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思考の停止

最近自分でも怖いな、とよく考えることがあります。それは、思考の停止、ということ。これは私に限ったことかもしれませんが、特に法話を考えたりする時によく陥りそうになるんです。法話を作る際、いろんな話題を取り入れながら、浄土真宗の教えと結び合わせて法話を形作っていくのですけれども、必ず、阿弥陀仏とか、お念仏とか、浄土、と言うようなことについて話していかねばなりません。これは、浄土真宗の教えの大事なところですから、これらの事柄が抜けてしまうと、法話として成り立たないので、必ず法話の中に盛り込んでいくのですが、どうも、ここのところで思考停止してしまう感じがするんです。
つまり、阿弥陀仏やお念仏についてお話をさせていただく時に、誰にでもわかりやすいようにお話できるのか、というと、そうできていないんですね。ただ、阿弥陀仏とか、念仏とか、浄土という言葉を使う事によって、法話としての体裁を保つ事ばかり気にし、それらの言葉を使う事で安心してしまうといいますか、それ以上のところ、例えば、「阿弥陀仏ってどう言う存在?」とか、「浄土とは、どう言う世界?」というところまで、考えようとしなくなってしまうんです。水戸黄門の印籠のように、阿弥陀仏とか、浄土と言う言葉を使えば、法話が丸く収まる、そう言う風になってしまうんです。
もちろん、阿弥陀という存在や、浄土という世界が、一体どう言うものであるのか、ということは、お経や、それを解釈された書物に書かれてあることからしか判断できませんし、私の考えなど、遠く及ばないものであろうことは、わかっております。
しかし、お経やその解説書に書かれてあることは、抽象的過ぎたり、まるでおとぎ話のような例えであったり、かえってわかりにくく感じる事も多いですし、わからないからと言って、自分で納得のいっていない事を話すことは、怖いと言うか、自分でも話しながら、釈然としないな、と感じます。そういうわけで、わからないなりにも、専門的な言葉に頼って、思考停止してしまうのではなくて、考え続けていかなければならないなと感じます。

と、前置きが長くなりましたが、この「思考停止」ということは、法話を考える時だけではなく、自分自身いろんな局面であります。なんでも知ったような顔しながら、まだまだ知らないことだらけですし、いろんな問題に対して、意識が低いと感じることも多々あります。そんな私が言うのもおこがましいのですが、そういう思考の停止が、私に限ったことではないな、と言うことを、最近感じる事が増えたような気がします。
私は割とテレビをよく見るのですが、テレビを見てると、それを多く感じます。例えば、最近、マナーや常識についてのクイズ番組が多いのですが、確かにマナーや一般常識を持つ事は大事だな、と思うのですが、なぜそのマナーが行なわれるのか、どう言う意図があるのか、そしてそもそも、マナーって一体何のためにあるのか、と言うようなことが、全くそこでは考えられていないんです。つまり、これがマナーだから、やりなさい、とでもいうような。
或いは、そのマナーのいわれが語られている場合でも、マナーの起こりが、なんのことはないこじ付けからだったり、日本の伝統によく見られる言葉遊びや語呂合わせから来ていたりする物が、さも常識のようになっていることに、何の疑問も持たず、これがマナーだとして押し付ける。そしてその情報を我々は、また何の疑問も持たずに受け入れてしまう。それはもう、完全に思考の停止、ですよね。マナーや常識力も大切ですが、本当に大切なのは、相手を不快にさせないように、と言う心遣い、思いやりの気持ちなのですが、そう言う事は置き去りにされて、マナーだから、常識だから、というところで、思考がストップしてしまっているように感じてしまいます。

他にも、思考停止だな、と感じることは多々あります。ニュースを見ていて、政治家(与党も野党も)の主張や打ち出す政策が、その場しのぎの、選挙の事しか頭にないような短絡的で中途半端なものだったり、0か100か、あまりに両極端な議論に感じる事もそうですし、一つの事柄から、他のこともいっしょくたに一般化して語ってしまうようなこともそうでしょう。また、最近よく言われる、空気を読む、と言う事も、空気を読めるのが一般的には良いとされますし、時として必要なことでありますし、一見、よく考えているかのようですが、それは単に場を乱さないことしか考えてないということで、大切な議論や意見を封じ込めてしまうと言う意味では、ある意味思考の停止かもしれません。
また、マスコミの報道も、善と悪、白か黒かの二元論でしか物事を捉えがちである事や、感情的で偏った報道姿勢だったりしがちなことも、どこか世論に媚びいるようであり、思考停止している感じをうけますし、そんなマスコミの流す情報に対して何の疑問も持たずに、すべて真実だと錯覚してしまったり、虚構の、作られた流行に流されてしまう私もまた、思考停止してしまっているのです。

