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【第3回】おシャカさまの教えた修行道

 現実を苦であり無常であると教えられたわけですから、いまや、その苦や無常を離れた永遠の平和の世界・涅槃(ネハン)を目指さなければなりません。そこに、仏教における修行が展開するのですし、仏道の歩みが始まります。私たちのかかえる煩悩を断じ、おシャカさま同様の智慧の獲得を目指して生きること、これが求められてくると申してもよいでしょう。ということで、今回は仏教の修行道について語ります。


八正道の教え
 おシャカさまが最初に示されたさとり獲得の方法は、八正道(ハッショウドウ)という名で整理されています。正見(ショウケン)・正思惟・正語・正業・正命(ショウミョウ)・正精進・正念・正定の八項目です。すべてに「正」がついておりますのでこう呼ばれますが、これが聖なる実践でもありますので、また八聖道とも称します。

 順に、正しい見解 (仏教を信じること、仏教の教える因果論の立場に立つ)、正しい心の思い (貪り・いかり・ぐち愚癡=真理に暗い、根本的な愚かさ、の心を起こさない)、正しいことば遣い (嘘をつく、二枚舌を使う等々の四つのことばの悪を去る)、正しい身体的行為 (命を害せず、盗みをせず、よこしまな性行為を避ける)、正しい生活 (正思惟・正語・正業に心がけ規則的で律にかなった生活を送る)、正しい努力 (八正道の他の七項目に努める)、正しい記憶 (教えを正しく記憶して忘れない)、正しい精神集中 (おシャカさまの教えを精神集中によって深く考察する)という意味です。おシャカさまはこれ以外の行を教えていません。したがって、肉体を痛め続けるといった苦行の生き方、あるいは反対に、のんべんだらりとした日常生活も採用するところではありません。よって、この八正道を「不苦不楽の中道(チュウドウ)」と名づけています。苦行主義と快楽追求の生き方をともに捨てた八正道という中正な生き方という意味です。


三学というまとめ
 やがて仏教の修行道を体系化して、戒・定・慧(カイ・ジョウ・エ)の三学ということがいわれるようになってまいりました。内容的に上の八正道と異なるわけではないのですが、身体的な訓練が第一段階で、それを、悪を止め善を行う戒学といい、精神集中によって心を清める第二段階の定学にうつり、最後に、仏の智慧をみがく慧学によって完成にいたるというのです。少しばかり恰好をつけて、増上戒学・増上心学(定学のことです)・増上慧学などということもありますが、同じことです。「増上」などといったって、ただ「勝れた」という形容詞を付加しただけです。

 要は、日常生活を正しくして、その上で精神集中を通じておシャカさまの教えをくり返し考察し体得してゆくことに他なりません。ある時、若い研究者が、私の研究しているこの学派には禅定以外には修行がありませんので、といいますから、私が、仏教には禅以外の修行道はない、と一喝いたしますと、怪訝な顔をしておりました。結局のところ、仏教の修行は戒定慧の三学に納まるといいたかったのですが、教理の多様さに同じく、仏道にも何かいろんな方法が提示されているように誤解している方が多いかもしれません。


六波羅蜜行
 しかし、大乗仏教になりますと(少し早いかもしれませんがここで一緒に語るといたしましょう。紀元前後頃から展開した新しい傾向の仏教です)、新しい修行道が主張されてまいります。それがこの六波羅蜜行(ロッパラミツギョウ)です。布施(施しをする)・持戒(戒を保つ)・忍辱(ニンニク、他からの迫害に耐え忍ぶ)・精進・禅定・智慧の六項目です。波羅蜜(パーラミター=完全・完成)という語がついているのは、完成された完全なる布施ないし智慧という意味ですから、ただの布施や持戒等ではなく、末通った実質的な行でなければならないというのでありましょう。

 ただ、一項目の言い方が違うほど、内容に大きな隔たりはないと押さえることが可能です。三学でいえば、戒学におさまるのが布施・持戒・忍辱でしょうから、この六波羅蜜だって、三学に納まるということができますし、八正道の正思惟から正命までも所詮は戒学にまとまりますから、全体が戒定慧の三学で納められるのです。

