2007年03月11日

「あなたの親友はだれですか…?」 by豪雨

チスイが最近出会い、大変大変お世話になっている岡山のおぼうさん、豪雨さんがメリシャカに寄稿してくれました!

 中学校の時の話、ある年度始め、担任の先生がアンケート用紙を配った。
色んな質問があった… その中で

  
  あなたの親友は誰ですか、三人まで書いてください。
   1、
   2、
   3、


 というような項目。 他の質問には何となく回答したが、ここだけは答えられなかった。

 何でこんな質問をするのだろうか…? と思い、先生に質問すると、緊急時に連絡を取るために親友が分かっていれば、連絡の取りようがあるという。。。

 分かったような分からないような答え、

 困った。焦った。。。  親友って…

 もし、吾輩が親友と思った人が、1~3の項に吾輩の名前を書いてくれなかったとしたならば、それは本当の親友とは言えないではないか。。。

 そう思った時に、ナンとも情けないやら、悔しいやら、こんな質問をする先生をのろいもした。。。

 挙句、誰の名前を書く勇気もなくて、結局 、1、2、3、の項に三本の線を引いてを埋めた…


 そのアンケートのようなものを提出の後、下校。
後味の悪いアンケートだったな~と思いつつ、帰宅のため自転車置き場へ行った。。。   一人の友人が、

  友人「おぅ~おつかれー!」
  吾輩「お疲れさん~」
  友人「豪雨は今日のアンケート、なんて書いた?」
  吾輩「…沢山書くところあったけど、、、ナニ?」
  友人「親友の名前書くところだよ~」

  吾輩「・・・おれ、、、三本、線を引いといたよ~  親友って書いてたし…」
  友人「えぇーッ、なんで、おれの名前書かなかったんだよ!
      おれは、おまえの名前を書いたんだぞ!!!」


 嬉しかった、涙が出るほど、、、というか、ホントに涙が出た。

 はぁ~ 親友ってこういうことだったのか… 
 こっちから、決めてかかることも、思い込むこともいらない、向こうから親友だ!といってくれるもの。。。

 ホントのトモダチなんて… いないさ~
などと嘯いてた自分が恥ずかしくなり、そいつに申し訳なくなってしまって、泣けてきて、その涙を隠すのに必死になっていた。。。


 お釈迦サマは仏説無量寿経をお説きくださった。 その中、「友」 「親友」 という言葉が出ている。

 「もろもろの庶類のために不請の友となる。群生を荷負してこれを重担とす」
 (ボサツは)さまざまな人々のためにすすんで友となり、これらの人々の苦しみを背負い引き受け、導いていく。

 「法を聞きてよく忘れず、見て敬い得て大きに慶ばば、すなはちわが善き親友なり」
  教を聞いてよく心にとどめ、仏を仰いで信じ喜ぶものこそ、わたしのまことの善き友である。

 すること・言うこと・考えること、どれ1つとっても仏さまにほめられるほどのものを持ってはいないこの身、、、
 皮一枚の内側にさまざまな思いを秘めて、その思いを人には知られまいと、戦々恐々としていきていた悲しいこの身、、、

仏サマの教えを聞くと、この身がこのまま、お釈迦サマに「わたしの善き親友だよ」とよびかけられているという。

お釈迦サマに親友といわれるには、申し訳なく、あまりにも恥ずかしい私だけれど、ジーンと暖かいものが、胸の奥の方からあふれてくる気がする。。。

この間、この親友が吾輩の結婚式・披露宴に来てくれたので、
二次会で呑みながらこの話を直接したら、全く覚えてないようだった~  
それが私には尚のこと嬉しかったのである。
                                  メリシャカ!    

2007年03月10日

お友達と人生

はい、お坊さんではない三十児のゲレーロです。

ラカンというフランスの精神分析家は人間は他者との関係によって自分が形成されると考えました。
私がちゃんとラカンの言っていることを理解をしているかどうかは別として、人は一人では生きていけないことには誰も異存はないと思います。
他者とは親、兄弟、親類、恋人、配偶者、子供、先生etc。その他にも人が作り出すモノとしてテレビ、著書、音楽など。その中には友達も間違いなく入ります。
そして家族以外で良くも悪くも最も影響を受けているのが友達ではないかと思うのですが如何でしょうか。年が上だろうが、下だろうが、関係なく。

時々友達をランク付けして、用途でわけている人を見かけます。
あいつは面白いことをしているからいいとか、今は必要ないとか。使える使えないとか。Aという友人と最初に約束していたのに、Bという友人の誘いが面白そうだとAの約束を反故にするとか。
人をツールとしてしか見ていない。平等に接するべきではないでしょうか。

そしていろいろな友人との関係によってどんな自分に熟成されるか?
そう考えると人生楽しいじゃありませんか!

