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      <title>シャカ斬り</title>
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      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2008</copyright>
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         <title>愚かと言うこと</title>
         <description>近、ガソリン高いですよね。それに伴ってか、物価も上昇し、生活は苦しくなる一方。毎日暑いのに、クーラー節約したりしなくちゃいけないし、地方に住んでおりますと、都市に比べ、年々生活環境が悪くなっていっているという印象も否めません。一体政治家や官僚は何をやっているんだ、日本はこの先どうなるんだ、なんて、思わない日はないくらいです。

と、こういうのを「愚痴」と言います。上に書いたように、不平不満を言うことを、愚痴をこぼす、と言ますよね。皆さんも、日々、いろんな愚痴をこぼされているのではないかな、と思います。
ところが、仏教で「愚痴」と言うと、一般的に使われる意味とは、少々意味が異なってまいります。
漢字を良く見て考えてもらえば、なんとなくわかるかと思うのですが、「愚」という字が使われている通り、愚かである、と言う意味です。「痴」という文字も、「おろか」という意味のある語ですので、「愚痴」と言うのは、愚かさを表す言葉と考えればよいかと思います。

では、「愚か」とはどういう意味か、と言うことですが、最近テレビでは、「おバカタレント」なるもので賑わっておるようですが、一般的に愚かと言うと、知識・教養のない者を指す言葉かな、と思います。
しかし、仏教では「愚か」というと、これまた少々趣が異なりまして、真理に疎い、真実に暗い、と言う意味になり、単純に知識がない、と言う意味ではありません。
では今度は、真実に疎いとは？と言うことになるかと思いますが、一言で言えば、物事の本当のあり方を知らない、ということです。物事の本当のあり方を知らないとどうなるかと申しますと、いろんな誤解をし、それによって苦しみが生れ、不平不満の意味の愚痴が出てくるということになります。

では物事の本当のあり方とは、いったいどういうことか、なんですが…
それはちょっと長くなるので、詳しくは書きません(笑)
ここからは、仏教的に愚かということを、なるべくわかりやすく考えてみたいと思います。
あ、少々長いので、ご注意をば。
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         <pubDate>Fri, 25 Jul 2008 21:17:03 +0900</pubDate>
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         <title>なぜお寺へ行くのか？</title>
         <description>先日、京都へ行きました折、ある有名なお寺へと、足を運びました。
私の場合、仏像が好きなので、仏像を見に、お寺へ参拝しよう、といつも思うのですが、ちょうどその日は日曜日、観光で有名なお寺、ということもあって、老若男女、たくさんの方がお参りに来られておりました。

賑わっているなあ、うらやましい、と思ったり、もうちょっと静かに参拝したかったな、なんて勝手なことを思っていたのですが、本堂前でお香をあげたり、そのお寺には、牛の石像があって、その牛が口にくわえている石の球を回すと、勝負運が上がる、なんてことがあるらしく、そこにたくさんの人が並んでおられました。
また、本堂の脇には、お坊さんの木造があり、その木造、もし体に悪いところがあるとき、その自分の悪い部分と、木造の同じ場所を撫でると良くなる、というようなこと言われているようで、そこにも何人かの方が並ばれており、その木造もよく撫でられたのか、頭やひざ、腰の部分が、つるつるになるほどでした。

そういう光景を見ていて、ふと、思ったのですが、みんな、何をしにお寺まいりをしているんでしょうか？
本来、仏教というのは、自分の欲望の素となる、自己中心的な思い、「煩悩(ボンノウ)」というものを無くしていきましょう、自分の心を乱す様な行いはやめて、心を正す行いをしましょう、というのが、一番の基本となる教え。ですからお寺も、本来は、その煩悩を抑え、心を正してをしていく場であるはずです。
ところがどっこい、お寺で見た光景は、まるでそれとは正反対。
いろんな願を掛けたり、勝負運が上がりますようにとか、もう煩悩丸出しというか、普段よりも激しく燃やしているんじゃないかと、思うほど。

もちろん、人それぞれ、深刻な悩みを抱えているでしょうから、切実な願い事を、仏さまに対して行うことは、駄目なこと、悪いことだ、と全否定するつもりはありません。ただ、お寺というところは、自分勝手な欲望を叶えるためにお願いをし、煩悩を盛んに燃やし、心を乱していく場所ではありません。
それとは反対で、自らの普段の生き方を振り返り、煩悩にまみれた、自分勝手な生き方・考え方を改め、正していこうとする場であるはずです。
ですから、ただ自分勝手なお願いをするだけではなくて、心静かに、自分自身と向き合い、自らあり方を問い、心を正していくことを、せめてお寺に参拝するときくらいは、して欲しいな、と思うわけです。
ただでさえ、普段は「ジブン」を撒き散らして、人のことは顧みずに、自分の陣地を広げ、囲うことばかりに心を砕き、自ら心を乱す生活をしているのですから、ね。

