2008年03月31日

人を殺すのは誰?

「うーん、やっぱりあの人怪しいなあ、あの人が犯人じゃない?」

「こんな酷い事する奴は、やっぱり死刑にするしかないよね…」

「人殺しておいて、未成年だからって、許されていいんかなあ?」

「あんな酷い事して平気でいられるなんて、うーん、ちょっと理解できない…」

テレビを見ていると、毎日多くの殺人事件の報道がなされています。
上に書いた言葉は、それを見た時の、私の素直なリアクションです。
犯人の見つからない事件があれば、それをサスペンス映画でも見るような感覚で、誰が犯人かを考えたり、
犯人が捕まったら捕まったらで、その人を勝手に断罪し、死刑を望む。
それが仮に未成年であっても、やはり人を殺した事に変わりはないと、同じように、極刑を求める。
自分に理解できない事があれば、他人をたやすく異常者扱いをしてしまう…
それが、偽り無い自分の姿です。


もちろん、人を殺す、ということは、許されるべき行為ではありません。
人一人を殺すという行為は、
一人の命を奪うだけではなく、多くの人を悲しみ・怒り・憎しみという負の感情の渦へと巻き込み、
そして自分の命をも傷つける行為です。
いや、全ての命は繋がって存在すると考えるならば、人一人を殺すことは、全ての命を傷つける行為といってもいいかもしれません。
そう言う行為は、すべきではないし、もしそう言う行為をしてしまった人は、
社会のルールに沿って、それ相応の罰を受けなければならないでしょうし、
遺族からの怒りや、社会的な制裁も受けなければならないでしょう。

しかしどうでしょうか。
私は、その犯罪に直接関係した被害者側でも加害者側の人間でもなく、
法を元に人を裁き、或いは人を護る立場にもいない、単なる第三者です。
その無関係な第三者が、まるでドラマや映画を見るような感覚で、面白おかしく、偏った情報だけで人を犯罪者扱いし、その人の事を何も知らずに批判し、そして勝手に命を終わらせようとする。
犯罪に関係ない第三者だからとは言え、他人事のようにそのような犯罪に向き合うだけでよいのでしょうか。
おいおい、お前自身がそうなのに、自分の事を棚に上げてこういうことを言うのは筋違いでは?と思われる方もおられるでしょう。
それはごもっともなことで、私も自分で書きながら、全く説得力に欠けるし、馬鹿げているな、と思います。
しかし、そのように面白おかしく、他人事のように犯罪に向き合い、人をたやすく非難する私、あるいは、自分のことは棚に挙げて、偉そうな事語る私も、実はいつ加害者の立場になってもおかしくない身であるのです。

『歎異抄』という書物の中で親鸞聖人は、「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」ということをおっしゃっておられます。これは、縁、いろんな条件さえ整えば、我々人間は、どんな行いをしでかしてもおかしくは無い身である、ということをおっしゃっているのです。
また同じ『歎異抄』の中で、我々が人を殺していないのは、ただその条件が整っていないだけで、決して清い心を持っているから殺しをしていないわけではないし、殺すまいと思っていても、人を殺めてしまうこともある、ということもおっしゃっておられます。
つまり、私たちは、人殺しなどしない、人を殺す気持ちなどわからない、と自分自身では思っていますが、今まで人を殺めた事がないのは、心が清いからではなくて、単にその条件が整っていないだけであって、社会的に極限まで追い詰められたり、自分の命の危機に直面したり、味わった事のない絶望に打ちひしがれたり、押さえようの無い怒りや憎しみに心を支配されたりした時には、人を殺してしまうこともあるかもしれません。
また、全く意図せずとも、事故等によって、人を殺めてしまうこともあるでしょう。
殺人事件のニュースを見て、第三者的に、無責任な思いを持ってしまう私ですが、
実は決して第三者などではなく、いつ加害者の側に回るとも限らない存在なのです。

こんな事を言うと、罪を犯すことに対して、開き直っていると思われたり、加害者の行いを肯定しているように思われたりするかもしれませんが、そうではありません。
他の命を傷つける行為は、先ほども書きましたが、決して許されることではないのですが、
人の事を責めるのではなく、まず自分の姿を正しく見つめ、決して自分は常に正しい存在であるわけではない、ということを考えなければならないと言うことです。

とは言え、事件の報道を見て、それを批判するな、と言いたいわけではありません。人それぞれにいろいろ思うこともあるでしょうし、第三者的な、客観的な物の見方が重要になることもあります。
しかし、最近は凶悪犯罪に関して、過度で偏った視点からの報道も見受けられます。そのような報道に流されて、単に他人事として面白半分で事件を見るのではなく、自らもいつそうなるかわからない身であると、自分の姿を正しく見つめなおす事も、大切なのだと思います。
自分を正しく見つめていくことは、他人に対して思いやりの心を持つことにも、繋がることでもありますし、そこから少し、変わっていく事もあるかもしれません。

ま、私も人の事を言うだけでなく、自分がまずそうしていかねばならないのですけど、ね。

2008年03月13日

食品、奥から取りますか?

ちまたで話題の消費期限。
気にする人が増えたと思いますが、賞味・消費期限の長いものから買いますか?

先日、こんな話を聞きました。

そこそこ考えて買い物をするひとは、賞味・消費期限の長いものから買う。
でも、本当に志のある人は、あえて期限の短いものを買って、期限までに使い切る努力をする。

なぜかというと。
日本の食品の廃棄量は、とてつもなく多い。
もったいない。もったいない。
だから。

「この食品は、今私が買わなければ、廃棄されるかもしれない。でも、今私が買えば無駄なごみにならない、もったいなくない」と考えるのだ、と。

スーパーの見切り品コーナーには、今日明日の消費期限となったものがどさっと置いてあって、少し痛みかけてる野菜や果物が並んでます。お魚お肉もしかり。家計節約のためにこれらを買うことはよくありますが、それだけじゃない意味があるんですね。

販売側の工夫もあったらいいな。
お肉お魚お野菜のいわゆる“見切り品”。
それぞれをワゴンにどさっと乗せたり、隅においやったりしないで、【今晩の献立はこの中からどうぞ!】ってひとまとめにして、ecoシール=3割引みたいにしてくれたら、無駄なく買える気がします。

出来ないことないと思うけどね。その分の人件費や経費、廃棄に比べたらエコじゃない?