ではなぜ、人は思考停止してしまいがちなんでしょう。答えは簡単、楽、だからです。
人はそれぞれ、生活の中で、いろんな事をしながら生きています。仕事で考えないといけないこともありますし、家庭や家族の事、将来の事、お金のこと、人間関係などなど、いろいろ考えていかねばなりませんから、もうそれだけで手一杯です。ですから、自分の生活に大きく関わる事以外のことで頭を悩ませば、それだけ負担も増えるし、葛藤すると言うことは、苦しいものです。そういう苦しく負担となる事は、なるだけしたくないのでしょう。
また、自分の生活に関わる事であっても、難しく、深く考えるよりは、できるだけシンプルにより良い道を考える方が、頭を悩ます事も少なく、負担も軽いですから、どうしてもなるべく考えないようになっていきます。そうなると、多面的に物事を捉えるよりも、一つの視点に立って考えたり、白か黒か、自分にとって良いか悪いかと、二元的に考える方が考えやすいですし、何かしら指針となるものがあれば、もっと考えるのは簡単になっていきます。だから、占いの類が流行るのでしょう。
しかし、思考の停止というのは恐ろしい物で、先ほども書きましたが、与えられた情報を鵜呑みにしてしまい、物事の本質や、真実と言ったものを吟味することを忘れてしまいます。それはつまり、主観や感情、自分の都合でしか物事を判断できず、人を思いやる事ができなくなったり、短絡的なその場しのぎの道しか選べず、長期的な見通しができなくなってしまいます。それでは、いつか必ずどこかで行き詰まってしまうでしょう。
こういうことは、日常生活だけではなくて、宗教においてもありがちです。最初にも書きましたが、専門的な用語を持ち出して、それ以上を考えない事もそうですし、また、理解できない事や受け入れ難い事実が出てきた場合、何かしら不思議な力、神や仏、奇跡やたたりなど、形而上のものを持ち出すことによって、答えを作り出し、正しい原因をうやむやにしてしまうこともあります。虚妄の神や、超常的な力を謳い、わかりやすい答えを与えることで、人を惑わし騙そうとすると言う宗教すらあります。辛い現実から逃れるために、甘い言葉、わかりやすい答えにすがり、それを盲信してしまう事もまた、思考の停止でしょう。
しかし、正しく持った信心は、思考の停止ではありません。神仏に対し、本当の信心を持つことは、自らを捨てる、と言うことです。正しい信心というのは、絶対的なものに対して自らを委ねきる事ですが、そのためには、自己をとことんまで疑い、そして常に自分の持つ不実性や、理想の姿と現実の姿に葛藤する中に生じてくる物でしょう。ですから、正しく信心を持つということは、ただ単に与えられた答えに甘えたり、現実から逃げるために何かを盲信したりするのではなく、常に自分自身の現実と葛藤しつづける姿でありますから、思考停止ではなく、見習うべき姿といえるかと思います。

とは言え、何事も難しく考えたり、悩んだり、葛藤すればいい、というわけでもないかな、とも思います。美しい物を見たり聞いたりして美しいと感じる心は、ゴチャゴチャと頭で難しく考えて美しいと感じるわけではなく、感覚として感じるものでしょう。逆に、頭でゴチャゴチャ考えすぎるあまりに、本来感動できるものに対しても、感動できない、と言う場合もあります。ですから、何でも難しく考えさえすればよい、悩めばよい、というわけではないでしょうね。そう言う直感と言うか感性というものも、大切な物でありますし、磨いていくことは大切であると思います。
また、思考を停止させない、と言うことは大切ですが、とても難しい事でもあります。物事を結論付ける事や考えをまとめる事も、ある意味、そこで思考は止まってしまいますし、こうして文章を書くことも、何かしらの仮定や前提が無いと書けないのですが、仮定や前提を置くということは、特定の立場に身を置く、あるいは、一つの答えを決め付ける行為ですから、その前提からは離れられないと言う意味では思考停止でしょう。思考停止は良くない、とここにこうして書いていることすらも、一種の思考停止となる、わけです。
それに、思考を停止させないように心掛け、物事を多角的に考えようとしても、得られる情報には限りがあり、全てを知ることはできませんし、知りたくない現実というものもあります。また、我々にはどうしても「私」というもの、主観というものがありますので、そこから離れて、他の人の考えや気持ちを、ある程度察することはできても、完全に理解することはできません。
こんな偉そうなことを言ってる私も、社会のこと、世界で起こっている問題のこと、知らないことだらけですし、知りたくないと、目を背けてしまうこともあります。また、近しい人一人の気持ちすらわからないことが多々あり、それによって、相手を傷つけてしまうという経験も、数え切れないほどしてきました。そういう時には、やはり思考が止まってしまっているんですよね。そう思うと、思考を止めないというのは、やはり大変難しいことだな、と思います。

それでも、いろんなことを知ろうとすること、物事を一つの見方や、両極端に偏った見方をするのではなく、いろんな立場から考えることは大切ですし、100%他人の立場に立ったり、誰に対してもそうできるわけではありませんが、相手の気持ちを考えるということも、大切なことと思います。最近、マナーやモラルの欠如、ということが言われますが、人の気持ちを想う、思いやりということが、不足してしてきている結果なのかも、しれませんしね。
ともあれ、難しいこと、しんどいことではあるのですが、私自身も、なるべく思考を止めずに、いろんなことを知ることを心掛け、歩みつづけていかねばな、と思います。

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2006.4.26-
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