アッと驚くインド旅行記

インドに行って驚くこと、それは食生活の違いである。

先日、テレビ番組で世界各地の人が朝食に何を食べるのかという特集があった。
で、インド人はやはり朝食はカレーなのかと、一軒一軒たずねていた。
驚いたことに、ほぼ100%インドのご家庭でカレーを食べていた。
さすが、インドカレーの元祖。

私たちが、インドに観光で行った私たちが気をつけなければならないことがある。
まずは、生水を飲んでいけない。なので、氷も駄目。
乾期には40度を超えるインド、レストランでつい氷の入った冷たいドリンクを飲みたくなるが要注意。
また、露天の揚げ物も要注意。何度も何度も揚げてある。
衛生的にはいい環境とはいえないので、お気をつけください。



そんなインドにて絶対にやってはいけないことがある。
それはインド人に牛肉や豚肉を無理やり薦めてはいけないこと。

インドの中で、
80%はヒンドゥー教徒、牛を食べてはいけません。
15%はイスラム教徒、豚を食べてはいけません。

イスラム教は「コーラン」の中に豚を食べることが禁じられている。

では、なぜヒンドゥー教では牛を食べてはいけないのか?
牛は農耕をする時の働き者。また、牛の糞は乾燥させると燃料となる。
共に生きていく中でとても大切な生き物であり、神格化されたという説がある。
今では町中には至る所に牛が歩いている。


メリシャカ!


面白い説もあります。
これは、インドの添乗員さんから聞いた話です。
その方も、なぜ牛は神聖な動物なのか、いろいろな書物を読んで調べたそうです。

彼の説によると、インドにはたくさんの人口がいる。
その人達が牛を食べたらすぐに牛がいなくなってしまう。
働き者の牛である。食べてはいけない、神聖な動物だからとなったのではないかと。
インドの人口は11億人。妙に納得してしまう。。


そのため、インドにもマクドナルドがある。
マックの定番商品はハンバーガー。
日本ではハンバーガーは牛肉で作られておりますが、上記の通り牛肉を食べないインド。
インドで有名なのはマハラジャバーガー、これはマトン(羊)が使われています。

メリシャカ!

メリシャカ!

美味しいですよ。

インドの友人が日本に来たときの話。
彼はヒンドゥー教徒。
スーパーで買い物をする時、調味料に牛が使われていないかチェックしていました。

食生活には気をつけましょう。。
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希望とは?

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先日、埼玉県越谷市に巨大なショッピングモールが完成したというので、行ってきた。
本当に広い。。モールの中に入ると今どこにいるのかかわからなくなる。
その中には、イベントスペースがあり、人・人・人で溢れていた。

何かと思えば、AVEX主催による子どもたちによるダンスショー。
ステージ上にて、次々と子どもたちが踊りを披露して、審査員が審査するというもの。
子どもたちは真剣。この審査に合格すると、ダンサーとしての道が開かれてくるのでしょう。


メリシャカ!
(子どもたちの集合写真)

真剣な子どもたちをみながら、自分の子どもの頃を思い出した。。
私の夢はケーキ屋だった。毎日おいしいケーキが食べられるという理由。
その後、いろいろと将来の夢は変わった。

先日、東京大学教授のG先生の講義を聞く機会があった。
G先生は希望学の第一人者。
希望学とは希望を社会科学する学問。
その背景にあるのは、格差社会・ワーキングプアと叫ばれるような希望が見えにくい時代があるのだろう。

その講演の中で、
現在は吉本興業役員Y氏のお話を紹介されていた。
おれたちひょうきんぞくなどのお笑い番組の名プロデューサー。

それは、Y氏の新入社員への挨拶の話。

君たちはすぐに壁にぶつかる。
でも、そのカベは絶対に乗り越えられない。
君たちに期待されていることはただ一つ、
そのカベの前でちゃんとウロウロすることだ。

と話されたという。

一般的には、これからたくさんの壁にぶち当たるかも知れないそれを乗り越えていってほしい。
という話になる。
そうではなく、壁の前でウロウロすることが大切だと。

ウロウロしていると、知らぬ間に壁をこえていることがある。
抜け穴をみつけたり、ヒョイッと壁を越えさせてくれる人がいたり・・・
それは自分の力だけでなく、多くのお陰様に支えられているんだということを感じる瞬間かもしれない。
なによりも、現実と向き合うことが大切である。