2007年03月07日

トモダチ

ケンショウです。今回のコラムテーマの「友達」について書かせてもらいます。
さてさて、僕の友達を考えてみると今も深くつきあっているのは、やはりその時々の環境が同じだった人が多いですね。
たとえば、中学時代ソフトテニス部(当時は庭球部と言っていた)の同級は今だに地元に帰ると、よく会ってその時のつらかった練習のことなど思い出話をしますし、男女問わずよくうちの寺に顔を出してくれます。
あとなんと言っても大学の友達は、もう一生のツレだなとはよく思います。同じ志をもった全国の若人が共に時を共有することは、高校・中学とはひと味違う付き合いです。

龍谷大学を卒業するときに、仲のよかった同士で記念に輪袈裟(僧侶が首からさげる略式の袈裟)を作りました。内側の片側に、みんなの名前を入れて、その反対側にこんな文章を刻みました。

「一切の梵行の因は善知識なり」

今でも年数回は思い出の京都で飲み会を開いています。
そんな時僕は思います。

善知識と思える友達に出会えたご縁の深さを。

2007年03月02日

不愉快な仲間たち

ども、sakullaです。
今回は友達というテーマなわけですが…うーん、正直キッツイ。
まあ、いろんな人たちと関わる中で、なんとなく思ったのが、友達でも、恋人でも、夫婦でも何でも。

「人は相手に自分に【あるもの】と【ないもの】を求める」

てなことが人間関係には言えるのかな、と個人的には感じているわけで。
この2つのバランスが良ければ良いほど、付き合いも長く深くなるんじゃないかなぁって…さて、どうでしょう?

けどね、これは人間関係を客観的に見た場合を含めて思ってることで、自分に当てはめると、ちょっとイヤ~な気分にもなるのです。
だって、私の女友達は変わってる人ばっかりだからっ!!
こんな友人、フツーいます?

普通の家庭に生まれたのに、10代の頃から寺に嫁にいきたいって願望を抱いた末、叶えてしまった女とか。
披露宴で、『暴れん坊将軍』のテーマ曲を流しちゃう新婦とか。
旦那を日本に残して、タイへ出家しに行って丸坊主になって帰ってきた主婦とか。
合コンの二次会で、目当ての男性にアピールするために『天城越え』を歌っちゃう人とか。
三十路を前に青春18切符で上京し、趣味に散財してから帰る新妻とか。

もう、理解不能の宇宙人のような人たちなんだけど、付き合いも長いから慣れちゃって、最近じゃ突飛な行動にもいちいち驚けなくなってきた。
…ある意味、私も末期症状かもしれない。

自分に【ないもの】づくしの人ばっかり。
自分に【あるもの】を、この人たちの中にもあるって認めたくない。

けど、きっと……あるんだろうなぁ。
一緒にいて楽しいだけじゃないし、「それはどうよ?」と思うことは互いに言える関係。
そういうことはバランスが良くなきゃ言えないし、言えなきゃ長くは続かない。
まあ、【ある】とか【ない】とか、こだわる必要も感じないから長く続くって考え方もあるのかな。

けど、こんなキッツイ友人から見ても、自分の女友達が僧侶になったことも十分変わってるか…。
ということは、私が一番レアキャラかもしれない…それはそれでショックだわ。

2007年02月26日

友達100人できるかな

「ともだち」っていい響きですよね。
何か安心します。

「ともだち」といって、まず思い出す歌は「友達100人出来るかな」
子どもの頃みんなと大きな声で希望一杯で歌ったなぁ。

最近の歌でいえば、やはりケツメイシの「トモダチ」
↓ 
http://musicfinder.yahoo.co.jp/shop/p/53/66701/Y013984
(「トモダチ」の歌詞)

