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   <title>シャカ斬り</title>
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   <title>愚かと言うこと</title>
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   <published>2008-07-25T12:17:03Z</published>
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      <name>ケンユウ</name>
      
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      近、ガソリン高いですよね。それに伴ってか、物価も上昇し、生活は苦しくなる一方。毎日暑いのに、クーラー節約したりしなくちゃいけないし、地方に住んでおりますと、都市に比べ、年々生活環境が悪くなっていっているという印象も否めません。一体政治家や官僚は何をやっているんだ、日本はこの先どうなるんだ、なんて、思わない日はないくらいです。

と、こういうのを「愚痴」と言います。上に書いたように、不平不満を言うことを、愚痴をこぼす、と言ますよね。皆さんも、日々、いろんな愚痴をこぼされているのではないかな、と思います。
ところが、仏教で「愚痴」と言うと、一般的に使われる意味とは、少々意味が異なってまいります。
漢字を良く見て考えてもらえば、なんとなくわかるかと思うのですが、「愚」という字が使われている通り、愚かである、と言う意味です。「痴」という文字も、「おろか」という意味のある語ですので、「愚痴」と言うのは、愚かさを表す言葉と考えればよいかと思います。

では、「愚か」とはどういう意味か、と言うことですが、最近テレビでは、「おバカタレント」なるもので賑わっておるようですが、一般的に愚かと言うと、知識・教養のない者を指す言葉かな、と思います。
しかし、仏教では「愚か」というと、これまた少々趣が異なりまして、真理に疎い、真実に暗い、と言う意味になり、単純に知識がない、と言う意味ではありません。
では今度は、真実に疎いとは？と言うことになるかと思いますが、一言で言えば、物事の本当のあり方を知らない、ということです。物事の本当のあり方を知らないとどうなるかと申しますと、いろんな誤解をし、それによって苦しみが生れ、不平不満の意味の愚痴が出てくるということになります。

では物事の本当のあり方とは、いったいどういうことか、なんですが…
それはちょっと長くなるので、詳しくは書きません(笑)
ここからは、仏教的に愚かということを、なるべくわかりやすく考えてみたいと思います。
あ、少々長いので、ご注意をば。

      で、仏教的に「愚か」とはどういうことか、ですが、一言で簡潔に言えば、勘違いしちゃってる、ってことです。何を勘違いしてるかと言うと、なんでも自分の思い通りにできる、ということと、因があれば必ず果が伴ってくる、ってこと。他にも、万物は常に変化しているのに、それを認められないことや、「自分」というのは決して揺るがない絶対の、特別な存在だと思っていることなども、我々が持つ勘違いです。
いやいや、そんな風には思ってない！ですって？
でも、自分の思い通りにならないと、腹立つことないですか？
努力して、いい結果が出てこないと、なんで？こんなのおかしい！って思いません？
それはつまり、勘違いしている、ということ。
本当は、自分の思い通りになることなんて少ないし、
努力したからと言って、その努力が必ず実るとは限りません。
努力は、成功の単なる条件にもかかわらず、原因のように考えてしまうことも勘違いですし、
因となる種を植えたからと言って、水や気候などの様々な縁(条件)が整わないと、花は咲かないのですが、種さえあれば、花は咲く、というように思ってしまうことも勘違いです。
それが実は、真実のあり方、ということなのですが、なかなかそうは思えないのが私たち。なんでも自分の思い通りにできる、という勘違いの「愚痴」の心から、なんでも思い通りにしたい！と欲する心＝「貪欲(とんよく)」の心が芽生え、それが満たされないと今度は怒り・憎しみの心＝「瞋恚(しんに)」の心が出てきます。それによって、いろんな悩み苦しみと言うものが、巻き起こってくるのです。それが、心のうちだけにあるならいいのですが、臨界点を超えると、恐ろしい行動となって、現われてきてしまうのです。
最近のショッキングな事件なども、ゲームや映画の影響、家庭の事情、働きづらい社会環境など、さまざまな事が原因のように語られていますが、それは単なる条件でしかなく、なんでも自分の思い通りにできるとか、努力は必ず報われる、と言う勘違いの「愚痴」の心が、私たち人間の心にあることが根本的な原因と考えられると思います。そのような勘違いから、悪いのは自分ではなく、殺害相手だったり社会だったりと思いこみ、怒りの矛先が向けられてしまっているのではないでしょうか。

しかし、こんなこと言うと、仏教には夢も希望も無えな、とか、努力を否定しているように思われるかもしれません。しかし、そういうことが言いたいわけではありません。努力は、成功と言う結果の条件となりうるものですから、それを整えることで、成功する確率は上がるでしょうから、努力は無駄だというつもりは毛頭ありません。
また、確かにどこか冷めたと言うか、夢も希望もない考え方に感じるかもしれないですが、様々に起こってくる悩み苦しみの原因を、外的な要因に求めてしまうと、キリがありません。自分の勘違いの心にあるんだ、と思えば、自分の心さえ何とかすればいいわけですから、よほど効率的です。まあ、自分の心さえ、思い通りにできないのが人間なのですが、そう考えられるようになる方が、挫折からも早く立ち直れるかもしれませんし、むやみに人を傷つけたりしなくて済むのではないでしょうか。

例えば、悩み事の代表的なものに、恋愛があるかな、と思います。
人を好きになる、と言うことは、幸せな気分になれるものですが、なんでも自分の思い通りにできるという勘違いの愚痴の心があると、なんとしても相手を振り向かせたい気持ち(貪欲)に駆られ、それでも相手が自分の方を向いてくれない場合、なんでこんなに好きなのに、頑張ってるのに、わかってくれないの？と言う気持ち(瞋恚)になります。それが行き過ぎると、好きな人のはずが憎くなったりして、恐ろしい行動に出てしまうということもあります。
仮にうまく恋が実り、付き合うことになっても、自分の想いと、相手の想いにズレがあったりすると、同じようなことが起こります。なんでも自分の思い通りにできるとか、努力は必ず報われるという勘違いの愚痴の心があると、相手に求めることが強くなりすぎて、それが叶えられないと、喧嘩になったり、相手にとって重荷になって、うまくいかなくなったりしてしまいます。
恋愛以外にも言えますが、どんな人であっても、その人は自分ではないのですから、自分の思い通りになるはずがありません。そのことをわきまえておけば、恋愛の悩み事や、人付き合いの悩み事も、少しは楽になったり、円滑になったりするかもしれません。

また、受験や就職、仕事での失敗などなど、いろんな場面で挫折を味わうこともあるでしょう。その苦しみもまた同じように、私たちの勘違いが大本にありますから、思い通りにできるというのは、自分の勘違いで、その勘違いによって、苦しいのだと考えれば、他の人に迷惑を掛けたり、何かのせいにして、それに怒りの矛先を向けてしまう、ということも、なくなるのではないかと思います。

まあ、毎回のことですが、言うのは簡単ですが、実践するとなると、なかなかに難しいことです。こんなことを言っている私も、もちろん実践できておらず、物事がうまくいかないと腹も立つし、なんでやねんと、悩み苦しんでます(笑)
けれど、私たちの苦しみと言うのは、自分の外からの刺激を受けて生まれるのですが、生み出すのは、なんでも自分の思い通りにできる！努力は必ず報われる！という、自分の勘違いの心＝「愚痴」の心です。もちろん、自分の外にあるものを変えることもできますが、そこには、必ず反発が伴うでしょうし、余計にこじれることもあるでしょうし、外からの苦を生み出す刺激は、一つ解決しても、次から次へとやってくるもの。すべてを解決することなど、できようはずもありません。
ですから、ブチブチと愚痴をこぼすのもいいですが、勘違いの心から、自らの心を醜く汚したり、人に嫌な思いさせる前に、自分の勘違いの心をきちんと見つめ、思い通りにならずに、満たされなかったり、腹が立ったりした時には、ああ、自分はまた勘違いをしているぞ、と思えれば、少しはその怒りや、自らを苦しめる心も静まるかな、と思います。

とまあ、久しぶりに書いたら長くなってしまった上に、あまりシャカ斬りっぽくない感じになってしまいましたね(笑)
でもまあ、自分は絶対だ、特別だ、なんでも思い通りにできる、そういう勘違いが心の根っこにあるのが私たち。
そういう心の根っこにある勘違いが、苦しみのもとであり、社会問題にもつながるもので、それを何とかしよう、と言うのが、仏教の基礎でもありますから、
今回はその辺の勘違いを斬らせていただいた、ということで。


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   <title>なぜお寺へ行くのか？</title>
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   <published>2008-06-17T11:19:59Z</published>
   <updated>2008-06-17T11:20:46Z</updated>
   
   <summary>先日、京都へ行きました折、ある有名なお寺へと、足を運びました。 私の場合、仏像が...</summary>
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      <name>ケンユウ</name>
      
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      先日、京都へ行きました折、ある有名なお寺へと、足を運びました。
私の場合、仏像が好きなので、仏像を見に、お寺へ参拝しよう、といつも思うのですが、ちょうどその日は日曜日、観光で有名なお寺、ということもあって、老若男女、たくさんの方がお参りに来られておりました。

賑わっているなあ、うらやましい、と思ったり、もうちょっと静かに参拝したかったな、なんて勝手なことを思っていたのですが、本堂前でお香をあげたり、そのお寺には、牛の石像があって、その牛が口にくわえている石の球を回すと、勝負運が上がる、なんてことがあるらしく、そこにたくさんの人が並んでおられました。
また、本堂の脇には、お坊さんの木造があり、その木造、もし体に悪いところがあるとき、その自分の悪い部分と、木造の同じ場所を撫でると良くなる、というようなこと言われているようで、そこにも何人かの方が並ばれており、その木造もよく撫でられたのか、頭やひざ、腰の部分が、つるつるになるほどでした。

そういう光景を見ていて、ふと、思ったのですが、みんな、何をしにお寺まいりをしているんでしょうか？
本来、仏教というのは、自分の欲望の素となる、自己中心的な思い、「煩悩(ボンノウ)」というものを無くしていきましょう、自分の心を乱す様な行いはやめて、心を正す行いをしましょう、というのが、一番の基本となる教え。ですからお寺も、本来は、その煩悩を抑え、心を正してをしていく場であるはずです。
ところがどっこい、お寺で見た光景は、まるでそれとは正反対。
いろんな願を掛けたり、勝負運が上がりますようにとか、もう煩悩丸出しというか、普段よりも激しく燃やしているんじゃないかと、思うほど。

もちろん、人それぞれ、深刻な悩みを抱えているでしょうから、切実な願い事を、仏さまに対して行うことは、駄目なこと、悪いことだ、と全否定するつもりはありません。ただ、お寺というところは、自分勝手な欲望を叶えるためにお願いをし、煩悩を盛んに燃やし、心を乱していく場所ではありません。
それとは反対で、自らの普段の生き方を振り返り、煩悩にまみれた、自分勝手な生き方・考え方を改め、正していこうとする場であるはずです。
ですから、ただ自分勝手なお願いをするだけではなくて、心静かに、自分自身と向き合い、自らあり方を問い、心を正していくことを、せめてお寺に参拝するときくらいは、して欲しいな、と思うわけです。
ただでさえ、普段は「ジブン」を撒き散らして、人のことは顧みずに、自分の陣地を広げ、囲うことばかりに心を砕き、自ら心を乱す生活をしているのですから、ね。

