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しょうがない

ども、みなさま、ご無沙汰しております、シャカ斬り、久しぶりの更新でございます。
ずいぶん長い事時間が空いてしまい、申し訳ありませんでした。
いつも書こう書こうとは思っていたのですが、どうも最近は刀がさび付いてきてしまっていて、「斬る」ことができずにいました。。。
が、今回はちょっと思うことがありましたので、久しぶりに刀を磨いて、斬らせていただく所存ですので、一つまたよろしくお願いいたします。

さて、今回切らせていただきますのは、「しょうがない」という言葉。
私たちも日常でよく使ったり、耳にする言葉でありますし、
少し前のことになりますが、久間元防衛大臣が、原爆投下を「しょうがない」とした発言が問題となった事は、皆さんもまだ記憶に新しいかと思います。
またあるニュースを見ておりますと、
ある新興住宅街の下に、トンネルを掘った結果、その地盤が徐々に沈んでいき、その住人が役所に問い合わせたところ、「しょうがない」という対応をされた、ということも、報道されておりました。

しかし、私たちも日常使う言葉であるのに、なぜこの言葉が、問題となるのでしょうか。確かに、久間氏の発言は、原爆投下を容認する言葉に取れますから、被害を受けられた方々の心情を無視し、深く傷つける言葉であります。
また、もし、災害が起きて、被害を受けた人がたくさんいたとして、その人たちに向かって、「この災害は『しょうがない』ことだ」とは、とても言えないし、言えば、被災した方々を怒らせてもおかしくありません。
しかし、もし被災した方が、「この災害は『しょうがない』」と言っても、おそらくだれも怒る事はないし、問題になる事は無いように思います。
とすると、どうやら「しょうがない」という言葉は、誰が使うか、ということによって、言葉の意味のニュアンスが、異なってくるようです。

そこでこの「しょうがない」という言葉の意味を考えてみますと、この言葉は元々は「仕様がない」から来た言葉です。で、「仕様」というのは、『広辞苑』によりますと「仕方。方法。」とありますから、「仕様がない」というのは「方法、手立てが無い」と言う意味になるかと思います。
つまり、何か問題が起こった時、それに対して、どうにも対処する手立てが無い、という場合に使う言葉のようです。
もう少し考えてみますと、どうにもとるべき手段、道が無い、八方塞りの状態で使う言葉ですから、「諦め」の気持ちが混じった、言葉であるとも考えられるでしょう。

しかし、「諦める」という言葉は、本来は、現在使うような「断念する」とか、「不可能だと判断してやめる」というような意味ではなく、「明らかに見る」という意味が原義です。
では、なにを「明らかに見る」ことが、「諦める」ことなのでしょう。

それは、「物事の道理」、「真実のあり方」とでもいいましょうか。
じゃあ今度は「物事の道理」とか、「真実」って、一体なんやねん、ということになろうかと思いますが、仏教の教えに沿って考えるならば、「諸行無常」、つまり、「すべてのものは絶えず移り変わる、一瞬たりとも変化しないものは無い」ということであり、「諸法無我」、つまり「不変で本質・主体となるものなど、何事においても存在しない」ということです。
もっと砕いていうならば、どんな物や存在も、常に変化しつづけるからこそ在るのであり、その変化というものは、いつどこで何が起こってもおかしくない、ということです。
その事を「明らかに見る」ことが「諦める」ですから、「明らかに見る」=「諦める」、ということは、どんな物事が起こっても、それを良いとか悪いとか判断することなく、そのまま、あって当然のこととして受け入れる、ということです。
この辺のことは、るるさんが「仏教恋愛論」で語られている事でありますから、そちらも参考にしていただければわかりやすいかと思います。

「諦める」とは、そう言う意味の言葉でありますから、「しょうがない」という言葉も、言ってみれば、この諦めの境地、つまり、起こった出来事、解決できそうに無い問題をしっかり受け止めて、それをどうすることもできないこと、として受け入れて初めて出てくる言葉であります。
或いは、もし、被害者と加害者の関係が成り立っている場合、被害者が「しょうがない」と言う場合は、そこには、加害者に対するある程度の「許し」の意味合いも含まれている言葉でもあるでしょう。
ですから、この言葉は、なんらかの解決できない大きな問題を抱えた側の人が使うべき言葉であって、その問題の当事者では無い第三者や、問題を引き起こした側の人間が、問題を抱えている人に対して使っていい言葉ではない、ということであります。

ところが、往々にして、問題を抱えた側ではなく、第三者や、問題の発端となった側が、この言葉を、つい使ってしまいます。それが、おそらく問題なのではないでしょうか。
確かに、第三者の側からすれば、自分以外のところに起こってしまった出来事、解決できない問題があれば、「しょうがない」と、諦観することは、たやすいことです。しかし、その問題を抱えた当事者にすれば、それは決して「しょうがない」事などではありません。なんとかしたい、と、悩みに悩み、苦しみに苦しみ、「しょうがない」と思えるには、長い時間が必要です。あるいは、「しょうがない」と思えることは、無い事だってあるでしょう。そのような事柄に対して、第三者、あるいは問題を作った側が、たやすく「しょうがない」と言うのは、当事者の感情を考慮すれば、大変配慮に欠ける言葉であります。
また、第三者の側が、「しょうがない」という言葉を使う場合、諦観したような気分になれますが、それはただよく考えていないだけ、物事を自分の事として受け入れているわけではないので、諦観とは似て非なるものであり、むしろ物事を正しく見つめる事を、妨げるものであるとも言えるでしょう。
久間元防衛大臣の発言が問題となったのも、立場のある人にも関わらず、被爆された方々に対する配慮の無さや、原爆投下ということの重大さに対しての認識が不足し、正しくその問題を見つめられていなかった、というところから、非難されたのではないかなと思います。

しかし、そのことは久間元大臣や、立場や責任にある人だけに限った事ではなく、この私自身にも当てはまる事であります。
第三者、あるいは問題を引き起こした側であるにも関わらず、諦観し、悟りきったような気になって「しょうがない」という言葉を、つい、使ってしまってはいないだろうか?そしてその言葉によって、人を傷つけてはいないだろうか?ということを、しっかり考え、もしたやすくその言葉を使っているならば、改めていかねばならない事であるでしょうね。

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2006.4.26-
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