確かに、健康被害があるかもしれないから、それは注意しないといけない。
でも、自分だけは、自分の家だけは安心安全なものを購入すればいい、ってだけなら、それはエゴというものかもしれません。
買い物かごをもう一度、見てみよう。
エゴの塊ばかり、になってないかな・・・

エゴから、エコへ。
今夜の献立のための買い物だけ、って所から始められる。
視野が広がる、背筋が伸びる、そういう買い物が出来そうです。

2008年02月03日

鬼は外、福は内

今日は節分ですね。皆さんも豆まきをしたり、年の数だけ豆を食べたりしたでしょうか?最近では、関西の風習だった恵方巻きを食べる習慣も、全国的に浸透しつつあるそうですね。

さて、そんな節分。豆まきと言えば、「鬼は外、福は内」ですよね。これがもう決り文句になってますが、今日新聞の社説を読んでますと、こんな江戸時代の川柳が紹介されてました。

「節分は金がほしいの声だらけ」

実に辛辣ですよね。要するに、「鬼は外、福は内」と言っているのは、現実問題としてお金がほしいのが本音じゃないか、と。
しかしこの川柳、当たらずとも遠からず、な気がいたします。
「鬼は外、福は内」
災厄を避け、お金が手に入ったり願いが叶ったり。これは、誰しもが臨む事でありますし、それを願いたくなる気持ちもわからなくは無いですが、確かに聞きようによっては、上のような川柳のように思えなくもなりません。


続きを読む "鬼は外、福は内" »

2007年12月18日

「偽」

今年の世相を表す漢字として、「偽」という漢字が選ばれて、清水寺の貫主さんが例年の如く書いておられましたね。

この「偽」という漢字、法話を聞いていてもよく出てくる文字で、この漢字が今年の漢字に選ばれるちょっと前に、メリシャカメンバーのチスイさんとメールやり取りしてて、この「偽」という漢字は、「人」の「為」と書いて「偽」となるんだ、ということを言っておりました。
なるほどな、ですよね。
特に今年のニュースでよくあった、政治家や官僚が、国民の為、と言いながら結局自分の利益や保身の事しか考えていないような様を見ますと、「人」の「為」と書いて「偽」になるというのはよく納得できるように思います。
つまり、意識しているしていないに関わらず、本音の部分では自分の為に行なっているのに、誰かの為と大義名分を標榜していることは、「偽」であると言う事です。これは政治家や官僚だけに言えることだけじゃなくて、今年話題となった、食品偽装の問題などにも言えるのでしょう。

しかし、私としては「人」の「為」が「偽」になるという説に、ちょっと引っ掛かりを覚えました。もちろん、心の中では「自分の為だよ」と舌を出しながら、口からは「あなたの為」と美辞を述べながら行う事は「偽」だと思いますが、人の為に何かをしたいと思う気持ちや、しようとする事は本来的に悪いものではないハズですし、必ずしも本音の部分で自分の為という心が無く、心から相手の事を思ってする事だって、あるんじゃないかなと。

続きを読む "「偽」" »

2007年08月14日

しょうがない

ども、みなさま、ご無沙汰しております、シャカ斬り、久しぶりの更新でございます。
ずいぶん長い事時間が空いてしまい、申し訳ありませんでした。
いつも書こう書こうとは思っていたのですが、どうも最近は刀がさび付いてきてしまっていて、「斬る」ことができずにいました。。。
が、今回はちょっと思うことがありましたので、久しぶりに刀を磨いて、斬らせていただく所存ですので、一つまたよろしくお願いいたします。

さて、今回切らせていただきますのは、「しょうがない」という言葉。
私たちも日常でよく使ったり、耳にする言葉でありますし、
少し前のことになりますが、久間元防衛大臣が、原爆投下を「しょうがない」とした発言が問題となった事は、皆さんもまだ記憶に新しいかと思います。
またあるニュースを見ておりますと、
ある新興住宅街の下に、トンネルを掘った結果、その地盤が徐々に沈んでいき、その住人が役所に問い合わせたところ、「しょうがない」という対応をされた、ということも、報道されておりました。

しかし、私たちも日常使う言葉であるのに、なぜこの言葉が、問題となるのでしょうか。確かに、久間氏の発言は、原爆投下を容認する言葉に取れますから、被害を受けられた方々の心情を無視し、深く傷つける言葉であります。
また、もし、災害が起きて、被害を受けた人がたくさんいたとして、その人たちに向かって、「この災害は『しょうがない』ことだ」とは、とても言えないし、言えば、被災した方々を怒らせてもおかしくありません。
しかし、もし被災した方が、「この災害は『しょうがない』」と言っても、おそらくだれも怒る事はないし、問題になる事は無いように思います。
とすると、どうやら「しょうがない」という言葉は、誰が使うか、ということによって、言葉の意味のニュアンスが、異なってくるようです。

そこでこの「しょうがない」という言葉の意味を考えてみますと、この言葉は元々は「仕様がない」から来た言葉です。で、「仕様」というのは、『広辞苑』によりますと「仕方。方法。」とありますから、「仕様がない」というのは「方法、手立てが無い」と言う意味になるかと思います。
つまり、何か問題が起こった時、それに対して、どうにも対処する手立てが無い、という場合に使う言葉のようです。
もう少し考えてみますと、どうにもとるべき手段、道が無い、八方塞りの状態で使う言葉ですから、「諦め」の気持ちが混じった、言葉であるとも考えられるでしょう。

しかし、「諦める」という言葉は、本来は、現在使うような「断念する」とか、「不可能だと判断してやめる」というような意味ではなく、「明らかに見る」という意味が原義です。
では、なにを「明らかに見る」ことが、「諦める」ことなのでしょう。

続きを読む "しょうがない" »

2007年03月27日

でなければならない

ども、ケンユウです。シャカ斬りも毎度の事ながら久しぶりですねぇ。
さて今回は、別に気になるニュースがあったわけでもないのですが、ちょっと気になる事があるので、それについて今回は語らせていただこうかな、と思います。
で、その気になる事というのは、「~でなければならない」というような、強く理想を求めるような考え方、です。まあこういう考え方って、今に始まったものじゃなくて、私自身も含め、人は誰しもが結構持っているものなのかもしれないのですが、そういうものの考え方が、個人的に最近、すごく気になるんです。