最後にG先生から「無駄をいとわない人は将来に対して希望をもてる」というお話がありました。
自らの価値基準で無駄である・なし、出来る・出来ないを決めることは危険なのだろう。
私の何十年生きてきた自分の基準を物差しにする世界。そうではなく、壁の前でウロウロする、何か分からないがチャレンジするという大きな物差しをもつ世界。
そこに希望が生まれてくるという。

なによりも、今を大切にすることが大事である。


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マッチング。

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今月は結婚式の出席予定ありません。人の幸せをお祝いできないなんて、それはそれは残念でしようがない。残念で・・・。

で、今月はほとんどお寺にいません。2/3はどこかに行ってます。その大半は・・・北陸。
もちろんプライベートではなくて、オフィシャルです。北陸で布教活動をしてました。
もともと人前で話をするのはかなり苦手な僕ですが、お声をかけてもらったので苦手だからと敬遠するのもな、と思い行って来ました。


そして約2週間ぶりにお寺へ帰宅。その次の日はお寺の用事もないのでオフに!
せっかくなので「フィッシュストーリー」という映画を見てきた。
1974年に発表された曲(フィッシュストーリ―)がその当時は見向きもされなかったが、時代を超えて見直され、最後には地球を救うという壮大なことにつながっていくという内容。

なんでもそうだけど、時代とその時代に生きる人々が求めるものや考え方が一致して初めて、世間に受け入れられる。もしその時代に受け入れられなかったら、人々のココロには留まることなく記憶から消し去られていく。
でも、消えた火を再びつけ、時代を超えて見直されていくものある。映画で言うならまさに「フィッシュストーリ―」という曲だろう。


1度消えた火を起こすのは大変だろうし、消えていなくても消えかかった火を再び起こし世間に知らしめるのは大変なことである。しかしそれが数人にでもココロに染みていくならそれはホンモノなんだろうね。


「ホンモノ」と「ヒト」。その両方の条件・状況・内容の確かさなどがぴったり合ってこそ、そのヒトのココロにスーッと入っていく。条件が重なりあってココロに入ると、それはココロの中に強固なものとなって大きくなり、周りにも波及していく。
ホンモノはいつの時代であっても、ヒトのココロに受け入れられていく力を持っている。

宗教もそうだと思う。今の自分の考え方や状況で変化してしまい、その時には受け入れられなくても、その状況が変わるとスーッと受け入れらる。

お釈迦さまの説法もその人の状況に応じた内容で説かれた。それは「応病与薬」と言われていて、その人の病に応じて薬を出すように、各人に応じた説き方をされている。
それは内容もそうだけど、時間もそうかもしれない。スーッとココロに入っていく頃合いを見計らって、その人に応じた説法をしたのだと思う。

点と点・・・ココロとホンモノ(説法)が合わさっていく世界。その時を宗教は待っているのかもしれない。待つというと、どこか受け身のような表現に聞こえるが、どんな薬を与えるか思索中している能動的なものではないかなとも思ったりする。


北陸で布教させてもらったが、そこに集う方々はまさに点と点が合わさっていた。それを各人で熟成させて、自分の中での指針としていた。
確かに土壌としてそのような雰囲気があったかもしれない。でも、本人がそれを受け入れるココロがあったからこそである。
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願うという痛み

bussei

一年前の今日、私は病院のベッドの上にいた。

体を起こすことも許されず、食事もトイレも寝たままの状態を強いられた。
24時間、点滴に繋がれて、深夜早朝にかかわらず、交換を知らせるアラームに起こされる。
副作用による動悸と手の震えに悩まされ、下がらない体温に思考力が奪われた。
全身の筋肉が落ちてゆき、寝返りすらも息切れする。
シングルベッドが世界の全てで、精神も徐々に徐々に衰弱した。

それでも私は、この状態が一日でも長く続くことを、ひたすら願った。
全ては、お腹の中にいる赤ちゃんの在胎期間を延ばすためだったから。

結婚式を前に、妊娠していることが分かった。
定期健診では問題もなかったのだが、式の後の健診で事態は一変する。
診察室から車椅子に乗せられて、病室へ連れてゆかれ、そのまま入院となった。

