2007年08月08日

【第5回】大乗仏教の基本

 今回と次回(実地講義)は、大乗仏教徒たちがおシャカさまの教えをどのように受け止めたのか、ということについてお話いたします。で、まずは「空(くう)」の思想とブッダの本質追究に関してです。


空の思想
 おシャカさまの教えを深く追求していった点では、大乗仏教徒たちもアビダルマ仏教と同じであります。ただ、無我の教説を考察して、「縁起・無自性(むじしょう)・空」ととらえ直していった点が異なるところです。

 すべての事象は無我であり、縁起で成り立っているのであるから、そこには変わらざる本性・本体などはありはしない。

これが無自性ということですし、私たちの経験世界なるものは、無自性であって諸の原因や条件の重なり合いの上に、不安定に仮に存在しているにすぎない、ということが空(あるいは空性)ということです。最後くらいは格調高く仏典の文を引きましょうか。

  因縁所生法 我説即是空 亦為是仮名 亦是中道義

 この偈文は、「因縁所生の法を、我、すなはちこれ空と説く。またこれを仮名(けみょう)と為す。またこれ中道の義なり」と訓読できますが、「縁起=空=仮名=中道」という等式を示しています。これは、天台大師智顗(ちぎ)の『摩訶止観』巻第一上(大正46・1b)に引かれているもので、龍樹の『中論』第24章の第18偈の漢訳です。ですから、「我」というのは龍樹の自称ですし、ここの「中道」という語が論の名前の基になりました。また「中道」という語は、ここだけ、たったの1回しか出てきません。すごいですね、ただの1回の使用が論全体を表すタイトルになったのですから。

 『中論』の原典など、読者のほとんどの方は読まないと思いますが、以後は、読んだと称してよいでしょう。この1偈に『中論』のエッセンスが残りなく込められていると言われ、これが論を代表する偈ですから。

 『中論』全編に流れている無自性の考えをここにも当てはめて、上の等式に「=無自性」とつなげば、これで完結です。ものには本質だとか本性なるものがあって、それをAである、あるいはBであるなどと区別し、それにこだわって私たちは生きていますが、そんなものはどこにもありはしない。勝手に私たちがラベルを貼り付けて、ああだこうだと執著してとらわれているが、それらは全くの妄想にすぎないというのです。

 要するに、大乗仏教は無我・縁起の教えを「無自性・空」ととらえ直しました。この空の思想を体系化したのが龍樹で、彼はこの功績によって「八宗の祖師」とたたえられています。大乗仏教であるかぎり、この龍樹の空を基礎におかないものはないという位置づけなのです。


ものが空なればこそ
 では、空思想の意義はどんなところにあるのでしょうか。「自業自得」が仏教の鉄則でした。皆さんは真宗の教えに慣れ親しんでいて、こんな教えはどこかに行ってしまっていますね。自らなした行為の報いはこの私自身が受けなければならないとすると、まさしく皆さんは「地獄必定」で、こんな私の駄文など読んでいる暇もなく、次なる輪廻転生を嘆きつつあたふたと生きているはずです。しかし、この業が空であるからこそ、龍樹の教説によって自業自得が否定されているからこそ、浄土往生を信じて落ちついて私の相手などしておれるのです。

 すなわち、空を基礎にして、「回向」(功徳を他に振り向けること)が可能になり、そうするための方便(他を救済するための手だて)が意味を持ってくるのです。つまり、大乗仏教において展開してきた回向や方便も、その基本にある利他の精神も、空思想によってもたらされた観念なのです。


ブッダとさとりの本質の追求
 一方、ブッダとはいかなる存在なのか、おシャカさまがさとりを開いたということの意味はいかなる点にあるのか、といった考察も深まってゆきました。おシャカさまの入滅以来大分と時間がたって、ブッダに対するあこがれの気持ちが高まっていった結果であると考えられています。

 具体的には、過去仏や未来仏の思想の発達、仏身・仏土論の展開、あるいは十方世界の観念の進展などが指摘されています。そうして、仏の本質を「慈悲」の精神に見て、利他活動こそがブッダの存在意義であるという教えに結実してゆきました。私たちはこういうブッダになろうと努めるべきだ、それが仏弟子の勤めである。仏弟子たるもの、かようなブッダとしてのさとりを目指して生きるべきである。あるいはまた、このブッダが活動することで、自分ひとりではさとりを得られない一般大衆の救済が可能になり、迷える大衆の希望の光が見えてくるであろう。
 こうして、偉大な救済仏という観念もまた展開してきたと思われます。