ま、私も人のこと言えた義理ではないですし、そういう人の欲望・煩悩をわざわざ掻き立てるようなことを、お寺の側がしているというのも問題なのかな、とも思うのですけど。

      
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   <title>思考の停止</title>
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   <published>2008-05-24T12:55:31Z</published>
   <updated>2008-05-24T14:49:14Z</updated>
   
   <summary>最近自分でも怖いな、とよく考えることがあります。それは、思考の停止、ということ。...</summary>
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      <name>ケンユウ</name>
      
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         <category term="自事斬り" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.merry-shaka.com/giri/">
      最近自分でも怖いな、とよく考えることがあります。それは、思考の停止、ということ。これは私に限ったことかもしれませんが、特に法話を考えたりする時によく陥りそうになるんです。法話を作る際、いろんな話題を取り入れながら、浄土真宗の教えと結び合わせて法話を形作っていくのですけれども、必ず、阿弥陀仏とか、お念仏とか、浄土、と言うようなことについて話していかねばなりません。これは、浄土真宗の教えの大事なところですから、これらの事柄が抜けてしまうと、法話として成り立たないので、必ず法話の中に盛り込んでいくのですが、どうも、ここのところで思考停止してしまう感じがするんです。
つまり、阿弥陀仏やお念仏についてお話をさせていただく時に、誰にでもわかりやすいようにお話できるのか、というと、そうできていないんですね。ただ、阿弥陀仏とか、念仏とか、浄土という言葉を使う事によって、法話としての体裁を保つ事ばかり気にし、それらの言葉を使う事で安心してしまうといいますか、それ以上のところ、例えば、「阿弥陀仏ってどう言う存在？」とか、「浄土とは、どう言う世界？」というところまで、考えようとしなくなってしまうんです。水戸黄門の印籠のように、阿弥陀仏とか、浄土と言う言葉を使えば、法話が丸く収まる、そう言う風になってしまうんです。
もちろん、阿弥陀という存在や、浄土という世界が、一体どう言うものであるのか、ということは、お経や、それを解釈された書物に書かれてあることからしか判断できませんし、私の考えなど、遠く及ばないものであろうことは、わかっております。
しかし、お経やその解説書に書かれてあることは、抽象的過ぎたり、まるでおとぎ話のような例えであったり、かえってわかりにくく感じる事も多いですし、わからないからと言って、自分で納得のいっていない事を話すことは、怖いと言うか、自分でも話しながら、釈然としないな、と感じます。そういうわけで、わからないなりにも、専門的な言葉に頼って、思考停止してしまうのではなくて、考え続けていかなければならないなと感じます。

と、前置きが長くなりましたが、この「思考停止」ということは、法話を考える時だけではなく、自分自身いろんな局面であります。なんでも知ったような顔しながら、まだまだ知らないことだらけですし、いろんな問題に対して、意識が低いと感じることも多々あります。そんな私が言うのもおこがましいのですが、そういう思考の停止が、私に限ったことではないな、と言うことを、最近感じる事が増えたような気がします。
私は割とテレビをよく見るのですが、テレビを見てると、それを多く感じます。例えば、最近、マナーや常識についてのクイズ番組が多いのですが、確かにマナーや一般常識を持つ事は大事だな、と思うのですが、なぜそのマナーが行なわれるのか、どう言う意図があるのか、そしてそもそも、マナーって一体何のためにあるのか、と言うようなことが、全くそこでは考えられていないんです。つまり、これがマナーだから、やりなさい、とでもいうような。
或いは、そのマナーのいわれが語られている場合でも、マナーの起こりが、なんのことはないこじ付けからだったり、日本の伝統によく見られる言葉遊びや語呂合わせから来ていたりする物が、さも常識のようになっていることに、何の疑問も持たず、これがマナーだとして押し付ける。そしてその情報を我々は、また何の疑問も持たずに受け入れてしまう。それはもう、完全に思考の停止、ですよね。マナーや常識力も大切ですが、本当に大切なのは、相手を不快にさせないように、と言う心遣い、思いやりの気持ちなのですが、そう言う事は置き去りにされて、マナーだから、常識だから、というところで、思考がストップしてしまっているように感じてしまいます。

      他にも、思考停止だな、と感じることは多々あります。ニュースを見ていて、政治家(与党も野党も)の主張や打ち出す政策が、その場しのぎの、選挙の事しか頭にないような短絡的で中途半端なものだったり、０か１００か、あまりに両極端な議論に感じる事もそうですし、一つの事柄から、他のこともいっしょくたに一般化して語ってしまうようなこともそうでしょう。また、最近よく言われる、空気を読む、と言う事も、空気を読めるのが一般的には良いとされますし、時として必要なことでありますし、一見、よく考えているかのようですが、それは単に場を乱さないことしか考えてないということで、大切な議論や意見を封じ込めてしまうと言う意味では、ある意味思考の停止かもしれません。
また、マスコミの報道も、善と悪、白か黒かの二元論でしか物事を捉えがちである事や、感情的で偏った報道姿勢だったりしがちなことも、どこか世論に媚びいるようであり、思考停止している感じをうけますし、そんなマスコミの流す情報に対して何の疑問も持たずに、すべて真実だと錯覚してしまったり、虚構の、作られた流行に流されてしまう私もまた、思考停止してしまっているのです。

ではなぜ、人は思考停止してしまいがちなんでしょう。答えは簡単、楽、だからです。
人はそれぞれ、生活の中で、いろんな事をしながら生きています。仕事で考えないといけないこともありますし、家庭や家族の事、将来の事、お金のこと、人間関係などなど、いろいろ考えていかねばなりませんから、もうそれだけで手一杯です。ですから、自分の生活に大きく関わる事以外のことで頭を悩ませば、それだけ負担も増えるし、葛藤すると言うことは、苦しいものです。そういう苦しく負担となる事は、なるだけしたくないのでしょう。
また、自分の生活に関わる事であっても、難しく、深く考えるよりは、できるだけシンプルにより良い道を考える方が、頭を悩ます事も少なく、負担も軽いですから、どうしてもなるべく考えないようになっていきます。そうなると、多面的に物事を捉えるよりも、一つの視点に立って考えたり、白か黒か、自分にとって良いか悪いかと、二元的に考える方が考えやすいですし、何かしら指針となるものがあれば、もっと考えるのは簡単になっていきます。だから、占いの類が流行るのでしょう。
しかし、思考の停止というのは恐ろしい物で、先ほども書きましたが、与えられた情報を鵜呑みにしてしまい、物事の本質や、真実と言ったものを吟味することを忘れてしまいます。それはつまり、主観や感情、自分の都合でしか物事を判断できず、人を思いやる事ができなくなったり、短絡的なその場しのぎの道しか選べず、長期的な見通しができなくなってしまいます。それでは、いつか必ずどこかで行き詰まってしまうでしょう。
こういうことは、日常生活だけではなくて、宗教においてもありがちです。最初にも書きましたが、専門的な用語を持ち出して、それ以上を考えない事もそうですし、また、理解できない事や受け入れ難い事実が出てきた場合、何かしら不思議な力、神や仏、奇跡やたたりなど、形而上のものを持ち出すことによって、答えを作り出し、正しい原因をうやむやにしてしまうこともあります。虚妄の神や、超常的な力を謳い、わかりやすい答えを与えることで、人を惑わし騙そうとすると言う宗教すらあります。辛い現実から逃れるために、甘い言葉、わかりやすい答えにすがり、それを盲信してしまう事もまた、思考の停止でしょう。
しかし、正しく持った信心は、思考の停止ではありません。神仏に対し、本当の信心を持つことは、自らを捨てる、と言うことです。正しい信心というのは、絶対的なものに対して自らを委ねきる事ですが、そのためには、自己をとことんまで疑い、そして常に自分の持つ不実性や、理想の姿と現実の姿に葛藤する中に生じてくる物でしょう。ですから、正しく信心を持つということは、ただ単に与えられた答えに甘えたり、現実から逃げるために何かを盲信したりするのではなく、常に自分自身の現実と葛藤しつづける姿でありますから、思考停止ではなく、見習うべき姿といえるかと思います。

とは言え、何事も難しく考えたり、悩んだり、葛藤すればいい、というわけでもないかな、とも思います。美しい物を見たり聞いたりして美しいと感じる心は、ゴチャゴチャと頭で難しく考えて美しいと感じるわけではなく、感覚として感じるものでしょう。逆に、頭でゴチャゴチャ考えすぎるあまりに、本来感動できるものに対しても、感動できない、と言う場合もあります。ですから、何でも難しく考えさえすればよい、悩めばよい、というわけではないでしょうね。そう言う直感と言うか感性というものも、大切な物でありますし、磨いていくことは大切であると思います。
また、思考を停止させない、と言うことは大切ですが、とても難しい事でもあります。物事を結論付ける事や考えをまとめる事も、ある意味、そこで思考は止まってしまいますし、こうして文章を書くことも、何かしらの仮定や前提が無いと書けないのですが、仮定や前提を置くということは、特定の立場に身を置く、あるいは、一つの答えを決め付ける行為ですから、その前提からは離れられないと言う意味では思考停止でしょう。思考停止は良くない、とここにこうして書いていることすらも、一種の思考停止となる、わけです。
それに、思考を停止させないように心掛け、物事を多角的に考えようとしても、得られる情報には限りがあり、全てを知ることはできませんし、知りたくない現実というものもあります。また、我々にはどうしても「私」というもの、主観というものがありますので、そこから離れて、他の人の考えや気持ちを、ある程度察することはできても、完全に理解することはできません。
こんな偉そうなことを言ってる私も、社会のこと、世界で起こっている問題のこと、知らないことだらけですし、知りたくないと、目を背けてしまうこともあります。また、近しい人一人の気持ちすらわからないことが多々あり、それによって、相手を傷つけてしまうという経験も、数え切れないほどしてきました。そういう時には、やはり思考が止まってしまっているんですよね。そう思うと、思考を止めないというのは、やはり大変難しいことだな、と思います。

それでも、いろんなことを知ろうとすること、物事を一つの見方や、両極端に偏った見方をするのではなく、いろんな立場から考えることは大切ですし、100％他人の立場に立ったり、誰に対してもそうできるわけではありませんが、相手の気持ちを考えるということも、大切なことと思います。最近、マナーやモラルの欠如、ということが言われますが、人の気持ちを想う、思いやりということが、不足してしてきている結果なのかも、しれませんしね。
ともあれ、難しいこと、しんどいことではあるのですが、私自身も、なるべく思考を止めずに、いろんなことを知ることを心掛け、歩みつづけていかねばな、と思います。
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   <title>人を殺すのは誰？</title>
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   <published>2008-03-30T15:03:03Z</published>
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   <summary>「うーん、やっぱりあの人怪しいなあ、あの人が犯人じゃない？」 「こんな酷い事する...</summary>
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      <name>ケンユウ</name>
      