なぜ「~でなければならない」という考え方が気になるかと言いますと、このものの考え方って、ものすごく極端というか、偏ったものの見方なんですよね。
例えば、「痩せてなければならない」とか、「男は稼ぎがなければならない」とか、「女性は慎ましやかでなければならない」とか、まあいろいろあるかと思います。
で、そう言う考え方って、理想に向かっていく姿勢として、すごく大事なものなんですけど、その反面、他を否定・排除してしまうような、悪い意味での強さも持っていると思うんです。
どういうことかと言うと、何かしら「~でなければならない」という考え方を持っているとして、自分自身がそれを求めて行く分には何の問題もないのですが、その条件に当てはまらないモノや人だっているわけです。そう言う自分の理想とかけ離れたモノや人に触れた時、別にそのモノはそのモノ、その人はその人、というように、なんとも思わなければいいのですが、理想を求める事を自分がしていると、そうでないモノや人を見たとき、どこかしら蔑みであったり、或いはその理想の強要をしてしまうような面が、出てきてしまうことがある、ということです。

続きを読む "でなければならない" »

2007年01月30日

国家にとっての命とは

ども、久しぶりのシャカ斬りです。

最近、柳沢厚生労働大臣が、講演で「女性は子どもを産む機械・装置だ」と言う発言をしたことが、大きく報道で取り沙汰されております。
この発言には、私もビックリでした。
よく政治家などの公の人物が、本音をポロっと発言してしまってニュースになることはあって、大抵、その気持ちはわからんでもないとか、心の奥で思っておいても、口に出す事は無いのに、とか、ある程度理解できる部分もあったりするのですが、今回の発言は、本当に思ってもみないことを、講演会と言う公の場で発言した事に対して、驚くと共に、こんな事を考えている人が政治家なのか、ということに、愕然としました。

この発言は、大きく女性の尊厳を傷つけるものです。
そして同時に、人間の「命」を軽視する発言でもあると思うのです。
柳沢氏の発言の中には、「女性は子どもを産む機械であり、機械の頭数は決まっているから、一人頭が頑張ってもらわなければ・・・」というような部分がありました。
これは、現在日本の抱える一つの問題である少子化の問題について、何とかしていかねばならないという国を憂う気持ちからの発言だと考える事が出来ますが、それでも、女性を機械扱いをしていることは許される事ではありません。
そして、上記の発言の裏と言うか、そういう発言をするに至った経緯を推測しますと、とりあえず、出産率を上げて、人口を増やしたい、と言うような思いがあるように思います。その理由は、少子高齢化が進めば、当然国家の収入が減りますし、高齢者へのケアが、国にとって大きな負担になってきます。それを防ぐため、人間を機械のようにたくさん「生産」しろ、というような考えが、どこかにあるように思えなくも無い気がします。
そしてその思いは、結局国民を、人間を、税金を納め、国を成り立たせるためのモノ、ぐらいにしか思っていない、と言うようも感じられます。
つまり、女性が子どもを産む機械で、生まれてくる新しい命は、国を成り立たせるための機械だ、そんな風な思いが、もしかしたら、柳沢氏の頭の中にはあるのかもしれません。
まあこれは、私個人の深読みのし過ぎ、なのかもしれませんが、あの発言を突き詰めて考えますと、女性はもちろんのこと、人間の、新しく生まれてくる命の尊厳を大きく傷つける発言のように思えてなりません。

もちろん日本と言う国にとって、少子高齢化に対応する政策はこれから必要とされる事ではあると思います。
それでも、人は、命は、機械のように簡単に「生産」されるものではありません。
いろんな人の想いが重なり合って、無限とも言える命の「縁」が絡み合って、そこに初めて生まれてくる、とても不可思議で、尊いことです。その一人一人の命は、どんな人の命であっても、唯一の、かけがえの無いものであり、同時に全ての命と繋がった、大切な命であるはずです。

それをいくら政治の上での話であるとは言え、人の命を、モノのような扱いをしたり、数字でしか推し量れないような考え方をするのは、やはり許されるものではないかなと思います。
特に、昨年大きな社会問題となった、いじめの問題や、自殺の問題によって、命の大切さをもう一度、社会全体で考えていこうという動きが起こってきている中で、命の尊厳を大きく損ねるような考えを、国を動かす政治家が持っている、ということは非常に残念でなりません。
子どもへの命の教育を叫ぶ前に、まずは大人が、それを実践していかなければならないはず、なんですけどね。

と、ボウズが偉そうに政治に口を出すな、と言われるかもしれませんが、「命」を考えるという時には、政治も宗教も、関係ないのかなと思い、あんまり仏教的な文章にもなってませんが、ちょっと、書かせていただきました。

2006年12月08日

思いやり

ども。寒くなってきましたね。
皆様お風邪などひかれてはおられないでしょうか?

さて、ちょっと前の話になるんですが、今年の10月末から11月にかけて、ダライ・ラマ師が来日され、東京や広島で講演をされました。私も行きたいなー、と思っていたのですが、報恩講などで忙しい時期で、どうしても行けなかったのが、非常に残念です。
で、どんなお話をされていたんだろうなー、と気になっておりましたところ、広島国際平和会議で師がお話されたことの要旨がライブドア・ニュースに書かれておりました。
その国際平和会議では、ダライ・ラマ師の他に、一介の主婦でありながら、北アイルランドの紛争の中、子どもが殺されるのを目の当たりにして、子どものために平和への運動を始められ、ノーベル平和賞を受賞したベティ・ウィリアムズさんと、南アフリカでアパルトヘイト撤廃に尽力し、1984年にノーベル平和賞を受賞した南アフリカのデズモンド・ツツ大主教も、平和についての講演をされました。
その内容に関しては、いつまで残っているか、はなはだ微妙ですが、参考にさせていただいたライブドア・ニュースへリンクしておきましょう。

