2200年家族で宇宙の旅

小学校の頃、授業で家族というものは最も身近な社会集団だと学んだ。
私の場合、家族は旅行のイメージしかない。幼少の頃から親と遊んだ記憶があまりないのか、まともな家族とのコミュニケーションといえば旅行だった。親が忙しいということもあったのだろうが、せいぜい年に一度あるかないかの一泊二日の旅行程度だったと思う。親からすれば義務的なものだったのかもしれないが、その点では家族は小さな社会集団なのだろうと思う。

よく映画の中や海外の著名人などが『ブラザー』とか『ファミリー』とかいう言葉を使うのを目にするが、『世界はみな兄弟』『ミナサンカゾクデズ』的なニュアンスがイマイチ理解できない。なんか嘘くさい。ただ心の狭い私には理解できないだけなのだろうが、思うに、国や歴史や文化や芸術といった違うものの境界線をはずすことではなくて、それそのままで認め合うことこそ求められるべきものなんだろう。だから『音楽に国境はない』という人間ほど嘘くさいものはない。ジャンルがあるからこそ認め合う世界があるのであって、別にそこに境界線を引かない訳ではないハズだ。

話はそれたが、テーマは家族だ(笑)。最近ふと思う。映画『2001年宇宙の旅』でいうならば、猿の集団が”知恵”を持ち始めるような時代からどれだけ人間は進化したのだろうか。2001年はもう過ぎてしまったが、2007年になっても人間は昔のままからそうたいして進化はしてないように思われる。子があれば親もあり偶然にも必然に家族がある。

そこには社会がある。単純だけど私にとっては大きな世界。

2200年頃には宇宙に行けるかなあ?
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感謝の花束

外見が似てると言われたことはない。

けれど。
偏頭痛もちなところも、腰痛や肩こりがひどく、サロンパスが手離せないところも、貧血症のところも。

似なくてもいいじゃないかと思うところは、嫌になるほどソックリで…。
そういう意味で、遺伝子を疑うことはない。

私はその不調を、つい口にしてしまうけど。
私など、比べ物にならないくらいの不調を抱えながら。
本当の辛さを隠しては、大したことはないからと、小さな不調だけを口にしてカモフラージュしてやり過ごす。

だから、「大丈夫よ」と何でもないような顔に安心して。
その奥にある苦しみに、思いを傾けることができない自分の至らなさを、後になって悔やんでしまう。

痛みを抱え、絶望を抱え、心身のバランスが崩れかけた危うさを抱えながら、生きている人がいる。

普通に暮らしているように見える人が、全員健康とは限らないということを。
いつもいつも、その姿が教えてくれている。

思い通りにならない身体で、思い通りにならないなりに生きることを受け入れたその人の目に映る世界が、優しいものであったかは分からない。
それでも、その視界には失った健康の他にも大切なものが映っていて、その中に私も含まれていたらいいなと、思ったりもした。

たぶん私は、どんな娘でありたいかと問われたら。
その人に「生んでよかった」と、思ってもらえる娘でありたいと答えるだろう。

そんな、言葉に尽くし難い感謝の思いを、年に一度、花に託してしまえたらいいのだけれど。
カーネーションの嫌いなその人には、届きそうにもないようだから。
どうせ届かないなら、ここで言ってしまっても、いいだろう。

「お母さん、生きててくれて、ありがとう」


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家族喧嘩

「家族」という言葉を聞くと、何かホッコリしますね。私が家族といって思い出すことはテレビドラマです。「うちの子に限って」「一つ屋根の下」など家族を舞台にしたドラマを思い出すと当時のシーンが蘇り、懐かしさがこみ上げてきます。

しかし、ホッコリするだけが家族ではありません。というのも先日、私事ですが、我が家で兄弟げんかが勃発しました。「この野郎」「アホ」という言葉が乱れ飛びます。お酒が入っていたため、さらに加速して誰も止められません。我が家は、祖母・父・母・姉・弟と私の6人住まい。姉33歳、弟28歳、そして真ん中に私30歳です。世間で言えば大人です。そんな30歳代の兄弟げんかを終えて思ったこと、それは「けんかもいいなぁ」ということです。

けんかが勃発するには、何かしらの原因があります。だいたいは自分の考えと違う「なんでやねん」という憤りから始まります。「あなたはそう考えるんだ」という相手への思いやりからけんかはあまり生まれません。けんかの原因にはその人の主義・主張が見え隠れします(いい悪いは別として)。

教育カウンセラーの富田富士也氏は、1960年代以降生まれの人は偏差値世代といいます。物事を合理的に判断する、自分にとって損か得かという損得勘定で生きる世代です。必然的に損になることにはなるべく避けて通ることになります。実際私も偏差値世代まっただ中、けんかほど無意味なことはないんです。なぜなら、けんかをして得をすることはないからです。

でも、今回けんかっていいなぁと思いました。人と人がぶつかり合うと、そこに見えない絆が生まれます。人間という字は、人と人の間と書くように、たくさんの人と出会うのが人生です。その一つ一つの出会いや別れ、時にはぶつかりあることもありますが、それが人間を成長させてくれるんだなぁと実感しました。でも、けんかはしない方がいいですね。


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ビルマの僧侶・市民へ連帯する集会とデモ

レポが遅くなりました。

先日10月01日歩いてきました。

正直に言いますと

何も知らず広島に行き、真宗学寮の先生のお陰で参加するご縁をいただきました。

にもかかわらず・・・中外日報や地元新聞にデカデカ載ってしまったこと、すみません。

中途半端なやつが写って、申し訳ないです。(右側)