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      「うーん、やっぱりあの人怪しいなあ、あの人が犯人じゃない？」

「こんな酷い事する奴は、やっぱり死刑にするしかないよね…」

「人殺しておいて、未成年だからって、許されていいんかなあ？」

「あんな酷い事して平気でいられるなんて、うーん、ちょっと理解できない…」

テレビを見ていると、毎日多くの殺人事件の報道がなされています。
上に書いた言葉は、それを見た時の、私の素直なリアクションです。
犯人の見つからない事件があれば、それをサスペンス映画でも見るような感覚で、誰が犯人かを考えたり、
犯人が捕まったら捕まったらで、その人を勝手に断罪し、死刑を望む。
それが仮に未成年であっても、やはり人を殺した事に変わりはないと、同じように、極刑を求める。
自分に理解できない事があれば、他人をたやすく異常者扱いをしてしまう…
それが、偽り無い自分の姿です。


もちろん、人を殺す、ということは、許されるべき行為ではありません。
人一人を殺すという行為は、
一人の命を奪うだけではなく、多くの人を悲しみ･怒り･憎しみという負の感情の渦へと巻き込み、
そして自分の命をも傷つける行為です。
いや、全ての命は繋がって存在すると考えるならば、人一人を殺すことは、全ての命を傷つける行為といってもいいかもしれません。
そう言う行為は、すべきではないし、もしそう言う行為をしてしまった人は、
社会のルールに沿って、それ相応の罰を受けなければならないでしょうし、
遺族からの怒りや、社会的な制裁も受けなければならないでしょう。

しかしどうでしょうか。
私は、その犯罪に直接関係した被害者側でも加害者側の人間でもなく、
法を元に人を裁き、或いは人を護る立場にもいない、単なる第三者です。
その無関係な第三者が、まるでドラマや映画を見るような感覚で、面白おかしく、偏った情報だけで人を犯罪者扱いし、その人の事を何も知らずに批判し、そして勝手に命を終わらせようとする。
犯罪に関係ない第三者だからとは言え、他人事のようにそのような犯罪に向き合うだけでよいのでしょうか。
おいおい、お前自身がそうなのに、自分の事を棚に上げてこういうことを言うのは筋違いでは？と思われる方もおられるでしょう。
それはごもっともなことで、私も自分で書きながら、全く説得力に欠けるし、馬鹿げているな、と思います。
しかし、そのように面白おかしく、他人事のように犯罪に向き合い、人をたやすく非難する私、あるいは、自分のことは棚に挙げて、偉そうな事語る私も、実はいつ加害者の立場になってもおかしくない身であるのです。

『歎異抄』という書物の中で親鸞聖人は、「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」ということをおっしゃっておられます。これは、縁、いろんな条件さえ整えば、我々人間は、どんな行いをしでかしてもおかしくは無い身である、ということをおっしゃっているのです。
また同じ『歎異抄』の中で、我々が人を殺していないのは、ただその条件が整っていないだけで、決して清い心を持っているから殺しをしていないわけではないし、殺すまいと思っていても、人を殺めてしまうこともある、ということもおっしゃっておられます。
つまり、私たちは、人殺しなどしない、人を殺す気持ちなどわからない、と自分自身では思っていますが、今まで人を殺めた事がないのは、心が清いからではなくて、単にその条件が整っていないだけであって、社会的に極限まで追い詰められたり、自分の命の危機に直面したり、味わった事のない絶望に打ちひしがれたり、押さえようの無い怒りや憎しみに心を支配されたりした時には、人を殺してしまうこともあるかもしれません。
また、全く意図せずとも、事故等によって、人を殺めてしまうこともあるでしょう。
殺人事件のニュースを見て、第三者的に、無責任な思いを持ってしまう私ですが、
実は決して第三者などではなく、いつ加害者の側に回るとも限らない存在なのです。

こんな事を言うと、罪を犯すことに対して、開き直っていると思われたり、加害者の行いを肯定しているように思われたりするかもしれませんが、そうではありません。
他の命を傷つける行為は、先ほども書きましたが、決して許されることではないのですが、
人の事を責めるのではなく、まず自分の姿を正しく見つめ、決して自分は常に正しい存在であるわけではない、ということを考えなければならないと言うことです。

とは言え、事件の報道を見て、それを批判するな、と言いたいわけではありません。人それぞれにいろいろ思うこともあるでしょうし、第三者的な、客観的な物の見方が重要になることもあります。
しかし、最近は凶悪犯罪に関して、過度で偏った視点からの報道も見受けられます。そのような報道に流されて、単に他人事として面白半分で事件を見るのではなく、自らもいつそうなるかわからない身であると、自分の姿を正しく見つめなおす事も、大切なのだと思います。
自分を正しく見つめていくことは、他人に対して思いやりの心を持つことにも、繋がることでもありますし、そこから少し、変わっていく事もあるかもしれません。

ま、私も人の事を言うだけでなく、自分がまずそうしていかねばならないのですけど、ね。
      
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   <title>食品、奥から取りますか？</title>
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   <published>2008-03-13T08:35:54Z</published>
   <updated>2008-03-13T08:38:08Z</updated>
   
   <summary>ちまたで話題の消費期限。  気にする人が増えたと思いますが、賞味・消費期限の長い...</summary>
   <author>
      <name>るる</name>
      
   </author>
         <category term="時事斬り" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.merry-shaka.com/giri/">
      ちまたで話題の消費期限。 
気にする人が増えたと思いますが、賞味・消費期限の長いものから買いますか？ 

先日、こんな話を聞きました。 

そこそこ考えて買い物をするひとは、賞味・消費期限の長いものから買う。 
でも、本当に志のある人は、あえて期限の短いものを買って、期限までに使い切る努力をする。 

なぜかというと。 
日本の食品の廃棄量は、とてつもなく多い。 
もったいない。もったいない。
だから。 

「この食品は、今私が買わなければ、廃棄されるかもしれない。でも、今私が買えば無駄なごみにならない、もったいなくない」と考えるのだ、と。 

スーパーの見切り品コーナーには、今日明日の消費期限となったものがどさっと置いてあって、少し痛みかけてる野菜や果物が並んでます。お魚お肉もしかり。家計節約のためにこれらを買うことはよくありますが、それだけじゃない意味があるんですね。

販売側の工夫もあったらいいな。
お肉お魚お野菜のいわゆる“見切り品”。
それぞれをワゴンにどさっと乗せたり、隅においやったりしないで、【今晩の献立はこの中からどうぞ！】ってひとまとめにして、ｅｃｏシール＝３割引みたいにしてくれたら、無駄なく買える気がします。

出来ないことないと思うけどね。その分の人件費や経費、廃棄に比べたらエコじゃない？

確かに、健康被害があるかもしれないから、それは注意しないといけない。
でも、自分だけは、自分の家だけは安心安全なものを購入すればいい、ってだけなら、それはエゴというものかもしれません。
買い物かごをもう一度、見てみよう。
エゴの塊ばかり、になってないかな・・・

エゴから、エコへ。
今夜の献立のための買い物だけ、って所から始められる。
視野が広がる、背筋が伸びる、そういう買い物が出来そうです。




      
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   <title>鬼は外、福は内</title>
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   <published>2008-02-03T12:31:27Z</published>
   <updated>2008-02-03T12:33:29Z</updated>
   
   <summary>今日は節分ですね。皆さんも豆まきをしたり、年の数だけ豆を食べたりしたでしょうか？...</summary>
   <author>
      <name>ケンユウ</name>
      
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      <![CDATA[今日は節分ですね。皆さんも豆まきをしたり、年の数だけ豆を食べたりしたでしょうか？最近では、関西の風習だった恵方巻きを食べる習慣も、全国的に浸透しつつあるそうですね。

さて、そんな節分。豆まきと言えば、「鬼は外、福は内」ですよね。これがもう決り文句になってますが、今日新聞の社説を読んでますと、こんな江戸時代の川柳が紹介されてました。

<strong>「節分は金がほしいの声だらけ」</strong>

実に辛辣ですよね。要するに、「鬼は外、福は内」と言っているのは、現実問題としてお金がほしいのが本音じゃないか、と。
しかしこの川柳、当たらずとも遠からず、な気がいたします。
「鬼は外、福は内」
災厄を避け、お金が手に入ったり願いが叶ったり。これは、誰しもが臨む事でありますし、それを願いたくなる気持ちもわからなくは無いですが、確かに聞きようによっては、上のような川柳のように思えなくもなりません。


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      しかし、この「鬼」とは一体なんでしょうか？
この鬼は、要は「魔」を指すものです。豆をまくのも、「まめ」は「魔滅」に通ずるところから、と言われています。
一般的に「魔」と言えば、病気や事故、予期せぬ失敗など私の外からやってくる災厄、ということになるでしょう。
しかし、仏教的に「魔」を考えますと、これは私の心にある「煩悩」のことです。
私を悩ますのは、外から来る災厄ではなくて、私の心にある「煩悩」であると言うのが、仏教の考え方。
その「煩悩」とは、具体的には、自己中心的な考えにとらわれ、周りが見えなくなる心とでも申しましょうか、
自分の思い通りにならないと腹が立ったり、悲しくなったり、苦しくなったりする。その素となるのが、なんでも自分の思い通りにしたいと言う心、すなわち煩悩です。
仏教ではその「煩悩」こそが、自分を苦しめる「魔」と考えますから、「鬼は外」は、外からの災厄に襲われないように、ではなくて、自らの煩悩を無くしていこう、そう言う意味の言葉と考える事もできるかと思います。
しかし、豆をまいたり、豆を食べたからと言って、自分の煩悩をなくしていくことはできるわけではありません。
お腹が膨れても、しばらくすればまたお腹が空くのと同じように、私の「煩悩」も次から次へと涌いてくる物なのです。

ではどうするのか。
それが「福は内」ということ。
一般的に考えれば「福」となるのは、さっき書いたお金が手に入ったり、願い事や望みが叶うこと、と言えるかと思いますが、それは一時的な満足しか得られない物で、本当の「福」とはいえないのではないでしょうか。
本当の「福」とは、その私の心にある「魔」つまり「煩悩」とキチンと立ち向かうためのもの、となるかと思います。
つまり私たちにとって本当の「福」となるのは、仏法の教えにこそあり、それを聞いていくこと、それが「福は内」と言えるかと思います。

そう考えますと、「鬼は外、福は内」と言う言葉や、豆まきをするという行為は、災厄を避け、お金や願いを叶えるためのものではなく、仏法を聞いて、自らの内に潜む「魔」を見つめ、それと向き合っていく生き方をしていこう、そう言う意味のあるものとして捉えていくのが良いのかもしれません。
でなければ、「鬼は外、福は内」の声と共にまいているのは豆ではなく、「金ほしい」という自らの醜い欲望・煩悩の心、ということになってしまいますし、ね。