いろんな説明があったのだが、恐ろしく簡単にいえば、胎児が重力に耐えられないとのこと。
いつ生まれてもおかしくはなく、だが今出てしまうと、あまりに週数が足りないため、保育器に入れ治療しても生存率は3割にも満たないと言われ、助かっても何らかの後遺症が残る可能性が著しく高いとも言われた。

妊娠したら、臨月で出産できるものだと思っていた。
8ヶ月まで仕事をしているタレントがいて、大きなお腹で買い物をしている妊婦がいて。
だが、ようは問題が生じた妊婦は自宅や病院で安静にしているわけだがら、目に入ることがなかっただけのこと。

入院中、携帯で赤ちゃんの早産によって生じるリスクを調べ倒した。
だから、私はひたすら願い続けた。
「どうか、この子を助けてください」
「お願いだから、臨月まで胎内にいさせてください」
何に願ったのか…、それはよく分からないが、藁にもすがる気持ち以外の何者でもなかった。

仏教には本来、願いを叶えてくれる絶対主というようなものは存在しない。
個人的な願いとは、言い換えれば欲望だ。
欲望は執着を生む。
執着するからこそ、自分の思い通りにしたくなるもの。
だが、思い通りにならないがゆえに、苦しみが生じる。
苦の原因を見つめ、そこから離れることが仏教の根本にはある。
中には、その欲望へのエネルギーを悟りへと振り向ける仏もいるが、少なくとも浄土真宗には、願いを叶えてくれる教えはない。

そんなことは百も承知で、それでも祈り願わずにはいられない自分がいた。

毎日毎日、破水の恐怖に怯えながら自分の願いという欲望のためだけに手を合わせ続け。
毎日毎日、そんな煩悩に塗れた自分と向き合い続ける。

妊娠とは、自分以外の命を左右する責任の伴うことだということと。
私とは、何と都合の良い人間だったかというとこを。
日々痛感し、あまりの痛さに涙が止まらなかった。
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あちらを立てればこちらが立たず

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皆さんメリシャカ。ケンユウです。
毎日暑い日が続きますね。これだけ暑いと夏バテはもちろん、熱中症にも、お互い気をつけたいものです。

さて、最近の話題と言えば、もう解散総選挙で持ちきりでありますが、一つ、重要な法案が可決されました。それは臓器移植に関しての法案で、これまでよりも大きく踏み込んで、脳死=人の死という線引きがこれまでよりもはっきりとなされ、本人の意思がなくとも、家族の決定で臓器提供が可能となり、また、これまでは15歳以下の臓器提供あるいは移植というのは国内では認められておりませんでしたが、臓器の移植に関する法律の改正に伴い、子どもから子どもへの臓器移植も可能というようになったそうです。
おそらく、この臓器の移植に関する法律の改正については、まだまだ賛否のあるところであると思います。これまでは子どもの臓器移植は、海外でしかできず、莫大なお金が必要となったことや、WHOが、外国に渡航しての臓器移植をすることが、臓器売買などの助長にもつながりかねないことなどから、控えるようにという宣言を発表したこともあって、日本でも、より臓器移植を行いやすい環境を整えるべき、というところから今回の法律の見直しが行われたようで、臓器移植を待つ人、特に、移植が必要とされる15歳以下のお子さんを持つ方にとっては、待ちわびた法改正ではないかなと思います。

しかし、やはり脳死=人の死、という線引きが行われてしまうことについてはまだまだ考えていかねばならないことはあるでしょうし、脳死の状態となってしまった方を持つご家族の方からすれば、それはなかなか受け入れがたいことであると思います。
また、脳死=人の死という線引きが行われることによって、その方の治療や蘇生の可能性などよりも、臓器を提供するかどうか、ということが重視され、本人の意思のないままそれが決定されてしまうというのは、いのちの尊厳、ということに関しましても、問題があるように思えます。もし、助かる可能性の高いほうのいのちを優先するべき、という考えに基づいてこの法改正が行われているとするならば、いのちに優劣をつけるという意味で、非常に問題があるかと思います。
それもあって、各宗教団体もこれに反対する意見を出しており、浄土真宗本願寺派もこのような意見書を出しております。

