おシャカさまの基本的な教え
おシャカさまの教えは何であるかと考えて、仏教の総体を思いますとなかなか厄介です。でも、基本となるのはそれほど複雑ではありません。私は、無常・苦・無我の教説と縁起説をおさえれば足りると思っております。あるいは、四諦(シタイ)の教えと縁起説といってもよいかも知れません。おシャカさまの教義体系をそんなに簡単に断言していいのかと、お叱りをうけましょうか。
現実世界のあり方、それを超えた真実の世界のすがた、そしてものの本来的な有り様、あるいはこれらを私たち人間がどう把握しているか、おシャカさまはこれを教えているわけでしょう。ですから、上記の項目で十分だと思います。
無常・苦・無我
私たちの経験の世界に永遠で変化しないものはありません。これは、特別の論証を必要としません。見ればわかります。永遠に変わらないものを挙げよ、といわれて、皆さんは何か提示することができますか。それで、ものはすべて変化しやがて消滅するものだと教えて、それを無常と言うのです。しかし悲しいかな、私たちはそれを誤認して生きています。無常にもかかわらず、それを常であると思いこんで生きています。私の獲得したこの成果は永遠である、営々築いてきたこの名声は決して朽ちることはない等々と。けれども、どんなものでも、物質的なものであれ精神的なものであっても、私たちの思ったようになったことは一度としてないのです。
この、ものの真実のあり方と私たちの思いようのギャップ、大きな隔たりを苦というのです。凡人は自分の見たいようにしかものを見ない、といったのはユリウス・カエサルですが、私たち人間は根本的な妄執(モウシュウ)を持っていて、それによって目が眩まされて真実をみることができません。それを仏教では煩悩と総称し、その根本として渇愛(カツアイ)とか無明(ムミョウ)とかを教えているのです。こうした根源的な人間の愚かさ、それが邪魔して真実を見えなくさせ苦の現実を生起せしめているのです。
伝統的なバラモン教は、「常一主宰(ジョウイツシュサイ)」(永遠でただ一つのすべての中心となる存在)としてのが我(アートマン)を主張します。すべての本体であり私たちの根源というわけですが、無常であって苦である世界に、どうして常住なものなどがあり得ましょう。こうして、無常と苦を根拠にして、当然に、無我(我などあり得ない)が主張されてくるのです。
涅槃
涅槃(ネハン)というのは「ニルヴァーナ(ニッバーナ)」の音訳語で、さとりの境地をいう言葉です。現実が無常で苦で、また無我であるとすれば、その対極にある理想の世界と申せましょう。おシャカさまは、迷いの世界を捨てて求めるべき真実の世界として、この涅槃を教えました。私たちの現実世界は、一言でいえば迷いの世界にほかならず、無常にして頼りにするべき世界ではない。この涅槃を理想にして、それをめざして生きるところに人間の真実の生き方が現出すると教えたのです。永遠の平和の世界であり我執(ガシュウ)を離れて生きる世界ということもできましょう。
縁起説
では、縁起とはどんな教えでありましょうか。ものは単独で存在しているのではなくて、他のものが原因になり条件になって成り立っているということです。ですから、ある事柄を考える場合に、その構成要素を追求したり、成立の原因を考えたり、また後への影響を思いはかったりすることができます。すべてのものを、第一原因の変化と考えたり、創造者による創成としたり、運命とか宿命、あるいは反対に、偶然のなせるワザととらえるたりする考え方に反対するものです。
おシャカさまは、この縁起の見方に立っています。したがって、物事をとらえるとき、原因を考え理由を考察して、そのうえで一定の結果を判断するのです。後世、この縁起説がさとりの内容だとして重視され、時間的・空間的、あるいは存在論的にも認識論的にも(論理的にも)相互に依存しあっているのが縁起であるなどと解説されますが、今はそこまで厳密に考えなくてもよいと思います。単独に存在するものを認めずに、ものは他からの影響下にあって、他の先行のものによって成り立っているという教えです。これも、現実にある各種のもの(存在)を見ればわかる事実です。
これらが整理され体系づけられて、各種の仏教教義になってゆくのです。今は、そのエッセンスだけ解説いたしました。これが基本だとまずはしっかりと認識してください。
キーワード‥‥無常、苦、無我、涅槃、縁起、渇愛、無明
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<追記>
質疑応答
Q
縁起について質問です。
私は原因があるから結果があるという見方は、私たちには難しいと思うんです。
たとえば種があるところには花が咲くというのは、間違いですよね。鳥が種をつついたら花は咲きません。花が咲いたところには必ず種があると見ることはできますよね。結果があるところには、必ず因があった、縁があったと見るものだと聞いたことがあるのです。
縁起の見方として以上のような理解で良いですか?また、「因」と「縁」の違いって実際にはなかなか区別が付かない感じがします。
A
難しく考えるのは、自分がそう思いたいだけではないですか。一定の結果に対して、それをもたらしたのはいろんな条件や原因があったからであったと受けとるということで、神が造りたもうたとか、まったくの偶然のなせるワザと考えるより、よほど納得のゆく考え方でありましょう。
良いか悪いかと聞かれれば、良いとお答えするしか手はないでしょう。でも、私が因とか原因とか言っているのは、ただ花に対して「種」だけを言っているのではありません。「鳥が種をつついた」等というのが原因で、「花が咲かなかった」が結果ということです。
また、因果の法則を、因から見るか、反対に果からながめるかといったこと、固定的にどちらかから一方向で見るのが正しいといった観念は捨てた方がよろしい。私たちは一定の結果を得て、それにはこれこれの原因や条件があったと因を見つめ直すことから考え始めますが、それを今度は、理論化し法則化して、「因果律」を語るのです。ですから、双方の見方が可能でありましょう。仏教では果から因を見るのが正しい縁起の見方だ、と決めつけてしまっては、「これあるが故にかれあり」という縁起系列を主張する十二縁起説は否定されてしまうのではないでしょうか。
私は、因と縁とを区別しろなどと語ったつもりはありません。直接的な原因あるいは間接的な諸条件、そんなものをみな雑多にして、すべて時間的に先行しているもの、あるいは同時的に存在しているもの、さらには、行動時の精神的な要因を考えて、そういうものに影響されて一定の結果に結びつくと仏教は考えていると申したのです。区別したって、そんなものは私には役に立ちません。私が、あくまで私自身がどう受けとるか、そして反省するか、でありましょう。貴方がこんなヘマをしたのはこういう原因があったからです、などと他人の悪果の因を指摘するための理論ではありません。
Q
例えば、電車でたまたま隣に座った人と話していると、野球の話題で盛り上がって、よくよく聞いてみると兄の友達だった。数年後に友達の結婚式へ参加した時、お相手が以前会ったその人。「いや~、因縁ですね~」という使い方が一般的にされます。
運命的ニュアンスを含んでいるような使い方には疑問を持ちますが、一概に間違っていないようにも思います。言ってしまえばすべて"ご縁"にもなるかと思いますが、本来の意味から考えるといかがでしょうか?
