住職への道。◆敲簀ぜ阿鮗ける】

住職になって1年が経った。まだ実感はない。
書類上は住職になり、「住職」と呼ばれるようになったことには慣れたけど、行動というか責任というか、ココロの部分では追いついてない気がする。

前回(と言っても1年前)、法務局に宗教法人の代表役員変更をしたということを書いた。
今月になって住職補任式(ほにんしき)とやらを本山である西本願寺にて受けてきた。
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胃にやさしい仏像

先日から胃痛が治まらない。
薬を飲んでも一時的にしか効かないため、仕方なく内視鏡検査を受けてみた。

苦しいとの感想をよく耳にしていたため、少しビビリながら診察台に横になったのだが、眠くなる注射を打たれ、即爆睡。
気がつくとベッドの上で、点滴を受けた状態になっていた。
どうやら最近は、眠っているうちに検査をしてしまう方法が主流とのことだった。

結果は、特に問題視するべき所見はなし。
ただ、4・50代に見られる胃の収縮があるとの指摘を受ける。
胃が疲れているようだから、ご飯はよく噛んで食べましょうとのアドバイスをいただいた。

…三十路の私には、胃の状態もさることながら、いつも子供に言っている言葉を言われてしまうという、ちょっとショックな診察結果となった。
 

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手を離す

先日、東海北陸地域の青年布教使研修会という研修会に参加してまいりました。その名の通り、若手の布教使(ご法話をつとめるお坊さん)の学びを深める場で、テーマは「聞く立場から考える布教の課題」というものでした。法話をする場面というのは、どうしてもお坊さんが聞き手に向かって一方的にお話をすることが多く、なかなか法話を聞いておられる人の想いや感じておられることを聞く機会がありません。そこで、聞く立場の方からのご意見をいただいて、自分たちの話しぶりや、自分自身の在り方が、自己中心的なものになっていないかもう一度再確認してみよう、そんな内容の研修会でした。

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私の知らないわたし

 昨日、昨年の10月に行った「私をしらない私をしる時間〜お寺で学ぶ気づきのチカラ〜」という12日のワークショップ合宿の振り返りを行いました。合宿では、参加者15名の学生さんと京都のお寺で、それぞれの人生を振り返ったり、自分の死から今の生き方を考えたり、「伝える」チカラを学んだり、ふだん考えないくらい長い時間を使って自己紹介を本気で考え、発表しあったりしました。

 私は10月の合宿では、ファシリテータという、司会者の様な役割を果たさせてもらっていましたが、今回の振り返りでは、参加者のみんなに混じって振り返りのワークに一緒に参加させてもらいました。その時に感じたことは、「私はずっと、自分の役割からどこか自分を例外的に扱っていた」ということでした。それは今回、参加者のみんなと頭を悩ませながらワークに取り組んで初めて気づいたことでした。

 また、その時に同時にハッとしたことがあります。それは、自分の僧侶としての生き方でした。僧侶としての役割を担わせていただいている時、どこか人間の生死から、自分自身を例外として扱ってしまいがちな自分に気づかせてもらいました。生まれ来ること、死にゆくこと、このことから誰も逃れることはないと学ばせていただき、お話しさせていただいている私こそが、その事実を忘れてしまっているという何とも恥ずかしいことでした。

 私自身、こんな自分を「僧侶」と名乗っていいのだろうか、と悩む時は沢山あります。しかし、沢山のであいの中で、「僧侶として育てていただいていること」だけは間違いのないことだと分かります。周りのみなさんから、「私の知らないわたし」に気づかせてもらうこと、そして仏さまから「私の知らないわたし」を照らしていただけることは、なんとも有り難いことだと気づかせていただいた、振り返りの時間でした。

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ホットケーキ

親鸞聖人が日本のお釈迦様と敬われた聖徳太子は、十七条憲法の第一条で「和(やわ)らかなるをもって貴しとなす」とおっしゃいました。国づくりの中心に「和」をあげておられるのです。「うちとけて相互になごみあうことこそ尊いのですよ。互いに背き合い逆らうことがありませんように」とおっしゃいます。

この「和」の心は誰しも大切だと頭では分かっているのではないでしょうか。しかし、僕はたとえ家族とであっても意見が違うと、「自分の意見こそ正しい」とつっぱり、逆らってしまい上手くいかない時があります。

聖徳太子は第一条で言われる「和」の背景には、自分には自分中心で、至らない所があるという自覚があると言われます。聖徳太子は、十七条憲法の第十条に「われかならず聖にあらず、かれからなず愚かにあらず、ともにこれ凡夫(ただびと)ならくのみ」とおっしゃいます。自分がいつも正しく、相手がいつも間違っているわけではない。相手も自分も同じように、間違えることも、失敗することもある。自分が正しい、自分こそ決して間違っていないと相手を責めるところに、たとえ互いに「和」を求めていたとしても争いが起きるのではないでしょうか?

今年最初に早速、父とぶつかりました。

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