 このような理想を目指す生き方をする大乗の修行者を「菩薩(ボーディサットヴァ)」といいます。この語もその観念も、大乗仏教の展開とかかわって発達してきたといいます。ひょっとすると、仏教のはじめからこの思想があったと思っている読者がいるかも知れませんが、この語の展開はずいぶんと新しいのです。

 空思想を土台にして、慈悲の精神に生きて、利他活動の中に偉大なブッダのさとりに至る道を見いだしていった人たちが菩薩という存在です。したがって、この菩薩について次には語らなければならないのですが、もはや紙数が尽きてしまいました。この菩薩という観念、あるいはその展開の終局としての真宗的教説等に関しましては、次回9月の、京都での実地講義に「請うご期待!」ということで、ひとまず話を終えるといたしましょう。


キーワード‥‥無自性・空、中道、龍樹、回向、方便、菩薩

2007年07月07日

【第4回】アビダルマ仏教の追求

 まったく大胆に要約してしまいました。これまでのお話で、おシャカさま直接の教説の解説はおわりです。いや、初回はおシャカさま活躍の時代背景の説明でしたから、たったの2回でタイトルに即した話はおしまい。これでは、はなはだしい偽装ですか。

 これから、おシャカさまの教えを後の仏教者たちがどう受けとっていったのか、こういう内容でお話いたします。仏教が意味があるのは、時代それぞれに生身の人間に対していかなるインパクトを与え、後世に寄与しているかということでありましょう。こうした点から見ることで、おシャカさまの教えをより明らかにできると考えているからです。
 今回は、それで、アビダルマ仏教者たちによる教えの受けとめ方をめぐってです。


アビダルマとは何か
アビダルマ仏教というのは、仏弟子たちがいくつかの学派(部派と称しています)に分かれて、おシャカさまの教義研究をこととした時代の仏教をいいます。こと細かく教理の内容を追求していったがために、煩瑣(ハンサ)仏教とか学問仏教とか否定的に語られて、一般に、小乗仏教(私たちの仏教にくらべて小さい劣った仏教)として位置づけられてまいりました。

 けれども、そういう価値判断だけでこの仏教をみて一切顧みないというのはフェアなやり方ではないと思います。現にいまでも東南アジアに存続している仏教ですし、この教義の展開のお蔭で私たちの大乗仏教の興起・発展がもたらされたわけでもありますから。

 とにかく、このアビダルマというのは、おシャカさま滅後の弟子たちが、教えの意味や示された教義の深い内容を追求した結果として生み出されたものです。前回お話しましたように、実践道の中心は「精神集中を通じておシャカさまの教えをくり返し考察し体得してゆくこと」にあるわけですから、これは当然の生き方といわねばなりません。

 問題なのは、この態度に一途なあまり、宗教的な瑞々しさが失われ、少しく高踏的になり、また理論中心になってしまって、在家の信者たちから遊離する傾向を持ったばあいがあったということでした。ですから、すべてを小乗仏教として切り捨ててよいわけではありません。


何をどう追求したのか
 アビダルマ仏教者たちが追求したのは、私は、「無我」と「縁起」の教えであったと思っています。
 無我であるとすると、インド思想界伝統の「輪廻(リンネ)の思想」はどうなるのか。輪廻は、おシャカさまが自分で考え出されたものではなくて、他から採り入れたものであるとされています。それで、おシャカさまは輪廻を積極的には認められはしなかったなどと主張される方もいますが、こういう命のあり方をおシャカさまが認められていたことは否定できないと思います。生死(ショウジ)の世界を離脱しない限り、六道あるいは五道に生まれ変わってゆくのだということです。もっともこれをよしとして肯定するのではなく、そういう生き方を離れるのが仏教のめざすさとりであるとして、輪廻の超克(チョウコク)を教えていますから、そのままを是認したわけではありませんが。

 無我であるとすると、では、輪廻する主体は何なのか、という問題が生じてまいります。ですから、無我でありなおかつ輪廻を語るとして、なにがどう輪廻してゆくというべきなのか。これが一つの追求課題で、その結果がアビダルマの重要な教説に結びついていったのであろうというのです。

