ども。
なんだかここに書かせてもらうのもなんだか久方ぶりですねー。
さ、サボっていたわけではないのですが・・・
まあ時間が空いてしまったことは、ここを楽しみにしておられる奇特な方がおれば、お詫びせねばなりませんね。
さて、今回は、最近テレビではやたらとカルト宗教についてが取り沙汰されておりますので、そのカルト宗教について、一言二言、言わせていただこうかな、と思っております。
まあ今に限らず、カルト宗教やカルト集団と考えられる団体が起こす問題については、マスコミで取り上げられる事が多いかと思います。
まあ具体的に名前は出しませんが、最近騒がれているもの以外では、妙な薬で病気が治る、と触れ回っていた団体や、刀を振り回して女性と踊ったり、よくわからない言葉を叫んだりしていた団体などが記憶に新しいと思います。
そういう宗教めいたものによって、被害を受けた方々がおられることは大変悲しい事だと思いますし、人の弱い部分に入り込んで、多くの人を傷付けるということは、許されるべき事ではないと思います。
けどじゃあ普通の宗教とカルト宗教と何が違うの?
って疑問をもたれる方がおられるかもしれません。
宗教に対して関心が無い人にとっては、カルトであろうが、普通の宗教であろうが、一緒に感じるかもしれません。
逆に、今ある大きな組織となっている宗教よりも、親身になってくれたり、自分が抱える悩み問題を解決してくれそうなもののほうが、カルトと呼ばれるものであったとしても、よほど良いのじゃないか、と思う人もいるかもしれません。確かに、宗教とカルト宗教の違いって、あまり明確じゃないですし、カルト的な宗教の方が、なんだか具体的と言うか、わかりやすいというか、求めるものがそこにあるように感じる、ということはあるかと思います。
でもやはり、今ある宗教とカルトと考えられる宗教には違いがあります。まあ歴史、なんてものもその違いのように感じるかもしれませんが、どの宗教だって、最初からあったものではなく、誰かがどこかで興したもので、新しいものが興った当時は、社会から反発なんかもあったでしょうから、歴史があるかないか、ということは区別の基準にはならないでしょう。
では何が違うのか、というと、宗教が何の為にあるのか、という方向性、ベクトルにあるのではないかな、と思います。
普通の宗教であれば、その方向性としては、あらゆる人に向けられるものであり、そしてその教えを受け入れた人に対する救い、心の安定の為にあるべきものであるかと思います。
つまり、宗教を受け入れる人の為に存在するのが本当の宗教の姿だと思うのです。
しかしカルトと考えられる宗教は違います。一見、その教えを受け入れる人にベクトルが向いているように見えますが、その実、救いを求め、教えを受けたいと思う人を餌食にし、財産や大切な人との関係を奪い、苦や不幸に対する恐怖や、名誉欲や上昇志向、自尊心などの欲望をくすぐり煽ることで人の意思をもコントロールし、その集団の指導者や一部の者の、私利私欲を満たす為に利用していきます。つまり宗教のベクトルが、教えを受ける人ではなく、宗教を始めた側に向いているのです。
だからこそ、初めは優しく優しく近づいてくるのであり、悩み苦しみを親身になってくれるように装うのだと思います。時には宗教的であることを隠してでも、ね。
ちょっと厳しいことを言うようですが、
救いと言うものは、誰か救世主的な存在によって簡単に与えられるものではありません。ましてやお金をどうこうしたからというように代替的に手に入るようなものでもありません。
ただ、自分が今辛い状況にある中で、そういうものに頼りたくなったり、すがりつきたくなったりする気持ちはわかります。私も僧侶でありながら、何か今すぐに自分を悩み苦しみから解放してくれるものがあれば、と願った事があります。
しかし、残念ながら、万事が一気に解決し、良い方向に向かっていくことはそうそうあることではありませんし、仮にそういうことがあったとしても、それは救世主、まあここではカルト宗教の教祖、指導者になるんでしょうけれど、その人のおかげである、と言う事ではなく、自分自身の努力であったり、いろいろな物事が関係する中で起こりうるものであるはずですから。
そして自分を悩ませる問題や今ある苦しみ、と言うものは、自分の中にあるものです。確かにその苦しみや問題は、自分の置かれた立場や、自分を取り巻く社会や環境からの影響よって作り出されるものであるかもしれませんが、社会や環境だけのせいではありません。自分もまた、原因の一つであるし、苦しいという心は自分が生み出すものであるのです。
ですから、問題を解決し、苦しみを取り除く事ができるのは、最終的には自分自身でしかできない事なのです。宗教と言うのは、その答えを簡単に与えたり、何か社会や他人が悪いのだと、原因を全て他に擦り付けるのではなく、自分自身にもあるのですよ、という厳しい現実を突きつけるとともに、解決のヒントを与えるものなのだと思います。
逆にカルトは、あなたは悪くない、苦しみの原因は全て社会や、人間関係や、前世や霊など、そういう自分以外の、しかもなかなか手の届きにくいところにあるのだ、私がそれを何とかしてあげよう、などと、甘い言葉、優しい言葉で近づいてきます。
苦しみの原因が自分にあるということを認めるのは、大変厳しい事で、他のもののせいにしたほうが気持ちは楽ですから、そう言われると、そうだと思いたくなってしまうのが人間でしょう。そういう心の弱い部分を、カルトは狙ってくるのです。
そういうカルトに陥れられないようにする為には、その宗教が何の為に存在しているのかをキチンと見ていくこととともに、自分自身が、誰にも相談できないような辛い事、苦しい事、いろいろあるかもしれないけれど、安っぽい救いは無いんだ、辛いかもしれないけれど自分が何とかしていくしかないんだ、ということを肝に銘じておかなくてはならないのかもしれません。それは実に厳しい事であるかとは思いますけれど。
最後に、
宗教というものは、どんなものを選ぼうと信じようと、自由であります。どんな教えの宗教を信じたとしても、それ自体は悪い事ではありません。ただカルト的な宗教で許せないのは、
宗教の名を借りて、その指導者が絶対者となり、自分の利益のためだけに悩める人、苦しみの中にある人を救うフリをして、騙し、さらに深く傷つけていく、という行為です。そこが一番の問題なのだと思います。
ただそれは既存の宗教にも言える事で、どんなに教えが素晴らしくとも、何のための宗教なのか、ということを履き違えてしまうと、カルト的な方向に進みかねないので、それは我々としても重々注意しなければいけないことであると思います。
コメント (2)
>madelineさん
ども、コメントありがとうございます。
スッキリしていただけていたら、私も嬉しい事です。
仏教の基礎のところには、
自分を見つめる、ということがあります。
苦を生み出しているのが実は自分自身だ、と言うことはなかなか厳しい事ですが、
おっしゃるように、自分が今生きている、という喜びを感じる事ができるのも、自分を正しく見つめていくところにあるものだと思いますよ。
投稿者: kenyou | 2006年10月31日 00:14
日時: 2006年10月31日 00:14
なるほど!!
とても納得いく説明ですっきりした気分です。
自分に否があることを認める
自分の中に解決策を見つける
それは悩みだけでなく
喜びもそうなのかもしれないな。
うん 今日はきちんと眠れそうな気がします^^
投稿者: madeline | 2006年10月31日 00:13
日時: 2006年10月31日 00:13