人はなぜ嘘をつくのか?

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高校を卒業して早15年が経過したが、時々同級生たちで集まっては思い出話に花を咲かせる。 先日も飲み会があった。今回の会場は銀座紅葉時雨。飲み放題込みで3000円。銀座の雰囲気を味わいながら、この安さGOODです。

メリシャカ!

参加者の職種も、一児の母、広告代理店、システムエンジニア、薬科大学講師、食品関係の研究所、高校の先生、損保会社・・・全く無関係ない仕事で面白い。 その中で、「人はなぜウソをつくのか?」という話題になった。確かに、学生時代には道徳の授業では「嘘をつくことはいけないこと」と教えられた。しかし、「なぜウソをつくのか」は考えたことがなかった。それは、煩悩があるからだろうか。

仏教では、在家の信者が守るべき基本的な五戒があり、その中に不妄語戒とあり嘘をつくことが戒められている。妄語とは嘘をつくこと。今から2500年前から嘘をつく人がたくさんいたのだ。また、仏教で定められる十悪の中にも、やはり妄語がある。十悪とは、身口意の三業といわれ、身体や言葉や心にて犯す悪のことである。他にも、言葉で犯す罪に両舌(仲たがいさせる)、悪口(汚い罵り)、綺語(マコトでない飾り言葉)も悪の内容とされている。仏教でも、やはり妄語が悪いこととされている。仏教で示される悪とは自らがそのことにより苦しめられることを意味する。自らが嘘をつくことにより自らが苦しめられ、そしてさらに他も苦められる。

視点を変えて、ネットで「なぜ嘘をつくのか」を調べてみた。すると、たくさんの書籍がヒットした。「なぜ中国は平気で嘘をつくのか」「子どもはなぜ嘘をつくのか」「食品業界はなぜ平気で嘘をつくのか」「なぜ、ある種の女は根も葉もない嘘をつくのか」・・・どれも他者についてのこと。なぜ私はウソをつくのかということではなさそうだ。

「なぜウソをつくのか」大きな命題である。
仏教の世界では、修行者は戒律を守り、心身を鍛えと整えていく。そこに、執着・とらわれの心を乗り越えて、やすらぎの世界が生まれる。別の表現をすれば、人間は生きていると「自分の都合という鎧」を知らず知らずに着ている。それは、自分にとって都合いいものは善、都合が悪いものは悪であるという鎧である。その「自分の都合という鎧」を脱いでいくのが修行の一つである。その鎧を脱いだところに、自他共に平和な世界が開かれる。しかし、そう簡単な話ではない。それこそ難行苦行の世界である。

なぜなら、自分が知らない間に自らが正しいという鎧を着ているからである。しかも、何枚も重ね着をして。私には、一度嘘をついてしまったため最後まで嘘を重ねなければならなかったことがある。また、自分の鎧を大きくみられようとして大風呂敷をひろげ、結果的にギャップをうめるために嘘をつくこともある。自らの鎧を大きくみせようとするのだろう。「こうしないといけない」「しょうがない」と自己肯定をしながら、嘘で自分の鎧を重ねているといえるかもしれない。

では、嘘をつかない方法はあるのだろうか。それは、そのままの私をありのまま受け入れてくれる存在とであった時ではないか。そこには鎧を着る必要はなくなる。自分の嘘のちっぽけさを悲しく思うだろう。 子どもが嘘をつくのは、親の気を引くためであるとも聞いたことがある。子どもは正直である。子どもにとっての鎧は親にどう思われているかなのかもしれない。そのままありのままを慈しんでくれる存在とあった時に人間は強くなれる。そこに、嘘をつく必要のない世界がひろがってくる。

最後に、九州大谷短期大学のホームページに同じ質問への先生たちの回答があったので紹介しておきます。。 http://www.kyushuotani.ac.jp/top2/shitsumon/qa2.html
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未来の50歳。

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京都大学前を歩いていたら、新入生向けの住宅パンフレットを渡されたキッスィです。(現在34歳)

2/22〜2/23にかけて京都に行って来ました。
このサイトの告知もあった「こんなお寺あったらいいんじゃないか会議」に参加するためと、京都大学で開催されたシンポジウム「京都仏教文化フォーラム 仏教文化とコンピューティング」を聞くためです。

メリシャカのメンバーなのに恥ずかしながらネットのことはそんなに詳しくないので、Ustreamでネット中継するって言っても、仕組みはもちろんのこと、何て読むのかも分かりませんでした・・・。ユーストリームって読むことを当日初めて知りました(笑)

