は…。
結局、夢見る乙女（失笑）…じゃなくって、道理を見失った煩悩のカタマリだってことなんだろう。


…なんか、こういう結論に辿り着く時点で、やっぱ涸れてんだね、私…。
誰か、恋愛の素晴らしさを私に説いてくれ。
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         <link>http://www.merry-shaka.com/ai/2006/12/love_me.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">恋愛坊主</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 18 Dec 2006 00:15:06 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>愛を得られずに憎んでしまう苦しみ…って長っ！</title>
         <description>10年間付き合っていた男性に、突然別れを告げられ、

「別れるくらいなら死んでやるっ」

そう叫んで、女は台所から包丁を持ち出した。
けど、その切っ先は「死んでやる」と言いつつも、自分じゃなくて男のほうを向いていた…っていう知り合いの話がある。（←私ではない）

愛する人との別れは苦しいもの。
仏教は生きるうえでの苦しみと向き合うことを大切にしているから、いろんな苦しみを挙げていて、この愛する人との別れも「愛別離苦（あいべつりく）」って言葉で表現してる。
それは包丁を握ってしまうほど愛した人と別れるのは苦しいし。
愛する我が子と離れなければならないこともツライだろう。
それから、愛する人とどんなに長く添い遂げようと、いつか必ず別れはくる…死という別れが。

けど、愛を得られない苦しみっていうのもある。
包丁を握って脅しても、失った愛は得られない。
好きになった人に、好きになってもらえるとは限らない。
親の愛を得られない子供もいる。
どんなに努力しても、どんなに欲しいと願っても、手に入らない苦しみがある。
それを「求不得苦（ぐふどっく）」という。

そして、愛は憎しみに変わることもある。
彼女は思いとどまったけど、結婚すると思って１０年を過ごしていたのに、いきなり別れようなんて言われたら…。
結婚したいと思うほど愛する人でも、その感情は一瞬で憎しみに変わることもあるはず。
そういう人には会いたくない…けど会ってしまう苦しみ、それを「怨憎会苦（おんぞうえく）」という。

あと１つは「五蘊盛苦（ごうんじょうく）」。
彼女だって、包丁を握りたくて握ったわけじゃない。
なのに、気がついたら包丁を彼に向けていた。
人間の心身は５つの構成要素でできていて、それらが思い通りにならないことをいう。

これら４つの苦しみは、生・老・病・死っていう苦しみに加えると８つになるから、「四苦八苦」と言われる、人間の根本的な苦しみを表してる。

苦しみっていうのは「思い通りにならない」ってこと。
人を愛するっていうことは、思い通りにならないことだらけだ。
思い通りにできてたら、きっと私はとっくに結婚していただろうしね。
けど、私が今苦しんでいることは、紀元前のすんごく昔の人たちも、同じように同じようなことで悩み苦しんでいたわけだ。
そう考えると、その昔の人たちに起こったことも、遠くの国の見たことのない人たち起こっていることも、無関係な他人事だとは思えなくなってくるから不思議。

うーん、何が言いたいのかっていうと…。
別れ話をするときは、台所の近くはやめましょう。
それから、包丁は用法を守り正しく扱いましょう…？

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         <link>http://www.merry-shaka.com/ai/2006/12/post_10.html</link>
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         <pubDate>Fri, 01 Dec 2006 09:27:35 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>僕は君以上に</title>
         <description><![CDATA[惚れた腫れたがありまして、恋愛において必ず起こるってくるのは相手への「不満」でしょうね。

「自分はこんなに我慢しているんだ」とか、
「今まで言わなかったけれど、実はあの時酷いこと言ったんだよ」とか、言う会話。

心当たりがある人っていませんか。僕はあります（笑）正直。
それで、後で思うんですよね。

「あー、言わなきゃ良かった」って。

人と人が付き合うに当たって、我慢ってものはどうしても不可避で。
それは社会生活において全部そうなのですが、特に恋愛する相手には、
自分を分かって受け入れて欲しいと思うじゃないですか。
そして、そうならなかった時に、ストレスが溜まってくる。

