まったく大胆に要約してしまいました。これまでのお話で、おシャカさま直接の教説の解説はおわりです。いや、初回はおシャカさま活躍の時代背景の説明でしたから、たったの2回でタイトルに即した話はおしまい。これでは、はなはだしい偽装ですか。
これから、おシャカさまの教えを後の仏教者たちがどう受けとっていったのか、こういう内容でお話いたします。仏教が意味があるのは、時代それぞれに生身の人間に対していかなるインパクトを与え、後世に寄与しているかということでありましょう。こうした点から見ることで、おシャカさまの教えをより明らかにできると考えているからです。
今回は、それで、アビダルマ仏教者たちによる教えの受けとめ方をめぐってです。
アビダルマとは何か
アビダルマ仏教というのは、仏弟子たちがいくつかの学派(部派と称しています)に分かれて、おシャカさまの教義研究をこととした時代の仏教をいいます。こと細かく教理の内容を追求していったがために、煩瑣(ハンサ)仏教とか学問仏教とか否定的に語られて、一般に、小乗仏教(私たちの仏教にくらべて小さい劣った仏教)として位置づけられてまいりました。
けれども、そういう価値判断だけでこの仏教をみて一切顧みないというのはフェアなやり方ではないと思います。現にいまでも東南アジアに存続している仏教ですし、この教義の展開のお蔭で私たちの大乗仏教の興起・発展がもたらされたわけでもありますから。
とにかく、このアビダルマというのは、おシャカさま滅後の弟子たちが、教えの意味や示された教義の深い内容を追求した結果として生み出されたものです。前回お話しましたように、実践道の中心は「精神集中を通じておシャカさまの教えをくり返し考察し体得してゆくこと」にあるわけですから、これは当然の生き方といわねばなりません。
問題なのは、この態度に一途なあまり、宗教的な瑞々しさが失われ、少しく高踏的になり、また理論中心になってしまって、在家の信者たちから遊離する傾向を持ったばあいがあったということでした。ですから、すべてを小乗仏教として切り捨ててよいわけではありません。
何をどう追求したのか
アビダルマ仏教者たちが追求したのは、私は、「無我」と「縁起」の教えであったと思っています。
無我であるとすると、インド思想界伝統の「輪廻(リンネ)の思想」はどうなるのか。輪廻は、おシャカさまが自分で考え出されたものではなくて、他から採り入れたものであるとされています。それで、おシャカさまは輪廻を積極的には認められはしなかったなどと主張される方もいますが、こういう命のあり方をおシャカさまが認められていたことは否定できないと思います。生死(ショウジ)の世界を離脱しない限り、六道あるいは五道に生まれ変わってゆくのだということです。もっともこれをよしとして肯定するのではなく、そういう生き方を離れるのが仏教のめざすさとりであるとして、輪廻の超克(チョウコク)を教えていますから、そのままを是認したわけではありませんが。
無我であるとすると、では、輪廻する主体は何なのか、という問題が生じてまいります。ですから、無我でありなおかつ輪廻を語るとして、なにがどう輪廻してゆくというべきなのか。これが一つの追求課題で、その結果がアビダルマの重要な教説に結びついていったのであろうというのです。
「縁起」はまさにあらゆるものの存在のあり方です。とすれば「無我」なるこの私、あるいは人間の実際のすがたは、どのようであるか。迷っている私の状態はどんなに説明できるのか。さらには、何が直接的な因で何が間接的な条件なのか。この観点でこと細かな追求を行った結果が、また一つのアビダルマ教義になっていったのだろうと思います。
残念ながら、こうして得られたアビダルマの答えをいま解説している余裕はないのですが、煩瑣で理論的すぎるように見えても、かれらが述べているのは、結局は、上のような項目をめぐってのものに集約できるのです。
すなわち、無我の徹底的な論証と、縁起として成り立つ人間のすがたおよび縁起の理論を成立せしめる諸存在(諸現象)の考察です。とすれば、アビダルマ仏教者たちも、おシャカさまの教えを忠実に守ってゆこうとしたことに変わりはないと申せましょう。
ただ、少しばかりマイナス評価を受けるのは、彼らが、自分たちの分析・整理した諸存在(法=もの)の有る無しにこだわりすぎたということではないでしょうか。
キーワード‥‥アビダルマ仏教、部派、小乗仏教、輪廻の思想、無我の論証

コメント (4)
先生ありがとうございます。質問です。
無我の境地に至ることが仏教でいう「さとり」であれば、インド社会に伝統としてあった「輪廻の思想」と全く別のことであって「無我であるとすると、では輪廻する主体は何かという問題を生じる」とありますが、無我と輪廻は全く別の考え方であれば、そのような問題点は生じない気がするのですが・・・。無我と輪廻、主体についての関係をもう少しお聞きしてみたいです。
それと「アビダルマの答えを解説している余裕がない」とありますが簡単にわかり易く説明していただければ、と思います。
投稿者: キッスィ | 2007年07月14日 20:18
日時: 2007年07月14日 20:18
先生ありがとうございます。今回も、非常に興味深い内容でした。
さて、一つ質問なのですが、アビダルマ仏教は東南アジアで今も存続、とありましたが、東南アジアの方はアビダルマ仏教が広まったのに対して、中国~日本へは、アビダルマ仏教よりも、大乗仏教が広まった、という印象があります。
この違いは一体どこから来るのでしょうか?
単に伝播した時代の差、ということでしょうか?
お答え、よろしくお願いいたします。
投稿者: kenyou | 2007年07月16日 18:27
日時: 2007年07月16日 18:27
キッスィさま
どうも、質問の趣旨が今ひとつよくわからないのです。私は、無我の境地に至ることが仏教でいう「さとり」などと語った覚えはありませんし、「無我」の教説と「輪廻の思想」がまったく別のものだと述べたつもりもないのです。無我を語り、輪廻の主体とされてきたアートマン(霊魂)がないと主張すると、輪廻の主体がないということになってしまうから、それでも、すなわち無我であっても輪廻を説くとすると、アートマンにかわる輪廻の主体になるものを考えねばならぬ、と示唆したつもりなのです。それが部派でいう業説や、非即非離蘊の我説などになるのであろうと思いますが、これは語りませんでした。次の質問にあるように、解説する余裕がないのです。何れまた別の機会にということであきらめてください。
それと「アビダルマの答えを解説している余裕がない」とありますが簡単にわかり易く説明していただければ、と思います。
「簡単にわかり易く」などといいますが、それができるくらいなら、余裕がないなどと申しません。今、「簡単に」という方だけ採用して答えます。「三世実有・法体恒有(さんぜじつうほったいごうう)」などという諸法の本性を語ることです。この専門用語の意味を好きなだけ追求してください。
投稿者: souma | 2007年07月20日 00:24
日時: 2007年07月20日 00:24
kenyouさま
単に時代の差ということではないでしょう。ないと思います。伝播した地方の民族性・風土の違いではないでしょうか。でも、本当のところ、私には答える自信がありません。せいぜい読者の方々で議論してみてください。悪しからず。
投稿者: souma | 2007年07月20日 00:24
日時: 2007年07月20日 00:24