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「偽」

今年の世相を表す漢字として、「偽」という漢字が選ばれて、清水寺の貫主さんが例年の如く書いておられましたね。

この「偽」という漢字、法話を聞いていてもよく出てくる文字で、この漢字が今年の漢字に選ばれるちょっと前に、メリシャカメンバーのチスイさんとメールやり取りしてて、この「偽」という漢字は、「人」の「為」と書いて「偽」となるんだ、ということを言っておりました。
なるほどな、ですよね。
特に今年のニュースでよくあった、政治家や官僚が、国民の為、と言いながら結局自分の利益や保身の事しか考えていないような様を見ますと、「人」の「為」と書いて「偽」になるというのはよく納得できるように思います。
つまり、意識しているしていないに関わらず、本音の部分では自分の為に行なっているのに、誰かの為と大義名分を標榜していることは、「偽」であると言う事です。これは政治家や官僚だけに言えることだけじゃなくて、今年話題となった、食品偽装の問題などにも言えるのでしょう。

しかし、私としては「人」の「為」が「偽」になるという説に、ちょっと引っ掛かりを覚えました。もちろん、心の中では「自分の為だよ」と舌を出しながら、口からは「あなたの為」と美辞を述べながら行う事は「偽」だと思いますが、人の為に何かをしたいと思う気持ちや、しようとする事は本来的に悪いものではないハズですし、必ずしも本音の部分で自分の為という心が無く、心から相手の事を思ってする事だって、あるんじゃないかなと。

そこで、「偽」と言う漢字の成り立ちや、正確な意味を知りたくなりまして、漢和辞書を調べてみました。
すると、ちょっとビックリしました。『新字源』(角川書店)によりますと、「偽」の成り立ちとしては、【為に人を増し加えて、為と区別し、人為、ひいて「いつわる」意をあらわす】ということで、第一の意味は【わざとする。人為。作為。つくりごと】でした。
そして今まで法話でよく聞いたり、チスイさんが言っていた「人」の「為」と書いて「偽」と言う説は、漢字の成り立ちには関係なく、後世当てられたものだ、ということのようです。
しかし、人為、つまり人のしわざが「偽」とは、またものすごい意味ですよね。だって、私たちの為すこと、行いが、そもそも「偽」ということなんですから。
しかしよくよく考えれば、そうなのかもしれません。私たちには真実なるものはない。これは、自らを「虚仮不実のわが身」と言われた、親鸞聖人の教えにも当てはまります。

例えば、ですが、以前このような話を聞きました。
あるお寺の奥さんが、冬雪の積もる庭に、雀がやってきたそうです。それを見た奥さんは、冬だから食べるものも無いだろうと、米粒を雀にあげました。奥さんとしては、おなかの空いているであろう雀にエサをあげたわけですから、善い事をしたつもりでしょう。しかしこれは、どこかに自分の為という気持ちがあってしたことかといえば、おそらくそんなことは無くて、純粋に雀の為を思ってしたことだと思いますから、「偽」の行為ではないはずです。
ところが、その雀、米粒を食べる事に夢中になって、注意を怠ったのでしょう、たまたま縁の下にいたネコにガブリと食べられてしまいました。
奥さんは、雀に対して良い事をしたはずでした。しかし米粒をやった結果として、雀はネコに食べられる事になってしまうのです。そこまでを見ると、奥さんのしたことは、雀にとって良いことではなくなってしまっています。
このように、自分の事よりも相手を第一に考えて、良かれと思ってしたはずのことが、良い結果を導かない、ということは、恋愛の面なんかでも、割とよくあるのではないでしょうか。
つまり、私たちの人の行為というのは、思った事と行為の結果とは必ずしも一致・一貫しないし、相手の受け取り方やいろんなものに影響・作用されて、いくらでも変化してしまうものだと言う事です。それは、真実、絶対的に正しいものと言えるものではなく、「偽」ではないか、と。

と、こういうことを書きますと、なんだ、どうせ我々の行為は全て「偽」になるなら、好き勝手にしてもいいじゃないか、ましてや人の為にとか、優しくしようなんて思わなくても、と思われる人がおられるかもしれませんが、私が言いたいのはそうではありません。私たちの行いは、例え相手の事を第一に考え、良かれと思ってしたことであっても「偽」になるかもしれない、決して絶対的に正しいものではないのだと、自らの行いを見つめて直してみて欲しい、ということです。


政治家や官僚の不正、いろんな企業の不正、そして他人の過ちを見て、それを非難し、つるし上げるのは簡単ですが、自分の行いに対してはついつい甘くなってしまうのが私であります。
しかし、この今年の世相を表すものとして選ばれた「偽」という漢字に込められた意味は、今の世の中の乱れを単に憂うものでも、他人を非難するものでもなくて、私自身の行いや生き方をもう一度見つめ直し、私のところからまず少しでも良いと思われる方向に変えていくべきだ、という諌め・戒めなのかも、しれません。
ただ、それすらもまた「偽」になる可能性があるので、なかなかに難しい事ではあるのですけれどね。

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2006.4.26-
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