今日は、
って、もう終わっちゃいましたけど、
2006年6月6日でしたね。
数字だけ見れば、666と、6が三つ並んだ日です。
まあ100年に一度(いや、1000年に一度か?)しかないですから珍しい日なんですけど、
妙に騒がれていたり、そうでもなかったり。
何で騒がれていたのか、と言いますと、
ご存知の方もおいでると思いますが、「オーメン」という映画が最近リメイクされまして、そこに出てくるダミアンという名の子どもにこの「666」という印があり、その少年が悪魔の出現であり、人々に不幸をもたらす、というように描かれております。
で、なにやらこの「666」という数字は、よくない数字、悪魔の数字だそうで。
まあこれは、キリスト教にとっての、なんですけれども。
というのも、新約聖書にあります「ヨハネの黙示録」の中に、この666と言う数字が「獣の数」だと書かれており、、獣と言うのはどうも人を滅ぼそうとする存在らしく、悪魔、とみなされるようです。
それで「666」と言う数字は、悪魔の印となる数字だ、とか言われている、らしいです。
私も詳しいことはわからないのですけれどもね。
しかしなんでまた、「666」という数字が不吉と言うか、悪魔の数字、なんて事になったのでしょうね。
よくキリスト教では、「13」という数字が不吉とされます。
これはイエスが処刑され亡くなった日が、13日の金曜日であったとされるからだそうです。
この数字は、ジェイソンで有名な映画にもなってますし、「ゴルゴ13」の13もここから来ているとか。ちなみにゴルゴというのも、イエスが処刑された「ゴルゴダの丘」に由来するとかしないとか。
と、余計な話はさておき、
なんで「666」なんでしょうね?
まあおそらく、どうも暗号めいた数字で、数字自体に意味があるのではない、なんて言われたり、
キリスト教やユダヤ教で聖なる数字、聖数である「7」から一つ抜け落ちた数字だから、という考え方があるのだとか。
「7」が聖数というのは、ほら、1週間が7日、で、7日目は安息の日というキリスト教などの風習を考えてもなんとなくわかる。
で、それから一つ抜けた不完全な「6」と言う数がが、三つ並ぶのは、どうも良くないらしい。
それはどうも、7人の大天使がいて、そこから一人の大天使が悪魔に堕ちてしまい、大天使が6人になってしまい、悪魔が誕生した事で世界に混乱をもたらした、という神話に由来する、という説も関係しているとかしないとか。
まあそんなこんなで、「666」は良くない数とされている、らしいですよ。
・・・うーん、歯切れが悪いですねえ、どうも。
まあ、ちょっと調べてみたんですが、由来がはっきりしないんですよね、正直なところ。
でも、そんな由来もよくわからんのに良くない数字だとかいって、ビクビクしてるのって、なんだかおかしな話だな、なんて思ったりしませんか?
しかし、よくよく考えたら、日本人も、数字の良し悪し、結構気にしますよね。例えば、「4」は死、「9」は苦を連想させるから良くない。だから病院やアパートに4号室がないとかね。
他にも「42=死に」とか「49=死苦」とか言って忌み嫌いますし、
男は何歳と何歳、女は何歳と何歳が厄年で、とかもそうでしょう。
逆にほら、「7」はラッキーな数だ、何てことも言いますが、
これは実はさっき書いた、キリスト教の聖数に由来するようですよ。
実はあまり日本と関係ないことだったんですね。
あと聞いてビックリしたのが、
人が亡くなって、四十九日の法要をするでしょ?あれは三つの月をまたがないようにしないといけない、なんて迷信もあるんだとか。
なぜかって?