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   <title>富</title>
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   <published>2008-01-26T11:52:23Z</published>
   <updated>2008-01-26T11:56:58Z</updated>
   
   <summary>「足ることを知らば貧といえども富と名づくべし。 財ありとも欲多ければこれを貧と名...</summary>
   <author>
      <name>ケンユウ</name>
      
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         <category term="流行斬り" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.merry-shaka.com/giri/">
      <![CDATA[<span style="color:#000099"><strong>「足ることを知らば貧といえども富と名づくべし。 財ありとも欲多ければこれを貧と名づく。 」</strong></span>

これは、源信和尚(僧都)と呼ばれた、平安時代のお坊さんの言葉です。
意味は、ほぼ言葉のまま、真に富むということは、財産をたくさん持つ事ではなく、足る事を知ることにある、ということ。
ではなぜ、財産があることよりも、足る事を知る方が「富む」と言えるのでしょう？
この場合の「富む」というのは、物理的なものではなく、心の豊かさ、とでも言いますか、精神的な充足の事を指すと考えられます。
物理的な富、というのは、どれだけ得ても、もっと欲しい、もっと欲しいと、際限の無いものです。仮に今、100万円が手に入ったとしましょう。おそらく、それを使ってそれなりの満足は得る事ができるかもしれません。しかし、それも一瞬のもの。そのお金が減っていけば、また欲しくなるに違いありません。それは額が小さいから？いやいや、100万円だろうと、1億円だろうと、おそらく同じです。
そのような富では、心から満足を覚えることはできません。砂漠で水を飲むようなもので、いくら水を飲んでも、またすぐに渇きを覚えてしまいます。

では、「足るを知る」ということは、どういうことなのでしょう？
100万円を得て、ひととき満足する事と、「足るを知る」というのには、どこに違いがあるのか。
これは、感謝、ということと、深く結びついているのではないかな、と思います。
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      <![CDATA[日本語で感謝を表す言葉といえば、「ありがとう」ですよね。
この「ありがとう」と言う言葉は、「有り難し」から来ています。
つまり、「有る」ことが「難しい」こと、滅多にない、珍しくて貴重である様を表す言葉から来ているという事です。
いやいや、100万円が手に入る事だって、滅多にないし、珍しい事だし、もしそう言うことがあれば、感謝するに決まってる、と反論されるかもしれませんが、確かに、手に入る事は滅多にないでしょう。
しかし、手に入ってしまった瞬間、その100万円は、自分の所有として、当たり前の物になってしまいます。或いは、労働の対価として手に入れれば、もらう事すら当然と思うでしょう。
その当たり前になった瞬間、感謝の気持ちは薄れてしまいます。そうすると、次に起こってくるのは、もっと欲しいという、新たな欲望ではないでしょうか。
そうしますと、<strong>「足るを知る」ということは、物事が今「有る・在る」ことを、決して当たり前の事と思うのではなく、「有り難い」ことであると受け取っていく事にあるのではないでしょうか</strong>。

私たちは、物があること、物を食べる事、健康である事、生きている事、それらをどこかで「当たり前」と考えています。だから、それらを失った時、大いに苦しむのです。
しかし、紙切れ一枚であっても、「有る・在る」ということは、「当たり前」などではありません。木の命、紙を作る人たち、それを運ぶ人などなど、いろんな力が働いて初めて、「有る・在る」のですから。
それは、私たちの命も同じです。いろんな命の働き、目に見えない繋がりが重なり合って初めてあるもの。つまり、私が今ここで息をしているのは「有り難い」ことであり、逆に言えば、いつその息が止まっても、おかしくは無い身である、ということなのです。

当たり前と思う事、当たり前すぎて当たり前とも感じない事、それらに目を向けて、「ああ、当たり前ではなかったな、有り難いことであったな」と受け取り、喜べる事。それが真の感謝の気持ちであり、「足るを知る」ということ、つまりは本当の「富み」なのかもしれません。
しかし、その感謝の対象はあまりに大きくて、いくら感謝しても、しきれるものではありません。そうだとしても、一生をかけて、感謝をしていくことが大切なのではないでしょうか。一生をかけて感謝をしていくという事は、一生をかけて喜びを味わっていく、ということでもありますからね。


物が「有る」こと、手に入る事が当たり前、物が「有る」こと、価値あるものを手に入れるのがすばらしい事、「富み」であるとされがちな現代。
しかし、温暖化などの地球環境の悪化から、エコ、ということも大いに叫ばれるようになりました。
このエコも、素晴らしいことでありますが、地球環境のため、あるいは限りある資源維持のため、だけではなく、資源が「有る」こと、今自分が使う事ができる事を、当たり前の事ではない事を思い、感謝の気持ちを持って行なっていけると、より良いかもしれませんね。
最近は古紙を偽装すると言う、エコ偽装なんて事も出てきましたし…エコを餌に自己の利益ばかり追求するのは、なんとも残念な話です…
おっと、最後はちょっと話が逸れました。人の事を言うのではなく、まずは自分の生き方から、ですよね。]]>
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   <title>「偽」</title>
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   <published>2007-12-17T16:17:25Z</published>
   <updated>2007-12-17T16:39:43Z</updated>
   
   <summary>今年の世相を表す漢字として、「偽」という漢字が選ばれて、清水寺の貫主さんが例年の...</summary>
   <author>
      <name>ケンユウ</name>
      
   </author>
         <category term="時事斬り" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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      今年の世相を表す漢字として、「偽」という漢字が選ばれて、清水寺の貫主さんが例年の如く書いておられましたね。

この「偽」という漢字、法話を聞いていてもよく出てくる文字で、この漢字が今年の漢字に選ばれるちょっと前に、メリシャカメンバーのチスイさんとメールやり取りしてて、この「偽」という漢字は、「人」の「為」と書いて「偽」となるんだ、ということを言っておりました。
なるほどな、ですよね。
特に今年のニュースでよくあった、政治家や官僚が、国民の為、と言いながら結局自分の利益や保身の事しか考えていないような様を見ますと、「人」の「為」と書いて「偽」になるというのはよく納得できるように思います。
つまり、意識しているしていないに関わらず、本音の部分では自分の為に行なっているのに、誰かの為と大義名分を標榜していることは、「偽」であると言う事です。これは政治家や官僚だけに言えることだけじゃなくて、今年話題となった、食品偽装の問題などにも言えるのでしょう。

しかし、私としては「人」の「為」が「偽」になるという説に、ちょっと引っ掛かりを覚えました。もちろん、心の中では「自分の為だよ」と舌を出しながら、口からは「あなたの為」と美辞を述べながら行う事は「偽」だと思いますが、人の為に何かをしたいと思う気持ちや、しようとする事は本来的に悪いものではないハズですし、必ずしも本音の部分で自分の為という心が無く、心から相手の事を思ってする事だって、あるんじゃないかなと。


      <![CDATA[そこで、「偽」と言う漢字の成り立ちや、正確な意味を知りたくなりまして、漢和辞書を調べてみました。
すると、ちょっとビックリしました。『新字源』(角川書店)によりますと、「偽」の成り立ちとしては、【為に人を増し加えて、為と区別し、人為、ひいて「いつわる」意をあらわす】ということで、第一の意味は【わざとする。人為。作為。つくりごと】でした。
そして今まで法話でよく聞いたり、チスイさんが言っていた「人」の「為」と書いて「偽」と言う説は、漢字の成り立ちには関係なく、後世当てられたものだ、ということのようです。
しかし、人為、つまり人のしわざが「偽」とは、またものすごい意味ですよね。だって、私たちの為すこと、行いが、そもそも「偽」ということなんですから。
しかしよくよく考えれば、そうなのかもしれません。私たちには真実なるものはない。これは、自らを「虚仮不実のわが身」と言われた、親鸞聖人の教えにも当てはまります。

例えば、ですが、以前このような話を聞きました。
あるお寺の奥さんが、冬雪の積もる庭に、雀がやってきたそうです。それを見た奥さんは、冬だから食べるものも無いだろうと、米粒を雀にあげました。奥さんとしては、おなかの空いているであろう雀にエサをあげたわけですから、善い事をしたつもりでしょう。しかしこれは、どこかに自分の為という気持ちがあってしたことかといえば、おそらくそんなことは無くて、純粋に雀の為を思ってしたことだと思いますから、「偽」の行為ではないはずです。
ところが、その雀、米粒を食べる事に夢中になって、注意を怠ったのでしょう、たまたま縁の下にいたネコにガブリと食べられてしまいました。
奥さんは、雀に対して良い事をしたはずでした。しかし米粒をやった結果として、雀はネコに食べられる事になってしまうのです。そこまでを見ると、奥さんのしたことは、雀にとって良いことではなくなってしまっています。
このように、自分の事よりも相手を第一に考えて、良かれと思ってしたはずのことが、良い結果を導かない、ということは、恋愛の面なんかでも、割とよくあるのではないでしょうか。
つまり、私たちの人の行為というのは、思った事と行為の結果とは必ずしも一致・一貫しないし、相手の受け取り方やいろんなものに影響･作用されて、いくらでも変化してしまうものだと言う事です。それは、真実、絶対的に正しいものと言えるものではなく、「偽」ではないか、と。

と、こういうことを書きますと、なんだ、どうせ我々の行為は全て「偽」になるなら、好き勝手にしてもいいじゃないか、ましてや人の為にとか、優しくしようなんて思わなくても、と思われる人がおられるかもしれませんが、私が言いたいのはそうではありません。<strong>私たちの行いは、例え相手の事を第一に考え、良かれと思ってしたことであっても「偽」になるかもしれない、決して絶対的に正しいものではないのだと、自らの行いを見つめて直してみて欲しい</strong>、ということです。


政治家や官僚の不正、いろんな企業の不正、そして他人の過ちを見て、それを非難し、つるし上げるのは簡単ですが、自分の行いに対してはついつい甘くなってしまうのが私であります。
しかし、この今年の世相を表すものとして選ばれた「偽」という漢字に込められた意味は、今の世の中の乱れを単に憂うものでも、他人を非難するものでもなくて、私自身の行いや生き方をもう一度見つめ直し、私のところからまず少しでも良いと思われる方向に変えていくべきだ、という諌め・戒めなのかも、しれません。
ただ、それすらもまた「偽」になる可能性があるので、なかなかに難しい事ではあるのですけれどね。
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   <title>しょうがない</title>
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   <id>tag:www.merry-shaka.com,2007:/giri//5.266</id>
   
   <published>2007-08-14T11:19:35Z</published>
   <updated>2007-09-03T07:00:58Z</updated>
   
   <summary>ども、みなさま、ご無沙汰しております、シャカ斬り、久しぶりの更新でございます。 ...</summary>
   <author>
      <name>ケンユウ</name>
      