ただやはり、臓器移植を必要としている立場に自分が立てば、法改正は必要であると感じるでしょうし、その置かれた立場によって当然意見も変わってくるでしょうから、この問題はまさにあちらを立てればこちらが立たず、非常に難しい問題であるかと思います。

臓器移植に限らず、あちらを立てればこちらが立たず、ということはいろんな場面で出てくるかと思います。そういう時に、仏教の中道という物の考え方が大変役に立つ、と思うのですが、中道というのは、両極端な選択肢に悩むのではなく、それを超えた道を選ぶ、という考え方ですが、彼岸寺の弓月さんがちょっと前に中道についての例えを書いておりまして、“メタボの人が目玉焼きを食べる時にソースとしょうゆ、どちらが体にいいかという悩みに対して、仏教ではその両論を超えた道、目玉焼きを食べない道を選択する”という例をあげておりました。なるほど、上手い例えだな、と思ったのですが、この場合ではどう考えれば良いのでしょうか。

臓器移植という技術は、病を持つ方にとっては、この上ない救いの道であります。
けれども、仮に臓器移植が成功して、病が改善したとしても、それで万事が解決するわけではありません。そこでいのちが助かっても、いずれ死んでいかねばならないのが人間であります。ですから、臓器移植うんぬんではなく、「いずれ死んでいかねばならない」という私たちのいのちが抱える根本的な問題と向き合い、それを解決する道を求めていく、というのが、仏教の中道的立場に立った考え方、と言えるかと思います。

ただ、そう考えるのはとても難しいもの。一時的ではあるかもしれないが、病の苦しみを和らげ、健康になっていろんなことができるようになりたいと思うのが人として当然の考え方でありましょう。
ですから、私たち自身も、臓器提供・臓器移植ということをしっかりと考えて、臓器提供の意思を、一人一人がきちんと明確にしていかねばならないのかもしれませんね。
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京都×メリシャカナイツ第4夜告知



以前に一度告知したのですが、日が迫ってきたのでもう一度させていただきます。
先日、大学時代からの友人に「チベット仏教について、勉強していかなくていいの?」というような質問を受けました。実は、僕もチベット仏教についてあんまり分かっていません。昔「セブンイヤーズ イン チベット」を映画館で見て爆睡してしまった自分です。しかし予備知識ナシで参加いただいても十分楽しめる内容になっていると思います!
会場のカレーのお店VoNN(ヴォン)と雰囲気の相性はきっと1番です。

京都×メリシャカナイツは残り2回で一応の区切りがつきます。
新聞に取り上げられたり、チラシの効果があったりして、毎回定員以上の参加者があり予想以上の反響がありました。有り難いかぎりです。
また口コミで広がったのも嬉しいです。
僕は西本願寺で嘱託として勤めているのですが、「メリシャカ」という言葉とサイトが業界内にも浸透してきていることを実感します。
毎回ワクワクしながらイベントをさせてもらっていること、凄く感謝してます。
この感謝の気持ちを何かでお返しできたら良いなと考えているところです。

初めての方も、どうぞお気軽に遊びに来てください!語り合いましょう。

■京都×メリシャカナイツ
第4夜(全5回予定)
『チベット仏教×チベット問題』

ゲスト 岡本 法治さん (広島仏教学院講師)
日 時 2009・7・29(水) 19:00スタート 
場 所 VoNN(ヴォン) 京都市下京区西洞院五条下る八百屋町58イチハタビル1階北側
   tel&fax;:075-352-5111 e-mail:[email protected]
   URL:http://www.ist-one.net/vonn/welcome.html
    
スケジュール 18:30 オープン 19:00スタート
       19:00 声明(お経のうた)(10分)
       19:10 法話
       19:20 「チベット仏教×チベット問題」    
       20:30 FREE 
内 容  
'生まれ変わり'を信じるチベット仏教。その基礎知識を共有してチベット問題について語り合いましょう。

参 加 費  1ドリンク制 800円(内100円は、下記ワクチン※へ寄付)
参加人数  20名程 席に限りがございますので、ご参加希望の方は事前にVoNN(ヴォン)までご連絡ください。
主  宰 メリシャカ 

※ 「世界の子どもにワクチンを」日本財団(JCV)は、途上国の子どもたちにワクチンを贈る、認定NPO法人です。
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ブッキョウは鏡

