2008年06月17日

なぜお寺へ行くのか?

先日、京都へ行きました折、ある有名なお寺へと、足を運びました。
私の場合、仏像が好きなので、仏像を見に、お寺へ参拝しよう、といつも思うのですが、ちょうどその日は日曜日、観光で有名なお寺、ということもあって、老若男女、たくさんの方がお参りに来られておりました。

賑わっているなあ、うらやましい、と思ったり、もうちょっと静かに参拝したかったな、なんて勝手なことを思っていたのですが、本堂前でお香をあげたり、そのお寺には、牛の石像があって、その牛が口にくわえている石の球を回すと、勝負運が上がる、なんてことがあるらしく、そこにたくさんの人が並んでおられました。
また、本堂の脇には、お坊さんの木造があり、その木造、もし体に悪いところがあるとき、その自分の悪い部分と、木造の同じ場所を撫でると良くなる、というようなこと言われているようで、そこにも何人かの方が並ばれており、その木造もよく撫でられたのか、頭やひざ、腰の部分が、つるつるになるほどでした。

そういう光景を見ていて、ふと、思ったのですが、みんな、何をしにお寺まいりをしているんでしょうか?
本来、仏教というのは、自分の欲望の素となる、自己中心的な思い、「煩悩(ボンノウ)」というものを無くしていきましょう、自分の心を乱す様な行いはやめて、心を正す行いをしましょう、というのが、一番の基本となる教え。ですからお寺も、本来は、その煩悩を抑え、心を正してをしていく場であるはずです。
ところがどっこい、お寺で見た光景は、まるでそれとは正反対。
いろんな願を掛けたり、勝負運が上がりますようにとか、もう煩悩丸出しというか、普段よりも激しく燃やしているんじゃないかと、思うほど。

もちろん、人それぞれ、深刻な悩みを抱えているでしょうから、切実な願い事を、仏さまに対して行うことは、駄目なこと、悪いことだ、と全否定するつもりはありません。ただ、お寺というところは、自分勝手な欲望を叶えるためにお願いをし、煩悩を盛んに燃やし、心を乱していく場所ではありません。
それとは反対で、自らの普段の生き方を振り返り、煩悩にまみれた、自分勝手な生き方・考え方を改め、正していこうとする場であるはずです。
ですから、ただ自分勝手なお願いをするだけではなくて、心静かに、自分自身と向き合い、自らあり方を問い、心を正していくことを、せめてお寺に参拝するときくらいは、して欲しいな、と思うわけです。
ただでさえ、普段は「ジブン」を撒き散らして、人のことは顧みずに、自分の陣地を広げ、囲うことばかりに心を砕き、自ら心を乱す生活をしているのですから、ね。

ま、私も人のこと言えた義理ではないですし、そういう人の欲望・煩悩をわざわざ掻き立てるようなことを、お寺の側がしているというのも問題なのかな、とも思うのですけど。

2008年05月24日

思考の停止

最近自分でも怖いな、とよく考えることがあります。それは、思考の停止、ということ。これは私に限ったことかもしれませんが、特に法話を考えたりする時によく陥りそうになるんです。法話を作る際、いろんな話題を取り入れながら、浄土真宗の教えと結び合わせて法話を形作っていくのですけれども、必ず、阿弥陀仏とか、お念仏とか、浄土、と言うようなことについて話していかねばなりません。これは、浄土真宗の教えの大事なところですから、これらの事柄が抜けてしまうと、法話として成り立たないので、必ず法話の中に盛り込んでいくのですが、どうも、ここのところで思考停止してしまう感じがするんです。
つまり、阿弥陀仏やお念仏についてお話をさせていただく時に、誰にでもわかりやすいようにお話できるのか、というと、そうできていないんですね。ただ、阿弥陀仏とか、念仏とか、浄土という言葉を使う事によって、法話としての体裁を保つ事ばかり気にし、それらの言葉を使う事で安心してしまうといいますか、それ以上のところ、例えば、「阿弥陀仏ってどう言う存在?」とか、「浄土とは、どう言う世界?」というところまで、考えようとしなくなってしまうんです。水戸黄門の印籠のように、阿弥陀仏とか、浄土と言う言葉を使えば、法話が丸く収まる、そう言う風になってしまうんです。
もちろん、阿弥陀という存在や、浄土という世界が、一体どう言うものであるのか、ということは、お経や、それを解釈された書物に書かれてあることからしか判断できませんし、私の考えなど、遠く及ばないものであろうことは、わかっております。
しかし、お経やその解説書に書かれてあることは、抽象的過ぎたり、まるでおとぎ話のような例えであったり、かえってわかりにくく感じる事も多いですし、わからないからと言って、自分で納得のいっていない事を話すことは、怖いと言うか、自分でも話しながら、釈然としないな、と感じます。そういうわけで、わからないなりにも、専門的な言葉に頼って、思考停止してしまうのではなくて、考え続けていかなければならないなと感じます。

