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愚かと言うこと

最近、ガソリン高いですよね。それに伴ってか、物価も上昇し、生活は苦しくなる一方。毎日暑いのに、クーラー節約したりしなくちゃいけないし、地方に住んでおりますと、都市に比べ、年々生活環境が悪くなっていっているという印象も否めません。一体政治家や官僚は何をやっているんだ、日本はこの先どうなるんだ、なんて、思わない日はないくらいです。

と、こういうのを「愚痴」と言います。上に書いたように、不平不満を言うことを、愚痴をこぼす、と言ますよね。皆さんも、日々、いろんな愚痴をこぼされているのではないかな、と思います。
ところが、仏教で「愚痴」と言うと、一般的に使われる意味とは、少々意味が異なってまいります。
漢字を良く見て考えてもらえば、なんとなくわかるかと思うのですが、「愚」という字が使われている通り、愚かである、と言う意味です。「痴」という文字も、「おろか」という意味のある語ですので、「愚痴」と言うのは、愚かさを表す言葉と考えればよいかと思います。

では、「愚か」とはどういう意味か、と言うことですが、最近テレビでは、「おバカタレント」なるもので賑わっておるようですが、一般的に愚かと言うと、知識・教養のない者を指す言葉かな、と思います。
しかし、仏教では「愚か」というと、これまた少々趣が異なりまして、真理に疎い、真実に暗い、と言う意味になり、単純に知識がない、と言う意味ではありません。
では今度は、真実に疎いとは?と言うことになるかと思いますが、一言で言えば、物事の本当のあり方を知らない、ということです。物事の本当のあり方を知らないとどうなるかと申しますと、いろんな誤解をし、それによって苦しみが生れ、不平不満の意味の愚痴が出てくるということになります。

では物事の本当のあり方とは、いったいどういうことか、なんですが…
それはちょっと長くなるので、詳しくは書きません(笑)
ここからは、仏教的に愚かということを、なるべくわかりやすく考えてみたいと思います。
あ、少々長いので、ご注意をば。

で、仏教的に「愚か」とはどういうことか、ですが、一言で簡潔に言えば、勘違いしちゃってる、ってことです。何を勘違いしてるかと言うと、なんでも自分の思い通りにできる、ということと、因があれば必ず果が伴ってくる、ってこと。他にも、万物は常に変化しているのに、それを認められないことや、「自分」というのは決して揺るがない絶対の、特別な存在だと思っていることなども、我々が持つ勘違いです。
いやいや、そんな風には思ってない!ですって?
でも、自分の思い通りにならないと、腹立つことないですか?
努力して、いい結果が出てこないと、なんで?こんなのおかしい!って思いません?
それはつまり、勘違いしている、ということ。
本当は、自分の思い通りになることなんて少ないし、
努力したからと言って、その努力が必ず実るとは限りません。
努力は、成功の単なる条件にもかかわらず、原因のように考えてしまうことも勘違いですし、
因となる種を植えたからと言って、水や気候などの様々な縁(条件)が整わないと、花は咲かないのですが、種さえあれば、花は咲く、というように思ってしまうことも勘違いです。
それが実は、真実のあり方、ということなのですが、なかなかそうは思えないのが私たち。なんでも自分の思い通りにできる、という勘違いの「愚痴」の心から、なんでも思い通りにしたい!と欲する心=「貪欲(とんよく)」の心が芽生え、それが満たされないと今度は怒り・憎しみの心=「瞋恚(しんに)」の心が出てきます。それによって、いろんな悩み苦しみと言うものが、巻き起こってくるのです。それが、心のうちだけにあるならいいのですが、臨界点を超えると、恐ろしい行動となって、現われてきてしまうのです。
最近のショッキングな事件なども、ゲームや映画の影響、家庭の事情、働きづらい社会環境など、さまざまな事が原因のように語られていますが、それは単なる条件でしかなく、なんでも自分の思い通りにできるとか、努力は必ず報われる、と言う勘違いの「愚痴」の心が、私たち人間の心にあることが根本的な原因と考えられると思います。そのような勘違いから、悪いのは自分ではなく、殺害相手だったり社会だったりと思いこみ、怒りの矛先が向けられてしまっているのではないでしょうか。