「こんなお寺あったらいいんじゃないか会議」では理想のお寺を挙げ、さらにその理想のお寺になるための三つの条件をそれぞれ挙げていきました。
理想のお寺としては、メンバーのとしさんのお寺、タツヤさんのお寺をはじめ、京都にある法然院などがあり、大体の共通点としては人が集まるお寺で、イベントだけではなく法話会も定期的に行われ、仏教を根底とする思想をもとに活動をしていらっしゃるようでした。

そして何と言っても住職の人柄が最も大切な要因。そう思いました。



ツイッターでたくさんの質問・ご意見・発言に対する補足ありがとうございました。びっくりするくらい反応あるんですね。中継しながら携帯でツイッター見ていたんですが、どんどんつぶやかれていくのを見て、驚いてばかりでした。
ツイッターでの反響はこちらへ。


いくつか質問を実際に取り上げましたが、気になった質問だけどちゃんと答えてなかったのがあったのでこの場で考えてみました。

【質問】
みなさんおよそ30歳くらいだと思いますが、自分が50歳になったときにどんなことをしていますか?どんなふうに成っていたいと思いますか?

【回答】
飲みに誘われる僧侶になっていたい。
仰々しい宴会ではなく、仕事の帰りに飲んでて「キッスィ暇してないかな?呼んでみる?」ていうかんじの飲み会。 そういう場に呼んでもらえるということは、オフィシャルでの付き合いではなく、日ごろからプライベートなお付き合いをしているということじゃないですか。
相互の信頼関係を築き、相手が何を考えているのか、何を求めているのかを知ることができるし、反対にボクもその求められていることに僧侶の立場として仏教的側面から応えることができると思ったんです。


現代は希薄な関係の中に生きていると言われますよね。
つい最近「パレード」って映画を見たんです。希薄なうわべだけの関係だけでルームシェアしている若者たちの話なんですけど、ホンマみんなココロの底で思っていることを隠して、楽しい毎日を装っているって内容だったんです。あー現代を象徴している映画だなーと・・・。

そんな希薄だと向き合って話をすることもままならない。

居酒屋に呼んで飲もうって言ってもらえるということは、腹を割って話せることで、相手の悩みにも寄り添うことができるのではないかと思ったんです。

やっぱりそれは日ごろからの付き合いがあってこそのことだとは思うんですよね。仏事の時だけの僧侶では、そこで法話してもなかなか届かないけど、そんな積み重ねがあるといざという時にもすぐ対応できるし、お寺の行事にも反映されてくると思うんです。

なので、飲みに誘われる僧侶になっていたいです。


ただ・・・この問題点はボクが酒に弱いということ。それを克服する(ムリ!?)するところから始めようと思います。



中継した4時間のうち、最後の10分ほど録画されているのでもし興味あればこちらへどうぞ。
あと、今回お世話になった彼岸寺の杉本さんが今回のこと書いていらっしゃいますので合わせてそちらもご覧ください。HPはこちら。
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DISCOGRAPHY / 矢野顕子

矢野顕子が好きです。
往年のファンは70〜80年代の曲に胸がときめく人も多いと思いますが、ぼくの場合は、90年代以降から聞き出しました。歌声はもちろんその自由さに、こういう人を天才と呼ぶんじゃないかと、おぼろげながら思ったものです。

数年ほど前に初めて念願のライブへ行った時のインパクトは強烈でした。
特に驚いたのは、曲の合間でのフリートーク。話している間もピアノをポロポロ弾いていて、話しのテンションにぴったり寄り添いながら、メロディが聞こえてきます。笑っている時はピアノも笑い、真剣な話しをする時はピアノも真剣になったり。まるでずっと歌っているような印象でした。

キャプテン翼の「ボールが友達」のように、ピアノが体と一体化しているようなパフォーマンス。臭い言い方をすれば、音楽=生きる、という感じで、自分は仏教がそこまで身に染みて生活しているのかと、自問自答させられました。道を志す者にとっては、どの道であれ、それが人生の糧となり支えとなっていくものでしょう。


エピックレコードジャパン
(1995-10-21)

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心の中の怪物

bussei

sakullaの出産記録・エピソード7

在胎週数の短い赤ちゃんには様々なリスクが付きまとう。
その中でも発症する確立が一番高いのが【未熟児網膜症(ROP)】という目の病気である。

私は未熟児の赤ちゃんを持つまで、生まれつき目が見えないというのは、赤ちゃんに先天的な問題があったからとばかり思っていた。
だが、そのうちの数割はこの未熟児網膜症によるもので、調べるうちにスティービー・ワンダーもこの病気による後天的な失明だということを知った。