懐かしのトモダチが集まった時の定番曲です。

でも、同じ時間を共有し、一緒の空間をともにするのがトモダチかな。
離ればなれになっても、つながっていることってありますもんね。


今、テレビをみていると「テレビ初公開絶対聞きたい講演会」という番組でヤンキー先生こと、義家弘介先生が

友達とは楽しみことを一緒に過ごす人ではなく、

本当の友達とは、苦しみを分かち合うことができる人。

と言っていた。

本当に苦しい時悲しい時って、「人の絆」って実感しますね。

2007年02月16日

繋がることの不思議

ども、ケンユウです。

えーっと、今回のテーマは「友達」ということで、皆さん書かれてますが、このテーマで回りだして、「友達」ってなんだ?ってことを初めて考えてみたかもしれません。
それくらい、友達と言うのが、当たり前の存在と言うか、周りにいて当然のように思っていたのだと思います。
でも、よくよく考えてみると、大学の時の友達は、主に関西より西にいる人が多いし、お坊さんの友達は、それこそ全国に散らばっていて、今実際に気軽に会ったり、くだらない話や、腹を割って話ができる友達、というのは、結局自分の住んでいるところの友達だけ、なんですよね。
そう思うと、いて当たり前の友達のはずなのに、なかなか会えないでいる、というのは、ちょっと寂しい事です。
でも、普段なかなか会えなくても、会えば話が弾むし、久しぶりに会って懐かしいはずなのに、なぜかそれを感じなかったりと、友達と言うのは、離れていても、どこか繋がる部分のある人たちなのかもしれません。

それと、最近よく思うのが、人と繋がりを持てる、出遇うことの不思議さ、でしょうか。
実はこのメリシャカに集っているメンバーは、当初私は全く知り合いがいなくて、たまたま『彼岸寺』というサイトで駄文を書いているところから、としさんと出遇い、そこから輪が一気に広まったように思います。
それまでは、年齢も住む場所も違って、全く関係、繋がりの無かった人たちですので、出遇うことなどなかったかもしれない人たちのはずなのに、今こうして出遇い、いろんなことを語り、メリシャカという1つの事を共有できているというのは、本当に不思議な事だし、有り難いことだな、と感じます。
まあ、最近は特に、SNSなど、ネット上のコミュニティを介して、出遇うはずも無かった人と繋がりを持ちやすくなった時代、なのかもしれません。
それでも、必ずしもそこで「友達」と呼べる人と出遇うことができるとは限らないわけですから、やはり「友達」と呼べる人と繋がり合えるというのは、当たり前の事などではなくて、ものすごく不思議な事、喜ぶべきことだな、と感じます。
いろんな「友達」との出遇いがあって、今の自分がいるわけでもありますしね。

遠く離れてしまって、なかなか会えない友達もたくさんいますが、いろんな友達に出遇えた、と言う不思議さに感謝しつつ、その繋がりを大切にする意味でも、今年はできるだけ多くの友達に会いに行けたらいいなあ、なんて思ってます。
もちろん、新しい出遇いもね。
その時は皆様、よろしく、です。

2007年02月13日

トモダチプライス

キッスィです。皆さまいかがお過ごしでしょうか?

先日ちょいとインド・タイに行ってきました。二つの国に行ったのですが、それぞれ旅のスタイルは全く違うものでした。
インドはお坊さんたち20人ほどのツアー、タイは一人で個人旅行です。
一回の旅行でなぜこうなるのか。

タイ国際航空を使って関空→バンコク→インド(観光)インド→バンコク→関空の行程だったんですが、帰りにバンコクでみんなとは別れて一人で旅をさらにしてました。

旅先でよく聞くフレーズがあります。
「アナタトワタシ、トモダチ。トモダチプライス。イマダケトモダチプライス。」

そう、土産物屋です。しかも割とカジュアルな青空店舗でよく聞きます。

それにしてもよく海外に行くと話しかけられるんです。
タージマハルでカメラ持ったインド人が近寄ってきて、日本人なんて珍しいだろうから一緒に写って欲しいのか!?と思い上がってたら、カメラ渡されるし・・・。しかもこの建物入れろとか注文多いし!
デリーの博物館でも、同じツアーのメンバーと数人で見物していても外国人に話しかけられる、っていうよりカメラ渡されるのはなぜか僕なんです。まぁ選ばれたんやからヨシとしましょ、と思うようにしています。

初めて会った外国人ともトモダチ、10年以上付き合いのある人とも友達、
ぜんぜん会ったことないけどともだち、知り合いの知り合いで知っている友だち。
いろんなトモダチの形態あります。