 「縁起」はまさにあらゆるものの存在のあり方です。とすれば「無我」なるこの私、あるいは人間の実際のすがたは、どのようであるか。迷っている私の状態はどんなに説明できるのか。さらには、何が直接的な因で何が間接的な条件なのか。この観点でこと細かな追求を行った結果が、また一つのアビダルマ教義になっていったのだろうと思います。

 残念ながら、こうして得られたアビダルマの答えをいま解説している余裕はないのですが、煩瑣で理論的すぎるように見えても、かれらが述べているのは、結局は、上のような項目をめぐってのものに集約できるのです。
 すなわち、無我の徹底的な論証と、縁起として成り立つ人間のすがたおよび縁起の理論を成立せしめる諸存在(諸現象)の考察です。とすれば、アビダルマ仏教者たちも、おシャカさまの教えを忠実に守ってゆこうとしたことに変わりはないと申せましょう。
 ただ、少しばかりマイナス評価を受けるのは、彼らが、自分たちの分析・整理した諸存在(法=もの)の有る無しにこだわりすぎたということではないでしょうか。


キーワード‥‥アビダルマ仏教、部派、小乗仏教、輪廻の思想、無我の論証

2007年06月08日

【第3回】おシャカさまの教えた修行道

 現実を苦であり無常であると教えられたわけですから、いまや、その苦や無常を離れた永遠の平和の世界・涅槃(ネハン)を目指さなければなりません。そこに、仏教における修行が展開するのですし、仏道の歩みが始まります。私たちのかかえる煩悩を断じ、おシャカさま同様の智慧の獲得を目指して生きること、これが求められてくると申してもよいでしょう。ということで、今回は仏教の修行道について語ります。


八正道の教え
 おシャカさまが最初に示されたさとり獲得の方法は、八正道(ハッショウドウ)という名で整理されています。正見(ショウケン)・正思惟・正語・正業・正命(ショウミョウ)・正精進・正念・正定の八項目です。すべてに「正」がついておりますのでこう呼ばれますが、これが聖なる実践でもありますので、また八聖道とも称します。

 順に、正しい見解 (仏教を信じること、仏教の教える因果論の立場に立つ)、正しい心の思い (貪り・いかり・ぐち愚癡=真理に暗い、根本的な愚かさ、の心を起こさない)、正しいことば遣い (嘘をつく、二枚舌を使う等々の四つのことばの悪を去る)、正しい身体的行為 (命を害せず、盗みをせず、よこしまな性行為を避ける)、正しい生活 (正思惟・正語・正業に心がけ規則的で律にかなった生活を送る)、正しい努力 (八正道の他の七項目に努める)、正しい記憶 (教えを正しく記憶して忘れない)、正しい精神集中 (おシャカさまの教えを精神集中によって深く考察する)という意味です。おシャカさまはこれ以外の行を教えていません。したがって、肉体を痛め続けるといった苦行の生き方、あるいは反対に、のんべんだらりとした日常生活も採用するところではありません。よって、この八正道を「不苦不楽の中道(チュウドウ)」と名づけています。苦行主義と快楽追求の生き方をともに捨てた八正道という中正な生き方という意味です。


三学というまとめ
 やがて仏教の修行道を体系化して、戒・定・慧(カイ・ジョウ・エ)の三学ということがいわれるようになってまいりました。内容的に上の八正道と異なるわけではないのですが、身体的な訓練が第一段階で、それを、悪を止め善を行う戒学といい、精神集中によって心を清める第二段階の定学にうつり、最後に、仏の智慧をみがく慧学によって完成にいたるというのです。少しばかり恰好をつけて、増上戒学・増上心学(定学のことです)・増上慧学などということもありますが、同じことです。「増上」などといったって、ただ「勝れた」という形容詞を付加しただけです。

 要は、日常生活を正しくして、その上で精神集中を通じておシャカさまの教えをくり返し考察し体得してゆくことに他なりません。ある時、若い研究者が、私の研究しているこの学派には禅定以外には修行がありませんので、といいますから、私が、仏教には禅以外の修行道はない、と一喝いたしますと、怪訝な顔をしておりました。結局のところ、仏教の修行は戒定慧の三学に納まるといいたかったのですが、教理の多様さに同じく、仏道にも何かいろんな方法が提示されているように誤解している方が多いかもしれません。