早産児はあらゆる機能が未熟な状態であり、特に肺は最後に完成する臓器のため、人工呼吸器の助けがなければ死に至る。
赤ちゃんの肺の成長度によって、供給される酸素の濃度が異なるのだが、この酸素濃度が高いほど、網膜に【新生血管】という異常な血管が増殖しやすくなるという。
これが【未熟児網膜症】という病気。
重症になると網膜剥離を起こし、処置が追いつかなければ失明する。

検査をするには、10分おきに目薬を差し瞳孔を開いた状態にして、赤ちゃんが暴れないように数人がかりで押さえつけながら、眼科医が強い光を当て慎重に診察する。
その間、親はNICUの外の廊下に出され、我が子の悲鳴にも似た泣き声を聞きながら、祈るようにして待つ。

生後3週間目にして最初の診察。
診断は灰色…新生血管が増殖しそうな気配が見られるため、経過を見て処置をすることになるだろうとのことだった。

聞いた瞬間、目の前が暗くなった。
自分たちの子供の目が見えなくなるかもしれないなんて、考えたくもなかった。
たくさんのチューブに繋がれて、ただでさえ苦しい思いをさせているのに…。
さらに辛い思いをさせなきゃいけないのかと、夫婦で泣いて謝り続けた。
そんな私たちの横で、「問題なし」という診断結果を聞いた違う赤ちゃんの両親が、辺りをはばからず大きな声を上げて喜んでいた。
私の中で、ドス黒い何かが蠢く。

「週数も体重も、ほとんど同じ赤ちゃんなのに、なぜうちの子が…」

問題のなかった赤ちゃんに対しては、本当に良かったねと心から思えるのに。
その両親の歓声は、私の感情を逆なでし、荒む心を止められない。
だが、保育器の中にいる我が子の小さな指が、私の人差し指をキュッと握った瞬間、憑き物が落ちたかのように我に返る。

【モンスターペアレント】という言葉がある。
我が子可愛さに、学校に筋違いなクレームをつけてくる親のことをいう。
私は、自分がそんな親になるはずがないと、正直タカをくくっていた。
だが、子供ができて、自分の中に怪物がいることに気付かされる。
我が子を思う気持ちが、他を傷つけていることに気付かず、同時に他を傷つけることをも厭わない、そんなドス黒い何かが自分の中には確かにあった。
クレームをつけるだけがモンスターではないということ。

母親になったことで、私は新たな怪物をお腹の中に宿したような思いがした。
だが、本当はそれ以前から私の中に怪物は普通にいて、それに気付こうとせず、善人面をさらしては、人を平気で傷つけていたのだろう。
そのことを、NICUの小さな赤ちゃんたちが一生懸命教え続けてくれた。

目の検査は2週に1回から1週に1回へと間隔が短くなっていった。
それは段々と新生血管が増殖していて、処置を施すか否かを注意深く観察するため…要は芳しくないということ。
そして、処置をしなくてはならないという診断結果が出たのは、生後52日目にして初めて保育器から出して、我が子を胸に抱くことができる日だった。
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「こんなお寺あったらいいんじゃないか会議」告知!

おぼうさんによる大会議「ダダ漏れ坊主」が22日夜にネットで生中継されます!「ダダ漏れ坊主」とは、彼岸寺の松下さんが企画されたUstreamというインターネットで動画を生中継するサービスを使っての、僧侶によるライブ中継です。
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指差し確認

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皆さんメリシャカ。
暦の上では立春を過ぎましたが、皆さんのところはどうでしょうか?北陸の方はまだまだ寒く、雪の日もまだあるかもしれません。お互いに風邪などには気を付けたいものですね。

さて、皆さんは日々ニュースをチェックされているかと思いますが、ネットなりテレビなり新聞なりを見ておりますと、よくもまあ、と思うほど毎日いろいろな事柄が問題となっております。
特に政治がらみの問題や、有名人のスキャンダルなどは、本当に次から次へと出てきて、何も無い日というのは一日もないのだなあと思ったりも致します。
最近も小沢氏を巡る政治とカネの問題やら、朝青龍の暴行疑惑・引退事件などが、毎日のように取り沙汰されております。そしてこう言う事件や問題ということが報道されますと、いろんな専門家や評論家が、あーでもないこーでもないと指摘や批判を繰り返すのですが、それを見ている私たちも、評論家のようになって、あーでもないこーでもないと人の悪事やアラを指摘したくなってしまいます。「一億総評論家」なんて言葉もありますが、何事に関しても人は自分の意見を言わずにおれないし、他人の揚げ足をとることも大好きなのかもしれません。
かく言う私も、やはりワイドショーやネットの情報などをチェックしていて、アイツは悪い奴だの、あの業界はホント腐ってるだの、あの意見はおかしいなどと、いろんなことを批判したり、挙句の果てには「シャカ斬り」なんてものをたまに書いたりしておる有様です。