ま、私も人のこと言えた義理ではないですし、そういう人の欲望・煩悩をわざわざ掻き立てるようなことを、お寺の側がしているというのも問題なのかな、とも思うのですけど。
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">流行斬り</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 17 Jun 2008 20:19:59 +0900</pubDate>
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         <title>思考の停止</title>
         <description>最近自分でも怖いな、とよく考えることがあります。それは、思考の停止、ということ。これは私に限ったことかもしれませんが、特に法話を考えたりする時によく陥りそうになるんです。法話を作る際、いろんな話題を取り入れながら、浄土真宗の教えと結び合わせて法話を形作っていくのですけれども、必ず、阿弥陀仏とか、お念仏とか、浄土、と言うようなことについて話していかねばなりません。これは、浄土真宗の教えの大事なところですから、これらの事柄が抜けてしまうと、法話として成り立たないので、必ず法話の中に盛り込んでいくのですが、どうも、ここのところで思考停止してしまう感じがするんです。
つまり、阿弥陀仏やお念仏についてお話をさせていただく時に、誰にでもわかりやすいようにお話できるのか、というと、そうできていないんですね。ただ、阿弥陀仏とか、念仏とか、浄土という言葉を使う事によって、法話としての体裁を保つ事ばかり気にし、それらの言葉を使う事で安心してしまうといいますか、それ以上のところ、例えば、「阿弥陀仏ってどう言う存在？」とか、「浄土とは、どう言う世界？」というところまで、考えようとしなくなってしまうんです。水戸黄門の印籠のように、阿弥陀仏とか、浄土と言う言葉を使えば、法話が丸く収まる、そう言う風になってしまうんです。
もちろん、阿弥陀という存在や、浄土という世界が、一体どう言うものであるのか、ということは、お経や、それを解釈された書物に書かれてあることからしか判断できませんし、私の考えなど、遠く及ばないものであろうことは、わかっております。
しかし、お経やその解説書に書かれてあることは、抽象的過ぎたり、まるでおとぎ話のような例えであったり、かえってわかりにくく感じる事も多いですし、わからないからと言って、自分で納得のいっていない事を話すことは、怖いと言うか、自分でも話しながら、釈然としないな、と感じます。そういうわけで、わからないなりにも、専門的な言葉に頼って、思考停止してしまうのではなくて、考え続けていかなければならないなと感じます。

と、前置きが長くなりましたが、この「思考停止」ということは、法話を考える時だけではなく、自分自身いろんな局面であります。なんでも知ったような顔しながら、まだまだ知らないことだらけですし、いろんな問題に対して、意識が低いと感じることも多々あります。そんな私が言うのもおこがましいのですが、そういう思考の停止が、私に限ったことではないな、と言うことを、最近感じる事が増えたような気がします。
私は割とテレビをよく見るのですが、テレビを見てると、それを多く感じます。例えば、最近、マナーや常識についてのクイズ番組が多いのですが、確かにマナーや一般常識を持つ事は大事だな、と思うのですが、なぜそのマナーが行なわれるのか、どう言う意図があるのか、そしてそもそも、マナーって一体何のためにあるのか、と言うようなことが、全くそこでは考えられていないんです。つまり、これがマナーだから、やりなさい、とでもいうような。
或いは、そのマナーのいわれが語られている場合でも、マナーの起こりが、なんのことはないこじ付けからだったり、日本の伝統によく見られる言葉遊びや語呂合わせから来ていたりする物が、さも常識のようになっていることに、何の疑問も持たず、これがマナーだとして押し付ける。そしてその情報を我々は、また何の疑問も持たずに受け入れてしまう。それはもう、完全に思考の停止、ですよね。マナーや常識力も大切ですが、本当に大切なのは、相手を不快にさせないように、と言う心遣い、思いやりの気持ちなのですが、そう言う事は置き去りにされて、マナーだから、常識だから、というところで、思考がストップしてしまっているように感じてしまいます。
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         <link>http://www.merry-shaka.com/giri/2008/05/post_17.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">自事斬り</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 24 May 2008 21:55:31 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>人を殺すのは誰？</title>
         <description>「うーん、やっぱりあの人怪しいなあ、あの人が犯人じゃない？」

「こんな酷い事する奴は、やっぱり死刑にするしかないよね…」

「人殺しておいて、未成年だからって、許されていいんかなあ？」

「あんな酷い事して平気でいられるなんて、うーん、ちょっと理解できない…」

テレビを見ていると、毎日多くの殺人事件の報道がなされています。
上に書いた言葉は、それを見た時の、私の素直なリアクションです。
犯人の見つからない事件があれば、それをサスペンス映画でも見るような感覚で、誰が犯人かを考えたり、
犯人が捕まったら捕まったらで、その人を勝手に断罪し、死刑を望む。
それが仮に未成年であっても、やはり人を殺した事に変わりはないと、同じように、極刑を求める。
自分に理解できない事があれば、他人をたやすく異常者扱いをしてしまう…
それが、偽り無い自分の姿です。