○ベティ・ウィリアムさんの講演の要旨
○デズモンド・ツツ大主教の講演の要旨
○ダライ・ラマ師の講演の要旨


さて、この中でダライ・ラマ師は「思いやり」と言うことをお話されておりました。
このことは、今の世界の状態や、平和な世界作りに向かうために大切であることはもちろんの事なのですが、私達の身近なところでも、「思いやり」というものは、大切なものであるはずです。
例えば、今年の秋頃から大きな社会問題として取り上げられてきております、いじめの問題なんかについても、この他の人を「思いやる」という気持ちが欠如しているから起こってきているのかもしれないな、と言う風に感じます。
現代は激しい競争の社会ですから、他人のことなど構っている暇など、ありません。自分のことだけを考え、なんでも人の力に頼らず、自分でできなくてはいけません。時には他人を蹴落としていかなければ、競争には勝っていけません。
でもそうすると、どうしても「ワレがワレが」という気持ちばかりが強くなって、他の人の気持ちや、他の人の考え方を理解していこうと言う気持ちは起こらなくなり、自分さえよければ、とか、他の人はどうなってもいい、そんな風になってしまうのだと思います。
そういう自分のことばかり考えて、人の気持ちを考えられない、ということが、いじめに繋がったり、憎ければ、自分の邪魔になれば、自分の親でも子どもでも、いとも簡単に殺してしまう、そんな社会を作り出しているのかな、そんな風に思うわけです。もちろん戦争と言うものも、その延長線上にあるもの、なんでしょう。

続きを読む "思いやり" »

2006年11月22日

嗜好品

シンキです。

昨日、映画版『機動戦士Zガンダム』のDVDを買いました。
戦争とはいかに愚かなものであるのかという事に涙する毎日です。

関係ないですが近年、受動喫煙に関する話題が多くなってきました。
そこで受動喫煙に関する話題をひとつ。

喫煙に関する規制が近年厳しくなったのは、健康意識の問題もあるでしょうが、個人的には、多く喫煙者がマナーを無視してきた代償だと私は思います。
私は喫煙者ですが、喫煙者と非喫煙者を隔離することには大賛成です。理由は2つ。1つは、受動喫煙の問題があるから。2つめに、喫煙をとやかく他人に色々言われたくないから(笑)。この2点ですね。

ただ、受動喫煙が何十メートルに及ぶとか…医学のやりすぎな点も否めないのですが…。

続きを読む "嗜好品" »

2006年11月09日

いじめと親心(慈悲の話)

昔から仏教では、ほとけさまの心は親の子どもに対するこころ、つまり親心であると説かれてきました。
皆さんは親の愛情を感じたことってありますか?それはどんなことでしょうか?
「すぐ心配する」と言う人もいると思いますが、それが親心なのです。

「親」という漢字をよく見てください。
「『木』の上に『立』って子どもを『見』る」と書いて「親」となります。
親は子どもが心配で心配で、堪らなくて、木の上にまで上がって、子どもを見守ろうとするのです。

そのような、切ない親心について書かれた文章に最近出逢いました。そしてとっても感動しましたので、皆さんに紹介しようと思います。

サトエリこと、女優、佐藤江梨子さんが、インターネットのブログに載せられた「愛について」の文章です。
以下、引用させていただきます。

イジメが原因で小学生や中学生が自殺してしまう事件が最近多くて、凄く悲しく思います。
私は、小さい頃から転校が多くて、背が高くて目立ってよく、イジメられたよ。
クラスの皆からシカトとか『ブス、キモい、きしょい、キショ、嫌い、帰れ、ムカツク、カンに障る、独り言言ってる、学校くんな、見るな腐る』・・・とか色々、ありもしない噂がいっぱいマワッタリ、本当に苦しかった。本当に今思い出しても息が詰まる、し、気持ち悪くなる。
『学校に行きたくない!』と親に何度泣き付いたかわからない。
『頭痛い、気持ち悪い、お腹痛い』って仮病も使い果たした時、いつも、ぶって、叩いてでも学校へ行かせる父が、私の前で土下座をして『学校行こう!!、お前をイジメてる奴、一人一人にこうやって、お父さん、頭下げて頼むから!!エリをイジメないで下さい!!って何度でも頼むから!!』そう言われて私は『大丈夫・・・パパ、大丈夫だよ。』とだけ言って学校へ行きました。

それからも何度も嫌な事やイジメらしきモノはあったけれど、その日の父を思い出すと、私は
どうにか大丈夫に出来ました。

もしかすると、その日に初めて人から愛されてる事を知った・・・認識したのかもしれません。

サトエリさん、本当に、本当に良かったですね。
自分のために一緒に泣いてくれる、一生懸命愛してくれるお父さんがいて本当に良かったね。僕もいじめられた経験もあるし、涙が出てきたよ。

たとえ、いじめの状況が変わらなくても、自分のことを思い続けて止まない親心に出遇ったから、サトエリさん、がんばることができたんですね。

ほとけさまのお心とは、きっとこのような親心なのでしょう。

「どんなことがあっても、わたしはおまえを見捨てはしない。
たとえ、世界中の人がおまえをいじめても
他の人がおまえを否定しても
たとえ、おまえ自身が自分を見捨てることがあったとしても、
このわたしだけは、決しておまえを捨てない。
なぜなら、わたしはおまえの、親だから!

と言ってくれる人がいてくれたら、僕たちは本当にうれしいのだ。そして生きていける。
たとえ、状況は変わらなくても、苦しい出来事が起こっても、
それを乗り越える勇気がもらえるのだ。

2006年11月01日

Gourmet

ども。久しぶりにやってきました。
今回も、世の中の風潮をバッサリ?斬ってみたいと思います。
相変わらずの長文になっておりますので、その辺一つお覚悟とご容赦の程を。


さて、もうちょっと古いかもしれませんが、

「味のIT革命や~!!」
「まいう~!!」

このような言葉が、テレビからよく聞かれます。
テレビ番組にもいろいろ流行り廃りがありますが、グルメ番組、というものは毎日のようにやっているのではないでしょうか。それだけ私達が「食」というものに並々ならぬ興味があって、それが尽きない、ということのなのでしょうね。


さて、先日住職が、友達と夫婦揃って食事に、と言うことでわざわざ金沢まで、バスを借りて行く、ということを言っておりました。わざわざ金沢まで、と言うのは、ウチの町から金沢まで車で1時間以上かかる、ということなんですが、私としては、わざわざそこまでしなくとも、と思ってそう住職に言ったのですが、まあ主催の友達の方が、結構なグルメ、というか、舌の肥えた方らしくて、美味しいお店に行きたいらしいので、との事でした。まあその時はなるほどね、と私も納得したのですが、この「舌が肥える」ということについて、ちょっと「ん?」と感じてしまいました。
皆さんは、「舌が肥える」ということについてどうお考えになるでしょうか?一般的に「舌が肥える」ということは、美味しいもの、珍しいものなどをいろいろと食べる事ができて、味の良し悪しがわかるようになる、と言うことだと思います。つまり味覚の鋭敏な人、味や料理に含蓄あることを指す言葉でしょう。ある意味ではこれは褒め言葉、ですよね。いい物をたくさん食べてきていて、という。美味しいものをたくさん食べられると言うことは一つの幸せでもありますから、私も体が肥えるのは嫌だけど、舌は肥えたい、と思われる方がおられるかもしれません。