   </author>
         <category term="時事斬り" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.merry-shaka.com/giri/">
      ども、みなさま、ご無沙汰しております、シャカ斬り、久しぶりの更新でございます。
ずいぶん長い事時間が空いてしまい、申し訳ありませんでした。
いつも書こう書こうとは思っていたのですが、どうも最近は刀がさび付いてきてしまっていて、「斬る」ことができずにいました。。。
が、今回はちょっと思うことがありましたので、久しぶりに刀を磨いて、斬らせていただく所存ですので、一つまたよろしくお願いいたします。

さて、今回切らせていただきますのは、「しょうがない」という言葉。
私たちも日常でよく使ったり、耳にする言葉でありますし、
少し前のことになりますが、久間元防衛大臣が、原爆投下を「しょうがない」とした発言が問題となった事は、皆さんもまだ記憶に新しいかと思います。
またあるニュースを見ておりますと、
ある新興住宅街の下に、トンネルを掘った結果、その地盤が徐々に沈んでいき、その住人が役所に問い合わせたところ、「しょうがない」という対応をされた、ということも、報道されておりました。

しかし、私たちも日常使う言葉であるのに、なぜこの言葉が、問題となるのでしょうか。確かに、久間氏の発言は、原爆投下を容認する言葉に取れますから、被害を受けられた方々の心情を無視し、深く傷つける言葉であります。
また、もし、災害が起きて、被害を受けた人がたくさんいたとして、その人たちに向かって、「この災害は『しょうがない』ことだ」とは、とても言えないし、言えば、被災した方々を怒らせてもおかしくありません。
しかし、もし被災した方が、「この災害は『しょうがない』」と言っても、おそらくだれも怒る事はないし、問題になる事は無いように思います。
とすると、どうやら「しょうがない」という言葉は、誰が使うか、ということによって、言葉の意味のニュアンスが、異なってくるようです。

そこでこの「しょうがない」という言葉の意味を考えてみますと、この言葉は元々は「仕様がない」から来た言葉です。で、「仕様」というのは、『広辞苑』によりますと「仕方。方法。」とありますから、「仕様がない」というのは「方法、手立てが無い」と言う意味になるかと思います。
つまり、何か問題が起こった時、それに対して、どうにも対処する手立てが無い、という場合に使う言葉のようです。
もう少し考えてみますと、どうにもとるべき手段、道が無い、八方塞りの状態で使う言葉ですから、「諦め」の気持ちが混じった、言葉であるとも考えられるでしょう。

しかし、「諦める」という言葉は、本来は、現在使うような「断念する」とか、「不可能だと判断してやめる」というような意味ではなく、「明らかに見る」という意味が原義です。
では、なにを「明らかに見る」ことが、「諦める」ことなのでしょう。

      <![CDATA[それは、「物事の道理」、「真実のあり方」とでもいいましょうか。
じゃあ今度は「物事の道理」とか、「真実」って、一体なんやねん、ということになろうかと思いますが、仏教の教えに沿って考えるならば、「諸行無常」、つまり、「すべてのものは絶えず移り変わる、一瞬たりとも変化しないものは無い」ということであり、「諸法無我」、つまり「不変で本質・主体となるものなど、何事においても存在しない」ということです。
もっと砕いていうならば、どんな物や存在も、常に変化しつづけるからこそ在るのであり、その変化というものは、いつどこで何が起こってもおかしくない、ということです。
その事を「明らかに見る」ことが「諦める」ですから、「明らかに見る」＝「諦める」、ということは、どんな物事が起こっても、それを良いとか悪いとか判断することなく、そのまま、あって当然のこととして受け入れる、ということです。
この辺のことは、るるさんが<a href="http://www.merry-shaka.com/ai/2006/04/post_1.html" target="_blank">「仏教恋愛論」</a>で語られている事でありますから、そちらも参考にしていただければわかりやすいかと思います。

「諦める」とは、そう言う意味の言葉でありますから、「しょうがない」という言葉も、言ってみれば、この諦めの境地、つまり、起こった出来事、解決できそうに無い問題をしっかり受け止めて、それをどうすることもできないこと、として受け入れて初めて出てくる言葉であります。
或いは、もし、被害者と加害者の関係が成り立っている場合、被害者が「しょうがない」と言う場合は、そこには、加害者に対するある程度の「許し」の意味合いも含まれている言葉でもあるでしょう。
ですから、この言葉は、なんらかの解決できない大きな問題を抱えた側の人が使うべき言葉であって、その問題の当事者では無い第三者や、問題を引き起こした側の人間が、問題を抱えている人に対して使っていい言葉ではない、ということであります。

ところが、往々にして、問題を抱えた側ではなく、第三者や、問題の発端となった側が、この言葉を、つい使ってしまいます。それが、おそらく問題なのではないでしょうか。
確かに、第三者の側からすれば、自分以外のところに起こってしまった出来事、解決できない問題があれば、「しょうがない」と、諦観することは、たやすいことです。しかし、その問題を抱えた当事者にすれば、それは決して「しょうがない」事などではありません。なんとかしたい、と、悩みに悩み、苦しみに苦しみ、「しょうがない」と思えるには、長い時間が必要です。あるいは、「しょうがない」と思えることは、無い事だってあるでしょう。そのような事柄に対して、第三者、あるいは問題を作った側が、たやすく「しょうがない」と言うのは、当事者の感情を考慮すれば、大変配慮に欠ける言葉であります。
また、第三者の側が、「しょうがない」という言葉を使う場合、諦観したような気分になれますが、それはただよく考えていないだけ、物事を自分の事として受け入れているわけではないので、諦観とは似て非なるものであり、むしろ物事を正しく見つめる事を、妨げるものであるとも言えるでしょう。
久間元防衛大臣の発言が問題となったのも、立場のある人にも関わらず、被爆された方々に対する配慮の無さや、原爆投下ということの重大さに対しての認識が不足し、正しくその問題を見つめられていなかった、というところから、非難されたのではないかなと思います。

しかし、そのことは久間元大臣や、立場や責任にある人だけに限った事ではなく、この私自身にも当てはまる事であります。
第三者、あるいは問題を引き起こした側であるにも関わらず、諦観し、悟りきったような気になって「しょうがない」という言葉を、つい、使ってしまってはいないだろうか？そしてその言葉によって、人を傷つけてはいないだろうか？ということを、しっかり考え、もしたやすくその言葉を使っているならば、改めていかねばならない事であるでしょうね。]]>
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   <title>でなければならない</title>
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   <published>2007-03-26T15:18:52Z</published>
   <updated>2007-03-26T15:21:44Z</updated>
   
   <summary>ども、ケンユウです。シャカ斬りも毎度の事ながら久しぶりですねぇ。 さて今回は、別...</summary>
   <author>
      <name>ケンユウ</name>
      
   </author>
         <category term="時事斬り" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.merry-shaka.com/giri/">
      ども、ケンユウです。シャカ斬りも毎度の事ながら久しぶりですねぇ。
さて今回は、別に気になるニュースがあったわけでもないのですが、ちょっと気になる事があるので、それについて今回は語らせていただこうかな、と思います。
で、その気になる事というのは、「～でなければならない」というような、強く理想を求めるような考え方、です。まあこういう考え方って、今に始まったものじゃなくて、私自身も含め、人は誰しもが結構持っているものなのかもしれないのですが、そういうものの考え方が、個人的に最近、すごく気になるんです。

なぜ「～でなければならない」という考え方が気になるかと言いますと、このものの考え方って、ものすごく極端というか、偏ったものの見方なんですよね。
例えば、「痩せてなければならない」とか、「男は稼ぎがなければならない」とか、「女性は慎ましやかでなければならない」とか、まあいろいろあるかと思います。
で、そう言う考え方って、理想に向かっていく姿勢として、すごく大事なものなんですけど、その反面、他を否定・排除してしまうような、悪い意味での強さも持っていると思うんです。
どういうことかと言うと、何かしら「～でなければならない」という考え方を持っているとして、自分自身がそれを求めて行く分には何の問題もないのですが、その条件に当てはまらないモノや人だっているわけです。そう言う自分の理想とかけ離れたモノや人に触れた時、別にそのモノはそのモノ、その人はその人、というように、なんとも思わなければいいのですが、理想を求める事を自分がしていると、そうでないモノや人を見たとき、どこかしら蔑みであったり、或いはその理想の強要をしてしまうような面が、出てきてしまうことがある、ということです。

      例えば、健康ブームや、アンチエイジング、ダイエットなどの情報が、よく取り上げられるのは、私たちのどこかに「健康でなければならない」、「若くなければならない」、「痩せていなければならない」という思いがあるからで、それに当てはまっていないというか、そうでない人や、そう言う努力をしていない人を、怠惰だとか、自己管理が出来ていないとか、そう言う目で見たりもするでしょう。
いろんな流行があって、流行に乗ることこそがカッコいい事だと思っていれば、その流行に乗れていない人がいると、古い、ダサい、センスが無い、なんて、時代の流れだけで物事を計ってしまって、その人のスタンスや考え方を否定してしまうこともあるでしょう。もちろんその逆もあって、流行に流される事がかっこ悪い、と思う事もまた、流行には流されるべきではない、という強い理想があり、流行に乗ることを否定的に見てしまう事もあるかと思います。
それはつまり、自分と考え方が違うものを受け入れられない、ということですし、その理想に対する思いが強ければ強いほど、理想とかけ離れたモノや人に出遇った時、それを否定してしまったり、相手に「あなたもこうでなければ」と理想を強要してしまうように思います。

また、「～でなければならない」という考え方は、他を傷つけ、受け入れられなくなってしまうばかりか、自分自身にとってもマイナスに働く事があります。
それはどういう場合かと言うと、自分が自分の理想どおりに行かなくなってしまった時、です。
その現実を、すんなり受け入れられれば問題ないのですが、「～でなければならない」という理想に縛られたままだと、その理想と現実のギャップに苦しまねばなりません。
そうすると、自己矛盾を解消しようと、どこか自分の行いや考え方に歪みが生じてきてしまう、そんな気がします。

これはちょっと例えとして大きくなってしまうのですが、いじめ問題で、以前文部科学省は、いじめはゼロにしていかなければならないと言う理想を掲げました。もちろんこの理想は崇高なもので、これが実現されればすばらしいことですし、実現させなければならない事でもあります。
しかし、現実問題としてどうなったか。
ゼロでなければならないと言う理想はものすごく高い理想ですし、当然それにすぐ現場がついて行くことはできません。それでもゼロにしなければ、という理想がついて回りますから、「ゼロにしていかなければ」がいつの間にか「ゼロにしなければ」「ゼロでなければ」というように、現実を無理矢理に理想化する為に、事実を黙殺したり、隠蔽したり、現実を直視せず見てみぬフリをするようになってしまい、実際にいじめが起こっていても、それが上には報告されず、全国規模のいじめの発生に関する調査でも、年間のいじめ件数は「ゼロ」、どこでも起こっていないと言うようなデータがでるようになり、いつの間にかいじめは問題とならなくなりました。
その現実問題として無理のある理想を求めすぎた歪みが、去年はじけて、大きな社会問題となったことは、皆さんも記憶に新しいかと思います。
今では、その理想は改善され、いじめは必ずあるものとしてとらえ、ではそこからどうしていくのか、と言うことを考えるようになりました。この考え方は、いじめをゼロにするという理想とは背反する考え方ですが、いじめを減らし、いじめから人を守り助けることを考えるのであれば、こちらの考え方のほうがよほど現実的です。

