2008年07月25日

愚かと言うこと

近、ガソリン高いですよね。それに伴ってか、物価も上昇し、生活は苦しくなる一方。毎日暑いのに、クーラー節約したりしなくちゃいけないし、地方に住んでおりますと、都市に比べ、年々生活環境が悪くなっていっているという印象も否めません。一体政治家や官僚は何をやっているんだ、日本はこの先どうなるんだ、なんて、思わない日はないくらいです。

と、こういうのを「愚痴」と言います。上に書いたように、不平不満を言うことを、愚痴をこぼす、と言ますよね。皆さんも、日々、いろんな愚痴をこぼされているのではないかな、と思います。
ところが、仏教で「愚痴」と言うと、一般的に使われる意味とは、少々意味が異なってまいります。
漢字を良く見て考えてもらえば、なんとなくわかるかと思うのですが、「愚」という字が使われている通り、愚かである、と言う意味です。「痴」という文字も、「おろか」という意味のある語ですので、「愚痴」と言うのは、愚かさを表す言葉と考えればよいかと思います。

では、「愚か」とはどういう意味か、と言うことですが、最近テレビでは、「おバカタレント」なるもので賑わっておるようですが、一般的に愚かと言うと、知識・教養のない者を指す言葉かな、と思います。
しかし、仏教では「愚か」というと、これまた少々趣が異なりまして、真理に疎い、真実に暗い、と言う意味になり、単純に知識がない、と言う意味ではありません。
では今度は、真実に疎いとは?と言うことになるかと思いますが、一言で言えば、物事の本当のあり方を知らない、ということです。物事の本当のあり方を知らないとどうなるかと申しますと、いろんな誤解をし、それによって苦しみが生れ、不平不満の意味の愚痴が出てくるということになります。

では物事の本当のあり方とは、いったいどういうことか、なんですが…
それはちょっと長くなるので、詳しくは書きません(笑)
ここからは、仏教的に愚かということを、なるべくわかりやすく考えてみたいと思います。
あ、少々長いので、ご注意をば。

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2008年05月24日

思考の停止

最近自分でも怖いな、とよく考えることがあります。それは、思考の停止、ということ。これは私に限ったことかもしれませんが、特に法話を考えたりする時によく陥りそうになるんです。法話を作る際、いろんな話題を取り入れながら、浄土真宗の教えと結び合わせて法話を形作っていくのですけれども、必ず、阿弥陀仏とか、お念仏とか、浄土、と言うようなことについて話していかねばなりません。これは、浄土真宗の教えの大事なところですから、これらの事柄が抜けてしまうと、法話として成り立たないので、必ず法話の中に盛り込んでいくのですが、どうも、ここのところで思考停止してしまう感じがするんです。
つまり、阿弥陀仏やお念仏についてお話をさせていただく時に、誰にでもわかりやすいようにお話できるのか、というと、そうできていないんですね。ただ、阿弥陀仏とか、念仏とか、浄土という言葉を使う事によって、法話としての体裁を保つ事ばかり気にし、それらの言葉を使う事で安心してしまうといいますか、それ以上のところ、例えば、「阿弥陀仏ってどう言う存在?」とか、「浄土とは、どう言う世界?」というところまで、考えようとしなくなってしまうんです。水戸黄門の印籠のように、阿弥陀仏とか、浄土と言う言葉を使えば、法話が丸く収まる、そう言う風になってしまうんです。
もちろん、阿弥陀という存在や、浄土という世界が、一体どう言うものであるのか、ということは、お経や、それを解釈された書物に書かれてあることからしか判断できませんし、私の考えなど、遠く及ばないものであろうことは、わかっております。
しかし、お経やその解説書に書かれてあることは、抽象的過ぎたり、まるでおとぎ話のような例えであったり、かえってわかりにくく感じる事も多いですし、わからないからと言って、自分で納得のいっていない事を話すことは、怖いと言うか、自分でも話しながら、釈然としないな、と感じます。そういうわけで、わからないなりにも、専門的な言葉に頼って、思考停止してしまうのではなくて、考え続けていかなければならないなと感じます。

と、前置きが長くなりましたが、この「思考停止」ということは、法話を考える時だけではなく、自分自身いろんな局面であります。なんでも知ったような顔しながら、まだまだ知らないことだらけですし、いろんな問題に対して、意識が低いと感じることも多々あります。そんな私が言うのもおこがましいのですが、そういう思考の停止が、私に限ったことではないな、と言うことを、最近感じる事が増えたような気がします。
私は割とテレビをよく見るのですが、テレビを見てると、それを多く感じます。例えば、最近、マナーや常識についてのクイズ番組が多いのですが、確かにマナーや一般常識を持つ事は大事だな、と思うのですが、なぜそのマナーが行なわれるのか、どう言う意図があるのか、そしてそもそも、マナーって一体何のためにあるのか、と言うようなことが、全くそこでは考えられていないんです。つまり、これがマナーだから、やりなさい、とでもいうような。
或いは、そのマナーのいわれが語られている場合でも、マナーの起こりが、なんのことはないこじ付けからだったり、日本の伝統によく見られる言葉遊びや語呂合わせから来ていたりする物が、さも常識のようになっていることに、何の疑問も持たず、これがマナーだとして押し付ける。そしてその情報を我々は、また何の疑問も持たずに受け入れてしまう。それはもう、完全に思考の停止、ですよね。マナーや常識力も大切ですが、本当に大切なのは、相手を不快にさせないように、と言う心遣い、思いやりの気持ちなのですが、そう言う事は置き去りにされて、マナーだから、常識だから、というところで、思考がストップしてしまっているように感じてしまいます。

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