もちろん、人を殺す、ということは、許されるべき行為ではありません。
人一人を殺すという行為は、
一人の命を奪うだけではなく、多くの人を悲しみ･怒り･憎しみという負の感情の渦へと巻き込み、
そして自分の命をも傷つける行為です。
いや、全ての命は繋がって存在すると考えるならば、人一人を殺すことは、全ての命を傷つける行為といってもいいかもしれません。
そう言う行為は、すべきではないし、もしそう言う行為をしてしまった人は、
社会のルールに沿って、それ相応の罰を受けなければならないでしょうし、
遺族からの怒りや、社会的な制裁も受けなければならないでしょう。

しかしどうでしょうか。
私は、その犯罪に直接関係した被害者側でも加害者側の人間でもなく、
法を元に人を裁き、或いは人を護る立場にもいない、単なる第三者です。
その無関係な第三者が、まるでドラマや映画を見るような感覚で、面白おかしく、偏った情報だけで人を犯罪者扱いし、その人の事を何も知らずに批判し、そして勝手に命を終わらせようとする。
犯罪に関係ない第三者だからとは言え、他人事のようにそのような犯罪に向き合うだけでよいのでしょうか。
おいおい、お前自身がそうなのに、自分の事を棚に上げてこういうことを言うのは筋違いでは？と思われる方もおられるでしょう。
それはごもっともなことで、私も自分で書きながら、全く説得力に欠けるし、馬鹿げているな、と思います。
しかし、そのように面白おかしく、他人事のように犯罪に向き合い、人をたやすく非難する私、あるいは、自分のことは棚に挙げて、偉そうな事語る私も、実はいつ加害者の立場になってもおかしくない身であるのです。

『歎異抄』という書物の中で親鸞聖人は、「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」ということをおっしゃっておられます。これは、縁、いろんな条件さえ整えば、我々人間は、どんな行いをしでかしてもおかしくは無い身である、ということをおっしゃっているのです。
また同じ『歎異抄』の中で、我々が人を殺していないのは、ただその条件が整っていないだけで、決して清い心を持っているから殺しをしていないわけではないし、殺すまいと思っていても、人を殺めてしまうこともある、ということもおっしゃっておられます。
つまり、私たちは、人殺しなどしない、人を殺す気持ちなどわからない、と自分自身では思っていますが、今まで人を殺めた事がないのは、心が清いからではなくて、単にその条件が整っていないだけであって、社会的に極限まで追い詰められたり、自分の命の危機に直面したり、味わった事のない絶望に打ちひしがれたり、押さえようの無い怒りや憎しみに心を支配されたりした時には、人を殺してしまうこともあるかもしれません。
また、全く意図せずとも、事故等によって、人を殺めてしまうこともあるでしょう。
殺人事件のニュースを見て、第三者的に、無責任な思いを持ってしまう私ですが、
実は決して第三者などではなく、いつ加害者の側に回るとも限らない存在なのです。

こんな事を言うと、罪を犯すことに対して、開き直っていると思われたり、加害者の行いを肯定しているように思われたりするかもしれませんが、そうではありません。
他の命を傷つける行為は、先ほども書きましたが、決して許されることではないのですが、
人の事を責めるのではなく、まず自分の姿を正しく見つめ、決して自分は常に正しい存在であるわけではない、ということを考えなければならないと言うことです。

とは言え、事件の報道を見て、それを批判するな、と言いたいわけではありません。人それぞれにいろいろ思うこともあるでしょうし、第三者的な、客観的な物の見方が重要になることもあります。
しかし、最近は凶悪犯罪に関して、過度で偏った視点からの報道も見受けられます。そのような報道に流されて、単に他人事として面白半分で事件を見るのではなく、自らもいつそうなるかわからない身であると、自分の姿を正しく見つめなおす事も、大切なのだと思います。
自分を正しく見つめていくことは、他人に対して思いやりの心を持つことにも、繋がることでもありますし、そこから少し、変わっていく事もあるかもしれません。

ま、私も人の事を言うだけでなく、自分がまずそうしていかねばならないのですけど、ね。</description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">時事斬り</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 31 Mar 2008 00:03:03 +0900</pubDate>
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         <title>食品、奥から取りますか？</title>
         <description>ちまたで話題の消費期限。 
気にする人が増えたと思いますが、賞味・消費期限の長いものから買いますか？ 

先日、こんな話を聞きました。 

そこそこ考えて買い物をするひとは、賞味・消費期限の長いものから買う。 
でも、本当に志のある人は、あえて期限の短いものを買って、期限までに使い切る努力をする。 

なぜかというと。 
日本の食品の廃棄量は、とてつもなく多い。 
もったいない。もったいない。
だから。 

「この食品は、今私が買わなければ、廃棄されるかもしれない。でも、今私が買えば無駄なごみにならない、もったいなくない」と考えるのだ、と。 

スーパーの見切り品コーナーには、今日明日の消費期限となったものがどさっと置いてあって、少し痛みかけてる野菜や果物が並んでます。お魚お肉もしかり。家計節約のためにこれらを買うことはよくありますが、それだけじゃない意味があるんですね。

