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Magic

先日、新聞を読んでましたら、面白い記事が載っておりました。
石川県で、宝くじが当たりやすい人はどんな人なのか、という記事です。
ちょっと、興味が湧くでしょう?
実際にみずほ銀行さんが調べたようで、
石川県で100万円以上の宝くじに当選した人を対象にしたとか。
で、その結果が、
男性はイニシャルが「T・S」の人、女性なら「K・K」の人、だということです。
星座で言えば、男性はおうし座、女性はおひつじ座が多いそうです。
年齢だと、男性は60代、女性は40代の人が多いのだとか。
ちょうど今、ドリームジャンボ売り出したようですので、
これに当てはまる人がいれば、買ってみるのも良いかも、しれません。
まあこれは石川県だけの結果なので、あまり他県の人には関係のなことかもしれませんが。
が、どうでしょうね、これ?
イニシャルだとか、星座というものが、果たして宝くじの当たる当たらないに関係があるんでしょうか?
よく考えてみると、宝くじの当選に、こんなこと、全く関係していないはずです。
たまたま今まで当選した人の中に、そんなイニシャルや星座の人が多かっただけ、というだけで。
まあ年代というのは、その年代の人が多く宝くじを買うから、ということで関係しているのかもしれませんが。
でも、こうして統計を取って、そんな結果を突きつけられると、
まるでそんな条件に当てはまる人が宝くじが当たりやすいとか、
イニシャルや星座といったものが、宝くじの当たる当たらないの条件になるような感覚に陥ってしまいます。
しかもそれが「みずほ銀行」というビッグネームのお墨付きの情報ですしね。

こういう「錯覚」というものは、私達の周りに実に多いような気がします。
CMなんかを見ていてもそうですよね?
例えば「これを使った主婦の90%以上が満足を示しました!」とか、あるじゃないですか。あれも、使った90%以上の人が満足するということは、いい商品に違いない、と思ってしまったり、
多くの人がその商品を使っている、そんな気がしてしまいます。
でも、果たして本当に全ての主婦の90%以上の人が満足するか、といったらそれはまた別物でしょうし、実際多くの人が使っているとも限りません。
どういう人を、何人集めて、どういう質問し、どんな結果になったのか、わからないわけですからね。或いは満足度の基準も定かではないわけですし。
それにもし、その結果が本当で、90%以上の人がその商品を満足して使うようならば、
他の会社の商品は売れていない、使われていない、なんてことにもなります。
が、実際には、同じような商品でも、多くの会社が出しているわけです。

まあ、こういう情報は、ある程度統計学というものに基づいて算出した数字でしょうから、あながちウソ、出鱈目、というわけでもないでしょう。
しかし、真実でもない筈です。
ところが、どうも統計とか、具体的な数字というものを出されると、
私達はそれがまるで真実のように思い込んでしまいがちです。

似たようなものに、平均寿命、ってものもあります。
今の日本の平均寿命は、男性が約78歳、女性が約85歳だと言われています。
これを数字だけで判断してしまうと、まるでそれが事実であり、
自分もその年までは間違いなく生きられる、それまでは大丈夫だ、となんとなーく感じます。しかし、実際はそんなはずはありません。
明日ともしれないのが私の命であります。
にもかかわらず、こういう数字を目にすると、まだ大丈夫と思いますし、
平均寿命にまで届かずに亡くなる方がいれば、
まるでそれが悪い事のように思われてしまう事だってあります。
確かに平均寿命という1つの基準があれば、人生の設計を考える上で便利なんですが、
数字というものが、その他のいろんな判断基準となってしまって、
文字通りの誤解、誤った認識も生じてきてしまう。
数字というものは、便利な反面、真実を曇らせてしまうという、
恐ろしい一面も持っているのです。

仏教は、真実を正しく見つめていこう、という教えです。
それは、物事の因果を正しく見るという事でもあります。
物事の因果を正しく見るということは、起こった物事(=果)には、原因(=因)と種々の条件(=縁)とがあり、その全てを正しく見るということです。
この三つが正しく見つめられないと、そこには苦しみが生じてきます。
例えば、さっきの宝くじで言えば、宝くじの果というのは「当たるかもしれないし、当たらないかもしれない」であり、
縁となるのは「決定する番号」であり、因となるのは「宝くじを買う」ことにあるのです。しかし、もし「宝くじは必ず当たる」と果を間違って見ていれば、当たらなかった場合にそれは、なんでやねん、という苦しみになるでしょうし、
縁は「決定する番号」であるという事を正しく見つめられなければ、他の全く関係のない物、イニシャルや星座、に迷い、それもまた苦しみに繋がります。
そして、因は「宝くじを買う」ことにある、ということを正しく見なければ、「当たる、当たらない」という果は生じませんし、縁を正しく見れないのと同じような迷いが生じてきます。
もう1つ、私達の死について言えば、「私達は必ず死ぬ」というのが果であり、「病気や事故、一般に死因と呼ばれるもの」が縁であり、「生まれる」ということが死の因となるのです。
もし、「死なない」と、果を見誤れば、死に直面したとき苦が生じ、「生まれる」ことが死の因である、と見ることができなければ、あれのせいだ、これのせいだ、と縁に迷います。しかし、死の縁となるものは、宝くじの場合と違い、無数にあります。
病気や事故、老衰。人によって様々です。それを全て想定していくことは不可能ですが、どうしてもその死の条件となるものばかりに目が行ってしまい、そこにまた苦しみが生じてきてしまうのです。
そして、死ぬということもなんらかの因となり、縁となっていく事なのですが、それもまた正しく見れないと、死はまた恐怖をもたらすものとなってしまうのです。

しかし、なかなかこのように見ること、受け入れることはできません。
生まれたから死ぬのだ、ということはごく当たり前の事ですが、
明日自分が死ぬなんて到底思えませんし、死ぬのは怖いし、嫌です。
病気になる事、老いる事、事故に遭う事だって嫌です。
なかなか因・縁・果を正しく見ることができないのが私の姿です。
そうだからこそ、いろんな情報にも迷い、数字のマジックにも惑わされてしまうんでしょう。
その原因は、煩悩という自己中心的な心にあるのだ、とお釈迦様は説かれます。
ですから、その煩悩をなんとかすれば、私にも正しく真実が見えてくるはずです。
実際お釈迦様もそうすることでさとりをひらかれました。
ところが、この煩悩というものが厄介なモノで、
私達の持つ苦しみの根本的な原因でありながら、
私達が生きる原動力のような役割をも果たすのです。
ですから、この煩悩を完全に断ち切っていくことは、
実は生きている以上、私達には到底できるようなことではありません。

では私達に、真実というものは見えないのか。
自分の力では真実を見ることができない私だからこそ、仏教があるのだ、と私は思うのです。
真実を見抜いた仏教だからこそ、私達に真実を見せようとしてくれるのだ、と。
まあでも、仏教に触れたからと言って、
もちろん真実が全てが見えて、全ての問題、全ての苦しみが解決するわけではありません。たぶん、チラっと、だけです。
でもそのチラっとで、考え方が、ちょっと変わってくる、ということもあると思うんです。そしてなによりも、
なかなか物事を正しく見ていくことができない私達に、
真実の側から、その真実へと向かわせるはたらきが、仏教の教えとして、
私のところに届けられているのだ、とも考えることができるのだと思います。
具体的に言えば、それが阿弥陀さまの本願のはたらき、となるのでしょうね。

いろんな数字、いろんな情報が溢れる現代。
一体何が真実なのか、ということを考えていく上でも、
仏教に触れることは有意義な事ではないかな、と思います。

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2006.4.26-
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