言わなきゃ良かったって言う言葉を、何度も言ってしまい、後で後悔することになる。
僕が好きなバンド銀杏ＢＯＹＺの歌で、『東京』という歌詞にはこうあります。

<span style="color:#000099">人を愛するということはきっと
君が君以上に僕を愛してくれたこと
僕は僕以上に君を愛せていたのかな
僕はそんな君以上に君を愛せていたのかな
</span>

恋愛の良さっていうのは、一つには自分よりも大切な人に遇うということではないだろうか。
そして、自分よりも相手に元気になってもらいたい、幸せになってもらいたいっていうのが、
恋愛というか、愛の素敵な所だろう。

しかし、そこは人間、いろいろあるのでしょう。駆け引きっていうのもあるじゃないですか（笑）
自分のことは全然考えずに、相手に無償の愛を捧げるっていうのは、無理だし、危険な気もします。
周りが見えなくなりますし、我慢している自分に酔うっていうのも、なんだか難しい。

それでも時に思うのです。

「自分が相手に我慢している、
しかし、それと同じかそれ以上に、
相手も自分にがまんしていることがあるのではないか？」

「自分は相手を大切にしている、
もしかして、それと同じかそれ以上に
相手も自分のことを大切にしてくれているのではないか？」

そんなことを思える瞬間があれば、なんだか見方が変わってくるような気がします。
喧嘩は二人の絆を深くするってこともありますしね。

銀杏ＢＯＹＺの峯田は、その歌詞の後にこう唄う。

<span style="color:#000099">僕が歌うことは全部
君が僕に教えてくれたものさ
ふたりを通り過ぎたなんでもない毎日が
僕にとってはそれこそが歌になるのさ</span>

僕は恥ずかしながら、ここの部分でいつも泣けます。]]></description>
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         <pubDate>Tue, 28 Nov 2006 00:09:16 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>仏教恋愛対談no.1</title>
         <description><![CDATA[
某月某日、京都某所にて、仏教恋愛論の対談が行われました。

メリシャカリニューアル記念、るるＶＳちすいがセキララに、本音で討論はじめます！

<span style="color:#0000ff">ちすい</span>　どんな人が好きですか？

<span style="color:#ff0000">るる</span>　なんですか？その質問（笑）

<span style="color:#0000ff">ちすい</span>　いきなりなんだけど（笑）

<span style="color:#ff0000">るる</span>　ずっと今まで聞かれること何度もあるんだけど。

ミクシィとかで。時代によって変わってきて、答え方が変わってきたなって思って。

大学に入ったときにそうこと聞かれたら、なんて言ってたかな。

高校の時とかよく言うやん。「優しい人がいい」とか。それだけじゃないっていうか。</span>

]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">仏教恋愛対談</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 12 Nov 2006 20:12:52 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>移ろいゆく世界の中で</title>
         <description>ども。　自己紹介を真面目キャラで頑張ったら、体調を心配されたsakullaです。
はい、もう開き直りました！！　地でいきますよぉ！

えっと、先日お寺に嫁いだ友人の結婚式に行ってきました。
だから結婚式のスタイルも、仏前結婚。
あんまり見た人がいないかもしれないけど、最近じゃつんく♂氏が京都の西本願寺で挙式したから、すこぉし認知されてるかもしれないかな。

それでも、神様の前で永遠の愛を誓うのが、まだまだ一般的な結婚式のスタイル。
けれど、その永遠の愛には限りがあるようで。

「死が２人を別つまで…」

愛は死に敵わないものなのか？
ちょっとイジワルな考え方をしちゃうけど、正直、神様の前で誓う愛がイマイチ分かっていないことに気がづいた。

健やかなるときも、病めるときも、相手を愛し、敬い、慈しみ、助けることを誓う。

誓いの言葉にある、それが愛のすべてなのかも分かんないけど。
もっと分かっていないのが、自分が何に愛を誓っているかということなんじゃないかな。
そういう一番分かってなきゃいけないことへの関心がないことが、本当に恐いと思ったわけですよ。

