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なぜお寺へ行くのか?

先日、京都へ行きました折、ある有名なお寺へと、足を運びました。
私の場合、仏像が好きなので、仏像を見に、お寺へ参拝しよう、といつも思うのですが、ちょうどその日は日曜日、観光で有名なお寺、ということもあって、老若男女、たくさんの方がお参りに来られておりました。

賑わっているなあ、うらやましい、と思ったり、もうちょっと静かに参拝したかったな、なんて勝手なことを思っていたのですが、本堂前でお香をあげたり、そのお寺には、牛の石像があって、その牛が口にくわえている石の球を回すと、勝負運が上がる、なんてことがあるらしく、そこにたくさんの人が並んでおられました。
また、本堂の脇には、お坊さんの木造があり、その木造、もし体に悪いところがあるとき、その自分の悪い部分と、木造の同じ場所を撫でると良くなる、というようなこと言われているようで、そこにも何人かの方が並ばれており、その木造もよく撫でられたのか、頭やひざ、腰の部分が、つるつるになるほどでした。

そういう光景を見ていて、ふと、思ったのですが、みんな、何をしにお寺まいりをしているんでしょうか?
本来、仏教というのは、自分の欲望の素となる、自己中心的な思い、「煩悩(ボンノウ)」というものを無くしていきましょう、自分の心を乱す様な行いはやめて、心を正す行いをしましょう、というのが、一番の基本となる教え。ですからお寺も、本来は、その煩悩を抑え、心を正してをしていく場であるはずです。
ところがどっこい、お寺で見た光景は、まるでそれとは正反対。
いろんな願を掛けたり、勝負運が上がりますようにとか、もう煩悩丸出しというか、普段よりも激しく燃やしているんじゃないかと、思うほど。

もちろん、人それぞれ、深刻な悩みを抱えているでしょうから、切実な願い事を、仏さまに対して行うことは、駄目なこと、悪いことだ、と全否定するつもりはありません。ただ、お寺というところは、自分勝手な欲望を叶えるためにお願いをし、煩悩を盛んに燃やし、心を乱していく場所ではありません。
それとは反対で、自らの普段の生き方を振り返り、煩悩にまみれた、自分勝手な生き方・考え方を改め、正していこうとする場であるはずです。
ですから、ただ自分勝手なお願いをするだけではなくて、心静かに、自分自身と向き合い、自らあり方を問い、心を正していくことを、せめてお寺に参拝するときくらいは、して欲しいな、と思うわけです。
ただでさえ、普段は「ジブン」を撒き散らして、人のことは顧みずに、自分の陣地を広げ、囲うことばかりに心を砕き、自ら心を乱す生活をしているのですから、ね。

ま、私も人のこと言えた義理ではないですし、そういう人の欲望・煩悩をわざわざ掻き立てるようなことを、お寺の側がしているというのも問題なのかな、とも思うのですけど。

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2006.4.26-
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