販売側の工夫もあったらいいな。
お肉お魚お野菜のいわゆる“見切り品”。
それぞれをワゴンにどさっと乗せたり、隅においやったりしないで、【今晩の献立はこの中からどうぞ！】ってひとまとめにして、ｅｃｏシール＝３割引みたいにしてくれたら、無駄なく買える気がします。

出来ないことないと思うけどね。その分の人件費や経費、廃棄に比べたらエコじゃない？

確かに、健康被害があるかもしれないから、それは注意しないといけない。
でも、自分だけは、自分の家だけは安心安全なものを購入すればいい、ってだけなら、それはエゴというものかもしれません。
買い物かごをもう一度、見てみよう。
エゴの塊ばかり、になってないかな・・・

エゴから、エコへ。
今夜の献立のための買い物だけ、って所から始められる。
視野が広がる、背筋が伸びる、そういう買い物が出来そうです。



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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">時事斬り</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 13 Mar 2008 17:35:54 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>鬼は外、福は内</title>
         <description><![CDATA[今日は節分ですね。皆さんも豆まきをしたり、年の数だけ豆を食べたりしたでしょうか？最近では、関西の風習だった恵方巻きを食べる習慣も、全国的に浸透しつつあるそうですね。

さて、そんな節分。豆まきと言えば、「鬼は外、福は内」ですよね。これがもう決り文句になってますが、今日新聞の社説を読んでますと、こんな江戸時代の川柳が紹介されてました。

<strong>「節分は金がほしいの声だらけ」</strong>

実に辛辣ですよね。要するに、「鬼は外、福は内」と言っているのは、現実問題としてお金がほしいのが本音じゃないか、と。
しかしこの川柳、当たらずとも遠からず、な気がいたします。
「鬼は外、福は内」
災厄を避け、お金が手に入ったり願いが叶ったり。これは、誰しもが臨む事でありますし、それを願いたくなる気持ちもわからなくは無いですが、確かに聞きようによっては、上のような川柳のように思えなくもなりません。


]]></description>
         <link>http://www.merry-shaka.com/giri/2008/02/post_14.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">時事斬り</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 03 Feb 2008 21:31:27 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>富</title>
         <description><![CDATA[<span style="color:#000099"><strong>「足ることを知らば貧といえども富と名づくべし。 財ありとも欲多ければこれを貧と名づく。 」</strong></span>

これは、源信和尚(僧都)と呼ばれた、平安時代のお坊さんの言葉です。
意味は、ほぼ言葉のまま、真に富むということは、財産をたくさん持つ事ではなく、足る事を知ることにある、ということ。
ではなぜ、財産があることよりも、足る事を知る方が「富む」と言えるのでしょう？
この場合の「富む」というのは、物理的なものではなく、心の豊かさ、とでも言いますか、精神的な充足の事を指すと考えられます。
物理的な富、というのは、どれだけ得ても、もっと欲しい、もっと欲しいと、際限の無いものです。仮に今、100万円が手に入ったとしましょう。おそらく、それを使ってそれなりの満足は得る事ができるかもしれません。しかし、それも一瞬のもの。そのお金が減っていけば、また欲しくなるに違いありません。それは額が小さいから？いやいや、100万円だろうと、1億円だろうと、おそらく同じです。
そのような富では、心から満足を覚えることはできません。砂漠で水を飲むようなもので、いくら水を飲んでも、またすぐに渇きを覚えてしまいます。

では、「足るを知る」ということは、どういうことなのでしょう？
100万円を得て、ひととき満足する事と、「足るを知る」というのには、どこに違いがあるのか。
これは、感謝、ということと、深く結びついているのではないかな、と思います。
]]></description>
         <link>http://www.merry-shaka.com/giri/2008/01/post_13.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">流行斬り</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 26 Jan 2008 20:52:23 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「偽」</title>
         <description>今年の世相を表す漢字として、「偽」という漢字が選ばれて、清水寺の貫主さんが例年の如く書いておられましたね。

この「偽」という漢字、法話を聞いていてもよく出てくる文字で、この漢字が今年の漢字に選ばれるちょっと前に、メリシャカメンバーのチスイさんとメールやり取りしてて、この「偽」という漢字は、「人」の「為」と書いて「偽」となるんだ、ということを言っておりました。
なるほどな、ですよね。
特に今年のニュースでよくあった、政治家や官僚が、国民の為、と言いながら結局自分の利益や保身の事しか考えていないような様を見ますと、「人」の「為」と書いて「偽」になるというのはよく納得できるように思います。
つまり、意識しているしていないに関わらず、本音の部分では自分の為に行なっているのに、誰かの為と大義名分を標榜していることは、「偽」であると言う事です。これは政治家や官僚だけに言えることだけじゃなくて、今年話題となった、食品偽装の問題などにも言えるのでしょう。