でもどうなのでしょう?果たして「舌が肥える」ことは、良い事、幸せなことなのでしょうか?いやいや、美味しいものをたくさん食べて舌が肥えるのだから、それができるということは幸せなことでしょ、という意見が出るかな、と思いますが、私はそれはあんまり幸せなことなのではないのではないかな、と思うのです。
確かに、美味しいものや珍しい食べ物を口にできるその時は幸せな気持ちを味わう事ができるかもしれませんが、普段から毎日毎食そんな贅沢ができるなんてことは、そうそうないはずです。
いや、もし毎日毎食贅沢な食事をしていても、だんだん飽きてきて、その食事に贅沢を感じなくなり、もっと美味しいもの、もっと珍しいものをと、どんどん際限なく求めていくようになるのではないかな、と思います。
そうなってしまうと、ちょっとやそっとの食べ物じゃ、満足できなくなってしまいそうです。すると、んー!美味しい!と食べる喜び幸せを感じる機会が、どんどん減っていってしまうような気がします。

続きを読む "Gourmet" »

2006年10月17日

お墓参りと核実験

前にミクシィ日記でも書いた内容なんですが少し思うところがありアップしました。

先日あるお宅のご法事にお参りし、お経のお勤めの後、皆でお墓参りに行った。

御墓参りを終え帰ろうとすると、その家のご主人が僕にこう言われた。

「この向こうに、悲しいお墓があるんですよ。」

「え?悲しいお墓って・・・」
ご主人さんから話をよくよく伺ってみると、「昭和20年8月9日」に亡くられた家族がおさめられているお墓なのだそうだ。


30代のおかあさん、そして3人の子どもが、同じ8月9日に亡くなっている。法名碑にはそう刻まれている。

これはご主人さんが想像して言われるのだから、本当かどうかは分からないのだけれど、きっとそのお墓の家のご主人が戦争に出征していない時に、昭和20年8月9日、長崎に原爆が落とされ、奥さんと子どもたちは皆亡くなったのだろう。
戦争から帰ったご主人さんはどんなに辛かっただろうか、歯がゆかったろうか、悔しかったろうか。

お墓にお参りされる一人残されたご主人の思いは如何ほどだろうかと、うつむき加減に言われたのだ。
きっと生きるのが嫌になるくらいじゃないかと僕は思った、がそれは想像していることに過ぎないのだ。

家に帰ると、テレビで北朝鮮のニュースしていた。
はっきりとは分からない、が北朝鮮により10月9日10時36分前後、核実験が行われたということ。

僕はそこで、はっとして思った。

「繋がっている」と思ったのだ。 今日お墓で聞いた話と繋がっている。

北朝鮮の核実験は対岸の火事ではない。日本が凄く関わっている。日本だけではなく全世界が関わっている。そして自分が関わっている。
僕の母親の母は広島で原爆を受けている。その時のことは僕らには一切話さずに亡くなっていった。しかし、その時の思いは短歌に残し、僕の妹は祖母の火傷の痕を見せてもらったことがあるらしい。

お墓でのこと、祖母のことが僕の頭の中をぐるぐると回った。

今の日本の平和がいつまでも続くということも言えないんじゃないか。ヒトラーは戦争を知らない世代を狙えと言った。
僕たちは戦争を知らないじゃないか。実際に経験していないってことは怖いことじゃないか。めぐまれている状態にいる者はめぐまれていることを知れないのではないだろうか。

安保理決議により、実際に北朝鮮に出入りする貨物の検査などの制裁が決まった。
船の検査する時に銃で打ち合いにならないだろうか?と思う。

ある政治家が日本の核保有についてメリットとデメリットを論議する必要をテレビで提起していた。

今何が出来るだろうか。自分に。
なんて思ったが、よく分からなかった。
ただ今日の御墓参りと、そこで出会った長崎の家族のお墓と、おばあちゃんのことと、北朝鮮の核実験とは、僕に「平和」とは何なのか考えろと訴えかけている気がした。

2006年06月07日

666

今日は、
って、もう終わっちゃいましたけど、
2006年6月6日でしたね。
数字だけ見れば、666と、6が三つ並んだ日です。
まあ100年に一度(いや、1000年に一度か?)しかないですから珍しい日なんですけど、
妙に騒がれていたり、そうでもなかったり。

何で騒がれていたのか、と言いますと、
ご存知の方もおいでると思いますが、「オーメン」という映画が最近リメイクされまして、そこに出てくるダミアンという名の子どもにこの「666」という印があり、その少年が悪魔の出現であり、人々に不幸をもたらす、というように描かれております。
で、なにやらこの「666」という数字は、よくない数字、悪魔の数字だそうで。
まあこれは、キリスト教にとっての、なんですけれども。
というのも、新約聖書にあります「ヨハネの黙示録」の中に、この666と言う数字が「獣の数」だと書かれており、、獣と言うのはどうも人を滅ぼそうとする存在らしく、悪魔、とみなされるようです。
それで「666」と言う数字は、悪魔の印となる数字だ、とか言われている、らしいです。
私も詳しいことはわからないのですけれどもね。

しかしなんでまた、「666」という数字が不吉と言うか、悪魔の数字、なんて事になったのでしょうね。
よくキリスト教では、「13」という数字が不吉とされます。
これはイエスが処刑され亡くなった日が、13日の金曜日であったとされるからだそうです。
この数字は、ジェイソンで有名な映画にもなってますし、「ゴルゴ13」の13もここから来ているとか。ちなみにゴルゴというのも、イエスが処刑された「ゴルゴダの丘」に由来するとかしないとか。

と、余計な話はさておき、
なんで「666」なんでしょうね?
まあおそらく、どうも暗号めいた数字で、数字自体に意味があるのではない、なんて言われたり、
キリスト教やユダヤ教で聖なる数字、聖数である「7」から一つ抜け落ちた数字だから、という考え方があるのだとか。
「7」が聖数というのは、ほら、1週間が7日、で、7日目は安息の日というキリスト教などの風習を考えてもなんとなくわかる。
で、それから一つ抜けた不完全な「6」と言う数がが、三つ並ぶのは、どうも良くないらしい。
それはどうも、7人の大天使がいて、そこから一人の大天使が悪魔に堕ちてしまい、大天使が6人になってしまい、悪魔が誕生した事で世界に混乱をもたらした、という神話に由来する、という説も関係しているとかしないとか。
まあそんなこんなで、「666」は良くない数とされている、らしいですよ。