一言お詫びを申させていただきます。




ですが、この集会に参加させていただいたこと、本当に良かったです。とても考えさせられました。

ミャンマーでの出来事は、今やテレビや新聞等で見聞きされている方が多いかと思います。
でも、この事はここ最近の出来事ではないのです。
(ミャンマーという国の名前は国民は認めて無いそうです。理由は軍事政権がかってにつけた名だからです。政治難民の方はビルマと母国を呼びます。)

講師としてむかえられた 在日ビルマ政治難民のココラットさんのお話は 何故こういうことになったのか自身の経験を通して詳細にビルマの歴史を語られました。



そのココラットさんが途中、長井さんの話をする中で目をカッと見開いて悲しげに私たちに向って、
「それでは遅いんだ」
と言われた一言が今も頭を過ぎります。

私は長井さんの死を通して、国内の大々的なニュースを通して知った一人であります。
自国の犠牲者が出てはじめて目を向けた。

それまで 私は・・・と思うと
「無関心」という言葉が胸を刺します。

それじゃぁ、私は何が出来るんよと思っても一個人じゃ何も・・・

こう考える間にもまた一人、また一人と犠牲者は増えています。

是非、皆さんにもココラットさんの話を聞いて欲しいと思いました。
京都は10月19日です。その他各地でも執り行われているようです。

詳しくはここを見て下さい↓
http://www.burmainfo.org/events/200710.html
http://www.burmainfo.org/index.html



※失礼な点、ご容赦下さい。
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「谷川俊太郎 質問箱」



ども、ケンユウです。
今回は「谷川俊太郎 質問箱」という本のご紹介。

この本、タイトルの通り、谷川俊太郎さんが、いろんな人の質問に答えていく、と言う形式で綴られているのですが、実にステキな内容です。

質問を読んでいると、思わずくすっと笑ってしまうようなカワイイ質問や、何でこの人、こんな事考えたんだろう?と首を傾げてしまう疑問もあれば、真面目に悩んでおられるんだろうなあ、と感じさせる質問まで様々です。

そんな「多種多様」な疑問・質問に、谷川さんが真摯に、時にユーモラスに答えられてて、これもまた、くすっと笑えたり、こういう考え方もあるかとハッとしたり、キュンとさせられたり、ニヤリとしてしまったり、バッサリと斬ってて厳しいなぁ、と感じたり、読んでてなんだか顔と心が忙しくなります(笑)

特に一つ唸ってしまったのが、科学に関する疑問に、科学的な答えをせずに、詩的に答えておられるところ。なぜって、科学的な答え方をしても、また次の疑問が出てくるし、究極的な答えは科学には出せないから、ですって。なるほど。

読み終えた後に、心がなんだかスッキリ、そしてほっこり温かくなるのは、谷川さんが、ただ疑問の「答え」をこたえているんじゃなくて、その人の気持ちに「応え」ているからなのかもしれません。

皆様も是非ご一読を・・・

と言いたいのですが、
この本、一般の書店ではなかなか取り扱っていないかもしれません。
私も何件か書店回っても見つからず、結局Amazonにて注文・・・
ということで、もし最寄の書店に無い場合はAmazonをご利用くださいませ。
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importance of important

もう何年前になるか、まだ私が大学にいる頃、とある哲学の講義を聴講してました。
その頃は別に、哲学や宗教に興味があったわけじゃないのですが、単位が取りやすいとの評判の授業だったので取ったのですが、ハイデガー哲学の講義で、わかりやすく、なかなか面白いもので、哲学や宗教に興味を持つ一つのきっかけになった授業でした。

で、その講義の中で「隠しの技法」という言葉が出てきたのですが、まあ内容としては、人間は、本当に大切な物は、無くしてから気づく、無くさないと気づかない、という言葉だったと記憶してます。
例えば、健康な時は健康の重要さ、ありがたさには気づず、健康を失った状態、つまり病気になった時に気づくし、命の真の大切さは、その命が失われかねない状態になって初めて気づく、ということです。
しかし、病になった後や、命の危機に陥って、健康や命の大切さに気づいても遅いから、大事な物の重要性にはなかなか気づけないことを前もって自覚しておいて、大事な物の重要性を見落とすな、と、そう言う内容だったかと思います。
これを聞いたとき、なるほど、と思いまして、今でも覚えているのですが、「家族」というものも、それに当てはまるんじゃないかな、と思います。

今私は、実家で、父と母、祖父と祖母と一緒に暮らしていて、弟二人は実家から離れて暮らしています。
で、親や祖父母と一緒に暮らしてると、四六時中一緒にいるもんだから、いることが当たり前になるし、何かにつけてあーだこーだ言われたりして、家族は大切であるはずなんですが、その大切さを、つい忘れちゃうんですよね。
当たり前に思いすぎて、家族と言う関係に甘えて、優しくできず、思いやりの心を持って接する事ができなくなっちゃう。
気に入らない事があると、ついつい辛く当たってしまったり。
るるさんが書いてることと重なるんですけど、家族だからと言って、何でも許されるわけじゃないんですよね。
一番身近にいる人だからこそ、当たり前などではない、かけがえの無い存在として、大切に、思いやりを持って接していきたいものです。
「親孝行したい時に親は無し」という言葉があるように、家族を無くしてからその大切さに気づいても遅いですから、ね。

とは言え、家族に優しくしたり、感謝の気持ちを伝えたりするのって、気恥ずかしくて、なかなかできないんですよね・・・
ですので、ちょっとこの場をお借りしまして・・・


父母へ。
グータラで、いつもワガママばかり言ってる至らぬ息子で、スイマセン。
ホントはもういいかげん、しっかりしないといけないんですが、心配ばかりかけてしまって。
これからはもう少し、お寺のことも考えていきたいので、いろいろとご指導、よろしくお願いします。
それと、いつもありがとう。


・・・
やっぱりちょっと恥ずかしいなあ(笑)
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