しかし、私としては「人」の「為」が「偽」になるという説に、ちょっと引っ掛かりを覚えました。もちろん、心の中では「自分の為だよ」と舌を出しながら、口からは「あなたの為」と美辞を述べながら行う事は「偽」だと思いますが、人の為に何かをしたいと思う気持ちや、しようとする事は本来的に悪いものではないハズですし、必ずしも本音の部分で自分の為という心が無く、心から相手の事を思ってする事だって、あるんじゃないかなと。

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         <link>http://www.merry-shaka.com/giri/2007/12/post_12.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">時事斬り</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 18 Dec 2007 01:17:25 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>しょうがない</title>
         <description>ども、みなさま、ご無沙汰しております、シャカ斬り、久しぶりの更新でございます。
ずいぶん長い事時間が空いてしまい、申し訳ありませんでした。
いつも書こう書こうとは思っていたのですが、どうも最近は刀がさび付いてきてしまっていて、「斬る」ことができずにいました。。。
が、今回はちょっと思うことがありましたので、久しぶりに刀を磨いて、斬らせていただく所存ですので、一つまたよろしくお願いいたします。

さて、今回切らせていただきますのは、「しょうがない」という言葉。
私たちも日常でよく使ったり、耳にする言葉でありますし、
少し前のことになりますが、久間元防衛大臣が、原爆投下を「しょうがない」とした発言が問題となった事は、皆さんもまだ記憶に新しいかと思います。
またあるニュースを見ておりますと、
ある新興住宅街の下に、トンネルを掘った結果、その地盤が徐々に沈んでいき、その住人が役所に問い合わせたところ、「しょうがない」という対応をされた、ということも、報道されておりました。

しかし、私たちも日常使う言葉であるのに、なぜこの言葉が、問題となるのでしょうか。確かに、久間氏の発言は、原爆投下を容認する言葉に取れますから、被害を受けられた方々の心情を無視し、深く傷つける言葉であります。
また、もし、災害が起きて、被害を受けた人がたくさんいたとして、その人たちに向かって、「この災害は『しょうがない』ことだ」とは、とても言えないし、言えば、被災した方々を怒らせてもおかしくありません。
しかし、もし被災した方が、「この災害は『しょうがない』」と言っても、おそらくだれも怒る事はないし、問題になる事は無いように思います。
とすると、どうやら「しょうがない」という言葉は、誰が使うか、ということによって、言葉の意味のニュアンスが、異なってくるようです。

そこでこの「しょうがない」という言葉の意味を考えてみますと、この言葉は元々は「仕様がない」から来た言葉です。で、「仕様」というのは、『広辞苑』によりますと「仕方。方法。」とありますから、「仕様がない」というのは「方法、手立てが無い」と言う意味になるかと思います。
つまり、何か問題が起こった時、それに対して、どうにも対処する手立てが無い、という場合に使う言葉のようです。
もう少し考えてみますと、どうにもとるべき手段、道が無い、八方塞りの状態で使う言葉ですから、「諦め」の気持ちが混じった、言葉であるとも考えられるでしょう。

しかし、「諦める」という言葉は、本来は、現在使うような「断念する」とか、「不可能だと判断してやめる」というような意味ではなく、「明らかに見る」という意味が原義です。
では、なにを「明らかに見る」ことが、「諦める」ことなのでしょう。
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         <link>http://www.merry-shaka.com/giri/2007/08/post_11.html</link>
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         <pubDate>Tue, 14 Aug 2007 20:19:35 +0900</pubDate>
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         <title>でなければならない</title>
         <description>ども、ケンユウです。シャカ斬りも毎度の事ながら久しぶりですねぇ。
さて今回は、別に気になるニュースがあったわけでもないのですが、ちょっと気になる事があるので、それについて今回は語らせていただこうかな、と思います。
で、その気になる事というのは、「～でなければならない」というような、強く理想を求めるような考え方、です。まあこういう考え方って、今に始まったものじゃなくて、私自身も含め、人は誰しもが結構持っているものなのかもしれないのですが、そういうものの考え方が、個人的に最近、すごく気になるんです。

なぜ「～でなければならない」という考え方が気になるかと言いますと、このものの考え方って、ものすごく極端というか、偏ったものの見方なんですよね。
例えば、「痩せてなければならない」とか、「男は稼ぎがなければならない」とか、「女性は慎ましやかでなければならない」とか、まあいろいろあるかと思います。
で、そう言う考え方って、理想に向かっていく姿勢として、すごく大事なものなんですけど、その反面、他を否定・排除してしまうような、悪い意味での強さも持っていると思うんです。
どういうことかと言うと、何かしら「～でなければならない」という考え方を持っているとして、自分自身がそれを求めて行く分には何の問題もないのですが、その条件に当てはまらないモノや人だっているわけです。そう言う自分の理想とかけ離れたモノや人に触れた時、別にそのモノはそのモノ、その人はその人、というように、なんとも思わなければいいのですが、理想を求める事を自分がしていると、そうでないモノや人を見たとき、どこかしら蔑みであったり、或いはその理想の強要をしてしまうような面が、出てきてしまうことがある、ということです。
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         <link>http://www.merry-shaka.com/giri/2007/03/post_10.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">時事斬り</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 27 Mar 2007 00:18:52 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>国家にとっての命とは</title>
         <description><![CDATA[ども、久しぶりのシャカ斬りです。

