今回と次回(実地講義)は、大乗仏教徒たちがおシャカさまの教えをどのように受け止めたのか、ということについてお話いたします。で、まずは「空(くう)」の思想とブッダの本質追究に関してです。
空の思想
おシャカさまの教えを深く追求していった点では、大乗仏教徒たちもアビダルマ仏教と同じであります。ただ、無我の教説を考察して、「縁起・無自性(むじしょう)・空」ととらえ直していった点が異なるところです。
すべての事象は無我であり、縁起で成り立っているのであるから、そこには変わらざる本性・本体などはありはしない。
これが無自性ということですし、私たちの経験世界なるものは、無自性であって諸の原因や条件の重なり合いの上に、不安定に仮に存在しているにすぎない、ということが空(あるいは空性)ということです。最後くらいは格調高く仏典の文を引きましょうか。
因縁所生法 我説即是空 亦為是仮名 亦是中道義
この偈文は、「因縁所生の法を、我、すなはちこれ空と説く。またこれを仮名(けみょう)と為す。またこれ中道の義なり」と訓読できますが、「縁起=空=仮名=中道」という等式を示しています。これは、天台大師智顗(ちぎ)の『摩訶止観』巻第一上(大正46・1b)に引かれているもので、龍樹の『中論』第24章の第18偈の漢訳です。ですから、「我」というのは龍樹の自称ですし、ここの「中道」という語が論の名前の基になりました。また「中道」という語は、ここだけ、たったの1回しか出てきません。すごいですね、ただの1回の使用が論全体を表すタイトルになったのですから。
『中論』の原典など、読者のほとんどの方は読まないと思いますが、以後は、読んだと称してよいでしょう。この1偈に『中論』のエッセンスが残りなく込められていると言われ、これが論を代表する偈ですから。
『中論』全編に流れている無自性の考えをここにも当てはめて、上の等式に「=無自性」とつなげば、これで完結です。ものには本質だとか本性なるものがあって、それをAである、あるいはBであるなどと区別し、それにこだわって私たちは生きていますが、そんなものはどこにもありはしない。勝手に私たちがラベルを貼り付けて、ああだこうだと執著してとらわれているが、それらは全くの妄想にすぎないというのです。
要するに、大乗仏教は無我・縁起の教えを「無自性・空」ととらえ直しました。この空の思想を体系化したのが龍樹で、彼はこの功績によって「八宗の祖師」とたたえられています。大乗仏教であるかぎり、この龍樹の空を基礎におかないものはないという位置づけなのです。
ものが空なればこそ
では、空思想の意義はどんなところにあるのでしょうか。「自業自得」が仏教の鉄則でした。皆さんは真宗の教えに慣れ親しんでいて、こんな教えはどこかに行ってしまっていますね。自らなした行為の報いはこの私自身が受けなければならないとすると、まさしく皆さんは「地獄必定」で、こんな私の駄文など読んでいる暇もなく、次なる輪廻転生を嘆きつつあたふたと生きているはずです。しかし、この業が空であるからこそ、龍樹の教説によって自業自得が否定されているからこそ、浄土往生を信じて落ちついて私の相手などしておれるのです。
すなわち、空を基礎にして、「回向」(功徳を他に振り向けること)が可能になり、そうするための方便(他を救済するための手だて)が意味を持ってくるのです。つまり、大乗仏教において展開してきた回向や方便も、その基本にある利他の精神も、空思想によってもたらされた観念なのです。
ブッダとさとりの本質の追求
一方、ブッダとはいかなる存在なのか、おシャカさまがさとりを開いたということの意味はいかなる点にあるのか、といった考察も深まってゆきました。おシャカさまの入滅以来大分と時間がたって、ブッダに対するあこがれの気持ちが高まっていった結果であると考えられています。
具体的には、過去仏や未来仏の思想の発達、仏身・仏土論の展開、あるいは十方世界の観念の進展などが指摘されています。そうして、仏の本質を「慈悲」の精神に見て、利他活動こそがブッダの存在意義であるという教えに結実してゆきました。私たちはこういうブッダになろうと努めるべきだ、それが仏弟子の勤めである。仏弟子たるもの、かようなブッダとしてのさとりを目指して生きるべきである。あるいはまた、このブッダが活動することで、自分ひとりではさとりを得られない一般大衆の救済が可能になり、迷える大衆の希望の光が見えてくるであろう。
こうして、偉大な救済仏という観念もまた展開してきたと思われます。
このような理想を目指す生き方をする大乗の修行者を「菩薩(ボーディサットヴァ)」といいます。この語もその観念も、大乗仏教の展開とかかわって発達してきたといいます。ひょっとすると、仏教のはじめからこの思想があったと思っている読者がいるかも知れませんが、この語の展開はずいぶんと新しいのです。
空思想を土台にして、慈悲の精神に生きて、利他活動の中に偉大なブッダのさとりに至る道を見いだしていった人たちが菩薩という存在です。したがって、この菩薩について次には語らなければならないのですが、もはや紙数が尽きてしまいました。この菩薩という観念、あるいはその展開の終局としての真宗的教説等に関しましては、次回9月の、京都での実地講義に「請うご期待!」ということで、ひとまず話を終えるといたしましょう。
キーワード‥‥無自性・空、中道、龍樹、回向、方便、菩薩