友人は、結婚するお相手のお寺で挙式をしました。
正直、お寺の本堂って、結婚式のために作られたチャペルみたいに明るいわけじゃないし、法事のイメージとかもあるから、あんまり魅力的だなんて思わないかもしれないし、気が進まないかもしれないけど。
でも、「荘厳」って言葉がぴったりくる場所。
だってお寺の本堂って、ご本尊さまと向き合って、自分の生死という人生そのものと向き合うところだから。

この仏前結婚で、一番重んじるのはご縁ということ。
「縁」とは「つながり」ということ。

これだけ多くの人々がいる中で、たった一人の人と出遇えたという縁。
そして、そのたった一人の人と出遇えた自分がいるという縁。

ここ数年、毎年夏に再放送されてる『さとうきび畑の唄』ってドラマで、小学校の先生役をしていた仲間由紀恵さんが、家系を自分から１０代遡ると１０２４人もいると子供達に話してたのを聞きました。
だから、命は大事なんだと、生きてくれと言っていた…。

自分がいるということは、最低でも１０２４人もの縁があり、更に遡れば限りはない。
縦のつながりだけじゃなくって、そこから更に横へといろんなご縁が広がっていて。
それにご縁って、血がつながってるなんてだけじゃないし、人間だけにあるってもんでもない。
その縁はたまたま知り合った人とも、既につながっているかもしれないし。
結婚を決意した相手とも、知らないところでつながっていたのかもしれないし。

こうした縁を改めて結ぶということが結婚式を挙げるということ。

すべてのものが、形を止めておくことができないように。
人の気持ちも移ろいゆくもので、永遠に変わらないことなどないけれど。
だからこそ、いつもいつまでも、変わることのない仏さまの前で、自分たちのこれからを誓う意味があるのだろう。

苦の世界を一緒に生きて、どちらかが先に死を迎えたら、残された者を導いて。
残された者は、相手の残した縁をたどる。
そうして一緒に仏になりましょう！っていう、死が２人を別つことのない愛もある。

ここらへんはるるさんや、チスイさんや、ケンユウさんも書かれていることだけど、やっぱりここを強調したいのです。

仏になるということは、個からは離れること。
それは私という個に執われないってことで、個なんかじゃ納まりきれない大きな心持ちになるってこと。

生きているとき、大切な人へ向けていた気持ち。
「愛してる」
「あなたが大事」
「幸せになってね」
「どうか笑っていて」
「悲しいときにも側にいるから」
そういう誰かを愛する心を、特定の人だけじゃなくって、生きとし生けるもの全てに向けるということ。
一人一人、一つ一つに向けるってこと。
そして今も、その大きな愛が私に向けられているってこと。

究極の愛の形だと思わない？


お寺に嫁いだ友人とは、腐れ縁というか、腐って欲しいと思うほどの縁でつながっている人。
だからこそ、願わずにはいられない。

移ろいゆく世界の中で、移ろいゆくことを共に楽しめる関係を、２人で築いていってほしい。


あ～あ、どうでもいいけど結婚したいねぇ。

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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">恋愛坊主</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 11 Nov 2006 01:23:46 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>永遠の愛</title>
         <description>皆さんこんにちは。
シャカ斬りでおなじみの、なんでもかんでも一言物申してみたいケンユウです。
今日はちょっと趣向を変えて、恋愛について語ってみるとしましょう。
と、言っても、私も決して人様に恋愛論を振りかざせるほど恋愛経験豊富なほうではありません。
それでもまあいい恋もしてまいりましたので、ちょっと恋愛について語らしてもらいましょう。

んで、
今日のお話のテーマは「永遠」です。
皆さん、この言葉、お好きではないでしょうか。
永遠の愛はもちろんの事、永遠の命、と言うものに誰もが一度は憧れた事があるはずです。