このいじめに対する物の考え方は、「～でなければならない」という私たちが持ちがちなものの考え方に、一石を投じてくれているような気がします。
我々はついついいろんなものに理想を抱きがちですし、自分を理想化、絶対正しい者と考えがちです。
もちろん理想に燃えることは悪い事ではありませんが、それは、時として、その理想に反する他の考え方を否定し、他を傷つけたり、他や、個々の違いというものを受け入れる事ができなくなってしまうこともあります。
さらには、自分を理想化し、正しい者としてしまうと、自分がその理想に反してしまった時、正しくなくなってしまった時、なんとしても自分を正しい存在として形を保っておきたいと言う思いが働き、現実を直視できなくなったり、その自分を見てみぬフリをしてしまい、ウソをつかなくてはならなくなったり、物事を隠蔽せねばならなくなったり、歪んだ物の考え方や行動を生じさせかねません。
それではやはりいつか無理が生じ、歪みの反動に襲われる事もあるでしょう。

それを防ぐには、自分の考え方は絶対的なもの、必ずしも正しいものではなくて、人とは違うものなのだ、ということを念頭においておくことや、人に対して、理想を求めすぎないことが大切なのかもしれません。人はそれぞれ、考え方や感じ方に違いがあるのが当然ですし、最初から人と自分は違うとわかっていれば、人が自分の理想に反していても、その違いを受け入れる事ができるでしょう。また、人に理想を求めすぎなければ、その人が自分の理想通りの人でなくとも、失望することはないでしょうし。
或いは、自分をあまり理想化しすぎないことも大切でしょう。自分は絶対に正しいとしてしまうと、正しくない自分に出遇ってしまった時、必ず失望せねばなりませんし、考え方や行いに歪みが生じてきます。ですから、自分は絶対の存在などではなく、曖昧な、不確かなものであると言う現実を見つめ、その上で、その不確かな、常に正しいとは限らない自分と、どう付き合っていくのかを考えることが、自分を正しい方向へと向けていける道であるのではないでしょうか。
それはつまり、自分に対しても、他人に対しても、「～でなければならない」と極端な考え方で臨むのではなく、「～でいいじゃないか」「～でなくてもよい」と、物事を柔軟に受けとめ、そこからどうしていくべきかを考え行動していくことかな、と思います。

まあもちろん、お仕事の面などで、妥協を許されない事だってありますし、その辺はメリハリと言うか、けじめをしっかりつけなくてはならないと思います。それでも、きっちりとしないといけない部分以外では、少し肩の力を抜いて臨むと、楽になる部分も、きっとあるかと思います。
ま、長々と書いてきたこの考え方だって、一つの考え方で、こうでなければいけない！！というわけではありません。私だってこんな事書きながら、それが実践できてるわけもなく、結構頑固なところがあったりして、人を拒絶したり、言う事を素直に聞けなかったりとしておりますし、ね。でもま、こういう考え方も、ちょっと頭の片隅に置いておくと、何かにぶつかった時、それを乗り越える道が見つかるかも、しれません。

と、久しぶりに書いたら長くなってしまったので、このへんで。
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   <title>国家にとっての命とは</title>
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   <published>2007-01-29T15:08:30Z</published>
   <updated>2007-01-29T15:16:10Z</updated>
   
   <summary>ども、久しぶりのシャカ斬りです。 最近、柳沢厚生労働大臣が、講演で「女性は子ども...</summary>
   <author>
      <name>ケンユウ</name>
      
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      <![CDATA[ども、久しぶりのシャカ斬りです。

最近、柳沢厚生労働大臣が、講演で「女性は子どもを産む機械･装置だ」と言う発言をしたことが、大きく報道で取り沙汰されております。
この発言には、私もビックリでした。
よく政治家などの公の人物が、本音をポロっと発言してしまってニュースになることはあって、大抵、その気持ちはわからんでもないとか、心の奥で思っておいても、口に出す事は無いのに、とか、ある程度理解できる部分もあったりするのですが、今回の発言は、本当に思ってもみないことを、講演会と言う公の場で発言した事に対して、驚くと共に、こんな事を考えている人が政治家なのか、ということに、愕然としました。

この発言は、大きく女性の尊厳を傷つけるものです。
そして同時に、人間の「命」を軽視する発言でもあると思うのです。
柳沢氏の発言の中には、「女性は子どもを産む機械であり、機械の頭数は決まっているから、一人頭が頑張ってもらわなければ･･･」というような部分がありました。
これは、現在日本の抱える一つの問題である少子化の問題について、何とかしていかねばならないという国を憂う気持ちからの発言だと考える事が出来ますが、それでも、女性を機械扱いをしていることは許される事ではありません。
そして、上記の発言の裏と言うか、そういう発言をするに至った経緯を推測しますと、とりあえず、出産率を上げて、人口を増やしたい、と言うような思いがあるように思います。その理由は、少子高齢化が進めば、当然国家の収入が減りますし、高齢者へのケアが、国にとって大きな負担になってきます。それを防ぐため、人間を機械のようにたくさん「生産」しろ、というような考えが、どこかにあるように思えなくも無い気がします。
そしてその思いは、結局国民を、人間を、税金を納め、国を成り立たせるためのモノ、ぐらいにしか思っていない、と言うようも感じられます。
つまり、女性が子どもを産む機械で、生まれてくる新しい命は、国を成り立たせるための機械だ、そんな風な思いが、もしかしたら、柳沢氏の頭の中にはあるのかもしれません。
まあこれは、私個人の深読みのし過ぎ、なのかもしれませんが、あの発言を突き詰めて考えますと、女性はもちろんのこと、人間の、新しく生まれてくる命の尊厳を大きく傷つける発言のように思えてなりません。

もちろん日本と言う国にとって、少子高齢化に対応する政策はこれから必要とされる事ではあると思います。
<strong>それでも、人は、命は、機械のように簡単に「生産」されるものではありません。
いろんな人の想いが重なり合って、無限とも言える命の「縁」が絡み合って、そこに初めて生まれてくる、とても不可思議で、尊いことです。その一人一人の命は、どんな人の命であっても、唯一の、かけがえの無いものであり、同時に全ての命と繋がった、大切な命であるはずです。</strong>
それをいくら政治の上での話であるとは言え、人の命を、モノのような扱いをしたり、数字でしか推し量れないような考え方をするのは、やはり許されるものではないかなと思います。
特に、昨年大きな社会問題となった、いじめの問題や、自殺の問題によって、命の大切さをもう一度、社会全体で考えていこうという動きが起こってきている中で、命の尊厳を大きく損ねるような考えを、国を動かす政治家が持っている、ということは非常に残念でなりません。
子どもへの命の教育を叫ぶ前に、まずは大人が、それを実践していかなければならないはず、なんですけどね。

と、ボウズが偉そうに政治に口を出すな、と言われるかもしれませんが、「命」を考えるという時には、政治も宗教も、関係ないのかなと思い、あんまり仏教的な文章にもなってませんが、ちょっと、書かせていただきました。]]>
      
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   <title>思いやり</title>
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   <published>2006-12-07T15:08:14Z</published>
   <updated>2006-12-07T15:10:50Z</updated>
   
   <summary>ども。寒くなってきましたね。 皆様お風邪などひかれてはおられないでしょうか？ さ...</summary>
   <author>
      <name>ケンユウ</name>
      
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         <category term="時事斬り" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.merry-shaka.com/giri/">
      <![CDATA[ども。寒くなってきましたね。
皆様お風邪などひかれてはおられないでしょうか？

さて、ちょっと前の話になるんですが、今年の10月末から11月にかけて、ダライ・ラマ師が来日され、東京や広島で講演をされました。私も行きたいなー、と思っていたのですが、報恩講などで忙しい時期で、どうしても行けなかったのが、非常に残念です。
で、どんなお話をされていたんだろうなー、と気になっておりましたところ、広島国際平和会議で師がお話されたことの要旨がライブドア・ニュースに書かれておりました。
その国際平和会議では、ダライ・ラマ師の他に、一介の主婦でありながら、北アイルランドの紛争の中、子どもが殺されるのを目の当たりにして、子どものために平和への運動を始められ、ノーベル平和賞を受賞したベティ・ウィリアムズさんと、南アフリカでアパルトヘイト撤廃に尽力し、1984年にノーベル平和賞を受賞した南アフリカのデズモンド・ツツ大主教も、平和についての講演をされました。
その内容に関しては、いつまで残っているか、はなはだ微妙ですが、参考にさせていただいたライブドア･ニュースへリンクしておきましょう。

<a href="http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2703651/detail">○ベティ・ウィリアムさんの講演の要旨</a>
<a href="http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2700138/detail">○デズモンド・ツツ大主教の講演の要旨</a>
<a href="http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2706664/detail">○ダライ・ラマ師の講演の要旨</a>


さて、この中でダライ・ラマ師は「思いやり」と言うことをお話されておりました。
このことは、今の世界の状態や、平和な世界作りに向かうために大切であることはもちろんの事なのですが、私達の身近なところでも、「思いやり」というものは、大切なものであるはずです。
例えば、今年の秋頃から大きな社会問題として取り上げられてきております、いじめの問題なんかについても、この他の人を「思いやる」という気持ちが欠如しているから起こってきているのかもしれないな、と言う風に感じます。
現代は激しい競争の社会ですから、他人のことなど構っている暇など、ありません。自分のことだけを考え、なんでも人の力に頼らず、自分でできなくてはいけません。時には他人を蹴落としていかなければ、競争には勝っていけません。
でもそうすると、どうしても「ワレがワレが」という気持ちばかりが強くなって、他の人の気持ちや、他の人の考え方を理解していこうと言う気持ちは起こらなくなり、自分さえよければ、とか、他の人はどうなってもいい、そんな風になってしまうのだと思います。
そういう自分のことばかり考えて、人の気持ちを考えられない、ということが、いじめに繋がったり、憎ければ、自分の邪魔になれば、自分の親でも子どもでも、いとも簡単に殺してしまう、そんな社会を作り出しているのかな、そんな風に思うわけです。もちろん戦争と言うものも、その延長線上にあるもの、なんでしょう。]]>
      では「思いやり」とか、人を「思いやる」とはどういうことなのでしょうか。漢字で書くとその意味がよくわかるかな、と思いますので、漢字にしますと「思い遣り」となります。
この「遣る」という字は、「派遣する」とか、向うへ送ると言うような意味になる言葉です。つまり「思い遣り」と言いますのは、こちらが、相手に対して思いを向ける、ということになるかな、と思います。
相手に思いを向けると言うのは、何かをする時に、自分のことだけを考えるのではなく、相手の立場にたって考えてみる、と言うことであろうかと思います。相手はこれをされたら嫌だろうな、相手はこれをしたら喜ぶだろうな、ということを、考えてみる。もちろん相手自身にはなれませんから、相手が本当に考えていることは、こちら側は正しく理解することはできません。それでも、自分がされたら嫌だったり、自分がされたら嬉しいことを、相手はどう思うだろうか、と言うことを考えることは、大切であるはずです。
そして、ダライ・ラマ師の言葉の中に、『私たち一人ひとりは、宗教も、民族も、年齢も、考え方も違う。しかし、すべての人に共通していることもある。誰もが「苦しみをなくし、幸せになりたい」と思っているのだ』という言葉がありました。自分が自分ことを大切だ、幸せになりたい、と思っているのであれば、他のどんな人も、同じように思っているはずです。そのどんな人でも持つ想いを、一人一人の人間がそれぞれに大切に考えていくこと、それが「思いやり」ということなのかな、と思います。