最近、柳沢厚生労働大臣が、講演で「女性は子どもを産む機械･装置だ」と言う発言をしたことが、大きく報道で取り沙汰されております。
この発言には、私もビックリでした。
よく政治家などの公の人物が、本音をポロっと発言してしまってニュースになることはあって、大抵、その気持ちはわからんでもないとか、心の奥で思っておいても、口に出す事は無いのに、とか、ある程度理解できる部分もあったりするのですが、今回の発言は、本当に思ってもみないことを、講演会と言う公の場で発言した事に対して、驚くと共に、こんな事を考えている人が政治家なのか、ということに、愕然としました。

この発言は、大きく女性の尊厳を傷つけるものです。
そして同時に、人間の「命」を軽視する発言でもあると思うのです。
柳沢氏の発言の中には、「女性は子どもを産む機械であり、機械の頭数は決まっているから、一人頭が頑張ってもらわなければ･･･」というような部分がありました。
これは、現在日本の抱える一つの問題である少子化の問題について、何とかしていかねばならないという国を憂う気持ちからの発言だと考える事が出来ますが、それでも、女性を機械扱いをしていることは許される事ではありません。
そして、上記の発言の裏と言うか、そういう発言をするに至った経緯を推測しますと、とりあえず、出産率を上げて、人口を増やしたい、と言うような思いがあるように思います。その理由は、少子高齢化が進めば、当然国家の収入が減りますし、高齢者へのケアが、国にとって大きな負担になってきます。それを防ぐため、人間を機械のようにたくさん「生産」しろ、というような考えが、どこかにあるように思えなくも無い気がします。
そしてその思いは、結局国民を、人間を、税金を納め、国を成り立たせるためのモノ、ぐらいにしか思っていない、と言うようも感じられます。
つまり、女性が子どもを産む機械で、生まれてくる新しい命は、国を成り立たせるための機械だ、そんな風な思いが、もしかしたら、柳沢氏の頭の中にはあるのかもしれません。
まあこれは、私個人の深読みのし過ぎ、なのかもしれませんが、あの発言を突き詰めて考えますと、女性はもちろんのこと、人間の、新しく生まれてくる命の尊厳を大きく傷つける発言のように思えてなりません。

もちろん日本と言う国にとって、少子高齢化に対応する政策はこれから必要とされる事ではあると思います。
<strong>それでも、人は、命は、機械のように簡単に「生産」されるものではありません。
いろんな人の想いが重なり合って、無限とも言える命の「縁」が絡み合って、そこに初めて生まれてくる、とても不可思議で、尊いことです。その一人一人の命は、どんな人の命であっても、唯一の、かけがえの無いものであり、同時に全ての命と繋がった、大切な命であるはずです。</strong>
それをいくら政治の上での話であるとは言え、人の命を、モノのような扱いをしたり、数字でしか推し量れないような考え方をするのは、やはり許されるものではないかなと思います。
特に、昨年大きな社会問題となった、いじめの問題や、自殺の問題によって、命の大切さをもう一度、社会全体で考えていこうという動きが起こってきている中で、命の尊厳を大きく損ねるような考えを、国を動かす政治家が持っている、ということは非常に残念でなりません。
子どもへの命の教育を叫ぶ前に、まずは大人が、それを実践していかなければならないはず、なんですけどね。

と、ボウズが偉そうに政治に口を出すな、と言われるかもしれませんが、「命」を考えるという時には、政治も宗教も、関係ないのかなと思い、あんまり仏教的な文章にもなってませんが、ちょっと、書かせていただきました。]]></description>
         <link>http://www.merry-shaka.com/giri/2007/01/post_9.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">時事斬り</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 30 Jan 2007 00:08:30 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>思いやり</title>
         <description><![CDATA[ども。寒くなってきましたね。
皆様お風邪などひかれてはおられないでしょうか？

さて、ちょっと前の話になるんですが、今年の10月末から11月にかけて、ダライ・ラマ師が来日され、東京や広島で講演をされました。私も行きたいなー、と思っていたのですが、報恩講などで忙しい時期で、どうしても行けなかったのが、非常に残念です。
で、どんなお話をされていたんだろうなー、と気になっておりましたところ、広島国際平和会議で師がお話されたことの要旨がライブドア・ニュースに書かれておりました。
その国際平和会議では、ダライ・ラマ師の他に、一介の主婦でありながら、北アイルランドの紛争の中、子どもが殺されるのを目の当たりにして、子どものために平和への運動を始められ、ノーベル平和賞を受賞したベティ・ウィリアムズさんと、南アフリカでアパルトヘイト撤廃に尽力し、1984年にノーベル平和賞を受賞した南アフリカのデズモンド・ツツ大主教も、平和についての講演をされました。
その内容に関しては、いつまで残っているか、はなはだ微妙ですが、参考にさせていただいたライブドア･ニュースへリンクしておきましょう。