ところが実際自分の姿を考えてみた時に、まずこの肉体が永遠に続く、ということはありません。
人は必ず年をとり、体は衰え、いつかこの肉体は動かなくなっていってしまいます。それが「死」というものであります。
自分の命と言うものを、肉体の存続というところで考えると、私達の命には永遠、ということは無い、ということになります。

では「愛」の永遠についてはどうでしょうか。
結婚式などで、よく二人の永遠に変わらぬ愛を誓う、ということをします。
二人の男女がお互いに愛し合い、敬い、尊重しあい、共に生きていく、ということが、ずっと永遠に続くと言うことは、とても素晴らしい事であります。
でもそれは本当に可能なのでしょうか？
なんだかものすごく夢のないというか、無粋な話をしているような気がしますが、ちゃんとついてきてくださいね。

まず、私達は、いくら愛し合っていたとしても、必ず別れていかねばなりません。それは、先ほど申しました肉体の「死」というものがあるからです。
しかし、二人のうち片方が死んだとしても、残された人が、その人を思う気持ちは続いていきます。
それでもやはり、その人が死を迎えれば、その気持ちもまた途絶えてしまう事になります。

そして、私達人の心というものは大変に移ろいやすいものであります。
好きだ、と思う相手であっても、時には腹が立つこと、憎む事、あるのじゃないかな、と思います。それは、愛するからこそ起こって来る気持ちなのかもしれませんが、そういう言わば尊重や愛する気持ちとは対極にある感情が続けば、愛する気持ちも薄らいでいってしまうでしょう。
そうすると、死に別れなくとも、自然と二人の距離は離れ、誓ったはずの愛する気持ちも薄らぎ、別れを迎えることもあるのじゃないかな、と思います。
そう思うと、相手を愛する気持ちを全く変わることなく永遠に、というのは、肉体的にも、心情としても、難しい事ではないのかな、と思うわけです。
まあ、そういう難しい事、なかなか実現できない事だからこそ、私達は永遠、不変、というものに憧れるのかもしれません。
もちろん、結婚生活や恋愛状態ということだけを考えるのであれば、不変ではなく、時々に変わりながらでも愛する気持ちが持続すれば、問題は無いのかもしれませんけれどね。</description>
         <link>http://www.merry-shaka.com/ai/2006/10/post_5.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">恋愛坊主</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 06 Oct 2006 13:52:47 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>諦めるということⅡ</title>
         <description><![CDATA[皆さんは覚えているでしょうか？仏教恋愛論のログ『諦めるということ』を。
るるちゃんの恋愛論ｖol.２を読み、僕は正直すごく感動してしまいました。そして自分でも色々と考える機縁になりました。今回vol.６は、相聞歌としてのチスイ版『諦めるということ』でお楽しみ下さい。

■

失恋は痛い。
歯痛も頭痛も、こむらがえりも痛いけれど、失恋よりは痛くない。
聞いた所によると、なんと骨折よりも痛いらしいよ。

秋から冬にかけて二人は別れた。男は失恋がこんなにも痛いものだとは思わなかった。
仕事をしていたら思い出が浮かんでなんか涙が出てきた。

自暴自棄になって、お酒を飲んでも、友達と遊んでも空しさはいつまでも続いた。どんなに仲の良い友達にも言えやしない自分の苦しさ、つらさをそれでも誰かに伝えたくて、色々な人に電話したりした。

男は想像した。これ以上は悪くならない。今が一番底だ。多分、これから良い風に事態は転がっていくだろう。多分いつかあきらめがつくんだ。

いつか、二人で歩いた桜並木の道も、夏祭りの花火の風景も、赤とんぼのシルエットが浮かんだ秋の日の夕焼けや、二人っきりの鍋や、、
そういう楽しかった思い出すだけで切なくなる様な光景も、月日が全部解決してくれる。皆忘れていくのだろう。いつか、いつの日かあきらめがつくのだろう。