六波羅蜜行
 しかし、大乗仏教になりますと(少し早いかもしれませんがここで一緒に語るといたしましょう。紀元前後頃から展開した新しい傾向の仏教です)、新しい修行道が主張されてまいります。それがこの六波羅蜜行(ロッパラミツギョウ)です。布施(施しをする)・持戒(戒を保つ)・忍辱(ニンニク、他からの迫害に耐え忍ぶ)・精進・禅定・智慧の六項目です。波羅蜜(パーラミター=完全・完成)という語がついているのは、完成された完全なる布施ないし智慧という意味ですから、ただの布施や持戒等ではなく、末通った実質的な行でなければならないというのでありましょう。

 ただ、一項目の言い方が違うほど、内容に大きな隔たりはないと押さえることが可能です。三学でいえば、戒学におさまるのが布施・持戒・忍辱でしょうから、この六波羅蜜だって、三学に納まるということができますし、八正道の正思惟から正命までも所詮は戒学にまとまりますから、全体が戒定慧の三学で納められるのです。

 けれども、布施・持戒・忍辱波羅蜜の中に、利他的側面を多く持っている点で、大乗仏教の大乗たる所以(ユエン)があるのです。その点で、まったく一緒というわけにはまいりませんが、今、修行道という点では、原始仏教の「八正道」も大乗の「六波羅蜜行」もまた、結局は三学に尽きると申せましょう。


キーワード‥‥八正道、不苦不楽の中道、三学、六波羅蜜


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<追記>
質疑応答
Q
今回の講義を読み、仏道の厳しさに改めて気付かされました。

禅定>日常生活を正しくすること。精神集中を通じておシャカさまの教えをくり返し考察し体得してゆくこと。

と言う部分に惹かれました。私は僧侶でありながら、常日頃自堕落な生活をしているので、少しでも改めたいです。言うだけでは、意味ないですね。

仏法の教えを繰り返しお聴聞するお寺参りの生活されているおじいさんおばあさん方って、ある意味仏道の実践を行われていると言えるのではないでしょうか?
A
そうですね。いわゆる禅定とは言い難いですが、教えを繰り返し考察する点では、まさしく仏道を実践していると申せましょう。ただ、仏教で「定学」という場合には、聴聞のおじいさんおばあさんより、もう少し自覚的であろうと思います。これこそが仏の教えたもうた「無常」である、「苦」である、そして「無常」である。あるいは「空」である等々と、しっかりと意識してそこに精神を集中する点が異なるように思います。



Q
「仏教の修行は戒定慧の三学に納まるといいたかったのですが、教理の多様さに同じく、仏道にも何かいろんな方法が提示されているように誤解している」

とありましたが、私も仏道にはいろんな方法があるものだと勘違いしておりました。

そうすると、天台宗の有名な修行である念仏三昧行や、千日回峰行、あるいは、一般に、お坊さんがよくしていると思われている滝行というのも、やはり戒定慧に基づいたものなのでしょうか?
それと、行は阿弥陀仏の側で完成された、とする浄土真宗においては、三学についてどのような見解を持っているのでしょうか?

A
すべて戒学か定学に収まるのではないでしょうか。三昧とは禅定と同意ですから、「常行」「常坐」「半行半坐」「非行非坐」といったって、すべては三昧なのですから、これが定学の範疇にあることはあきらかです。

浄土真宗においては、三学は法蔵菩薩が修したもうた行でありましょう。したがって、私たち凡夫には修し難い行、私たちには直接関わらないものと考えられましょう。「いづれの行もおよびがたき身」でありますから。

2007年05月18日

「質疑応答」追記

メリシャカ仏教入門講座をご覧の皆さまこんちには。
第2回テキスト「おシャカさまの教えの基本」の質疑応答を文章末に追記しました。
こちらも本文同様、読み応えがありますので、どうぞご覧ください。


第3回講座テキストは6月8日に公開です。

2007年05月08日

【第2回】おシャカさまの教えの基本

おシャカさまの基本的な教え
 おシャカさまの教えは何であるかと考えて、仏教の総体を思いますとなかなか厄介です。でも、基本となるのはそれほど複雑ではありません。私は、無常・苦・無我の教説と縁起説をおさえれば足りると思っております。あるいは、四諦(シタイ)の教えと縁起説といってもよいかも知れません。おシャカさまの教義体系をそんなに簡単に断言していいのかと、お叱りをうけましょうか。

