願うという痛み
- 2009年07月17日(金) 文:sakulla
- 仏声人語
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一年前の今日、私は病院のベッドの上にいた。
体を起こすことも許されず、食事もトイレも寝たままの状態を強いられた。
24時間、点滴に繋がれて、深夜早朝にかかわらず、交換を知らせるアラームに起こされる。
副作用による動悸と手の震えに悩まされ、下がらない体温に思考力が奪われた。
全身の筋肉が落ちてゆき、寝返りすらも息切れする。
シングルベッドが世界の全てで、精神も徐々に徐々に衰弱した。
それでも私は、この状態が一日でも長く続くことを、ひたすら願った。
全ては、お腹の中にいる赤ちゃんの在胎期間を延ばすためだったから。
結婚式を前に、妊娠していることが分かった。
定期健診では問題もなかったのだが、式の後の健診で事態は一変する。
診察室から車椅子に乗せられて、病室へ連れてゆかれ、そのまま入院となった。
いろんな説明があったのだが、恐ろしく簡単にいえば、胎児が重力に耐えられないとのこと。
いつ生まれてもおかしくはなく、だが今出てしまうと、あまりに週数が足りないため、保育器に入れ治療しても生存率は3割にも満たないと言われ、助かっても何らかの後遺症が残る可能性が著しく高いとも言われた。
妊娠したら、臨月で出産できるものだと思っていた。
8ヶ月まで仕事をしているタレントがいて、大きなお腹で買い物をしている妊婦がいて。
だが、ようは問題が生じた妊婦は自宅や病院で安静にしているわけだがら、目に入ることがなかっただけのこと。
入院中、携帯で赤ちゃんの早産によって生じるリスクを調べ倒した。
だから、私はひたすら願い続けた。
「どうか、この子を助けてください」
「お願いだから、臨月まで胎内にいさせてください」
何に願ったのか…、それはよく分からないが、藁にもすがる気持ち以外の何者でもなかった。
仏教には本来、願いを叶えてくれる絶対主というようなものは存在しない。
個人的な願いとは、言い換えれば欲望だ。
欲望は執着を生む。
執着するからこそ、自分の思い通りにしたくなるもの。
だが、思い通りにならないがゆえに、苦しみが生じる。
苦の原因を見つめ、そこから離れることが仏教の根本にはある。
中には、その欲望へのエネルギーを悟りへと振り向ける仏もいるが、少なくとも浄土真宗には、願いを叶えてくれる教えはない。
そんなことは百も承知で、それでも祈り願わずにはいられない自分がいた。
毎日毎日、破水の恐怖に怯えながら自分の願いという欲望のためだけに手を合わせ続け。
毎日毎日、そんな煩悩に塗れた自分と向き合い続ける。
妊娠とは、自分以外の命を左右する責任の伴うことだということと。
私とは、何と都合の良い人間だったかというとこを。
日々痛感し、あまりの痛さに涙が止まらなかった。
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