本当か？

いや、だが、

しかし、

・・・簡単にあきらめられるかい！

って事ですよ（笑）大体どうして二人は別れたんだ。何がいけなかったんだ。自分の何が悪いんだ。もっと良い様に自分が立ち振る舞えたはずだ。「あの時ああしておいたら」とか、「もっと考えて行動していたら」とか。どうして自分だけこんな目に合わないといけないんだ。

月日は何も解決してくれなかった。ますます男を想いに耽らせた。時間は何も解決してくれなかった。
「あきらめ」って、そんな消極的なことではなかったんだ。
考えろ。苦しい思いの根源を考えろ！そこにしか、きっと解決はない。男はそして考えていった。

失恋は苦しい。そして痛い。

そもそも、どうして人はそんな苦しみを覚えるのだろうか？

それは<strong>「自分の思うようにいかない」</strong>からだ。生老病死しかり。

「自分はあの人のことが好きだ。ずっと一緒にいたい」

しかし「あの人は、、もう自分のことが好きではない」むしろ「自分以外の他の誰かのことが好きだ」

そうか、自分は徹底的に振られたんだ。それでも、まだ自分はあの人のことが好きなんだ。

あきらめたいけど、あきらめられない自分が、ここにいることも、悲しいけれど事実なんだ。

<strong>「あきらめるとは、自暴自棄になることではない。
真実を見極める、明らかにするということだ。
それが、諦めるということである」</strong>

そうだ。あきらめるとは、自分の心を勝手に放って置くってことではない。自分を痛めつけても、誰かに愚痴っても解決されることではない。本当のことを見極めるってことなんだ。

あー。真実を知るって、なんて痛いんだろう（苦笑）

それでも、最初の痛みとは、幾分種類が違っていた。

時間が解決してくれることもある。
誰かに自分の寂しさを言うこともある。
寂しさを紛らわそうと酒を飲むこともある。
夢に見てまたせつなさを思い出すこともある。
裏切りや自分のおろかさに絶望することもある。

でも、それが、「失恋」ってことなのだ。

でも、それが、「生きる」ってことなのだ。

<strong>自分の思うようにならないことが苦である。
人生は苦である。</strong>

今から２５００年も前にお釈迦様が「諦められ」たこと。悟られたこと。

２５００年後の自分に伝えようとしたかったこと。

『人生は苦なり』というあたりまえのことだったんだ。

あたりまえだけど、あたりまえすぎて、幸せすぎた自分には見えなかったことだったんだ。

そこで男は一人で小さなくしゃみをした。

あたりまえだけど、季節は巡り、また秋が来たのだ。

■

この話は、私が、大好きなゆうこりんが、よゐこの濱口と付き合っていると知った時に『諦めた』ことです。]]></description>
         <link>http://www.merry-shaka.com/ai/2006/09/post_6.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">恋愛坊主</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 16 Sep 2006 23:59:39 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>もしも、ほかで出遇っていたら・・・？</title>
         <description>お久しぶりです。るるです。
ずいぶん間があいてしましましたが、こんな恋愛論でも待っていてくれるありがたい方々の声援を受けまして、復活いたします。
最後までおつきあいくださいませ。

男の子から、彼女を泣かせてしまった、と相談を受けました。
どうして？と聞くとこういう答えが。

付き合って間もない頃。
デートの時間は、何より最優先で、逢いたくて逢いたくて。
ただ見つめあって、出逢った頃の話を何度も何度も繰り返す。
あの時、あんなことがあったよね、あの時どう思ってたの？
そういえば、あの時どうしてあんな風にしたの？
オレのどこが好き？
私のどこが好き？

なぁんて。他愛もない話をどれだけしても、それは全部が甘いささやき。
周りのことなんて何も見えなくて、ただそばにいるだけで幸せ。
そんな時の出来事だったのです。

彼女は、いつもの甘い言葉の続きでこう口にしました。
「ねぇ、わたし、どこであなたに出逢っても、必ず好きになったと思う」
彼女が期待した言葉は、おそらく「オレもそう思うよ」でしょう。