・・・うーん、歯切れが悪いですねえ、どうも。
まあ、ちょっと調べてみたんですが、由来がはっきりしないんですよね、正直なところ。

でも、そんな由来もよくわからんのに良くない数字だとかいって、ビクビクしてるのって、なんだかおかしな話だな、なんて思ったりしませんか?
しかし、よくよく考えたら、日本人も、数字の良し悪し、結構気にしますよね。例えば、「4」は死、「9」は苦を連想させるから良くない。だから病院やアパートに4号室がないとかね。
他にも「42=死に」とか「49=死苦」とか言って忌み嫌いますし、
男は何歳と何歳、女は何歳と何歳が厄年で、とかもそうでしょう。
逆にほら、「7」はラッキーな数だ、何てことも言いますが、
これは実はさっき書いた、キリスト教の聖数に由来するようですよ。
実はあまり日本と関係ないことだったんですね。

あと聞いてビックリしたのが、
人が亡くなって、四十九日の法要をするでしょ?あれは三つの月をまたがないようにしないといけない、なんて迷信もあるんだとか。
なぜかって?
『始終苦(=四十九)が身(=三)につく(=月)といけない』なんですって。。
ふふふ、上手い事できた駄洒落ですよね。よく考えたものだと、感激してしまいます。
でもまあ実際はそんなことがあるわけでもないですよね。
三つの月にまたいだから良くないことが起こるということに、なんの因果関係もありません。
まあおそらく、先人が、四十九日の法要を、遅くれることなく勤まるように、戒める為の知恵として作られたものだと思うんです、本来は。それがこの言葉だけが先行しちゃったんでしょうね。

と、まあ日本人も、よくよく考えてみれば、いわれの無い数字に結構惑わされているような気がします。

仏教の教え、というのは、そういうものに惑わされないようにしましょう、という教えであります。
物事が起こる(=果)、ということには、必ず原因(=因)とさまざまな条件(=縁)があるのだ、と。そして、その因縁果を正しく見つめていきましょう、という教えなんです。
と、その辺のことは「Magic」ってコラムで書きましたので、そっちを読んでもらえるといいかもしれません。

でもまあ要するに、
悪い事が起ころうと、良い事が起ころうと、
そこにはちゃんとした原因や条件があるのであり、
決して語呂合わせやなんかで、さも意味があるように感じてしまう数字のせいではない、ということです。
数字は単に数を数えるための記号、道具です。
それ以上でもそれ以下でもありません。
でもそこに全く関係の無い意味を与えて、それの責任にしてしまおうというところに、
人間の弱さとか、愚かさ、迷いが感じられるような気がします。

そういう弱く愚かで迷ってばかりいる私だからこそ、
阿弥陀仏という仏様は、何としても真実に目覚めていって欲しいと願われ、
「南無阿弥陀仏」という声となって、
今、私のところにはたらきかけて下さっているのでしょうね。

2006年05月19日

裁判員になりたい!?

どうもshinkiです。

最近、一番気になるニュースについてです。それは、裁判員制度

国民の皆さんに裁判員になって裁判に国民の意見が反映されるように…という代物。PSE法(電気用品安全法)の時もそうだが、気付けば訳のわからない制度があって多分、『こういう法律が始まりますよ〜』って感じでいろんな掲示をやってるんだろうけど、知らない人は知らないよね。情報を知るものだけが特をするみたいな感じにもきこえるんだけどな…。

まあ率直にこの裁判員制度を知った時に思いだしたのが、最近DVD化もされたが、昔の映画で『少林寺三十六房』っていうのがありましたよね。あの映画で”仏法は世間の問題にかかわらないもの…”とか、そのようなニュアンスのセリフがありましたが、それを思い出してしまいました。ソレを思いっきりぶち破ってくれる制度ですよね(笑)。

裁判員制度の説明見てもイマイチわからないのですが、多分ランダムに国民が選ばれて裁判員にされるんですよね。なんかイヤだな。

まあ、ぶっちゃけて、直接人を法の元に裁くという行為の手助けになる事に関わる事がイヤな訳なんですよ。結果的にはもちろんそれなりの地位にある人が判決を出すんだろうけど、裁判員制度に関わっている間は、もちろんお仕事も休まなきゃいけないだろうし、それなりの資料なんかについて議論もしなくちゃいけない。

裁判ってそれなりの勉強した人がやってくれればいいんじゃないの??否定はしないが、国民にやらせる必要性が自分にはわかりません。

はっきり言ってやめてほしいです。こんな制度。いらん。

僕ら宗教者がいろんな事を考える時に、いつの時代でも”宗教”と”道徳”との違いについて考えられる事はよくあることでしょう。ちょっと語弊があるかもしれませんが、法律は道徳的なものがあります。

人を殺めてはいけない。→当たり前。道徳。
人を殺めてしまう事もある。人間だから。→宗教。

誤解のないように付け加えますが、上記の”人を殺めてしまう事もある”というのは、決して”殺める”ことに前向きな意見ではありません。もちろんですが。やってはいけないと分かりつつ、やってしまうのが人間であり、それを自分の中に認めていく事にヤメる心を持たせる要因があるのが宗教というものだと自分は理解しています。

でもいつか自分も人を裁く材料になる日が必ずくるんだな…と思えば何かと恐ろしや…。みなさんはどう思われるか。

以下裁判員制度ホームページより抜粋。
 
”平成16年5月21日,「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」が成立し,5月28日に公布されました。この結果,平成21年5月までの間に裁判員制度がスタートします。
 裁判員制度は,国民から無作為に選ばれた裁判員が,殺人,傷害致死などの重大事件の刑事裁判で裁判官と一緒に裁判をするという制度…”