と、前置きが長くなりましたが、この「思考停止」ということは、法話を考える時だけではなく、自分自身いろんな局面であります。なんでも知ったような顔しながら、まだまだ知らないことだらけですし、いろんな問題に対して、意識が低いと感じることも多々あります。そんな私が言うのもおこがましいのですが、そういう思考の停止が、私に限ったことではないな、と言うことを、最近感じる事が増えたような気がします。
私は割とテレビをよく見るのですが、テレビを見てると、それを多く感じます。例えば、最近、マナーや常識についてのクイズ番組が多いのですが、確かにマナーや一般常識を持つ事は大事だな、と思うのですが、なぜそのマナーが行なわれるのか、どう言う意図があるのか、そしてそもそも、マナーって一体何のためにあるのか、と言うようなことが、全くそこでは考えられていないんです。つまり、これがマナーだから、やりなさい、とでもいうような。
或いは、そのマナーのいわれが語られている場合でも、マナーの起こりが、なんのことはないこじ付けからだったり、日本の伝統によく見られる言葉遊びや語呂合わせから来ていたりする物が、さも常識のようになっていることに、何の疑問も持たず、これがマナーだとして押し付ける。そしてその情報を我々は、また何の疑問も持たずに受け入れてしまう。それはもう、完全に思考の停止、ですよね。マナーや常識力も大切ですが、本当に大切なのは、相手を不快にさせないように、と言う心遣い、思いやりの気持ちなのですが、そう言う事は置き去りにされて、マナーだから、常識だから、というところで、思考がストップしてしまっているように感じてしまいます。

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2008年03月31日

人を殺すのは誰?

「うーん、やっぱりあの人怪しいなあ、あの人が犯人じゃない?」

「こんな酷い事する奴は、やっぱり死刑にするしかないよね…」

「人殺しておいて、未成年だからって、許されていいんかなあ?」

「あんな酷い事して平気でいられるなんて、うーん、ちょっと理解できない…」

テレビを見ていると、毎日多くの殺人事件の報道がなされています。
上に書いた言葉は、それを見た時の、私の素直なリアクションです。
犯人の見つからない事件があれば、それをサスペンス映画でも見るような感覚で、誰が犯人かを考えたり、
犯人が捕まったら捕まったらで、その人を勝手に断罪し、死刑を望む。
それが仮に未成年であっても、やはり人を殺した事に変わりはないと、同じように、極刑を求める。
自分に理解できない事があれば、他人をたやすく異常者扱いをしてしまう…
それが、偽り無い自分の姿です。


もちろん、人を殺す、ということは、許されるべき行為ではありません。
人一人を殺すという行為は、
一人の命を奪うだけではなく、多くの人を悲しみ・怒り・憎しみという負の感情の渦へと巻き込み、
そして自分の命をも傷つける行為です。
いや、全ての命は繋がって存在すると考えるならば、人一人を殺すことは、全ての命を傷つける行為といってもいいかもしれません。
そう言う行為は、すべきではないし、もしそう言う行為をしてしまった人は、
社会のルールに沿って、それ相応の罰を受けなければならないでしょうし、
遺族からの怒りや、社会的な制裁も受けなければならないでしょう。

しかしどうでしょうか。
私は、その犯罪に直接関係した被害者側でも加害者側の人間でもなく、
法を元に人を裁き、或いは人を護る立場にもいない、単なる第三者です。
その無関係な第三者が、まるでドラマや映画を見るような感覚で、面白おかしく、偏った情報だけで人を犯罪者扱いし、その人の事を何も知らずに批判し、そして勝手に命を終わらせようとする。
犯罪に関係ない第三者だからとは言え、他人事のようにそのような犯罪に向き合うだけでよいのでしょうか。
おいおい、お前自身がそうなのに、自分の事を棚に上げてこういうことを言うのは筋違いでは?と思われる方もおられるでしょう。
それはごもっともなことで、私も自分で書きながら、全く説得力に欠けるし、馬鹿げているな、と思います。
しかし、そのように面白おかしく、他人事のように犯罪に向き合い、人をたやすく非難する私、あるいは、自分のことは棚に挙げて、偉そうな事語る私も、実はいつ加害者の立場になってもおかしくない身であるのです。