しかし、彼はお寺に生まれた子でした。
だから、当然のようにこう答えたのでした。
「いや、そもそもこれ以外だったら逢ってないし、恋愛してないと思うよ」

それを聞いた彼女は泣いてしまった、というのです。

私は、その時の彼のあわてふためいた姿を思い浮かべて、気の毒やらおかしいやら。
彼には、彼女がなぜ泣くのかがわからなかったのでしょう。

そう彼は、真実を口にしただけ。
私たちの出遇いには、「もしも」はないのです。
人智を超えた、不可思議としか言いようのない縁に導かれて、ひとつひとつの縁があり、出遇いがあるのです。
だからこそ、この出遇いがどれほど大切で、どれほど輝いているか。
ここで、こうして出遇って、しかも気持ちの通じ合ったふたりだからこそ、尊いのです。
だからこそ、お互いの気持ちを思いあい、助け合い、一緒の時間を過ごすことが幸せなのです。

考えてみてください。
私たちは生まれてこの方、どれだけのひとと出遇ったでしょうか。
数え切れないほどの出遇いがあり、いろんな関係性があり、名前や顔さえ覚えていない人のほうが多いのに、
そんな中で、家族でもない人と友達になり、そして恋をする。

それは、とてもとてもはかりしれないご縁ではないでしょうか。
そこから学ぶべきことは山ほどあるはず。
大切にしなければならないことは山ほどあるはず。
変わらないものはありません。
その人との恋も、必ず終わりがあります。
どういう形であれ、ね。

自分の思い通りにいかないからと言って、泣いている暇も、怒っている暇もないのです。
そんな無駄なことに時間を費やさず、そこから何を学べるかを考えた方がいい。

恋愛状態にあるとき、私たちはお互いが向かい合っている感じがします。
でも、そこから相手だけを見つめて、前に進んでみてください。
そう、それでは「正面衝突」です。
でも、お互いが手をつなぎ、同じ方向を向いていたらどうでしょう。
絶対にぶつかることはありませんよね。

有難いことに、親鸞聖人は誰よりもそのことを実践された方です。
最愛の妻と共に仏道を歩まれ、その姿を後世にお示しくださいました。
互いを菩薩と尊敬しあい、同じ方向を向いて生きられた、まさに理想の夫婦です。

思い通りにならない人生だからこそ、この出遇いを大事にしたいものです。


例の彼は、その後、うまくフォローをしたのか、失敗したのか・・・。
今は、違う女の子と付き合っているみたいですがね。笑。

では、このへんで。るるでした。
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         <link>http://www.merry-shaka.com/ai/2006/08/post_3.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">恋愛坊主</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 07 Aug 2006 20:13:08 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>死ぬまでキミを離さない・・・？</title>
         <description>こんにちは。
世の中はゴールデンウィーク。
お出かけする方も多いことでしょうが、法事を営む方もけっこうおいでのようです。
いい季節ですからね、親戚一同が会して近況報告をしたりされたり、
一杯酌み交わし、季節のお野菜をいただいて、

家族ってなんだろー
親戚ってなんだろー
いのちってなんだろー
わたしってなんだろー

と軽く思索にふけるのも、また素敵な休日ではないでしょうか。
それこそ、実りの休日、ゴールデンウィークでございますね。
とか言いながら、自分はなんら変わりのない時間を過ごしている、るるです。

仏教恋愛論、数々の反響をいただいて大変嬉しく思っております。
ホントにありがとうございます。

さて、ｖｏｌ４は、ちょっとポエムチックにまいりたいと思います。
では、ごゆるりと。

---------------------------------------------------------------

「キミのことが大好きだ。死ぬまでキミを離さない」
「こころから愛してる。死ぬまで一緒にいよう」

情熱的な瞳で、あなたは言った。
あたしは嬉しくて幸せで、ただうなずくだけだった。
あの日から、片思いが恋に変わったの。
そして、恋は愛へと変わっていくのね。

でも、不思議なことがあるの。
手に入った瞬間から、失うことが怖くなる。
ひとりの時間はとても不安。
恋が恋愛になったとたん、我慢も始まる。

あなたを想うととても強くなれたの。
でも今は、同じくらい弱くなってるあたしがいる。


・・・あたしは、欲張りかしら。

「死ぬまでキミを離さない。死ぬまで一緒にいよう」
そんな言葉じゃ足りないの。
だって、あなたが死んでしまったり、あたしが死んでしまったら、
それで終わりってことなの？