2006年05月16日

Magic

先日、新聞を読んでましたら、面白い記事が載っておりました。
石川県で、宝くじが当たりやすい人はどんな人なのか、という記事です。
ちょっと、興味が湧くでしょう?
実際にみずほ銀行さんが調べたようで、
石川県で100万円以上の宝くじに当選した人を対象にしたとか。
で、その結果が、
男性はイニシャルが「T・S」の人、女性なら「K・K」の人、だということです。
星座で言えば、男性はおうし座、女性はおひつじ座が多いそうです。
年齢だと、男性は60代、女性は40代の人が多いのだとか。
ちょうど今、ドリームジャンボ売り出したようですので、
これに当てはまる人がいれば、買ってみるのも良いかも、しれません。
まあこれは石川県だけの結果なので、あまり他県の人には関係のなことかもしれませんが。
が、どうでしょうね、これ?
イニシャルだとか、星座というものが、果たして宝くじの当たる当たらないに関係があるんでしょうか?
よく考えてみると、宝くじの当選に、こんなこと、全く関係していないはずです。
たまたま今まで当選した人の中に、そんなイニシャルや星座の人が多かっただけ、というだけで。
まあ年代というのは、その年代の人が多く宝くじを買うから、ということで関係しているのかもしれませんが。
でも、こうして統計を取って、そんな結果を突きつけられると、
まるでそんな条件に当てはまる人が宝くじが当たりやすいとか、
イニシャルや星座といったものが、宝くじの当たる当たらないの条件になるような感覚に陥ってしまいます。
しかもそれが「みずほ銀行」というビッグネームのお墨付きの情報ですしね。

こういう「錯覚」というものは、私達の周りに実に多いような気がします。
CMなんかを見ていてもそうですよね?
例えば「これを使った主婦の90%以上が満足を示しました!」とか、あるじゃないですか。あれも、使った90%以上の人が満足するということは、いい商品に違いない、と思ってしまったり、
多くの人がその商品を使っている、そんな気がしてしまいます。
でも、果たして本当に全ての主婦の90%以上の人が満足するか、といったらそれはまた別物でしょうし、実際多くの人が使っているとも限りません。
どういう人を、何人集めて、どういう質問し、どんな結果になったのか、わからないわけですからね。或いは満足度の基準も定かではないわけですし。
それにもし、その結果が本当で、90%以上の人がその商品を満足して使うようならば、
他の会社の商品は売れていない、使われていない、なんてことにもなります。
が、実際には、同じような商品でも、多くの会社が出しているわけです。

まあ、こういう情報は、ある程度統計学というものに基づいて算出した数字でしょうから、あながちウソ、出鱈目、というわけでもないでしょう。
しかし、真実でもない筈です。
ところが、どうも統計とか、具体的な数字というものを出されると、
私達はそれがまるで真実のように思い込んでしまいがちです。

似たようなものに、平均寿命、ってものもあります。
今の日本の平均寿命は、男性が約78歳、女性が約85歳だと言われています。
これを数字だけで判断してしまうと、まるでそれが事実であり、
自分もその年までは間違いなく生きられる、それまでは大丈夫だ、となんとなーく感じます。しかし、実際はそんなはずはありません。
明日ともしれないのが私の命であります。
にもかかわらず、こういう数字を目にすると、まだ大丈夫と思いますし、
平均寿命にまで届かずに亡くなる方がいれば、
まるでそれが悪い事のように思われてしまう事だってあります。
確かに平均寿命という1つの基準があれば、人生の設計を考える上で便利なんですが、
数字というものが、その他のいろんな判断基準となってしまって、
文字通りの誤解、誤った認識も生じてきてしまう。
数字というものは、便利な反面、真実を曇らせてしまうという、
恐ろしい一面も持っているのです。

続きを読む "Magic" »

2006年04月29日

カツラボクサーの強さの秘訣

ボクシング:カツラボクサー 判定勝ち

人間誰しも隠したい自分が一つや二つあるはずだ。
人は誰しも自分の中に嫌いな部分が幾つかあるはずだ。
僕なんて自分で自分が嫌いで仕方ない。しかし嫌いと言うのも自己愛の裏返しで、逆を言えば自分が大好きと言うことなのだろうけど・・・。

たとえば、頭髪が薄くなる怖さみたいなものは誰しも男ならあることではないだろうか。
そして、それを隠そうとするのも、大人のお洒落心からすれば当然でしょう。

実は僕の父(住職)はおぼうさんで髪が薄く、お坊さんなのに昨年までカツラを被っていました(笑)
「姉歯の気持ちが俺にはわかる」という名言を残したとか残さなかったとか。
そんな父を持つ僕もまた今はまだ大丈夫だけど遺伝的にいずれ禿げるんですよ多分。正直言いますと禿の恐怖というものをいつも感じているのです。

そんな僕の心を明るく照らしてくれた人がカツラボクサーです!
カツラを被ったボクサーです!
妹さんが撮影したビデオがワイドショーで放送されて大反響が起きました。

なんでボクシングにカツラを被るんだ~~!ずれるって予想できるだろう!
と誰しも突っ込みを入れたでしょう。

実はその時僕は画面を見ながら感動していたのです。
カツラボクサーは、相手のパンチで、カツラをずらされてもずらされても決して怯むことなく、立ち向かっています。

妹さんたち応援している人は冷や冷や見つめます。「いやだ、恥ずかしい」と言う妹さんの声がビデオに入っていました。

カツラが脱げて落ちたら反則になり試合に負けてしまいます。
そしてラウンドの間にコーチがカツラボクサーのカツラを取るのです!
そしてカツラを脱いだら人が変わったように強くなるんです!これが(笑)
見事判定勝ちを収めました。カツラボクサーこと小口雅之さんは、その時自分の丸坊主の頭を擦りながら、自分に注がれる会場を揺るがしかねない大声援に応えられたのです!感謝を意を表されたのです!

僕はそのテレビを見ながら腹を抱えながら笑いましたが、同時になぜだか泣きそうになるほど感動したんです。自分の負に思える部分、恥ずかしいと思っている部分、隠したいと思っている部分がある。
それがハプニングがあり、大衆にさらけ出さないといけなくなった時、その時が一番その人間の芯(本質)が見えるんじゃないでしょうか!

