今日は節分ですね。皆さんも豆まきをしたり、年の数だけ豆を食べたりしたでしょうか?最近では、関西の風習だった恵方巻きを食べる習慣も、全国的に浸透しつつあるそうですね。
さて、そんな節分。豆まきと言えば、「鬼は外、福は内」ですよね。これがもう決り文句になってますが、今日新聞の社説を読んでますと、こんな江戸時代の川柳が紹介されてました。
「節分は金がほしいの声だらけ」
実に辛辣ですよね。要するに、「鬼は外、福は内」と言っているのは、現実問題としてお金がほしいのが本音じゃないか、と。
しかしこの川柳、当たらずとも遠からず、な気がいたします。
「鬼は外、福は内」
災厄を避け、お金が手に入ったり願いが叶ったり。これは、誰しもが臨む事でありますし、それを願いたくなる気持ちもわからなくは無いですが、確かに聞きようによっては、上のような川柳のように思えなくもなりません。
しかし、この「鬼」とは一体なんでしょうか?
この鬼は、要は「魔」を指すものです。豆をまくのも、「まめ」は「魔滅」に通ずるところから、と言われています。
一般的に「魔」と言えば、病気や事故、予期せぬ失敗など私の外からやってくる災厄、ということになるでしょう。
しかし、仏教的に「魔」を考えますと、これは私の心にある「煩悩」のことです。
私を悩ますのは、外から来る災厄ではなくて、私の心にある「煩悩」であると言うのが、仏教の考え方。
その「煩悩」とは、具体的には、自己中心的な考えにとらわれ、周りが見えなくなる心とでも申しましょうか、
自分の思い通りにならないと腹が立ったり、悲しくなったり、苦しくなったりする。その素となるのが、なんでも自分の思い通りにしたいと言う心、すなわち煩悩です。
仏教ではその「煩悩」こそが、自分を苦しめる「魔」と考えますから、「鬼は外」は、外からの災厄に襲われないように、ではなくて、自らの煩悩を無くしていこう、そう言う意味の言葉と考える事もできるかと思います。
しかし、豆をまいたり、豆を食べたからと言って、自分の煩悩をなくしていくことはできるわけではありません。
お腹が膨れても、しばらくすればまたお腹が空くのと同じように、私の「煩悩」も次から次へと涌いてくる物なのです。
ではどうするのか。
それが「福は内」ということ。
一般的に考えれば「福」となるのは、さっき書いたお金が手に入ったり、願い事や望みが叶うこと、と言えるかと思いますが、それは一時的な満足しか得られない物で、本当の「福」とはいえないのではないでしょうか。
本当の「福」とは、その私の心にある「魔」つまり「煩悩」とキチンと立ち向かうためのもの、となるかと思います。
つまり私たちにとって本当の「福」となるのは、仏法の教えにこそあり、それを聞いていくこと、それが「福は内」と言えるかと思います。
そう考えますと、「鬼は外、福は内」と言う言葉や、豆まきをするという行為は、災厄を避け、お金や願いを叶えるためのものではなく、仏法を聞いて、自らの内に潜む「魔」を見つめ、それと向き合っていく生き方をしていこう、そう言う意味のあるものとして捉えていくのが良いのかもしれません。
でなければ、「鬼は外、福は内」の声と共にまいているのは豆ではなく、「金ほしい」という自らの醜い欲望・煩悩の心、ということになってしまいますし、ね。