しかしそんな私に、父はいつも注意します「人を指さしてモノをいう時は、一本の指は相手に向かっているが、三本の指は自分を指しているんだぞ」と。
人を指さして批判するのは簡単です。けれどもその批判は、自分にも向かっているものでもあるのです。悪いことを非難し、それを正していくということは大切な事であります。けれども、人を批判するときには、自分自身のあり方も問われているということを忘れてはいけない、自分もまた、人の批判にさらされるものを持っているのだということを、父は私に言いたいのでしょう。
他人のことはよく見えますが、自分自身のあり方というのはなかなか見えないもの。意見を言ったり、批判することは決して悪いことではないと思いますが、その時には自分自身の姿も、省みる必要があるのでしょうね。
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〈告知〉メリシャカメンバー出演のイベント

2月23日(火)10時より、京都大学で開催されるシンポジウム「京都仏教文化フォーラム 仏教文化とコンピューティング」に、メリシャカメンバーの雪山俊隆がパネリストとして出演します!
雪山はブログが流行りだした頃、逸早くネットでの伝道を試み、自身のサイトZengyouNetにてポッドキャスト説法を企画。ニフティ主催のPODCASTING AWARD 2006で審査員特別賞を受賞を受けています。その時、真鍋かおりにお会いしたというのは非常に羨ましかったです!
現代の駆け込み寺はインターネットじゃないかと思っているのですが、このイベントは「新しいコンピューターによるコミュニケーション技術の変化が、仏教にどんな影響を与えているか」をテーマに徹底的に語り合われる模様。非常に興味深いです!
彼岸寺やツイッターなどで精力的に活動されている松下弓月さんも出演されます。松下さんによると明日までに申し込むと無料になるらしいので、是非お早めにお申し込みください。

また、2月21日(日)10時から、西本願寺の聞法会館「日曜講演」にて、メリシャカメンバーでバンドの「おまけびと」が出演いたします。「法話meetsMUSIC オリジナル仏教讃歌と法話」というテーマです。おまけびとは、川島雅樹と佐藤知水のロックユニットですが、今回はメリシャカLIVEの向井秀徳師にならいアコースティック&エレクトリック編成で熱唱します!

2月25日(木)18時より大阪北御堂、西本願寺津村別院にて仏教青年会公開講座に、浅野執持と佐藤知水が法話とトークをします。初めて法話を聞くという方にも分かりやすく仏教のみ教えをお話したいと思います。また、「京都×メリシャカナイツ」誕生秘話や「メリシャカLIVE2009」の裏話などお話しできたらと。

皆様どうぞ御参加下さい!
もしかしたらネットでも22日にUstを使って、イベントをするかもしれません。こう御期待!
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本当の幸せとは?

メリシャカナイツ第6夜「世界で一番幸せな国、ブータン」が1月31日に、VoNNにて開催されました。
今回は参加者11名と少人数ではありましたが、皆さんじっくりとお話が聴ける空間で、その後のトークもまったりとでき、これくらいの人数の方がメリシャカナイツには合っているのかなと最終夜(?)に思いました。

最初のおつとめは、口語で分かりやすく書かれた『拝読 浄土真宗のみ教え』を皆で一緒に読みました。
法話は私が担当しました。「皆さんにとって、『幸せ』のイメージってどのようなものですか?」という問いかけから始めました。私にとっては「母親に抱かれているイメージ」というのがあり、今3か月になる娘の話をしました。
私たちも阿弥陀さまという仏に今抱きとられているから、安心して泣いたり笑ったり、精一杯生きることができるのだということをお話ししたかったのですが、なかなか上手くできませんでした(苦笑)

本編は、群馬県西福寺住職、阿部信幾先生にブータンのお話しをお聞きしました。
ブータンは仏教を国教とする国家で、「GNP世界一よりも我々はGNH世界一を目指そうではないか」と国王が宣言されたそうです。
GNHとは「Gross National Happiness」の略で「国民総幸福度(量)」のことです。
国民総生産量では、世界のたとえばアメリカや日本にかなわないけれど、国民の実感する幸福は世界一でありたいと願われたのです。
「国民総幸福度」その基準は3つあるそうです。