 現実世界のあり方、それを超えた真実の世界のすがた、そしてものの本来的な有り様、あるいはこれらを私たち人間がどう把握しているか、おシャカさまはこれを教えているわけでしょう。ですから、上記の項目で十分だと思います。


無常・苦・無我
 私たちの経験の世界に永遠で変化しないものはありません。これは、特別の論証を必要としません。見ればわかります。永遠に変わらないものを挙げよ、といわれて、皆さんは何か提示することができますか。それで、ものはすべて変化しやがて消滅するものだと教えて、それを無常と言うのです。しかし悲しいかな、私たちはそれを誤認して生きています。無常にもかかわらず、それを常であると思いこんで生きています。私の獲得したこの成果は永遠である、営々築いてきたこの名声は決して朽ちることはない等々と。けれども、どんなものでも、物質的なものであれ精神的なものであっても、私たちの思ったようになったことは一度としてないのです。

 この、ものの真実のあり方と私たちの思いようのギャップ、大きな隔たりを苦というのです。凡人は自分の見たいようにしかものを見ない、といったのはユリウス・カエサルですが、私たち人間は根本的な妄執(モウシュウ)を持っていて、それによって目が眩まされて真実をみることができません。それを仏教では煩悩と総称し、その根本として渇愛(カツアイ)とか無明(ムミョウ)とかを教えているのです。こうした根源的な人間の愚かさ、それが邪魔して真実を見えなくさせ苦の現実を生起せしめているのです。

 伝統的なバラモン教は、「常一主宰(ジョウイツシュサイ)」(永遠でただ一つのすべての中心となる存在)としてのが我(アートマン)を主張します。すべての本体であり私たちの根源というわけですが、無常であって苦である世界に、どうして常住なものなどがあり得ましょう。こうして、無常と苦を根拠にして、当然に、無我(我などあり得ない)が主張されてくるのです。


涅槃
 涅槃(ネハン)というのは「ニルヴァーナ(ニッバーナ)」の音訳語で、さとりの境地をいう言葉です。現実が無常で苦で、また無我であるとすれば、その対極にある理想の世界と申せましょう。おシャカさまは、迷いの世界を捨てて求めるべき真実の世界として、この涅槃を教えました。私たちの現実世界は、一言でいえば迷いの世界にほかならず、無常にして頼りにするべき世界ではない。この涅槃を理想にして、それをめざして生きるところに人間の真実の生き方が現出すると教えたのです。永遠の平和の世界であり我執(ガシュウ)を離れて生きる世界ということもできましょう。


縁起説
 では、縁起とはどんな教えでありましょうか。ものは単独で存在しているのではなくて、他のものが原因になり条件になって成り立っているということです。ですから、ある事柄を考える場合に、その構成要素を追求したり、成立の原因を考えたり、また後への影響を思いはかったりすることができます。すべてのものを、第一原因の変化と考えたり、創造者による創成としたり、運命とか宿命、あるいは反対に、偶然のなせるワザととらえるたりする考え方に反対するものです。

 おシャカさまは、この縁起の見方に立っています。したがって、物事をとらえるとき、原因を考え理由を考察して、そのうえで一定の結果を判断するのです。後世、この縁起説がさとりの内容だとして重視され、時間的・空間的、あるいは存在論的にも認識論的にも(論理的にも)相互に依存しあっているのが縁起であるなどと解説されますが、今はそこまで厳密に考えなくてもよいと思います。単独に存在するものを認めずに、ものは他からの影響下にあって、他の先行のものによって成り立っているという教えです。これも、現実にある各種のもの(存在)を見ればわかる事実です。

 これらが整理され体系づけられて、各種の仏教教義になってゆくのです。今は、そのエッセンスだけ解説いたしました。これが基本だとまずはしっかりと認識してください。


キーワード‥‥無常、苦、無我、涅槃、縁起、渇愛、無明

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<追記>
質疑応答
Q
縁起について質問です。
私は原因があるから結果があるという見方は、私たちには難しいと思うんです。
たとえば種があるところには花が咲くというのは、間違いですよね。鳥が種をつついたら花は咲きません。花が咲いたところには必ず種があると見ることはできますよね。結果があるところには、必ず因があった、縁があったと見るものだと聞いたことがあるのです。
縁起の見方として以上のような理解で良いですか?また、「因」と「縁」の違いって実際にはなかなか区別が付かない感じがします。