しかし、他の人を「思いやる」ということは、言うほど簡単なことではありません。自分の仲の良い人であれば、ある程度、その人のことを大切に思って、思いやることもできるかとは思いますが、仲の悪い人や、自分と全然合わない人、全くかかわりの無い人に対して、思いやる、ということは、とても難しいことだと思います。
やっぱりどう考えてみても、北朝鮮の金正日のことを思いやることや、むごたらしい殺人を犯した殺人犯のことを思いやりの心を持って見ることは、なかなかできることではありません。
また、親しい間柄であればあるほど、関係が一度こじれてしまうと、ややこしくなってしまうもので、親子や兄弟、夫婦などの親しい間柄であっても、憎たらしいと思ってしまえば、もう相手のことを、相手の立場に立って思いやる、ということは、簡単にはできなくなってしまいます。
そうなってしまうのは、やはり、私達は、どこかで損得や見返り、利害や好き嫌いというものを考えてしまっていて、この人に優しくしておけば、何かメリットがあるだとか、この人には優しくしたって無駄だ、ということを計算して、行動したり、あるいは「思いやる」と言うことをしているのかな、と思います。
偉そうにこんな事言っている私だって、誰に対しても思いやりの気持ちを持てるわけではなく、好き嫌いや利害を考えて行動しますし、見ず知らずの人や、自分に危害を加えるような人に対して、相手の立場にたって考えると言うのは、なかなかできることではありません。大切な家族や、愛する人をいつも思いやりをもって接して来れたか、と言うと、それができなかったことだってあります。そうかと言って、それが人間の姿だから仕方が無い、と開き直ってしまうのも、ちょっと違うかな、と思います。

私達浄土真宗で大切にする仏さま、阿弥陀仏と言う仏さまがおられます。
この阿弥陀様と言う仏様は、全ての命を、救いたい、救わずには仏にならんぞ、と誓い、仏となられ、今も私たちにはたらきかけておってくださる仏様です。その阿弥陀様の持たれる、なんとしても救わずにおれないという優しいお気持ち、思いやりの心は、私達の抱える生老病死や、そこから生じる様々な苦しみ、悲しみと言うものを、まるで我が苦しみ悲しみであるように受け取られたところから、生まれてくるものであります。
そこには自らの利害や損得、好き嫌いというものは、一切ありません。全ての命に対して、平等に振り向けられるお心です。そんなとりとめも無い優しい思いやりの心を、お慈悲、というのです。

そんな阿弥陀様のような全ての命に対して、という慈悲の心は、持てようはずもありません。しかし、そんな自分のことばかりを考え、人の気持ちをなかなか考えることのできない、思い遣りの気持ちをなかなか持てない私達でありながら、阿弥陀様のお慈悲は届けられている。それは大変にありがたいことですし、そのことを聞かせていただいたき、すっと受け取れたときには、私達もまた、自分の姿を知り、ちょっとした時に、思いやりと言う心を、思い起こしたり、心にかけておくことが、できるのではないのかな、と思います。
いじめの問題や、いろんな争いと、人がお互いにその命を傷つけ合うことがまだまだ続く今の時代、自分の国を愛する気持ちを養うことも大切、なのかもしれませんが、自分の国の事とばかりを考える気持ちを養うよりも、もっと大きな思いやりという気持ちを育んでいくことが、より大切であるのではないかな、と感じます。

今回も相変わらずの長文になってしまいましたので、このへんで。

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   <title>嗜好品</title>
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   <published>2006-11-22T03:04:12Z</published>
   <updated>2006-11-22T05:45:42Z</updated>
   
   <summary>シンキです。 昨日、映画版『機動戦士Zガンダム』のDVDを買いました。 戦争とは...</summary>
   <author>
      <name>シンキ</name>
      
   </author>
         <category term="時事斬り" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.merry-shaka.com/giri/">
      <![CDATA[シンキです。

昨日、映画版『機動戦士Zガンダム』のDVDを買いました。
戦争とはいかに愚かなものであるのかという事に涙する毎日です。

関係ないですが近年、受動喫煙に関する話題が多くなってきました。
そこで<strong>受動喫煙に関する話題</strong>をひとつ。

喫煙に関する規制が近年厳しくなったのは、健康意識の問題もあるでしょうが、個人的には、<strong>多く喫煙者がマナーを無視してきた代償</strong>だと私は思います。
私は喫煙者ですが、喫煙者と非喫煙者を隔離することには大賛成です。理由は２つ。１つは、受動喫煙の問題があるから。２つめに、喫煙をとやかく他人に色々言われたくないから（笑）。この２点ですね。

ただ、受動喫煙が何十メートルに及ぶとか…医学のやりすぎな点も否めないのですが…。]]>
      <![CDATA[<strong>・受動喫煙の問題とは</strong>

まず言っておきたいのが、”ニオイの問題”ではないということ。ニオイを問題にすると、僕は香水も同じモノだと考えます。ニオイが良い・悪いというのは個人的な観点でしかありませんからね。

じゃあ何が問題なのか。やはり健康被害以外の何物でもありません。喫煙者だってタバコは体に悪いものであることは知っています。上でも言いましたが、これまで喫煙者がマナーをないがしろにしてきた代償であり、嗜好品という理解での喫煙者の医学的な知識の乏しさでしょうか。
ただ、僕が問題とするのは、『嗜好品』という表現です。

<blockquote><a href="http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=嗜好品&oldid=8798997" target="_blank">嗜好品</a>

出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』

嗜好品(しこうひん)とは、もっぱら風味や味、摂取時の心身の高揚感など味覚や嗅覚を楽しむために飲食される食品飲料や喫煙物のことである。
この概念は日本で生まれたものであり、日本独自の表現である。
これについては食品、飲料、それ以外のものなどがある。 ただほとんどの場合は身体に影響を及ぼす成分があるものがほとんどであり、強い習慣性がある。 摂りすぎるとドラッグとなるものが多い。 ある意味では麻薬なども嗜好品であろう。</blockquote>

ここには、お茶、コーヒー・酒なども嗜好品として含まれています。

ここで別物なのは、<strong>ズバリ『酒』。</strong>
僕は、あまりお酒を飲まないので、言えることなのですが、たまに”酒に”飲まれる人がいますね。『酒は飲んでも、飲まれるな。』とは良く言ったものですが、ちょっと視点を変えるとこういうことも言えないでしょうか。

酒の飲みすぎで殺人を犯した→よくある。
タバコの吸いすぎ・コーヒー、お茶の飲みすぎで殺人を犯した→きいたことがない。

内心、喫煙者が叩かれるニュースを見ながら、嗜好品の人口の多さで飲酒に伴う事件を他人事のように扱うのはどうかなあ？とか思うところもあったりなかったり…。まあ、最近は、飲酒運転の問題が出てきただけに、やっとか…とも。

タバコとお酒がどちらが人に害を及ぼすのか…という議論ではなくて、嗜好品とは楽しむもの、もっと言えば趣味の範囲みたいなもんでしょうから、問題は個人の意識であることでしょうね。

タバコにしろ、お酒にしろ人に迷惑をかけない範囲で楽しみましょうって話でしょうね。


<strong>・俺の辞書に載らない言葉</strong>

『酒を飲めねえヤツとは腹を割って話せねえ！』

→酒を飲まないと本音を話せない愚かなヤツとは僕も話をしません。大人のいい訳です（笑）。

もともと人間は愚かですよ。あ、…だから酒を使わないと話せないのか…。って考えたらタバコも同じか…（笑）。やっぱり、嗜好品ってもともとは現実逃避の代物かもしれませんね。


合掌。]]>
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   <title>いじめと親心（慈悲の話）</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.merry-shaka.com/giri/2006/11/post_6.html" />
   <id>tag:www.merry-shaka.com,2006:/giri//5.110</id>
   
   <published>2006-11-09T12:46:29Z</published>
   <updated>2006-11-09T13:23:37Z</updated>
   
   <summary>昔から仏教では、ほとけさまの心は親の子どもに対するこころ、つまり親心であると説か...</summary>
   <author>
      <name>チスイ</name>
      
   </author>
         <category term="時事斬り" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.merry-shaka.com/giri/">
      <![CDATA[昔から仏教では、ほとけさまの心は親の子どもに対するこころ、つまり親心であると説かれてきました。
皆さんは親の愛情を感じたことってありますか？それはどんなことでしょうか？
「すぐ心配する」と言う人もいると思いますが、それが親心なのです。

「親」という漢字をよく見てください。
「『木』の上に『立』って子どもを『見』る」と書いて「親」となります。
親は子どもが心配で心配で、堪らなくて、木の上にまで上がって、子どもを見守ろうとするのです。

そのような、切ない親心について書かれた文章に最近出逢いました。そしてとっても感動しましたので、皆さんに紹介しようと思います。

サトエリこと、女優、佐藤江梨子さんが、インターネットのブログに載せられた<a href="http://ameblo.jp/satoeritimes/entry-10019051303.html" target="_blank">「愛について」の文章</a>です。
以下、引用させていただきます。

<span style="color:#0000cc">イジメが原因で小学生や中学生が自殺してしまう事件が最近多くて、凄く悲しく思います。
私は、小さい頃から転校が多くて、背が高くて目立ってよく、イジメられたよ。
クラスの皆からシカトとか『ブス、キモい、きしょい、キショ、嫌い、帰れ、ムカツク、カンに障る、独り言言ってる、学校くんな、見るな腐る』・・・とか色々、ありもしない噂がいっぱいマワッタリ、本当に苦しかった。本当に今思い出しても息が詰まる、し、気持ち悪くなる。
『学校に行きたくない！』と親に何度泣き付いたかわからない。
『頭痛い、気持ち悪い、お腹痛い』って仮病も使い果たした時、いつも、ぶって、叩いてでも学校へ行かせる父が、私の前で土下座をして『学校行こう！！、お前をイジメてる奴、一人一人にこうやって、お父さん、頭下げて頼むから！！エリをイジメないで下さい！！って何度でも頼むから！！』そう言われて私は『大丈夫・・・パパ、大丈夫だよ。』とだけ言って学校へ行きました。