<a href="http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2703651/detail">○ベティ・ウィリアムさんの講演の要旨</a>
<a href="http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2700138/detail">○デズモンド・ツツ大主教の講演の要旨</a>
<a href="http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2706664/detail">○ダライ・ラマ師の講演の要旨</a>


さて、この中でダライ・ラマ師は「思いやり」と言うことをお話されておりました。
このことは、今の世界の状態や、平和な世界作りに向かうために大切であることはもちろんの事なのですが、私達の身近なところでも、「思いやり」というものは、大切なものであるはずです。
例えば、今年の秋頃から大きな社会問題として取り上げられてきております、いじめの問題なんかについても、この他の人を「思いやる」という気持ちが欠如しているから起こってきているのかもしれないな、と言う風に感じます。
現代は激しい競争の社会ですから、他人のことなど構っている暇など、ありません。自分のことだけを考え、なんでも人の力に頼らず、自分でできなくてはいけません。時には他人を蹴落としていかなければ、競争には勝っていけません。
でもそうすると、どうしても「ワレがワレが」という気持ちばかりが強くなって、他の人の気持ちや、他の人の考え方を理解していこうと言う気持ちは起こらなくなり、自分さえよければ、とか、他の人はどうなってもいい、そんな風になってしまうのだと思います。
そういう自分のことばかり考えて、人の気持ちを考えられない、ということが、いじめに繋がったり、憎ければ、自分の邪魔になれば、自分の親でも子どもでも、いとも簡単に殺してしまう、そんな社会を作り出しているのかな、そんな風に思うわけです。もちろん戦争と言うものも、その延長線上にあるもの、なんでしょう。]]></description>
         <link>http://www.merry-shaka.com/giri/2006/12/post_7.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">時事斬り</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 08 Dec 2006 00:08:14 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>嗜好品</title>
         <description><![CDATA[シンキです。

昨日、映画版『機動戦士Zガンダム』のDVDを買いました。
戦争とはいかに愚かなものであるのかという事に涙する毎日です。

関係ないですが近年、受動喫煙に関する話題が多くなってきました。
そこで<strong>受動喫煙に関する話題</strong>をひとつ。

喫煙に関する規制が近年厳しくなったのは、健康意識の問題もあるでしょうが、個人的には、<strong>多く喫煙者がマナーを無視してきた代償</strong>だと私は思います。
私は喫煙者ですが、喫煙者と非喫煙者を隔離することには大賛成です。理由は２つ。１つは、受動喫煙の問題があるから。２つめに、喫煙をとやかく他人に色々言われたくないから（笑）。この２点ですね。

ただ、受動喫煙が何十メートルに及ぶとか…医学のやりすぎな点も否めないのですが…。]]></description>
         <link>http://www.merry-shaka.com/giri/2006/11/post_8.html</link>
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         <pubDate>Wed, 22 Nov 2006 12:04:12 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>いじめと親心（慈悲の話）</title>
         <description><![CDATA[昔から仏教では、ほとけさまの心は親の子どもに対するこころ、つまり親心であると説かれてきました。
皆さんは親の愛情を感じたことってありますか？それはどんなことでしょうか？
「すぐ心配する」と言う人もいると思いますが、それが親心なのです。

「親」という漢字をよく見てください。
「『木』の上に『立』って子どもを『見』る」と書いて「親」となります。
親は子どもが心配で心配で、堪らなくて、木の上にまで上がって、子どもを見守ろうとするのです。

そのような、切ない親心について書かれた文章に最近出逢いました。そしてとっても感動しましたので、皆さんに紹介しようと思います。

サトエリこと、女優、佐藤江梨子さんが、インターネットのブログに載せられた<a href="http://ameblo.jp/satoeritimes/entry-10019051303.html" target="_blank">「愛について」の文章</a>です。
以下、引用させていただきます。

<span style="color:#0000cc">イジメが原因で小学生や中学生が自殺してしまう事件が最近多くて、凄く悲しく思います。
私は、小さい頃から転校が多くて、背が高くて目立ってよく、イジメられたよ。
クラスの皆からシカトとか『ブス、キモい、きしょい、キショ、嫌い、帰れ、ムカツク、カンに障る、独り言言ってる、学校くんな、見るな腐る』・・・とか色々、ありもしない噂がいっぱいマワッタリ、本当に苦しかった。本当に今思い出しても息が詰まる、し、気持ち悪くなる。
『学校に行きたくない！』と親に何度泣き付いたかわからない。
『頭痛い、気持ち悪い、お腹痛い』って仮病も使い果たした時、いつも、ぶって、叩いてでも学校へ行かせる父が、私の前で土下座をして『学校行こう！！、お前をイジメてる奴、一人一人にこうやって、お父さん、頭下げて頼むから！！エリをイジメないで下さい！！って何度でも頼むから！！』そう言われて私は『大丈夫・・・パパ、大丈夫だよ。』とだけ言って学校へ行きました。