いのちはいつか尽きる。
どんなに愛しても、どんなに寄り添っていても、いつか別れは訪れる。
これは、仕方のない真実なの。

「僕はキミを置いては死なないよ」なんて笑っているけど、
ねぇ、あなた。
そんなこと、誰も約束してくれないのよ。

さびしいね。
かなしいね。
・・・でも、それが生きるってことなのかしら。



でも、教えてもらったの。
あたしは、死んでもあなたと一緒にいることができるって。
あたしが先にいってしまったら、あなたを待ってるなんて言わないで、
ずっとそばにいるからね。
天国で安らかに眠ったりしないし、草葉の陰から泣いたりもしない。
あたしは、光となり風となって、ずっとあなたのそばにいる。
あなたのいのちを、一緒に生きる。
あなたの悲しみは、あたしの悲しみ。
あなたの喜びは、あたしの喜び。

こんな愛し方、素敵でしょう？

あなたも同じよ。
先に死んでしまっても、ずっとあたしのそばにいてよね。


わかった？
・・・約束してくれるの？
でもその約束は、あたしとしてもだめなのよ。
あたしや、あなたの力でそうできるわけじゃないから。
ずうっと前から、「心配しなくっていいよ、ちゃんと一緒にいられるよ」
って言ってくれる存在があったのに、
あたしたちはそれに気づかなかったのね。


指切りじゃなくて、手を合わせて。
あたしの名前じゃなくて、その働きの名前を言って。

変わらないものなんてないけれど、あなたと一緒にいられるのなら、
あたしはもう、不安なんて感じなくてもいいのよね。

ずっと一緒に生きていこうね。
苦しいことも悲しいことも、全部一緒に味わっていこうね。
思い通りにならない時も、ふたりの気持ちが遠くなった時も。

お互いのことを見つめるのも大事だけど、そうすると前に行こうとした時に
ぶつかってしまうの。
だから、あたしたちは、同じ方向を見ていよう。
同じ方向へ歩いていこう。


えっ？
今なんて言ったの？
・・・・・・それは、プロポーズ？

もちろん、返事はイエス！

ただし。

結婚式は、あたしたちがいつも一緒にいられるってことを教えてくれた仏さまの前で、しようね。
あなたが生まれてきてくれたこと。あたしが生まれてきたこと。
たくさんのいのちのおかげであたしたちが出遇えたこと。
いっぱい感謝できるような結婚式にしようね。

ありがとう。
あなたに遇えてホントによかった。

大好きなあなたへ。


---------------------------------------------------------------



乙女チックすぎますか？笑。
いやいや、恋愛真っ只中にいるひとは、歯の浮くようなセリフも平気なんです。
それが、恋でございますわね。

浄土真宗の宗祖親鸞聖人は、妻帯をした方です。公然と、という意味です。
恵心尼とおっしゃる奥様と、それはそれは信じあい助け合っておられたようです。
お互いを仏様の化身だ、と敬いあっておられたことが、文献から分かります。

まさに、理想のふたりなのです。

そして、ひと組でも多くのおふたりが、
仏前結婚式の意味合いやよさを知ってくれたらなぁ。


以上、るるでございました。</description>
         <link>http://www.merry-shaka.com/ai/2006/05/post_2.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">恋愛坊主</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 01 May 2006 07:08:30 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>恋という病</title>
         <description>『仏教恋愛論』をご覧の皆さん、こちらでは初めまして！チスイと申します。
ステキで温かいるるさんの文章を読まれて、今後を期待されている方が多いと思います。
いきなりむさくるしいのが出てきてスミマセン、、
るるさんの文章を読んでいると自分もどうしても仏教恋愛論が書きたくなりました！