トモダチって、点と点の関係ではないのかなーっと思うんです。
この世の中でこんなに多くの人がいる中で、知り合ってともだちになるチャンスはなかなかない筈です。
僕がインドに行かなかったらトモダチプライスを提示してくれた方とも会わなかったかもしれない。
しかもその方がその日にお店を出していても他の対応をしていたら僕とは話をしなかったかもしれない。
僕も話しかけられて立ち止まらなかったらトモダチプライスも出てこない。そしてお互いがトモダチと思えるような会話が不可欠。
いろいろな条件がピタッと重なった時でないと成立しないことだと思うんです。
X軸を場所・Y軸を時間という座標軸にしてみると、自分のXとY・インド人のXとYの値がお互い一致した時。それは後にも先にも今しかない。もっと言うと、そこにZ軸の気持ちの通じ合いの度合いも一致しないと成立しないかもしれない。
それは偶然の一致とも言うかもしれません。

でも、

それって、偶然だったんでしょうか・・・。自分でインド行きを決定し、青空店舗の近くを通りがかり、
そのトモダチと話してもいいかなと思い、と選択肢がいくつかあったのにそれに決めたからであり、
よくよく考えてみると自分でそこに至るまでのきっかけをちゃんと作っている気がします。
偶然にもいきなり話しかけられた、と思っても偶然の必然かもしれません。

そのすごい確率の必然であえたことに驚くとともにトモダチになれた!?ことに感謝しないといけないですね!

結局、トモダチプライスは交渉決裂してしまいました・・・。ただのしつこい呼び込みだっただけ!?

2007年02月12日

A Little Help From My Friends

自慢する訳じゃないけど、僕は友達というか、知り合いも含めてあまり人脈は無い方だと思う。あまりフレンドリーなほうではないので。恥ずかしがり屋さんで、なかなか思い通りにコミュニケーションができないことが多い。
しかし、その割にはいい出会いに恵まれて、これまで約30年の記憶を遡ってみると、その数少ない友に助けてもらったり助けたり、泣いたり笑ったり、怒ったり怒られたり、いろんな出来事があったが、総括すると良い思い出を沢山残すことができた。
それで何が言いたいかというと、僕のこれまでの人生はまあまあよいものだったなあということです。

2007年02月10日

オトナのともだち  by るる

ともだち。

不思議ですね、ともだちってさ。
人間の成長の過程で、仲間を求め社会性を身につけていく時期があります。
ここで、たいていの人は「お友達のみんなと仲良くしなさい」と教えられる。
でも、やっぱりキライな子や、どうも話が合わない子とかが出てきて、
ほとんどのオトナが教えてくれない感情を経験することになる。
友達とけんかして、ちょっとだけ要領よくふるまえる子はオトナに怒られずに、
ちょっと要領が悪かった子はオトナの目にとまる。
そして、ものすごく理不尽にしかられちゃったりするんだ。

そんな私は意地悪な子なのかしら、って悩んだり。
どうしてあいつは僕をいじめるんだ、って怒ったり。
オトナって勝手だ、と漠然と感じたり。
仲良くしなさいって言われたって、キライなものはキライだし、合わないものは合わない。
それは、子どもでもオトナでも同じ。
仏様でもないかぎり、全ての人を平等に思うことなんて、絶対にできないのだ。

大事なのは、どうしてキライだとか思うのかってこと。
ねたみ、そねみ、やきもち・・・そういう自分の気持ちを見つめることができるか?
そして、それが何に起因しているか、見極めることができるか?

オトナは、「仲良くしなさい」や「いじめてはいけません」ではなく「なぜキライだと思うのか考えなさい」と教えるべきではないのかな?
自分の中の気持ちを見つめる、その手助けをしなければならないのではないかな?
幼い頃から、考える力を養ってほしいなぁ。
お寺には、学校や家庭で教えないことがありますよ。
それを手伝ってくれる、厳しくてやさしいまなざしがありますよ。

数知れない人々がいるこの世界で、自分の人生に関わった「ともだち」という存在。
これって、ものすごい縁だと思う。
単なるクラスメイトだったり、幼馴染だったり、何となく気が合う子だったり、いろいろあるけど、
通過していくだけの縁に囲まれた人生の中で、価値観を共有して笑い合って相談ごととかして、
琴線に触れる何かがあって、いつまでも大事に思っていられる存在。
いったい、何分の何の確率で出遇えたんだろう。

稀有なことだ。
だから、大事なのだ。

何気なく縁が切れてしまった友達もいる。
もう二度と会えないかもしれない。
でもそんなこと、あの時は思わなかったよね。
理不尽なオトナの仲間入りをするようになって、初めて分かる。
「お友達を大事にしなさい」っていう、その意味が。

今、私の周りにいる「ともだち」に、遠くはなれて暮らす「ともだち」に、
出遇わせてくれた縁に、最大限の感謝を。

次、kawashimaさん、よろしくです!

