ども。久しぶりにやってきました。
今回も、世の中の風潮をバッサリ?斬ってみたいと思います。
相変わらずの長文になっておりますので、その辺一つお覚悟とご容赦の程を。
さて、もうちょっと古いかもしれませんが、
「味のIT革命や~!!」
「まいう~!!」
このような言葉が、テレビからよく聞かれます。
テレビ番組にもいろいろ流行り廃りがありますが、グルメ番組、というものは毎日のようにやっているのではないでしょうか。それだけ私達が「食」というものに並々ならぬ興味があって、それが尽きない、ということのなのでしょうね。
さて、先日住職が、友達と夫婦揃って食事に、と言うことでわざわざ金沢まで、バスを借りて行く、ということを言っておりました。わざわざ金沢まで、と言うのは、ウチの町から金沢まで車で1時間以上かかる、ということなんですが、私としては、わざわざそこまでしなくとも、と思ってそう住職に言ったのですが、まあ主催の友達の方が、結構なグルメ、というか、舌の肥えた方らしくて、美味しいお店に行きたいらしいので、との事でした。まあその時はなるほどね、と私も納得したのですが、この「舌が肥える」ということについて、ちょっと「ん?」と感じてしまいました。
皆さんは、「舌が肥える」ということについてどうお考えになるでしょうか?一般的に「舌が肥える」ということは、美味しいもの、珍しいものなどをいろいろと食べる事ができて、味の良し悪しがわかるようになる、と言うことだと思います。つまり味覚の鋭敏な人、味や料理に含蓄あることを指す言葉でしょう。ある意味ではこれは褒め言葉、ですよね。いい物をたくさん食べてきていて、という。美味しいものをたくさん食べられると言うことは一つの幸せでもありますから、私も体が肥えるのは嫌だけど、舌は肥えたい、と思われる方がおられるかもしれません。
でもどうなのでしょう?果たして「舌が肥える」ことは、良い事、幸せなことなのでしょうか?いやいや、美味しいものをたくさん食べて舌が肥えるのだから、それができるということは幸せなことでしょ、という意見が出るかな、と思いますが、私はそれはあんまり幸せなことなのではないのではないかな、と思うのです。
確かに、美味しいものや珍しい食べ物を口にできるその時は幸せな気持ちを味わう事ができるかもしれませんが、普段から毎日毎食そんな贅沢ができるなんてことは、そうそうないはずです。
いや、もし毎日毎食贅沢な食事をしていても、だんだん飽きてきて、その食事に贅沢を感じなくなり、もっと美味しいもの、もっと珍しいものをと、どんどん際限なく求めていくようになるのではないかな、と思います。
そうなってしまうと、ちょっとやそっとの食べ物じゃ、満足できなくなってしまいそうです。すると、んー!美味しい!と食べる喜び幸せを感じる機会が、どんどん減っていってしまうような気がします。
そしてもう一つ思うのが、本当に私達は舌で味を味わっているのか、ということ。
これもテレビの話なんですが、以前、目隠しをして二つの料理を一口ずつ食べて、どちらが高級食材であったり、有名料理人の料理なのかを当てる、と言うような事をグルメや一流であることを誇る芸能人が挑戦しておりました。しかし、グルメとされる人が、その二者択一に見事はずしておりました。
それを見て思ったのですが、私達と言うのは、どうも食べ物の味を、舌や鼻、つまり味覚や嗅覚だけで感じているのではないのではないのかな、と。
それは、目で料理を見て、これはどういう食べ物であるかを判断し、そして頭の中で味をある程度予想して味わっているのではないか、ということです。
そしてもっと言えば、その料理の見た目だけではなく、その料理が、どういう食材を使ったものであり、どの店の、誰が作ったものなのかということを全て頭の中で情報処理した上で、私達は味というものを判別しているのではないのかな、と思います。
例えば、の話ですが、高級料亭で料理が出されたとしましょう。もちろん高級料亭で出す料理ですから、新鮮で、最高級の食材を使い、そして腕のいい料理人が腕を振るっているに違いありません。ですから、その料理は間違い無く美味しい物であるはずです。
しかしもし、仮に、そんな最高級の食材ではなく、私達が普段食べているようなスーパーで手に入るものを使い、そして普通に料理ができる人が、そのお店で料理を出したとしても、きっと私達は、さすが最高級の料亭、一味も二味も違いますね、なんて事を思ったり、口にしたりするのでは無いでしょうか。