それ程彼女の恋愛論は読ませました！前回の文章なんて、自分に思う所があり、泣きそうになりましたヨ！（苦笑）

知人・友人から「ちょ･･お前が恋愛語るな！」と突込みが入るであろうチスイではありますが、これからちょくちょく顔を出させていただきます。よろしくお願いします。


vol.３では「恋愛」を仏教ではどのように捉えられているのか考えてみたいと思います。もちろんお経に「恋愛」という字は出てこないのですが。

まず、仏教では僕たち一人残らず皆、煩悩を抱えている存在であると説かれています。
じゃあ煩悩って一体なに？って問われて、おしゃかさまは『三毒の煩悩』というものに大まかに分けられて説明されます。


『三毒の煩悩』とは、以下のものです。

○貪欲【とんよく】（むさぼりの心）

○瞋恚【しんに】（いかりの心）

○愚痴【ぐち】（ねたむ心・おろかさ）

そしてそして、その貪欲（むさぼりの心）の中に、詳しくは５つの欲があります。

●食欲

●財欲

●色欲

●名誉欲

●睡眠欲

３番目に『色欲』が出てきます。これがすなわち、男女の欲のことです。

たとえば町に出たら、可愛い女の子（石原さとみちゃん似）に目が奪われてしまう。
ステキな出逢いがないかと、どんよくに友だちに「えっと、確か前にご飯おごった貸しあったよね！貸しあるよねー。今度友だち紹介してなっ！」と言う。

全部チスイに限りなく近い誰かさんのことなんですけど、つまりそれが仏教で言うところの『色欲』だと思います（笑）

例えば、好きな人ができたとしても、その人が自分を好きになってくれる確証はないんです。
恋をしたら苦しいことが多い。恋煩いって言いますよね！
つまりこれも『煩悩』な訳です。

好きな子と交わした会話に一喜一憂して、夜眠れなかったり。
求めても求めても好きな人となかなか一緒になれず苦しんだり。
（結構それが恋愛の良さだとも言えるけどね）

たとえお互いに好きになれたとしても、その満足はいつまでも続かないかもしれないですよ。
相手を思う余り独占欲が働いて、すれ違ったり、嫉妬したり、重く思ったり、傷つけてしまったり、、
それは仏教で言う『執着』でしょう。

結局お互いの気持ちがすれ違い、どうしようもなくなって、別れてしまったりする。
失恋の痛みは骨折の比じゃないですよね！いつまでもいつまでも胸の深くで疼くものだと思います。

そして仏教の根本思想は「人生は苦」であるということ。
自分の思い通りにはならないのが苦です。
自分の思い通りにならないことを、思い通りにしたいから、そこに苦しみが生まれるんです。
でもそれって恋愛そのものじゃないですかね？

としたら、恋愛は「苦」であり、「欲」であり、「煩悩」、「執着」であると言えます。
仏教ではあまり誉められたもではないのかもしれません。
なぜなら、身を煩わせたり心を煩わせたりして、そのことばっかり悩んで、落ち着いて仏法を聞くことや、仏道修行が出来ないからです。
だから仏教では欲は否定されるもので、そこには性愛や恋愛も含まれるのです。

それでも僕たちは恋をしていく。恋はするのではなく落ちるものともいいますしね。
もしも「恋」が自分を煩わせる病であるならば、しかしそれはこの世で一番美しい病かもしれない。

なーんて青臭いことを言ってしまいましたが、愛する人と共に仏道を歩んでいく道も仏教にはある訳です。

僕たちに一番身近な大問題「恋愛」を、仏教と絡めて見つめると面白いのではないかと思い、僕は仏教恋愛論が書きたいのです。
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         <link>http://www.merry-shaka.com/ai/2006/04/post_4.html</link>
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         <pubDate>Sat, 22 Apr 2006 20:49:27 +0900</pubDate>
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