それからも何度も嫌な事やイジメらしきモノはあったけれど、その日の父を思い出すと、私は
どうにか大丈夫に出来ました。

もしかすると、その日に初めて人から愛されてる事を知った・・・認識したのかもしれません。</span>

サトエリさん、本当に、本当に良かったですね。
自分のために一緒に泣いてくれる、一生懸命愛してくれるお父さんがいて本当に良かったね。僕もいじめられた経験もあるし、涙が出てきたよ。

たとえ、いじめの状況が変わらなくても、自分のことを思い続けて止まない親心に出遇ったから、サトエリさん、がんばることができたんですね。

ほとけさまのお心とは、きっとこのような親心なのでしょう。

「どんなことがあっても、わたしはおまえを見捨てはしない。
たとえ、世界中の人がおまえをいじめても
他の人がおまえを否定しても
たとえ、おまえ自身が自分を見捨てることがあったとしても、
このわたしだけは、決しておまえを捨てない。
<strong>なぜなら、わたしはおまえの、親だから！</strong>」

と言ってくれる人がいてくれたら、僕たちは本当にうれしいのだ。そして生きていける。
たとえ、状況は変わらなくても、苦しい出来事が起こっても、
それを乗り越える勇気がもらえるのだ。

]]></description>
         <link>http://www.merry-shaka.com/giri/2006/11/post_6.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">時事斬り</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 09 Nov 2006 21:46:29 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>Gourmet</title>
         <description>ども。久しぶりにやってきました。
今回も、世の中の風潮をバッサリ？斬ってみたいと思います。
相変わらずの長文になっておりますので、その辺一つお覚悟とご容赦の程を。


さて、もうちょっと古いかもしれませんが、

「味のIT革命や～！！」
「まいう～！！」

このような言葉が、テレビからよく聞かれます。
テレビ番組にもいろいろ流行り廃りがありますが、グルメ番組、というものは毎日のようにやっているのではないでしょうか。それだけ私達が「食」というものに並々ならぬ興味があって、それが尽きない、ということのなのでしょうね。


さて、先日住職が、友達と夫婦揃って食事に、と言うことでわざわざ金沢まで、バスを借りて行く、ということを言っておりました。わざわざ金沢まで、と言うのは、ウチの町から金沢まで車で1時間以上かかる、ということなんですが、私としては、わざわざそこまでしなくとも、と思ってそう住職に言ったのですが、まあ主催の友達の方が、結構なグルメ、というか、舌の肥えた方らしくて、美味しいお店に行きたいらしいので、との事でした。まあその時はなるほどね、と私も納得したのですが、この「舌が肥える」ということについて、ちょっと「ん？」と感じてしまいました。
皆さんは、「舌が肥える」ということについてどうお考えになるでしょうか？一般的に「舌が肥える」ということは、美味しいもの、珍しいものなどをいろいろと食べる事ができて、味の良し悪しがわかるようになる、と言うことだと思います。つまり味覚の鋭敏な人、味や料理に含蓄あることを指す言葉でしょう。ある意味ではこれは褒め言葉、ですよね。いい物をたくさん食べてきていて、という。美味しいものをたくさん食べられると言うことは一つの幸せでもありますから、私も体が肥えるのは嫌だけど、舌は肥えたい、と思われる方がおられるかもしれません。


でもどうなのでしょう？果たして「舌が肥える」ことは、良い事、幸せなことなのでしょうか？いやいや、美味しいものをたくさん食べて舌が肥えるのだから、それができるということは幸せなことでしょ、という意見が出るかな、と思いますが、私はそれはあんまり幸せなことなのではないのではないかな、と思うのです。
確かに、美味しいものや珍しい食べ物を口にできるその時は幸せな気持ちを味わう事ができるかもしれませんが、普段から毎日毎食そんな贅沢ができるなんてことは、そうそうないはずです。
いや、もし毎日毎食贅沢な食事をしていても、だんだん飽きてきて、その食事に贅沢を感じなくなり、もっと美味しいもの、もっと珍しいものをと、どんどん際限なく求めていくようになるのではないかな、と思います。
そうなってしまうと、ちょっとやそっとの食べ物じゃ、満足できなくなってしまいそうです。すると、んー！美味しい！と食べる喜び幸せを感じる機会が、どんどん減っていってしまうような気がします。</description>
         <link>http://www.merry-shaka.com/giri/2006/11/gourmet.html</link>
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         <pubDate>Wed, 01 Nov 2006 01:37:14 +0900</pubDate>
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