2007年02月08日

気軽に♪

友達ですか~♪
募集中ですw

ではその友達について!

「僕はどうしようもなく情けない性格であります。」
・・・いきなりな発言ですいません。。。

僕~、勉強は死ぬほど嫌いだし、仕事も嫌いだし、口ばっかで行動力ないし、、、
駄目な所は数えれば限がないんです。。。ハァー

そんな中「あんたこのままでいいの?」っと励ましてくれる友がいます。
そうです!それが「友」だと思います。

『漢字源』で調べたら、両手でかばう腕が変じて「友」だそうです。
仲良くかばい合い、助け合う関係です。

「金の切れ目が縁の切れ目」そんな関係じゃないですよね。

辛い時、何気なく傍に居てくれたり、声をかけてくれる方ですよ。
相手の辛い気持ちが分かる、理解したい、助けたいと思ってくださている。
少なくとも僕と向き合ってくれる人であります。無関心じゃ出来ません。

当然、優しい言葉だけの関係じゃありません。時に無茶糞に人格否定まで行くぐらいの激を飛ばされ、その激でヘコタレルこともありしたが、僕自身のことを思ってのことです。

あまり、リアルにはそのことを書きたくありませんが、
友は大事です。宝であります。

勉強会を誘ってくれる同郷のチスイ君にOっ君。彼等のお陰で何とか勉強に向う機会に出会わせていただいてます。
バンドでは、先輩が僕に「ギター弾いてる?」と発破をかけていただくださっています。
普段から、なにかといろんな人から激励されています。で今日があるんですよ!なんとかね!!

・・・僕は細身で頬がコケて唇の色が悪いから、
   「ご飯食べてる?」「マタ痩せたね」「体調悪い?」ってよく言われてました。
長年、僕のキャラは心配キャラだったんでしょうか、定着していたように思います、、、。
言うより言われる方が多い。。。それだけじゃ無いでしょうがw

もちろん僕だって友を励してますよ~!

ん?そんな心配なヤツから心配されたくない?

なに!したいんですよ~!!!

して欲しい人、挙手でお願いしますww


・・・・・・・・・・・・・・・・


やっぱ、輝いた友を見るのは気持ちがいいもんでしょ!当然、自分自身も輝いた人生でありたいですけど。お互いがそう想い合える関係は とてつもなく素晴らしいことだと思います。

僕は良い友に囲まれています。感謝、感謝であります。

唯、その関係に甘んじてダラダラしてると、かばうことさえ出来なくなりますので注意が必要ですが、、、(僕自身のこと)

友よ!励ましあって行きましょう、、、ウワッハハハ。

駄文、失礼しました。

2007年02月07日

マイナー

僕が本当に心から友だちだって思うのは、マイナーな人だ。
あまりメジャーな人とは友だちになれないなぁと思う。
思い起こせば、幼稚園の時、クラスの人気者タイプとは余り仲良くなれず、教室の隅でずっとカーテンに包まって、虫と話しているような人と仲が良かった。

自分がマイナーかどうか分からない人とのために、チェックの方法がある。
以下の項目に当て嵌まっていれば、マイナー度が高いと言えよう。


マイナー度チェック!(あなたはいくつ、当てはまる?)

・飲み会で、ふと気付けば一人になっていることが多い。

・mihimaru GTを、ミニマムGTって間違えてて、車かと思っていた。

・上戸彩を、カミドサイちゃんと呼んでいた。

・皆と一緒に笑えない。(タイミングがよくずれてると言われる)

・越中詩郎が大好きだ。

・窓際がすごく似合う。

・おまけびとを知っている。

・3人で歩いていると、必ず(図で示すと)