1つ目は、衣食住が保障されている
確かに衣食住が保障されていなかったら、健康な生活は営まれないでしょう。そこを国がしっかり保障するのだそうです。また、国民の大半が農業に従事しているため食料も豊富なのです。

2つ目は、自然が豊かである
ブータンは標高差が非常に激しい国で、いわば山の中にあると言って良いそうです。ですから、豊かな森林に恵まれているそうなのです。

3つ目は、伝統文化を大切にする
ブータンの名産は綺麗な織物で、女性の着る「キラ」という民族衣装は一枚を織り上げるのに何カ月もかかる。そして、そのキラを自分の子や孫に大切に受け継いでいくのです。

阿部先生はその3つの根底には「いのち」を大切にする、仏教のみ教えがあるのだとおっしゃいました。
例えばブータンの人は蚊を極力殺さないのだそうです。
先生が日本から蚊取り線香を持っていって、帰りにあげようとすると、「それは仏様にそなえるものですか?」と聞かれたそうです。そして「蚊を殺すものはいらないです」と言われ、貰われなかったということです。

私自身感銘を受けたお話は、ブータンの人はよくお寺に参られるそうですが、そこで何をお願いするか聞いてみると「すべての人々の幸福を願っています」と言われるのだそうです。
私たち日本人はどうでしょうか?自分を振り返ってみても「家族皆、健康でありますように」とか「この志望校に合格させてください」とか「可愛い彼女ができますように」など、「自分」のことばかりしてきたように思うことです。

阿部先生はおっしゃいました。「そう考えましたら、本来日本こそ幸せな国だったのですよ」と。
私たちは衣食住足り、島国だから海のもの山のものは豊富にあった、伝統文化が伝わっていた。そして何より仏教のみ教えがきちんと伝わってあったのです。しかし、その根本の大切さを現代に生きる私たちは見失い、より人間の欲を満足させようと自らが不幸に向かっているのかもしれません。

浄土真宗では私たちは阿弥陀さまによって、根本の問題である「死」の解決をして頂いている。生きている今は、感謝の思いから精一杯生きることが大切であるのです。
そして、具体的には「お陰さま」というのが幸せであると、先生はおっしゃって下さいました。
「今日、ここまで来られたのも、さまざまなお方のお陰があります」
東京から新幹線が動いて、その新幹線には夜を徹して整備をしてくださった方がいて下さる。そう考えると無数のお陰さまの中に今私たちはあるのですね。

「自分のできる限り、自分のなすべき仕事を、精一杯していく。すると『ありがとう』と言って下さる方がおられる。
こんなに幸せなことってないですよね!」


阿部先生のお話を聴かせて頂き、雨も降り寒い日でしたが、ほっこりと温かく幸せな気持ちになりました。

自分たちにできることをさせていただこうと、今回のメリシャカナイツ参加費から100円ずつ、またVoNNやその常連さん、西本願寺伝道部の皆さんから、ハイチ大地震、助け合い募金を8,700円させていただきました。
御協力下さいました方々にはどうも有難うございました。

今回はメリシャカLIVEに関心を持って参加された方もおられました。LIVEの時、MCを担当して下さった木下明水さんもたまたま京都にいらしていて、突如ご参加下さり、とても有難かったです!

このメリシャカナイツは、浅野とチスイとが担当してきました。この3月に京都を離れ、お互い地元のお寺に戻るということで、京都×メリシャカナイツは区切りをつけるということになりました。
しかし、この繋がりは「メリシャカLIVE」に受け継がれると思いますし、メリシャカではこれからも様々な企画をご用意したいと思っています。

京都×メリシャカナイツに御参加、御協力下さいました皆さま、ネットで見て下さいました皆さま、本当にお世話になりました!
すべての皆さまに、有難うございました。心からの心をこめ、感謝いたします!!
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親が子どもに付ける名前は、親の願いが込められている。
もうすぐ2才10ヶ月になる私の娘には「利奈」という名を付けた。

 独身時代にある本の一文を読んだとき、僕が子どもと共に時を過ごすにあたってこの心を大切にしようと思う一文に出会った。

 筆者が電車に乗っていたときのこと。
・・・
 機関手がなにか障害物を発見したらしく、突然けたたましい警笛と、鋭い急ブレーキの金属音で電車は急停止した。
 その後、幼児のかん高い鳴き声が聞こえた。
突然の衝撃に幼児は頭を柱にぶつけたようで、泣き叫んでいる。
だいぶん痛みもおさまり、泣きやんだ子どもの頭をなでながら、母親がやさしく子どもに諭している。