A
本来の意味から考えると、まさに因縁があったからで、間違いはないと思います。それを「運命的なニュアンス」と受けとるのではなく、過去世からの、私の知り得ない数々の縁があったからこそである、と受けとってゆくということでしょう。「袖ふれあうも多生の縁」という言葉も、ヤクザの兄さんに因縁つけられた、という言い方だって、それなりに何がしかのご縁があればこそなのです。
因果(縁起)を、一因一果の法則ととらずに、物事はすべて諸因・諸縁の織りなす結果であると理解するのでありましょう。
Q
重ねて質問です。
縁ということを、"たまたま"と受け取っていました。この受け取り方は間違っていますか?
A
たまたまではありません。必然です。ただ一因一果ではないですから、それが思いが
けなく感じて、たまたまのように見えるだけです。
Q
おシャカさまはヴェーダをどのように捉えておられたのでしょうか?
A
直接ヴェーダについて言及されていませんから、本当のところはお答えしかねますが、無我を主張して、我を語り「梵我一如」をいうヴェーダとは反対の立場にいますし、カーストも認めていないから、ヴェーダの権威は認めてはいなかったのではないでしょうか。また、「真のバラモン」とは何かと追求したおシャカさまですから、何もかも否定というのではなく、内容をよく理解した上で、とるべきものはとり、捨てるべきものはすてるといった態度で接したのでありましょう。

コメント (7)
縁起について質問です。
私は原因があるから結果があるという見方は、私たちには難しいと思うんです。
たとえば種があるところには花が咲くというのは、間違いですよね。鳥が種をつついたら花は咲きません。花が咲いたところには必ず種があると見ることはできますよね。結果があるところには、必ず因があった、縁があったと見るものだと聞いたことがあるのです。
縁起の見方として以上のような理解で良いですか?
また、「因」と「縁」の違いって実際にはなかなか区別が付かない感じがします(笑)
投稿者: チスイ | 2007年05月13日 14:45
日時: 2007年05月13日 14:45
例えば、電車でたまたま隣に座った人と話していると、野球の話題で盛り上がって、よくよく聞いてみると兄の友達だった。数年後に友達の結婚式へ参加した時、お相手が以前会ったその人。「いや~、因縁ですね~」という使い方が一般的にされます。
運命的ニュアンスを含んでいるような使い方には疑問を持ちますが、一概に間違っていないようにも思います。言ってしまえばすべて"ご縁”にもなるかと思いますが、本来の意味から考えるといかがでしょうか?
投稿者: とし | 2007年05月17日 13:02
日時: 2007年05月17日 13:02
チスイさま、としさま
文章末に追記しました。
投稿者: merry-shaka | 2007年05月18日 12:46
日時: 2007年05月18日 12:46
おシャカさまはヴェーダをどのように捉えておられたのでしょうか?
投稿者: しまちゃん | 2007年05月28日 22:35
日時: 2007年05月28日 22:35
重ねて質問です。
縁ということを、"たまたま"と受け取っていました。この受け取り方は間違っていますか?
投稿者: とし | 2007年05月28日 22:36
日時: 2007年05月28日 22:36
しまちゃんさま、としさま
文章末に追記しました。
投稿者: merry-shaka | 2007年05月28日 23:56
日時: 2007年05月28日 23:56
最初、私の質問に対する先生の応答を読んだ時に正直吃驚しました!
「ああ。今まで勘違いをしていたのか!」と。
私は今まで因果というものを「果」から見よう見ようとしていました。
私がしてきた法話などで、「結果があるところには、必ずご縁があった、お陰様があった」と言う風に話していました。
例えば、今手が合わされる、南無阿弥陀仏のお念仏がこぼれる。そこには、他の方そして阿弥陀様のご苦労があったのだと言う風に。
自分の中の固定された見方が今回崩されました。
でも、縁起って、とても深く、また難しいものですね。
投稿者: チスイ | 2007年06月05日 23:10
日時: 2007年06月05日 23:10