つまり、高級料亭=高級食材を使用+有名料理人の料理、と言うことが無意識に頭の中にあるわけですから、何を使い、誰が作ったのかを知らなければ、どんな料理が出ても、高級なものであると勝手に判断して、普通の食べ物でさえも普通以上に美味しいと錯覚させてしまう、そういうことって、きっとあるんじゃないかと思います。
つまり何が言いたいのか、と申しますと、私達は、味を舌で味わっていると思いがちですが、そうではなくて、いろんな情報を、頭の中で処理した上で、味を判別しているのだ、と言うことです。
そう考えますと、舌が肥える、ということは、結局料理や食材、お店や有名料理人に対する知識ばかりが増えただけで、本質的に味を理解している、と言うわけではないのかもしれません。美味しい美味しく無い、という味の感覚というものは、そもそも個人によって違うわけですからね。
むしろ逆に、下手にいろんな知識があるだけに、その知識に縛られて、素直に美味しいと感じられなくなってしまうことだってあるかもしれません。
そうなってしまうと、やはりそれは本当に幸せとは言えないように思います。
本当は美味しいかもしれないものを食べているのに、知識がそれを邪魔してしまう。
そしてもっと大切な事、私達はいろんな命をいただいて食事をしているのだ、と言うことさえも、忘れさせてしまう、そんな気がします。
高級なものばかりが美味しいものと感じるのであれば、高級でない食材は、結局取るに足らないもの、つまらないもの、そういう見方をする事になるでしょう。
しかし、高級であれ、高級でないものであれ、元は同じ、一つの命です。
例えば養殖の鯛と、天然の鯛と、値段や珍しさという意味での価値、多少の味に違いはあれ、同じ鯛という命に違いはありません。牛肉や豚肉だってそれは同じです。
私たちはその動物や植物の命をいただいて日々命を繋いでいます。
にも関わらず、これの肉は美味いが、あの肉は不味い、などと、自分勝手に判断をしている。
もちろん、そうすることが悪い事であるとは言いません。
好き嫌いを判断するのが好きなのが人間です。
私もそう言う判断をよくしております。
しかし、命を食べさせていただいて生きているのに、そのことに感謝もせずに、美味いだの不味いだの判断するのは、やはりいささか、私達の心に問題があるように思います。
もちろん、私は美味しいものを追求する心、それをすべて否定するわけではありません。さっきも書きましたが、私も好き嫌いを判断しますし、美味しいものを求める気持ちも強いです。食べるの、大好きですから。
ただ、それだけでは、どこまで行っても本当の満足や、喜びと言ったものを、感じられないのだと思います。どれだけ美味しいものを食べても、食べ終えてしばらくしてお腹が空けば、またもっともっと美味しいものを食べたいと思うのでしょうし。
そして下手に知識をひけらかしたり、グルメを気取ると、美味しいものを、素直に美味しいと言えなくなってしまう。これはちょっと悲しい事ではないでしょうか。
それよりも、日々、毎食、食事をできることを喜び、命をいただいていることに感謝し、素直に美味しいと味わえる事、その方が、私はグルメになるよりも、よっぽど素敵な事だと思います。
と、これを読んで、どこが仏教やねん!とお叱りを受けるかもしれません。
でも仏教では、満足を知ることが大切だ、と言っております。
お経の中に「少欲知足」という言葉もありますしね。
これは、欲を減らし、満足を知ることが、大切である、ということ。
この言葉で大事なのは、決して欲を無くすということではないのがポイントかもしれません。欲を無くしては、私達人間は生きていけませんからね。
それよりもむしろ、今自分が生きているということとは、どういうことなのかをしっかりと見つめ、いろんな命をいただくことで生きている、いろんな人の繋がりの中で生きている、と言うことを知り、それに対し、感謝の気持ちを持っていく事で、満足ということを知っていくことが大切であるよ、と。そうなれば、次から次へと求める心も少なくなる事でしょう。
そして、満足を感じることが多いほうが、当然幸せだと感じる機会が多くなるハズですから。
もちろんそれは、食べると言う事だけにではなく、いろんな事に当てはまる事だと思います。
高級だと思われるもの、ブランド、金銭的に価値のあるもの、そういうものを次から次に得ることで満足を得ようとする傾向が強い現代。
良いものを求めていくという行為は、決して悪い事ではありませんが、