『始終苦(=四十九)が身(=三)につく(=月)といけない』なんですって。。
ふふふ、上手い事できた駄洒落ですよね。よく考えたものだと、感激してしまいます。
でもまあ実際はそんなことがあるわけでもないですよね。
三つの月にまたいだから良くないことが起こるということに、なんの因果関係もありません。
まあおそらく、先人が、四十九日の法要を、遅くれることなく勤まるように、戒める為の知恵として作られたものだと思うんです、本来は。それがこの言葉だけが先行しちゃったんでしょうね。
と、まあ日本人も、よくよく考えてみれば、いわれの無い数字に結構惑わされているような気がします。
仏教の教え、というのは、そういうものに惑わされないようにしましょう、という教えであります。
物事が起こる(=果)、ということには、必ず原因(=因)とさまざまな条件(=縁)があるのだ、と。そして、その因縁果を正しく見つめていきましょう、という教えなんです。
と、その辺のことは「Magic」ってコラムで書きましたので、そっちを読んでもらえるといいかもしれません。
でもまあ要するに、
悪い事が起ころうと、良い事が起ころうと、
そこにはちゃんとした原因や条件があるのであり、
決して語呂合わせやなんかで、さも意味があるように感じてしまう数字のせいではない、ということです。
数字は単に数を数えるための記号、道具です。
それ以上でもそれ以下でもありません。
でもそこに全く関係の無い意味を与えて、それの責任にしてしまおうというところに、
人間の弱さとか、愚かさ、迷いが感じられるような気がします。
そういう弱く愚かで迷ってばかりいる私だからこそ、
阿弥陀仏という仏様は、何としても真実に目覚めていって欲しいと願われ、
「南無阿弥陀仏」という声となって、
今、私のところにはたらきかけて下さっているのでしょうね。
コメント (2)
どうも、コメントありがとうございます。
お返事が遅れてしまいまして、どうも申し訳ありませんでした。
さて、悪魔の数字、ですが、「616」が本当なんですか?
それは知りませんでした。一応調べたつもりでしたが、ちょっと勉強不足でしたね。
確かに、この数字から、人々はいろんなものを想像し、
それを形にしてきた、ということはありますよね。
聖書に見えるこの数字が、言わば、一つの文化を作るきっかけになっている、と考えると、数字の影響というのも、あながち全否定するわけにもいかないと思います。
そして、確かに「4」や「9」に「死なせたくない」、「苦しませたくない」、という思いがあるのかもしれない、というのは、そこまでは私も考えた事がありませんでした。ご指摘されるとおりかもしれません。
そういう思い、気持ちというのは、やはり大切なものであると思いますし、それを全て執着だとして否定し、踏みにじってしまってはいけないし、私たち僧侶としても受け止めていかねばならない気持ちだと思います。
ただ、そういう気持ちがあってのこと、と言うか、数字は、物事の起こりには直接関係無い、それはわかっているけれども、それでもやはり気にしてしまう、として、その数字に対して、何らかの思いを持っていくのと、
数字が物事の起こりに関係しているものだ、と思い込んでいるのとでは、ちょっと違う気がするんです。
きっと最初、数字に別の意味が与えられた、というのは、
前者のような人の思いとか、何かしらの言われ、由来、というものがあったのだと思います。
そういう気持ちのところは、やはり無視してはいけないものだと思います。
ところが段々それが、言われや由来が忘れられていき、その数字の意味だけが一人歩きしてしまい、
短絡的にそれを信じてしまうようになっていることって、あると思うんです。
そうなってしまうと、ただ数字に振り回されるだけになってしまい、
数字が悪い、数字のせいだ、なんてことが言われるようになってしまう。
でも、そうではないんですよね。
私が今回言いたかったのはそこなんです。
ただその数字に意味が与えられた背景、人の気持ち、というところまでは、ちょっと考えが及ばなかったな、という気がします。
そういう気持ちは、確かに執着、になるんですけど、無視できないもの、忘れてはいけないものであると思います。ご指摘いただき、私も、ハッとさせられる思いがしました。
どうもありがとうございました。
投稿者: ケンユウ | 2006年10月31日 00:10
日時: 2006年10月31日 00:10
http://x51.org/x/05/05/0327.php
実は悪魔の数字は616ですと…この記事を見た時はショックでした。(ヘビメタ好きです)
でも、そこから生まれた先人達の想像力は感心すると同時に心がトキメキました。
そこから生まれた芸術は数知れず…。
あながち否定も出来ないと私は思います。(666は616でしたが…)
私も数字にとらわれることは同感です。嫌です。
しかし、「4」や「9」に関しても「お前を死なせたくない」、「苦しませたくない」という親心であったり子心はどうでしょういか?
確かに執着する心です。ですが、私は踏みにじれません。
その辺、お考えを聞かせて下さい。
投稿者: 失礼します! | 2006年10月31日 00:08
日時: 2006年10月31日 00:08