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仏教を学ぶと言うことは、ありのまま、そのままの自分を映す鏡を持つことと言われます。
中国の唐の時代にお生まれの善導大師というお坊様は「キョウキョウはこれをたとふるにキョウのごとし」とおっしゃいました。
読みで書くと言葉遊びみたいで意味が分かりませんが「経・教・鏡」となります。
つまり、ほとけ様、阿弥陀様のみ教えが書かれたお経は鏡のようなものであるということですね。

鏡は見たくなくても、毎日外に出る時は見なくてはなりません。絶対に必要ですよね。
でも、鏡は心の中まで映すことはないです。心の中まで映される鏡があったら皆さん見ますか?
僕はきっと見られないと思います。一瞬たりとも見られないと思うんですよね。発狂するかもしれません。

自分の心をそのままに映し出す鏡をいただく。それはありのままで本当に素の自分に出会うということでしょう。
そこに映し出されるのは、、、
「自分が一番可愛いよー!!」
という叫び声です。
自分中心の見方から離れられない浅ましい姿です。

自分が調子良ければ相手を見下し、自分が悪く相手が良ければ羨んでいく。
自分の利益のためならば、相手を蹴落としても構わないと言う醜きエゴイズム。
それが残念ながら本当の自分でしょう。
仏教を学ぶって、正直全部自分に返ってきます。おおごとです。


突然ですが僕は忘れ物をよくします。よくと言うかしょっちゅうします。
しかし、連れ合いの彼女は諦めたのか、最近あまり責めません。
先日ふと、なぜ怒らないのだろう?と思い聞いてみますと、

いつか連れ合いの彼女が実家に部屋の鍵を忘れた時、僕はこう言ったそうです。
「ほら、誰だって失敗はあるだろう。僕が忘れた時には責めてきたよね。
僕はキミの失敗を責めないだろう」
そう言われて、彼女は「あっそうか」と気付いたそうなのです。

僕、彼女を、めちゃめちゃ責めてるジャン!

びっくりしました。ふつうに責めてた。

仏教は自分と他人を区別しません。これを自他一如と言います。
阿弥陀様の鏡は、僕の姿のそのままを、自己中心的なこころねを映します。
しかし、その鏡は決して見捨てることなく、見限ることなく、光を照らし、願いで包んでくださっているのです。

「どうか、自分のいのちと他人のいのちを区別しない世界に気付いてください」と。

仏教を鏡として、そして共にあゆむ友や家族を鏡として、日々自らを省みていきたいです。

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気付き

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朝日新聞の2008年12月18日付けで掲載された記事をご紹介します。

分子生物学者の福岡伸一さんが、高校生に授業された時の内容です。
授業では、脳死についてのことでした。
福岡さんが「今、私たちは脳死を人の死と定めているけれど、それなら何時人は生まれると考えたらよいでしょうか」と生徒に問いました。
様々な答があり、受精した時、中絶が禁止される22週目、脳が機能する33週目などの答えがありました。
この中で、妊娠22週説について、福岡さんが「妊娠22週目からと答えた人たちは、22週以前は生きていなかったと考えるわけですね」と聞くと、教室は静まりかえったそうです。
「社会が生命とは何かを決めているという現実に生徒は少しずつ気づいていった」と記事で語っていました。

この記事を読み、私たちは答えようのないことに答えを出し決めようとしていたことに気付かされます。決められないことを決めて答えにしているのではないでしょうか。福岡さんのその問いの大きさと深さに気付いて立ち止まった高校生達が、その問いに答えられないことに対する、たじろぎ、躊躇すること、そこに初めて人間への新鮮な出発点があるかもしれません。

今日の日本は100年に一度の不景気と言われます。その中で、派遣切り、非正規雇用の切り捨てにあう方も少なくありません。そこから見えてくるのは。効率よく生産し少しでも金銭を集めるため、それを最善のこととして、人を労働コスト、生産コストとしか見ないと決めている私たちの社会があります。

脳死や死刑。
躊躇し、たじろぐようなことに平然と答えを出しているかのような現代社会に私たちは生きています。
そんな姿を正信偈には、「邪見驕慢悪衆生」(よこしまな考えをもつ)と指摘続けていることに気付かされます。
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「Naturally Gushing Vol.1」 Naturally Gushing