それからも何度も嫌な事やイジメらしきモノはあったけれど、その日の父を思い出すと、私は
どうにか大丈夫に出来ました。

もしかすると、その日に初めて人から愛されてる事を知った・・・認識したのかもしれません。</span>

サトエリさん、本当に、本当に良かったですね。
自分のために一緒に泣いてくれる、一生懸命愛してくれるお父さんがいて本当に良かったね。僕もいじめられた経験もあるし、涙が出てきたよ。

たとえ、いじめの状況が変わらなくても、自分のことを思い続けて止まない親心に出遇ったから、サトエリさん、がんばることができたんですね。

ほとけさまのお心とは、きっとこのような親心なのでしょう。

「どんなことがあっても、わたしはおまえを見捨てはしない。
たとえ、世界中の人がおまえをいじめても
他の人がおまえを否定しても
たとえ、おまえ自身が自分を見捨てることがあったとしても、
このわたしだけは、決しておまえを捨てない。
<strong>なぜなら、わたしはおまえの、親だから！</strong>」

と言ってくれる人がいてくれたら、僕たちは本当にうれしいのだ。そして生きていける。
たとえ、状況は変わらなくても、苦しい出来事が起こっても、
それを乗り越える勇気がもらえるのだ。

]]>
      
   </content>
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   <title>Gourmet</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.merry-shaka.com/giri/2006/11/gourmet.html" />
   <id>tag:www.merry-shaka.com,2006:/giri//5.99</id>
   
   <published>2006-10-31T16:37:14Z</published>
   <updated>2006-10-31T17:09:35Z</updated>
   
   <summary>ども。久しぶりにやってきました。 今回も、世の中の風潮をバッサリ？斬ってみたいと...</summary>
   <author>
      <name>ケンユウ</name>
      
   </author>
         <category term="時事斬り" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.merry-shaka.com/giri/">
      ども。久しぶりにやってきました。
今回も、世の中の風潮をバッサリ？斬ってみたいと思います。
相変わらずの長文になっておりますので、その辺一つお覚悟とご容赦の程を。


さて、もうちょっと古いかもしれませんが、

「味のIT革命や～！！」
「まいう～！！」

このような言葉が、テレビからよく聞かれます。
テレビ番組にもいろいろ流行り廃りがありますが、グルメ番組、というものは毎日のようにやっているのではないでしょうか。それだけ私達が「食」というものに並々ならぬ興味があって、それが尽きない、ということのなのでしょうね。


さて、先日住職が、友達と夫婦揃って食事に、と言うことでわざわざ金沢まで、バスを借りて行く、ということを言っておりました。わざわざ金沢まで、と言うのは、ウチの町から金沢まで車で1時間以上かかる、ということなんですが、私としては、わざわざそこまでしなくとも、と思ってそう住職に言ったのですが、まあ主催の友達の方が、結構なグルメ、というか、舌の肥えた方らしくて、美味しいお店に行きたいらしいので、との事でした。まあその時はなるほどね、と私も納得したのですが、この「舌が肥える」ということについて、ちょっと「ん？」と感じてしまいました。
皆さんは、「舌が肥える」ということについてどうお考えになるでしょうか？一般的に「舌が肥える」ということは、美味しいもの、珍しいものなどをいろいろと食べる事ができて、味の良し悪しがわかるようになる、と言うことだと思います。つまり味覚の鋭敏な人、味や料理に含蓄あることを指す言葉でしょう。ある意味ではこれは褒め言葉、ですよね。いい物をたくさん食べてきていて、という。美味しいものをたくさん食べられると言うことは一つの幸せでもありますから、私も体が肥えるのは嫌だけど、舌は肥えたい、と思われる方がおられるかもしれません。


でもどうなのでしょう？果たして「舌が肥える」ことは、良い事、幸せなことなのでしょうか？いやいや、美味しいものをたくさん食べて舌が肥えるのだから、それができるということは幸せなことでしょ、という意見が出るかな、と思いますが、私はそれはあんまり幸せなことなのではないのではないかな、と思うのです。
確かに、美味しいものや珍しい食べ物を口にできるその時は幸せな気持ちを味わう事ができるかもしれませんが、普段から毎日毎食そんな贅沢ができるなんてことは、そうそうないはずです。
いや、もし毎日毎食贅沢な食事をしていても、だんだん飽きてきて、その食事に贅沢を感じなくなり、もっと美味しいもの、もっと珍しいものをと、どんどん際限なく求めていくようになるのではないかな、と思います。
そうなってしまうと、ちょっとやそっとの食べ物じゃ、満足できなくなってしまいそうです。すると、んー！美味しい！と食べる喜び幸せを感じる機会が、どんどん減っていってしまうような気がします。
      そしてもう一つ思うのが、本当に私達は舌で味を味わっているのか、ということ。
これもテレビの話なんですが、以前、目隠しをして二つの料理を一口ずつ食べて、どちらが高級食材であったり、有名料理人の料理なのかを当てる、と言うような事をグルメや一流であることを誇る芸能人が挑戦しておりました。しかし、グルメとされる人が、その二者択一に見事はずしておりました。
それを見て思ったのですが、私達と言うのは、どうも食べ物の味を、舌や鼻、つまり味覚や嗅覚だけで感じているのではないのではないのかな、と。
それは、目で料理を見て、これはどういう食べ物であるかを判断し、そして頭の中で味をある程度予想して味わっているのではないか、ということです。
そしてもっと言えば、その料理の見た目だけではなく、その料理が、どういう食材を使ったものであり、どの店の、誰が作ったものなのかということを全て頭の中で情報処理した上で、私達は味というものを判別しているのではないのかな、と思います。


例えば、の話ですが、高級料亭で料理が出されたとしましょう。もちろん高級料亭で出す料理ですから、新鮮で、最高級の食材を使い、そして腕のいい料理人が腕を振るっているに違いありません。ですから、その料理は間違い無く美味しい物であるはずです。
しかしもし、仮に、そんな最高級の食材ではなく、私達が普段食べているようなスーパーで手に入るものを使い、そして普通に料理ができる人が、そのお店で料理を出したとしても、きっと私達は、さすが最高級の料亭、一味も二味も違いますね、なんて事を思ったり、口にしたりするのでは無いでしょうか。
つまり、高級料亭＝高級食材を使用＋有名料理人の料理、と言うことが無意識に頭の中にあるわけですから、何を使い、誰が作ったのかを知らなければ、どんな料理が出ても、高級なものであると勝手に判断して、普通の食べ物でさえも普通以上に美味しいと錯覚させてしまう、そういうことって、きっとあるんじゃないかと思います。
つまり何が言いたいのか、と申しますと、私達は、味を舌で味わっていると思いがちですが、そうではなくて、いろんな情報を、頭の中で処理した上で、味を判別しているのだ、と言うことです。
そう考えますと、舌が肥える、ということは、結局料理や食材、お店や有名料理人に対する知識ばかりが増えただけで、本質的に味を理解している、と言うわけではないのかもしれません。美味しい美味しく無い、という味の感覚というものは、そもそも個人によって違うわけですからね。
むしろ逆に、下手にいろんな知識があるだけに、その知識に縛られて、素直に美味しいと感じられなくなってしまうことだってあるかもしれません。


そうなってしまうと、やはりそれは本当に幸せとは言えないように思います。
本当は美味しいかもしれないものを食べているのに、知識がそれを邪魔してしまう。
そしてもっと大切な事、私達はいろんな命をいただいて食事をしているのだ、と言うことさえも、忘れさせてしまう、そんな気がします。
高級なものばかりが美味しいものと感じるのであれば、高級でない食材は、結局取るに足らないもの、つまらないもの、そういう見方をする事になるでしょう。
しかし、高級であれ、高級でないものであれ、元は同じ、一つの命です。
例えば養殖の鯛と、天然の鯛と、値段や珍しさという意味での価値、多少の味に違いはあれ、同じ鯛という命に違いはありません。牛肉や豚肉だってそれは同じです。


私たちはその動物や植物の命をいただいて日々命を繋いでいます。
にも関わらず、これの肉は美味いが、あの肉は不味い、などと、自分勝手に判断をしている。
もちろん、そうすることが悪い事であるとは言いません。
好き嫌いを判断するのが好きなのが人間です。
私もそう言う判断をよくしております。
しかし、命を食べさせていただいて生きているのに、そのことに感謝もせずに、美味いだの不味いだの判断するのは、やはりいささか、私達の心に問題があるように思います。


もちろん、私は美味しいものを追求する心、それをすべて否定するわけではありません。さっきも書きましたが、私も好き嫌いを判断しますし、美味しいものを求める気持ちも強いです。食べるの、大好きですから。
ただ、それだけでは、どこまで行っても本当の満足や、喜びと言ったものを、感じられないのだと思います。どれだけ美味しいものを食べても、食べ終えてしばらくしてお腹が空けば、またもっともっと美味しいものを食べたいと思うのでしょうし。
そして下手に知識をひけらかしたり、グルメを気取ると、美味しいものを、素直に美味しいと言えなくなってしまう。これはちょっと悲しい事ではないでしょうか。
それよりも、日々、毎食、食事をできることを喜び、命をいただいていることに感謝し、素直に美味しいと味わえる事、その方が、私はグルメになるよりも、よっぽど素敵な事だと思います。


と、これを読んで、どこが仏教やねん！とお叱りを受けるかもしれません。
でも仏教では、満足を知ることが大切だ、と言っております。
お経の中に「少欲知足」という言葉もありますしね。
これは、欲を減らし、満足を知ることが、大切である、ということ。
この言葉で大事なのは、決して欲を無くすということではないのがポイントかもしれません。欲を無くしては、私達人間は生きていけませんからね。
それよりもむしろ、今自分が生きているということとは、どういうことなのかをしっかりと見つめ、いろんな命をいただくことで生きている、いろんな人の繋がりの中で生きている、と言うことを知り、それに対し、感謝の気持ちを持っていく事で、満足ということを知っていくことが大切であるよ、と。そうなれば、次から次へと求める心も少なくなる事でしょう。
そして、満足を感じることが多いほうが、当然幸せだと感じる機会が多くなるハズですから。
もちろんそれは、食べると言う事だけにではなく、いろんな事に当てはまる事だと思います。


高級だと思われるもの、ブランド、金銭的に価値のあるもの、そういうものを次から次に得ることで満足を得ようとする傾向が強い現代。
良いものを求めていくという行為は、決して悪い事ではありませんが、
しかしそれは知識や様々な情報に縛られ踊らされていると言う面もあり、そしておそらくそこには、本当の満足、と言うものは無いように思います。
素直に、感謝し、幸せや満足や喜びを感じる心。
それが今の私たちが本当に求めていかねばならないものなのかもしれませんね。
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