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思いやり

ども。寒くなってきましたね。
皆様お風邪などひかれてはおられないでしょうか?

さて、ちょっと前の話になるんですが、今年の10月末から11月にかけて、ダライ・ラマ師が来日され、東京や広島で講演をされました。私も行きたいなー、と思っていたのですが、報恩講などで忙しい時期で、どうしても行けなかったのが、非常に残念です。
で、どんなお話をされていたんだろうなー、と気になっておりましたところ、広島国際平和会議で師がお話されたことの要旨がライブドア・ニュースに書かれておりました。
その国際平和会議では、ダライ・ラマ師の他に、一介の主婦でありながら、北アイルランドの紛争の中、子どもが殺されるのを目の当たりにして、子どものために平和への運動を始められ、ノーベル平和賞を受賞したベティ・ウィリアムズさんと、南アフリカでアパルトヘイト撤廃に尽力し、1984年にノーベル平和賞を受賞した南アフリカのデズモンド・ツツ大主教も、平和についての講演をされました。
その内容に関しては、いつまで残っているか、はなはだ微妙ですが、参考にさせていただいたライブドア・ニュースへリンクしておきましょう。

○ベティ・ウィリアムさんの講演の要旨
○デズモンド・ツツ大主教の講演の要旨
○ダライ・ラマ師の講演の要旨


さて、この中でダライ・ラマ師は「思いやり」と言うことをお話されておりました。
このことは、今の世界の状態や、平和な世界作りに向かうために大切であることはもちろんの事なのですが、私達の身近なところでも、「思いやり」というものは、大切なものであるはずです。
例えば、今年の秋頃から大きな社会問題として取り上げられてきております、いじめの問題なんかについても、この他の人を「思いやる」という気持ちが欠如しているから起こってきているのかもしれないな、と言う風に感じます。
現代は激しい競争の社会ですから、他人のことなど構っている暇など、ありません。自分のことだけを考え、なんでも人の力に頼らず、自分でできなくてはいけません。時には他人を蹴落としていかなければ、競争には勝っていけません。
でもそうすると、どうしても「ワレがワレが」という気持ちばかりが強くなって、他の人の気持ちや、他の人の考え方を理解していこうと言う気持ちは起こらなくなり、自分さえよければ、とか、他の人はどうなってもいい、そんな風になってしまうのだと思います。
そういう自分のことばかり考えて、人の気持ちを考えられない、ということが、いじめに繋がったり、憎ければ、自分の邪魔になれば、自分の親でも子どもでも、いとも簡単に殺してしまう、そんな社会を作り出しているのかな、そんな風に思うわけです。もちろん戦争と言うものも、その延長線上にあるもの、なんでしょう。

では「思いやり」とか、人を「思いやる」とはどういうことなのでしょうか。漢字で書くとその意味がよくわかるかな、と思いますので、漢字にしますと「思い遣り」となります。
この「遣る」という字は、「派遣する」とか、向うへ送ると言うような意味になる言葉です。つまり「思い遣り」と言いますのは、こちらが、相手に対して思いを向ける、ということになるかな、と思います。
相手に思いを向けると言うのは、何かをする時に、自分のことだけを考えるのではなく、相手の立場にたって考えてみる、と言うことであろうかと思います。相手はこれをされたら嫌だろうな、相手はこれをしたら喜ぶだろうな、ということを、考えてみる。もちろん相手自身にはなれませんから、相手が本当に考えていることは、こちら側は正しく理解することはできません。それでも、自分がされたら嫌だったり、自分がされたら嬉しいことを、相手はどう思うだろうか、と言うことを考えることは、大切であるはずです。
そして、ダライ・ラマ師の言葉の中に、『私たち一人ひとりは、宗教も、民族も、年齢も、考え方も違う。しかし、すべての人に共通していることもある。誰もが「苦しみをなくし、幸せになりたい」と思っているのだ』という言葉がありました。自分が自分ことを大切だ、幸せになりたい、と思っているのであれば、他のどんな人も、同じように思っているはずです。そのどんな人でも持つ想いを、一人一人の人間がそれぞれに大切に考えていくこと、それが「思いやり」ということなのかな、と思います。

しかし、他の人を「思いやる」ということは、言うほど簡単なことではありません。自分の仲の良い人であれば、ある程度、その人のことを大切に思って、思いやることもできるかとは思いますが、仲の悪い人や、自分と全然合わない人、全くかかわりの無い人に対して、思いやる、ということは、とても難しいことだと思います。
やっぱりどう考えてみても、北朝鮮の金正日のことを思いやることや、むごたらしい殺人を犯した殺人犯のことを思いやりの心を持って見ることは、なかなかできることではありません。
また、親しい間柄であればあるほど、関係が一度こじれてしまうと、ややこしくなってしまうもので、親子や兄弟、夫婦などの親しい間柄であっても、憎たらしいと思ってしまえば、もう相手のことを、相手の立場に立って思いやる、ということは、簡単にはできなくなってしまいます。
そうなってしまうのは、やはり、私達は、どこかで損得や見返り、利害や好き嫌いというものを考えてしまっていて、この人に優しくしておけば、何かメリットがあるだとか、この人には優しくしたって無駄だ、ということを計算して、行動したり、あるいは「思いやる」と言うことをしているのかな、と思います。
偉そうにこんな事言っている私だって、誰に対しても思いやりの気持ちを持てるわけではなく、好き嫌いや利害を考えて行動しますし、見ず知らずの人や、自分に危害を加えるような人に対して、相手の立場にたって考えると言うのは、なかなかできることではありません。大切な家族や、愛する人をいつも思いやりをもって接して来れたか、と言うと、それができなかったことだってあります。そうかと言って、それが人間の姿だから仕方が無い、と開き直ってしまうのも、ちょっと違うかな、と思います。

私達浄土真宗で大切にする仏さま、阿弥陀仏と言う仏さまがおられます。
この阿弥陀様と言う仏様は、全ての命を、救いたい、救わずには仏にならんぞ、と誓い、仏となられ、今も私たちにはたらきかけておってくださる仏様です。その阿弥陀様の持たれる、なんとしても救わずにおれないという優しいお気持ち、思いやりの心は、私達の抱える生老病死や、そこから生じる様々な苦しみ、悲しみと言うものを、まるで我が苦しみ悲しみであるように受け取られたところから、生まれてくるものであります。
そこには自らの利害や損得、好き嫌いというものは、一切ありません。全ての命に対して、平等に振り向けられるお心です。そんなとりとめも無い優しい思いやりの心を、お慈悲、というのです。

そんな阿弥陀様のような全ての命に対して、という慈悲の心は、持てようはずもありません。しかし、そんな自分のことばかりを考え、人の気持ちをなかなか考えることのできない、思い遣りの気持ちをなかなか持てない私達でありながら、阿弥陀様のお慈悲は届けられている。それは大変にありがたいことですし、そのことを聞かせていただいたき、すっと受け取れたときには、私達もまた、自分の姿を知り、ちょっとした時に、思いやりと言う心を、思い起こしたり、心にかけておくことが、できるのではないのかな、と思います。
いじめの問題や、いろんな争いと、人がお互いにその命を傷つけ合うことがまだまだ続く今の時代、自分の国を愛する気持ちを養うことも大切、なのかもしれませんが、自分の国の事とばかりを考える気持ちを養うよりも、もっと大きな思いやりという気持ちを育んでいくことが、より大切であるのではないかな、と感じます。

今回も相変わらずの長文になってしまいましたので、このへんで。

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2006.4.26-
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