しかし、こんなこと言うと、仏教には夢も希望も無えな、とか、努力を否定しているように思われるかもしれません。しかし、そういうことが言いたいわけではありません。努力は、成功と言う結果の条件となりうるものですから、それを整えることで、成功する確率は上がるでしょうから、努力は無駄だというつもりは毛頭ありません。
また、確かにどこか冷めたと言うか、夢も希望もない考え方に感じるかもしれないですが、様々に起こってくる悩み苦しみの原因を、外的な要因に求めてしまうと、キリがありません。自分の勘違いの心にあるんだ、と思えば、自分の心さえ何とかすればいいわけですから、よほど効率的です。まあ、自分の心さえ、思い通りにできないのが人間なのですが、そう考えられるようになる方が、挫折からも早く立ち直れるかもしれませんし、むやみに人を傷つけたりしなくて済むのではないでしょうか。

例えば、悩み事の代表的なものに、恋愛があるかな、と思います。
人を好きになる、と言うことは、幸せな気分になれるものですが、なんでも自分の思い通りにできるという勘違いの愚痴の心があると、なんとしても相手を振り向かせたい気持ち(貪欲)に駆られ、それでも相手が自分の方を向いてくれない場合、なんでこんなに好きなのに、頑張ってるのに、わかってくれないの?と言う気持ち(瞋恚)になります。それが行き過ぎると、好きな人のはずが憎くなったりして、恐ろしい行動に出てしまうということもあります。
仮にうまく恋が実り、付き合うことになっても、自分の想いと、相手の想いにズレがあったりすると、同じようなことが起こります。なんでも自分の思い通りにできるとか、努力は必ず報われるという勘違いの愚痴の心があると、相手に求めることが強くなりすぎて、それが叶えられないと、喧嘩になったり、相手にとって重荷になって、うまくいかなくなったりしてしまいます。
恋愛以外にも言えますが、どんな人であっても、その人は自分ではないのですから、自分の思い通りになるはずがありません。そのことをわきまえておけば、恋愛の悩み事や、人付き合いの悩み事も、少しは楽になったり、円滑になったりするかもしれません。

また、受験や就職、仕事での失敗などなど、いろんな場面で挫折を味わうこともあるでしょう。その苦しみもまた同じように、私たちの勘違いが大本にありますから、思い通りにできるというのは、自分の勘違いで、その勘違いによって、苦しいのだと考えれば、他の人に迷惑を掛けたり、何かのせいにして、それに怒りの矛先を向けてしまう、ということも、なくなるのではないかと思います。

まあ、毎回のことですが、言うのは簡単ですが、実践するとなると、なかなかに難しいことです。こんなことを言っている私も、もちろん実践できておらず、物事がうまくいかないと腹も立つし、なんでやねんと、悩み苦しんでます(笑)
けれど、私たちの苦しみと言うのは、自分の外からの刺激を受けて生まれるのですが、生み出すのは、なんでも自分の思い通りにできる!努力は必ず報われる!という、自分の勘違いの心=「愚痴」の心です。もちろん、自分の外にあるものを変えることもできますが、そこには、必ず反発が伴うでしょうし、余計にこじれることもあるでしょうし、外からの苦を生み出す刺激は、一つ解決しても、次から次へとやってくるもの。すべてを解決することなど、できようはずもありません。
ですから、ブチブチと愚痴をこぼすのもいいですが、勘違いの心から、自らの心を醜く汚したり、人に嫌な思いさせる前に、自分の勘違いの心をきちんと見つめ、思い通りにならずに、満たされなかったり、腹が立ったりした時には、ああ、自分はまた勘違いをしているぞ、と思えれば、少しはその怒りや、自らを苦しめる心も静まるかな、と思います。

とまあ、久しぶりに書いたら長くなってしまった上に、あまりシャカ斬りっぽくない感じになってしまいましたね(笑)
でもまあ、自分は絶対だ、特別だ、なんでも思い通りにできる、そういう勘違いが心の根っこにあるのが私たち。
そういう心の根っこにある勘違いが、苦しみのもとであり、社会問題にもつながるもので、それを何とかしよう、と言うのが、仏教の基礎でもありますから、
今回はその辺の勘違いを斬らせていただいた、ということで。

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2006.4.26-
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