お坊さんに聞いてみよう14 (メリシャカメンバーのこたえ:sakulla)
- 2013年05月22日(水) 文:sakulla
- 仏声人語
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・今日の晩御飯は何にすればいいですか? (PNようしょく)
なんとも悩ましい質問だ。
とくに結婚してからは、この問に日々答え、製作することこそが私の命題なのではないかと思えるくらい、毎日晩御飯の献立に頭を悩ませている。
とりあえず、今日はワカサギを買ったから子供が食べやすいように唐揚げにして、野菜は煮物とお味噌汁で摂って、賑やかしに冷や奴か納豆を付ければいいか。
煮物が余ったら細かく切ってから煮詰めて、五目散らしの具にして明日のお昼に食べることにしよう。
……すげぇ、完璧じゃね?(笑)
答えにはならないだろうが、まぁ参考までにということで。
献立を決めるのは苦痛だが、料理を作るのは嫌いではない。
どうやら私は作らなそうなイメージがあるようだが、一応一通りのことはできる。
もっとも、そのイメージもあながち間違いというわけではなかった。
小さい頃に、剥いたはずのリンゴを血で赤く染め直して以来、包丁を握ることを自ら勝手に律していたため、きちんと作るようになったのは成人した後である。
最初に手を出したのはお菓子作り。
だが、砂糖とバターの分量の多さに怖れをなして、自分で食べることができなくなって、すぐやめた。
次に、ようやく食事系の料理を作るようになったわけだが、それは自分の意思というより、親の入院などによって作らざるをえなかったというのが正解。
仕方がないと諦めて、包丁を握ることを解禁した。
料理は理科の実験のようなものだ。
レシピにある通りに作れば、それなりのものが完成する。
お菓子作りは、材料をきっちり量らないと失敗するものだったから、同じように料理もレシピにある分量をきっちり量って投入する。
私に目分量など存在しないし、私の目分量など信じていない。
それで不味かったら、私のせいではなくてレシピのせい。
そんな責任転嫁というスタンスで、最初の頃は料理を作っていた。
でも実際は、調味料の分量だけで味が決まるわけではない。
材料の質だったり、旬かどうかだったり、切り方だったり、火加減だったり。
さまざまな要素が関係することで、調和が取れる。
けれど、その調和の有り方は、人によってまちまちだ。
例えレシピ通りに再現したとしても、好みの味でなければ美味しいとは思わない。
それはあらゆる物事の有り方にも言えるものだろう。
誰かが描いた通りの、調和の取れた理想の社会が実現したとしても、その社会は不調和だと、喘ぎ苦しむ誰かは必ず出てくるものだ。
万人の好みに合う料理もなければ、万人に都合の良い社会も存在しない。
なのに、自分の好みの味で満足するように、自分に都合が良ければそれでいいと思うことを止められない。
お鍋の中に、限られた世界の中の、限りない関係性を見ると同時に、限りない関係性の中心に、自分を据えていた私のエゴが見えてきた。
てなことを、年がら年中考えながら料理をしているわけではない。
さすがに最近は、重ねた主婦歴に反映して包丁で手を切るようなことはなくなった。
だが、大根を下ろすついでに親指の関節も下ろしてしまい、作りたくもない紅葉おろしを製作してしまうようになった。
これはさすがに、レシピのせいだと責任転嫁はできないでいるわけなのだが…。
何はともあれ、自分の不摂生を都合よく責任転嫁しないような晩御飯作りを、これからも心掛けて行きたいと思っている。
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