「坊や、頭痛かったでしょうね。お母さんがなでてあげましょうね。でもね。坊やも痛かったでしょうが、この柱も痛かったのよ。お母さんと一緒に、この柱もなでであげようね」
・・・
 
 チョロ助だったぼくの幼少時代を思い出すと、よくいろんなところに頭をぶつけていた。
そんな時、「この柱が悪いんだ!こんなところにあるからだ!」と思いながら、その柱を思いっきりたたき、なぐっていたものだ。
筆者もそれと同様に「坊や痛かったでしょう。この柱が悪いのよ。柱をたたいてやろうね」と、てっきりこんな光景を想像していたことに赤面したようである。

こんなとき、母子と柱を打つことによって、子どもの腹立ちをしずめ、その場をおさめようとするのが、世の常であるからである。

なにか人生の苦しみに出会ったとき、苦しみを与えたと思われる相手を探し出し、その相手を責めることによって己を納得させようとする習慣を、知らず知らずのうちに私たちは、子どもに植えつけてはいないだろうか。

相手の立場を理解せず、己だけを主張する、そんな世の中は地獄そのものである。
浄土の道を共に歩ませていただいている者は、相手も生かし、己も生きる、自利利他の道を歩ませていただくことに気付かされる。

「利奈」の利という字は、想像するという意味がある。
相手の立場を理解する、それには想像する心、イマジネーション豊かに育って欲しいとの願いと自利利他の仏様の願いから「利奈」と名付けた。




 
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「世々生々の父母兄弟なり」

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つくづく、「親子」というものを思うこの頃。
親がなくとも子は育つ。
育てたように子は育つ。
親の心子知らず。
子の心親知らず。
蛙の子は蛙。
トンビが鷹を産む。

矛盾するようだが、事実としてある真理だ。

子にとって、一番身近なモデルは親である。
もちろん持って生まれた性質はあるだろうが、絶対に親のやることを真似して育つもの。
真似されたくないことに限って、覚えられるのはなぜだろう。
こんな子に育てた覚えはない、と言いたくなることもあるだろうが、いやいや。
やはりそこは、そう育てたのは自分なのだと自覚せねばなるまい。

知らず知らず、子は親の背中をじっと見て、感じ取るものなのだろう。
親がわが身中心に振舞っているその間、視線に気づかないだけなのだ。

うちの子がようやっと言葉が出始めたときに、口から出たのは「あぁもう!」だった。
私の口癖である。
これは・・・猛烈に反省した。

また、私が中途半端にしか閉めていなかったトイレのドアをいちいち閉める。
きちんと閉める性格の父親のほうが正しいと、誰に教わるわけでもないが知っているのだろう。
この場合、私が子どもに教えられている。
(ちなみに、このエピソードを嫁ぎ先で親戚一同に暴露され、大変恥ずかしい思いをした)


歎異抄第5章には、
親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念佛まふしたることいまださふらはず。
そのゆへは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり。
と書かれている。

「世々生々の父母兄弟なり」
この時代、この国、人間という生き物に生まれたのも、ものすごい偶然が重なったからであるが、
本当にたまたま、親子という関係になったのである。
そして、多くの場合、子はまた親となり、いのちは次の世代へと引き継がれていく。
血縁でなくても、同じことだ。

子は親の所有物ではなし、親も子の人生の犠牲ではない。
だからこそ、大人は子どもをきちんと育てる責任がある。
いわば、広大ないのちの世界からの預かり物だからだ。
私たちは、それを「ほとけの子」と言ったりする。

その預かり物である子らが、自分の生き様を見つめている。
じっと。
やはり・・・育たなければならないのは親自身だ。


しかしこうなると、すべてが親のせいか、と問われることもありそうだ。
最近は、犯罪を犯した人の親が、テレビに出て謝罪したりする。
もう、いい大人なのに、親がどう育てたかが問題視される。

ベースにあるのは、確かに親の関わり方だろうけど、でもあとは本人の問題。
だって、自分の人生は親のものじゃないし、自分だけのものでもない。
それに自分自身が気がつかない限り、本当の意味での自立はないのかもしれない。


どちらにしても、親子一緒に育つ、育てられる、という環境がとっても大事だよなぁ。
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