『歎異抄』という書物の中で親鸞聖人は、「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」ということをおっしゃっておられます。これは、縁、いろんな条件さえ整えば、我々人間は、どんな行いをしでかしてもおかしくは無い身である、ということをおっしゃっているのです。
また同じ『歎異抄』の中で、我々が人を殺していないのは、ただその条件が整っていないだけで、決して清い心を持っているから殺しをしていないわけではないし、殺すまいと思っていても、人を殺めてしまうこともある、ということもおっしゃっておられます。
つまり、私たちは、人殺しなどしない、人を殺す気持ちなどわからない、と自分自身では思っていますが、今まで人を殺めた事がないのは、心が清いからではなくて、単にその条件が整っていないだけであって、社会的に極限まで追い詰められたり、自分の命の危機に直面したり、味わった事のない絶望に打ちひしがれたり、押さえようの無い怒りや憎しみに心を支配されたりした時には、人を殺してしまうこともあるかもしれません。
また、全く意図せずとも、事故等によって、人を殺めてしまうこともあるでしょう。
殺人事件のニュースを見て、第三者的に、無責任な思いを持ってしまう私ですが、
実は決して第三者などではなく、いつ加害者の側に回るとも限らない存在なのです。

こんな事を言うと、罪を犯すことに対して、開き直っていると思われたり、加害者の行いを肯定しているように思われたりするかもしれませんが、そうではありません。
他の命を傷つける行為は、先ほども書きましたが、決して許されることではないのですが、
人の事を責めるのではなく、まず自分の姿を正しく見つめ、決して自分は常に正しい存在であるわけではない、ということを考えなければならないと言うことです。

とは言え、事件の報道を見て、それを批判するな、と言いたいわけではありません。人それぞれにいろいろ思うこともあるでしょうし、第三者的な、客観的な物の見方が重要になることもあります。
しかし、最近は凶悪犯罪に関して、過度で偏った視点からの報道も見受けられます。そのような報道に流されて、単に他人事として面白半分で事件を見るのではなく、自らもいつそうなるかわからない身であると、自分の姿を正しく見つめなおす事も、大切なのだと思います。
自分を正しく見つめていくことは、他人に対して思いやりの心を持つことにも、繋がることでもありますし、そこから少し、変わっていく事もあるかもしれません。

ま、私も人の事を言うだけでなく、自分がまずそうしていかねばならないのですけど、ね。

2008年03月13日

食品、奥から取りますか?

ちまたで話題の消費期限。
気にする人が増えたと思いますが、賞味・消費期限の長いものから買いますか?

先日、こんな話を聞きました。

そこそこ考えて買い物をするひとは、賞味・消費期限の長いものから買う。
でも、本当に志のある人は、あえて期限の短いものを買って、期限までに使い切る努力をする。

なぜかというと。
日本の食品の廃棄量は、とてつもなく多い。
もったいない。もったいない。
だから。

「この食品は、今私が買わなければ、廃棄されるかもしれない。でも、今私が買えば無駄なごみにならない、もったいなくない」と考えるのだ、と。

スーパーの見切り品コーナーには、今日明日の消費期限となったものがどさっと置いてあって、少し痛みかけてる野菜や果物が並んでます。お魚お肉もしかり。家計節約のためにこれらを買うことはよくありますが、それだけじゃない意味があるんですね。

販売側の工夫もあったらいいな。
お肉お魚お野菜のいわゆる“見切り品”。
それぞれをワゴンにどさっと乗せたり、隅においやったりしないで、【今晩の献立はこの中からどうぞ!】ってひとまとめにして、ecoシール=3割引みたいにしてくれたら、無駄なく買える気がします。

出来ないことないと思うけどね。その分の人件費や経費、廃棄に比べたらエコじゃない?

確かに、健康被害があるかもしれないから、それは注意しないといけない。
でも、自分だけは、自分の家だけは安心安全なものを購入すればいい、ってだけなら、それはエゴというものかもしれません。
買い物かごをもう一度、見てみよう。
エゴの塊ばかり、になってないかな・・・

エゴから、エコへ。
今夜の献立のための買い物だけ、って所から始められる。
視野が広がる、背筋が伸びる、そういう買い物が出来そうです。

2008年02月03日

鬼は外、福は内

今日は節分ですね。皆さんも豆まきをしたり、年の数だけ豆を食べたりしたでしょうか?最近では、関西の風習だった恵方巻きを食べる習慣も、全国的に浸透しつつあるそうですね。

さて、そんな節分。豆まきと言えば、「鬼は外、福は内」ですよね。これがもう決り文句になってますが、今日新聞の社説を読んでますと、こんな江戸時代の川柳が紹介されてました。

「節分は金がほしいの声だらけ」

実に辛辣ですよね。要するに、「鬼は外、福は内」と言っているのは、現実問題としてお金がほしいのが本音じゃないか、と。
しかしこの川柳、当たらずとも遠からず、な気がいたします。
「鬼は外、福は内」
災厄を避け、お金が手に入ったり願いが叶ったり。これは、誰しもが臨む事でありますし、それを願いたくなる気持ちもわからなくは無いですが、確かに聞きようによっては、上のような川柳のように思えなくもなりません。


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香茜 on 食品、奥から取りますか?: 漢方よりみちまわりみ
漢方よりみちまわりみち on 食品、奥から取りますか?: 賞味期限近いものを買
漢方よりみちまわりみち on 人を殺すのは誰?: はじめまして。‘御花
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