 けれども、布施・持戒・忍辱波羅蜜の中に、利他的側面を多く持っている点で、大乗仏教の大乗たる所以(ユエン)があるのです。その点で、まったく一緒というわけにはまいりませんが、今、修行道という点では、原始仏教の「八正道」も大乗の「六波羅蜜行」もまた、結局は三学に尽きると申せましょう。


キーワード‥‥八正道、不苦不楽の中道、三学、六波羅蜜


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<追記>
質疑応答
Q
今回の講義を読み、仏道の厳しさに改めて気付かされました。

禅定>日常生活を正しくすること。精神集中を通じておシャカさまの教えをくり返し考察し体得してゆくこと。

と言う部分に惹かれました。私は僧侶でありながら、常日頃自堕落な生活をしているので、少しでも改めたいです。言うだけでは、意味ないですね。

仏法の教えを繰り返しお聴聞するお寺参りの生活されているおじいさんおばあさん方って、ある意味仏道の実践を行われていると言えるのではないでしょうか?
A
そうですね。いわゆる禅定とは言い難いですが、教えを繰り返し考察する点では、まさしく仏道を実践していると申せましょう。ただ、仏教で「定学」という場合には、聴聞のおじいさんおばあさんより、もう少し自覚的であろうと思います。これこそが仏の教えたもうた「無常」である、「苦」である、そして「無常」である。あるいは「空」である等々と、しっかりと意識してそこに精神を集中する点が異なるように思います。



Q
「仏教の修行は戒定慧の三学に納まるといいたかったのですが、教理の多様さに同じく、仏道にも何かいろんな方法が提示されているように誤解している」

とありましたが、私も仏道にはいろんな方法があるものだと勘違いしておりました。

そうすると、天台宗の有名な修行である念仏三昧行や、千日回峰行、あるいは、一般に、お坊さんがよくしていると思われている滝行というのも、やはり戒定慧に基づいたものなのでしょうか?
それと、行は阿弥陀仏の側で完成された、とする浄土真宗においては、三学についてどのような見解を持っているのでしょうか?

A
すべて戒学か定学に収まるのではないでしょうか。三昧とは禅定と同意ですから、「常行」「常坐」「半行半坐」「非行非坐」といったって、すべては三昧なのですから、これが定学の範疇にあることはあきらかです。

浄土真宗においては、三学は法蔵菩薩が修したもうた行でありましょう。したがって、私たち凡夫には修し難い行、私たちには直接関わらないものと考えられましょう。「いづれの行もおよびがたき身」でありますから。

コメント (3)

チスイ:

今回の講義を読み、仏道の厳しさに改めて気付かされました。

禅定>日常生活を正しくすること。精神集中を通じておシャカさまの教えをくり返し考察し体得してゆくこと。
と言う部分に惹かれました。私は僧侶でありながら、常日頃自堕落な生活をしているので、少しでも改めたいです。言うだけでは、意味ないですね。

仏法の教えを繰り返しお聴聞するお寺参りの生活されているおじいさんおばあさん方って、ある意味仏道の実践を行われていると言えるのではないでしょうか?

kenyou:

「仏教の修行は戒定慧の三学に納まるといいたかったのですが、教理の多様さに同じく、仏道にも何かいろんな方法が提示されているように誤解している」
とありましたが、私も仏道にはいろんな方法があるものだと勘違いしておりました。
そうすると、天台宗の有名な修行である念仏三昧行や、千日回峰行、あるいは、一般に、お坊さんがよくしていると思われている滝行というのも、やはり戒定慧に基づいたものなのでしょうか?
それと、行は阿弥陀仏の側で完成された、とする浄土真宗においては、三学についてどのような見解を持っているのでしょうか?

merry-shaka:

チスイさま、kenyouさま

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「おシャカさまの教えた修行道」

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「アビダルマ仏教の追求」


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