カツラがずれて、恥ずかしがるのではなく、引け目に思うのではなく、怖気づくのではなく、
最後まで戦い続けたのだ。

自分の「引け目」と思われる部分を「魅力」に転化する。そこに僕は本当の格好よさを感じずにはおられないのだ。

カツラボクサー。
彼は格好良い。
カツラがずれる度、涙が出るくらい笑ったけど。
誰がなんと言おうと、強いと思うよ。 亀田兄弟よりもある意味強い。


最近の試合では、長髪の京本政樹風の格好いいカツラを試合前に会場に投げ入れるというパフォーマンスを見せた! なんとカツラのスポンサーまで付いたのだ!おそるべしカツラボクサー。

一見ネガティブと思える要素を、ポジティブに転化する。
ほとけさまは無分別智という大いなる智慧でもって、私たちを見てくださる。
そこには、すぐれた命、劣った命というものはない。皆金色に輝いている大切ないのちだよと教えてくださる。
そこに自分は他の人よりも劣っている、優れていると見なすのは自分勝手な物差しでしかないのだ。

小口雅之さんをこれからも応援したい。


決定的瞬間
(参照)おすすめのネタ

2006年04月07日

おばあちゃんの慈悲

痛ましい事件が多い中、ご老人を狙った若者の犯罪が増えている傾向がある。
こんな事件があった。

中学生が「ばば抜き」高齢者狙い金品奪う

「ばば抜き」と称し、高齢女性ばかりをターゲットとして金品を奪っていた中学生グループが摘発された。広島中央署が、強盗致傷容疑で再逮捕したのは、広島市中区と西区の市立中学2年生男子(14)2人。
再逮捕された2人はグループの中心的メンバーで「抵抗されないし、被害者が慌てる様子が面白かった。ゲームや食事をする金が欲しかった」とゲーム感覚で犯行していたことを供述しているという。

今日も27歳の男性が一緒に住んでいる祖父母を殺害し、「これは人形です」というコメントを残したという大変ショッキングな事件があった。

元来、仏教では親心を説いてきた。
それは、親子の愛着や忠孝の話ではなく、仏様のこころ(大慈悲心)を説くときに、親の子どもに対する止むに止めないおやごころを持って表現し続けてきたのだ。

もっと言うと、「決して見捨てはしない」という心。他のどんな人がお前を見捨てようとも、この私だけはどんな事があっても見捨てない。だって私はお前の親だもの。
たとえお前が私を見捨てても、私は決してお前を見捨てないよ、というお心、それが仏様の心だと説かれてきたのだ。

しかし、現代では虐待する親も多いし、子を抱きしめられないで苦しんでいる親も多いと聴く。
だから、親の心のお説教は理解と共感され辛くなったと言える。
しかしそんな時代だからこそ逆にそう言った「仏心」や「慈悲」つまり「親心」を、僕たちは大切に大切に聴いていくことが大切なのではないだろうか。。

それはおじいちゃん、おばあちゃんの、孫に対する感情にも似ていると最近僕は思うようになった。

仏教で有名な物語に、姥捨て山の話がある。

老人になった母親を、子どもが山に捨てようと背負って走る。
すると老いた母親は、鬱蒼と生えた山道の木の枝をポキポキと折っていくのだ。

子どもは「どうせ、自分が母を捨てて帰った後に、寂しくなってその枝を頼りに山を下りようと思ってるのだろう。ずるい奴だ。」と思っていた。

山の奥で母親を置き去りにし、帰ろうとする息子に向かって「枝を折っておいたからね、今日はよい月明かり。その枝を頼りにお前は気をつけて帰っておくれ。お達者で。」と母親は言う。
その時、息子の心は崩れた。自分は老いた母を捨てようとしているが、母は自分を見捨てなかったのだ。

僕にも祖父は亡くなったが、祖母がいていつも僕の世話を焼いてくれる。
面倒に思うときもあるし、時に祖母にキツくあたることもある。
しかし、例えば時に、晩遅く遊んで帰ってきたときにも、寝床から「おかえり」と言ってくれる時に思う。
「あー、起こしてしまったな。こんなに遅くなっても心配してくれているのだな」と。

最後に、こんな素敵な逸話を載せて終わりとしよう。
2ちゃんねるに載っていた文章らしい。

おばあちゃんとすごろく
82 : ◆DQN.BOMcLA :2005/08/21(日) 22:58:16
オレは小さい頃、家の事情でばあちゃんに預けられていた。
当初、見知らぬ土地に来て間もなく当然友達もいない。
いつしかオレはノートに、自分が考えたすごろくを書くのに夢中になっていた。
それをばあちゃんに見せては
「ここでモンスターが出るんだよ」
「ここに止まったら三回休み~」
ばあちゃんはニコニコしながら、「ほうそうかい、そいつはすごいねぇ」と相づちを打ってくれる。
それが何故かすごく嬉しくて、何冊も何冊も書いていた。

やがてオレにも友達が出き、そんなこともせず友達と遊びまくってたころ
家の事情も解消され、自分の家に戻った。ばあちゃんは別れる時もニコニコしていて、
「おとうさん、おかあさんと一緒に暮らせるようになってよかったねぇ」
と喜んでくれた。

先日、そのばあちゃんが死んだ。89歳の大往生だった。
遺品を整理していた母から、「あんたに」と一冊のノートをもらった。
開いてみると、そこにはばあちゃんが作ったすごろくが書かれてあった。
モンスターの絵らしき物が書かれていたり、何故かぬらりひょんとか妖怪も混じっていたり。
「ばあちゃん、よく作ったな」とちょっと苦笑していた。
最後のあがりのページを見た。「あがり」と達筆な字で書かれていた、その下に

「義弘(オレ)くんに友達がいっぱいできますように」

人前で、親の前で号泣したのはあれが初めてでした。
ばあちゃん、死に目に会えなくてごめんよ。そしてありがとう。

(参照)ワラタ2ッキ

ここで描かれているおばあちゃんの心は、慈悲の心だ。
大切にしなければ。

アーカイブ

コメント

香茜 on 食品、奥から取りますか?: 漢方よりみちまわりみ
漢方よりみちまわりみち on 食品、奥から取りますか?: 賞味期限近いものを買
漢方よりみちまわりみち on 人を殺すのは誰?: はじめまして。‘御花
ちすい on 富: 昨日はお会いできて色
kenyou on 国家にとっての命とは: kakaさん コメン
kenyou on でなければならない: kakaさま はじめ
kaka on 国家にとっての命とは: ここにきて、初めて女
kaka on でなければならない: でなければならない・
shinki on 嗜好品: そうダス。 世の中の
kenyou on 嗜好品: ウチの弟も、面白いこ

2006.4.26-
Powered by
Movable Type 3.33-ja copyright(c)2006 merry-shaka.com