「もし今自分が死んだら、どの写真が遺影に使われるのだろう…」
今回のテーマが『写真』と聞いて、そんなことを思ったのは、先日一周忌の法要で家族の方が持ってこられた遺影に写っていた、見る者の心に灯火をともすような温かな笑顔の女性を、思い出したからかもしれない。
高校生の子供を残して往生された女性の遺影を選んだのは、ご主人だった。
ご主人は、自分が愛した妻の、内面をも写し出しているような写真を、一生懸命探したそうだ。
そして、その写真を見るたびに、自分が愛されていたことを実感する。
笑顔の妻がカメラ越しに見ていたのは、他ならぬ自分自身だったから。
本堂の内陣に置かれた遺影を見て、「持ってきて良かった」と満足そうに呟いたご主人の姿が、妙に印象的だった。
私は旅行先にカメラを持って行ったことがない。
冠婚葬祭や式典でも同じこと。
それは愛情を傾ける対象がいなかったのが最大の要因なのかもしれないが、撮るとしても、こだわりがないから携帯電話のカメラで充分事足りる。
だから当然、自分がまともに写っている写真を、持ち合わせてはいない。
もし今死んだとしたら、写真がないと慌てる家族の姿が目に浮かぶようだ。
遺影の心配などまだ早いと言い切るには、多くの死を見すぎている。
命の終わりに、早いも遅いもないということは、実感の有無に関わらず、揺るがすことのできない事実だから。
今のうちから遺影と思って写真を撮ったり、探したりすれば、それはそれでデス・エデュケーション(死の準備教育)になるかもしれない。
そう思って、友人から携帯に転送してもらった自分の写真をいくつか見てみると。
どれも納得のいく顔をしていなかった。
けれど遺影は、実際に飾られている場面を、自分で見ることも確認することもできない写真。
納得のいく写真で自分を思い出して欲しいと思うのは、当然のことかもしれないけど。
ふと冷静になって、死を前提にしてなお消えることのない虚栄心というかなんというか、そんな何とも言えない感情が見え隠れしているような気もしてくる。
大切なのは、自分が納得するかではなくて、遺された者の納得で。
自分たちが選んだ写真だからこそ、それを見て語られる思い出もあるのだろうし。
自分の中の愛情に気づくと同時に、相手の自分への愛情に気付くこともあるだろうし。
そうやって、つながってゆく仏縁もあるはずだ。
妻の写真を愛おしそうに見つめながら語るご主人を思い出して、そういう考え方もあるのかもしれないと思ったりした。
だが、私の写真がないからといって、卒業アルバムを持ち出すのだけは勘弁願いたい。
卒業アルバムと文集は、1年で時効を迎える代物だというのが私の自論。
遺影に限らず、その二つだけは何があろうと表に出してはならないと、遺言でも書こうかと少しだけ本気で考えて、あまりの滑稽さに可笑しくなった。
まったく、知らず知らずの執着が多い人生だ。
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