○○僕     ↑進行方向
   
ってのが何時の間にか


○○       ↑進行方向   
   僕<・・・・ 

こうなっている。(参照 彼女いないヤツには法則がある


上の設問で3つ以上チェックが付いた方はチスイまで連絡下さい!きっと仲良くなれそうな気がします。

仏教を学ぶにあたって、僕は「マイナー」な心を大切にしようと思っている。
きっと少なからず皆、マイナーじゃないだろうか。

思春期の頃、ずっと人と交われない、明るく振舞えないと悩みもがいていた。
なんで、飲み会の時、いつも一人なんだと思っていた。
しかし、最近ある所での話題で驚いたのは、そこにいた全員が、飲み会の時に「自分だけ一人になることが多い」と思っていたという事実である。
なんだ、皆、一緒じゃん。

人は皆「孤独」な存在であり、「孤独」である寂しさを抱えた存在である。
生まれてこの方、一人であることの寂しさを感じない人なんていないんじゃないか。
そしてそんな「孤独」の寂しさを抱えるがゆえに、人は寄り添い、なんか知らないけれど、妙にうまの合うともだちとなるのではないか。

そう思うと、マイナーも悪くない。

でも、やっぱりおまけびとはもう少しメジャー化していきたい。  

2007年02月03日

友だち

メンバーが同じテーマを順番に書いていくメンバーコラム。
3巡目のテーマは「友だち」です。

「本当の友だちって?」「親友ってなに?」
ということは、誰しも思春期に一度は考えたことがあるでしょう。
歳をおうごとに、そういう問いはあまり考えなくなりますが、あえて今回は友だちについて考えてみようと思います。

前置きとして、ぼくが日常考える友だち観は、
「今話している人が友だち」
この人は親友で、この人は親友じゃない、なんてことを考えていると、正直頭が痛くなります。
だから、今目の前にいる人が友だち。
相手がそう思っていなかったとしても、ぼくの中で友だち。
もちろん、その中で気の合う人や合わない人はいますが、それは自分の容量にも関わることなので、あまり考えないようにしています。


では、まず、
「友」を辞書で調べてみるとこうありました。

(1)親しく交わる人。ともだち。友人。朋友(ほうゆう)。
(2)志を同じくする人。同志。
(3)常に好んで親しんでいる物。
(4)道づれ。なかま。

この4つの中では、(2)の「志を同じくする人」というのが、特に深く関わる人をさすように思います。
例えば、学生時代の部活動。目的を同じくするメンバーとは、より深い関係を持つことになりますね。ひとつの目的に対してどれだけツライ経験をしたかによって、人と人の繋がりはより濃くなっていくのでしょう。逆に言うと、目的が違っていたりツライ経験もなかったら、それほど深い関係にはならないように思います。ぼくの場合も、仏教専門学校の寮生活を共にした人や、劇団のメンバーなどは、その後数年会っていなくても、変わらない絆が結ばれています。どちらもその背景には、きつい生活やつらい練習がありました。「夫婦」というのもそういうものではないかと考えます。ここで重要なのは、好きとか嫌いという個人的都合を、部分的に超えていることだと思います。どんな人でも深く付き合えば、好きなところもあれば嫌いなところもあります。それを含めた上での共同作業が、人と人をより深い関係にするものだと思います。

仏教では、
1、「仏さま」
2、「仏さまの教え」
3、「仏さまの教えを大切にする者の集まり」
を三つの宝と言いました。
「宝」とは文字どおり、人にとって最も大切なものを指しますが、その中で、3の「仏さまの教えを大切にする者の集まり」という、いわば「友だち」を重要視しています。
これは、おシャカさま当時(2500年以上前)から一貫していることで、仏教ではひとりで学びひとりで修行することを良しとせず、必ず師を持ち仲間を持つことを勧めます。逆に言うと、ひとりで修行しひとりで悟ったという人は「怪しい」ということにもなるでしょう。
この考え方にはいろいろな含みがあると思いますが、ぼくもこれには強く共感します。
例えば、ミュージシャンなどでも、ひとりでまったく新しい音楽を作り上げるということは、その人が天才でない限りあり得ないでしょう。既存のものを壊すというパンク精神から生まれた音楽も、既存のものがあったから生まれたものです。ですから、尊敬する人をもたないミュージシャンがいるとしたら、ぼくは首を傾げます。これは音楽に限らず、どのジャンルにおいてもいえることだと思います。


「師(尊敬する人)に出会うこと」と「仲間に出会うこと」が、
この世に生まれた最高のヨロコビだと思う今日この頃。


続くメンバー、お気軽にお願いしまーす。

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