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「お寺座」でもおなじみ、電子音楽家であり、無類の温泉好きで知られるサワサキヨシヒロ!氏による温泉アンビエント・ユニット、Naturally Gushing

「自然湧出」を意味するユニット名が表す通り、
温泉の心地よさを音のモチーフにした、極上のリラックスミュージック。

柔らかにたゆたう電子音に、
テディ熊谷氏のサックス&フルートによって、
ジャズの温もりが加えられ、
温泉にプカりと浸かっているかのような“極楽”気分を味わえます。
例えるならそう、まさに音の源泉かけ流し!
日ごろ疲れやストレスが溜まっている方、
温泉に行きたくても忙しくて行けない方、
この心地よい音に身を委ねれば、身も心もリラックスできるはず。

さらに今年は、温泉と音楽と映像を融合させた作品、「NATURALLY GUSHING DVD vol.1〜3」をドロップ。
現在OMEGA TRIIBEウェブストアから購入可能ですので、気になった方は要チェック!

私も地元石川の温泉で撮影されたDVD、買わなければ!!!

http://www.naturallygushing.com/

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謝る 

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先日、ショッピングモールに出かけた時のこと。
うちの子は、とてもまめまめしく走り回るため、ちょっと目を離すとすぐどこかへ走り去ってしまいます。

何か、行きたい方向を見つけたらしく、歓声を上げながら、脱兎のごとく走り出す!
そこへ、10歳くらいの女の子も走ってきていて…

「あっ!!行かないよ!!」と声をかけた時にはもう遅く。

正面衝突!

当然のごとくうちの子はひっくり返り、びっくりして泣きだした…
私や夫も慌てたのですが、ショッピングモールは、フロアマットなのでそんなに痛くはなかったようでした。

ぶつかった女の子のお母さんも、その瞬間「危ないっ」と声を上げられ、
すぐに駆け寄ってきて、「大丈夫っ??」とうちの子を気遣ってくれた。
そして、、「すみません、うちの子が」とか「謝りなさいっ、あんたのほうが大きいんだから!」とか
けっこうヒステリックとも受け取れるくらいに、大きな声で叱りはじめられました。

ぶつかった女の子にしてみたら、うちの子が横から出てきたわけで、彼女に悪気はない。
とはいえ、目の前で小さい子が泣いていて、母親にひどく叱られ…
その子も泣き出してしまいました。

「なんで謝れないの!!!あんたから謝りなさい!!!」と、
本当に、ちょっとすごい勢いで怒っておられたので、
内心、“いや、そんなに怒らんでも…”と多少びっくりしていたのですが、もちろん、私も謝りました。

「いえいえ、そんな大丈夫です。こちらこそ突然飛び出してすみません」
「もう大丈夫だからね、ごめんね」
というような。
年上なんだから先に謝りなさいってその方はおっしゃっているわけだから、
こちらが先に謝らせるといかんな、と思い、女の子が謝ってくれたあと、うちの子にも頭を下げさせました。


だけど、こういうことは、まぁよくある話。
はっとしたのは、そのあと。

そのお母さんは私に、こう言われたのでした。
「すみませんでした、私がこの子をちゃんと見れていなかったです」


これ…こういうケースではなかなか言えないのではないでしょうか。
少なくとも、私は初めて聞きました
このお母さんは、自分の責任であることを、はっきり示されたのです。
私はあわてて、「いいえ、こちらこそちゃんと見ていなくてすみませんでした」と謝りました。


子どものことで、親が謝ることはよくあります。
代わりに謝ることが親の責任だと思っているから。
もしくは、謝らせることを重視するから。

ひょっとしたら、その中に、親の責任と謝罪を紛れ込ませているだけなのかも。

「うちの子が、すみませんでした。ほら、あなたが悪いんだから謝りなさい」と
「うちの子が、すみませんでした。あなたも悪いけど親も悪いから謝ります」とは、
全然違う。

本当に、自分のことを大事に思ってくれているのはどちらか。
子どもはきっと敏感に察すると思う。


その親子とわかれたあと、なんだか泣けてきて仕方がありませんでした。
あのお母さんの潔い一言に、感動し、反省したのです。
たぶん、親の責任ですよ、と教えてくれたんだとも思いました。
お礼が言いたいくらいでした。

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