しかしそれは知識や様々な情報に縛られ踊らされていると言う面もあり、そしておそらくそこには、本当の満足、と言うものは無いように思います。
素直に、感謝し、幸せや満足や喜びを感じる心。
それが今の私たちが本当に求めていかねばならないものなのかもしれませんね。
コメント (5)
まこさんコメントありがとうございます。
そうですねー、食育も大切な事かもしれませんが、
食べ方の教育よりも、
食べるということはどういうことなのか、命をいただいているのだ、と言うことを教育もしたほうが、良いのかなと思います。
お金に関しても、そうですね、作ってくださった方に感謝、という意味では大切なものです。
けど同じ豚や牛でも、値段が違ってくるんですよね、同じ命なのに。
まあそこにはいろんな苦労の違いがあるわけですから、仕方ない事なのかもしれませんが、
金額で命の優劣をつけることだけは避けていかないといけないのかな、と思います。
私もしっかり食べる事の意味を噛み締めつつ、なんでも美味しくいただけるようにしていきたいものです。
投稿者: kenyou | 2006年11月20日 23:54
日時: 2006年11月20日 23:54
ワタシもダンナも料理をしますが
二人いつも心に留めているのは
「心を込めて最大限に美味しく料理をして食べる」
それがいのちをくれた生き物に対する敬意だと思って心がけています。
だから心をこめずに調理された料理を出されると腹が立つし、いのちがもったいないと思います。自分で作るから材料ちょうだいって思います(笑
食育とかなんでもかんでも名前をつけりゃあいいってもんじゃあない!目の前にあるものに真正面から取り組む。料理もそのひとつ。
真剣勝負で料理に取り組んでいる料理人には金額で敬意を払うのも大いにアリ。
先入観に惑わされない目(舌?)を持つには旬のものをあまり手をかけずにいただくのが一番ですね☆
投稿者: まこ | 2006年11月16日 03:53
日時: 2006年11月16日 03:53
>としさん
はは、確かにそう言う傾向もありますよね。
もしかすると、贅沢にも飽きて、喜べなくなってきて、妙なねじれが起こっているのかもしれませんねぇ。
喜びや楽しみをどこかに求めるのでは結局満足って、えられないのかもしれませんね。
今自分のあるところに、喜びや楽しみを見出せるようになりたいものです。
>るるさん
あはは、るるさんのことではないですよ。
少なくとも、るるさんは食べるという事の大切さや、その意味を、ちゃんとわかっていらっしゃるでしょうし。
私が言いたかったのは、
美味しいものを求める事がダメだ、ってことじゃなくて、
物を食べるは命をいただく、ということなのだ、ということを、もうちょっと大切にしていって欲しいな、ってことですしね。
でもそう、日本古来のシンプルな食べ物を美味しいと感じられることは、大切だと思います。
そもそも美味しいと感じられることは、喜びですし、感謝すべき事なんですからね。
だからこそ、せっかく美味しい物をいただいているのに、
あーでもない、こーでもないと、薀蓄垂れるよりは、
美味しい、ありがたい、と素直に喜べる方が、いいんですよね。
それはきっと、命を大切にしている事や、自分の体を大切にする事にも、繋がっていくと思いますよ。
投稿者: kenyou | 2006年11月11日 20:24
日時: 2006年11月11日 20:24
贅沢なものを追い求める一方で、
苦楽は相反することを知って、わざわざ苦しい思いを作り出してまで楽しみを求めようとする最近の傾向も「来るとこまで来た」って感じがするね。貧乏生活遊び、秘境ブーム、プチ修行・・・。
あるがままを感謝し喜べる人に憧れます。
投稿者: とし | 2006年11月03日 19:38
日時: 2006年11月03日 19:38
私のことかと思った…ドキドキ。そして反省。
最近思います。自然そのものの味や天然素材の味(例えばインスタントではなく昆布とかつおのだし)を美味しいと思えることは、本来的な大切な感覚なんだろうなぁ、と。
それを“舌が肥えた”と評するのではなく、自然の恵みに感謝して生活しているんだ、と受け止められるだろうか。それって、自分の身体やいのちを大切に生きることにもつながるのかも…。ちょっと趣旨ずれかもしれませんね、ごめんなさい。でも、ありがとう!合掌。。
投稿者: るる | 2006年11月03日 16:35
日時: 2006年11月03日 16:35