A
難しく考えるのは、自分がそう思いたいだけではないですか。一定の結果に対して、それをもたらしたのはいろんな条件や原因があったからであったと受けとるということで、神が造りたもうたとか、まったくの偶然のなせるワザと考えるより、よほど納得のゆく考え方でありましょう。

良いか悪いかと聞かれれば、良いとお答えするしか手はないでしょう。でも、私が因とか原因とか言っているのは、ただ花に対して「種」だけを言っているのではありません。「鳥が種をつついた」等というのが原因で、「花が咲かなかった」が結果ということです。

また、因果の法則を、因から見るか、反対に果からながめるかといったこと、固定的にどちらかから一方向で見るのが正しいといった観念は捨てた方がよろしい。私たちは一定の結果を得て、それにはこれこれの原因や条件があったと因を見つめ直すことから考え始めますが、それを今度は、理論化し法則化して、「因果律」を語るのです。ですから、双方の見方が可能でありましょう。仏教では果から因を見るのが正しい縁起の見方だ、と決めつけてしまっては、「これあるが故にかれあり」という縁起系列を主張する十二縁起説は否定されてしまうのではないでしょうか。

私は、因と縁とを区別しろなどと語ったつもりはありません。直接的な原因あるいは間接的な諸条件、そんなものをみな雑多にして、すべて時間的に先行しているもの、あるいは同時的に存在しているもの、さらには、行動時の精神的な要因を考えて、そういうものに影響されて一定の結果に結びつくと仏教は考えていると申したのです。区別したって、そんなものは私には役に立ちません。私が、あくまで私自身がどう受けとるか、そして反省するか、でありましょう。貴方がこんなヘマをしたのはこういう原因があったからです、などと他人の悪果の因を指摘するための理論ではありません。


Q
例えば、電車でたまたま隣に座った人と話していると、野球の話題で盛り上がって、よくよく聞いてみると兄の友達だった。数年後に友達の結婚式へ参加した時、お相手が以前会ったその人。「いや~、因縁ですね~」という使い方が一般的にされます。

運命的ニュアンスを含んでいるような使い方には疑問を持ちますが、一概に間違っていないようにも思います。言ってしまえばすべて"ご縁"にもなるかと思いますが、本来の意味から考えるといかがでしょうか?
A
本来の意味から考えると、まさに因縁があったからで、間違いはないと思います。それを「運命的なニュアンス」と受けとるのではなく、過去世からの、私の知り得ない数々の縁があったからこそである、と受けとってゆくということでしょう。「袖ふれあうも多生の縁」という言葉も、ヤクザの兄さんに因縁つけられた、という言い方だって、それなりに何がしかのご縁があればこそなのです。

因果(縁起)を、一因一果の法則ととらずに、物事はすべて諸因・諸縁の織りなす結果であると理解するのでありましょう。


Q
重ねて質問です。
縁ということを、"たまたま"と受け取っていました。この受け取り方は間違っていますか?
A
たまたまではありません。必然です。ただ一因一果ではないですから、それが思いが
けなく感じて、たまたまのように見えるだけです。


Q
おシャカさまはヴェーダをどのように捉えておられたのでしょうか?
A
直接ヴェーダについて言及されていませんから、本当のところはお答えしかねますが、無我を主張して、我を語り「梵我一如」をいうヴェーダとは反対の立場にいますし、カーストも認めていないから、ヴェーダの権威は認めてはいなかったのではないでしょうか。また、「真のバラモン」とは何かと追求したおシャカさまですから、何もかも否定というのではなく、内容をよく理解した上で、とるべきものはとり、捨てるべきものはすてるといった態度で接したのでありましょう。

このサイトについて

ここは、仏教サイト「メリシャカ!」の1周年特別企画、インターネット仏教入門講座のページです。
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◆第1回テキスト
「おシャカさまとその時代」

◆第2回テキスト
「おシャカさまの教えの基本」

◆第3回テキスト
「おシャカさまの教えた修行道」

◆第4回テキスト
「アビダルマ仏教の追求」


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