呑み過ぎ注意報!!

この度は「痛い」がテーマです。心が「痛い」というわけで「呑み過ぎ注意報」と題しました。
私はお酒が好きなのですが、お酒がとても怖かったりします。

一人で呑むお酒は、非常に気楽で楽しいものがあります。仲間と呑むと益々楽しく、酒量がすすみます。

ここが怖い所・・・一人ではペースを保っているけど、仲間と呑む酒は格別に美味!

そう、「呑んでも呑まれるな」の言葉が過ぎります。

私自身、気をつけているつもりなのでしょうが・・・タガが外れることも無きにしもあらずで・・・雰囲気に呑まれ、酒に呑まれ・・・記憶喪失!?

呑みすぎた翌日は最悪です。

先、頭が痛い。

「と・とりあえず、ウコンの力・・・」

落ち着いて前日の事を考える。冷静に楽しい雰囲気を思い出せるならいいけど そうでは無い場合は、キャー!
記憶があれば収拾がつく場合もある。記憶が無いと・・・

「俺、何かやらかしてはいないだろうか?」

心配で心配で、心が痛く苦しくなる・・・やらかしていたら益々、苦しくなる。。。

この悪循環が怖い。


でも、お酒はとても大好きなんです。
(依存はしてませんからね)

あの人は、お酒が強いとか 弱いとか よく言いますよね。
自分自身は上記の経緯(実体験)がありますので強いとは決していえません。

私は、友人O君(仮)とここ最近よく呑みます。O君はビールを中ジョッキ2杯で満足し、私と楽しい一時を過ごしてくれます。

このことから、お酒が強いって何だろうと考えさせられるのです。
(アルコールを一瞬で水に分解する方を除きます)


お酒に罪はありませんからね。呑む本人次第であります。
「呑んでも呑まれる」ということは、味を楽しむどころか暴飲としてお酒を蔑ろにしていることでしょう。その場合、いくら酒量が呑めたとしても強いとは言えませんよ。
負けてるじゃないですか。。。

日本酒に関していえば、丹精こめて作ってくれたお米にさらに愛情と手間隙かけて作ってくだっさたのであります。嗜まないと・・・

他の迷惑にならないよう楽しく味わって頂きたいものであります。飲酒運転は以ての外ですよ!
心が痛む出来事になる可能性は高いのだから、その事を心得ておかねばなりません。

呑み過ぎ注意報・・・先は私から。。。
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メリシャカフォトコン結果発表

メリシャカ1周年記念企画「メリシャカフォトコン」の結果発表です。

テーマは“縁”。

6月1日締め切りで応募し、出展作品は20数点。評価方法は、1周年記念パーティーの参加者(40数名)による投票制です。第1回を制したのは、なんと携帯電話カメラの撮影写真でした。mp3プレイヤーやポストカードなど、受賞者にはそれぞれ商品が贈られます。

どうぞ、それぞれの“縁”を感じとってください。







★優秀賞★









photo
by ぜんちさん







 


【受賞者コメント】


この草履はきっと何百足、何千足も作られたはず。そんなたくさんの草履の中から、この二足が選ばれペアになった。普段何気なく履いている草履にもこんなに素敵なご縁が…。


 








★次賞★









photo
by 法縁さん








 


【受賞者コメント】


阿弥陀様のお招きでお参りできました。孫が合掌している姿いいかなと思って。



訂正:最初に掲載した作品は誤りでした。こちらの作品が受賞作品となります。

 























受賞作品



photo
by チスイさん


【受賞者コメント】


神戸中華街の南京町広場にて。

「Don't think feel!(つべこべ考えるな。感じろ!)

全てのものは関わり合い、依り合ってそこにあるのじゃ!

お前が哀しみにある時、彼女は喜びにある。

しかしそこには何かしらのツナガリがある」

シブイおやじはそう言った。



photo by kenyouさん


【受賞者コメント】


友達の結婚披露宴にて。二人が幸せそうに手を繋いでいるところに、「縁」の集結を感じました。



photo by kumoさん


 


 


【受賞者コメント】


混浴だって聞いて来たのに・・・・これもご縁ですか?






<追記>

*応募作品は今後サイトやポストカードに使わせてもらう場合があります。



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メリシャカ一周年記念パーティ 「宴(えん)」





6月14日メリシャカ一周年記念パーティ 「宴(えん)」が開催されました!!

場所は京都文化博物館の横のcollabo

テラエンタメサイト『メリシャカ』始動一周年を記念して、いつも見てくださっている方々に感謝の意味を込めてのパーティでした。メリシャカメンバーが協力して企画運営したイベントとしては初めてのものでした。

最初はどれくらいお客さんが来てもらえるか正直不安だったのですが、蓋を開ければ45人と会場がいっぱいになり大盛況でした。
今回は特にお寺の関係者(?!)が多かったため、親戚、兄弟(笑)また知り合いが来ていたり、知らずに話していたらどこかで繋がっていたり、嬉しい出会いがたくさんありました。次に繋がる交流の場を提供できたと思うのです。今回のパーティのテーマ「縁」そのものを感じましたよ。
参加して下さった方の声に「なんとなく今までお寺で生まれたという環境的に孤独を感じることがあったけれど、同じ境遇でがんばっている人と話ができてよかった」というのがあり、イベントの成功を強く思いました。


内容も「映像で視るメリシャカ」「おまけびとライブ」「縁がテーマのフォトコンテスト」と盛りだくさんでした。
個人的におまけびとのライブの場を提供していただきありがたかったです。なんだか皆さんに盛り上げてもらって「ここが僕らのホームだ」みたいな幸せを感じながら歌っていました。


宴(うたげ)の終わりはいつも切ないものですね。祭りでドーンと打ち上げた花火の後はなんだかぽっかり空気が抜けたみたいになっちゃいますね。

日本人が好きなそれを「無常観」と呼ぶのでしょう。「つわものどもが夢のあと」祭りで歌い飲み、踊っても総てはいずれ終わってしまう。またそれぞれの日常に、そして一人に戻ってゆく。

しかし、仏教では「無常」はそれだけの意味で収まりません。
宴(うたげ)が「無常」であると知るということは、その「無常」である宴の瞬間が有難いことだということです。一夜明ければもとに戻るからこそ、無常であるこの一瞬一瞬を喜ぶことができるのですね。

パーティは今後も計画しています。今回ご参加頂いた方本当に有難うございました。今回こられなかった方も是非次回遊びに来てください。
また次回も宴のひと時を思いっきり楽しみましょう。


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水ヨウカンが降ってきた!

リレーコラム、今回のテーマは「イタイ話」です。
失敗話や、本当に痛かった話などなどです。

これは忘れもしない僕が小学5年生の時に起こった災難「リアルに痛かった話」です。

僕の住む田舎では家を新築する時に、家の棟が組まれたら大工さんとそこの家の人が屋根に上り、そこから集まった近所の人にお餅を投げてお祝いするという習慣があります。
それを「棟上げ(餅投げ)」と言います。
たいていは屋根の上で神主さんが祝詞を読み上げてから行うのですが、お寺の家が建った時には、お坊さんが上がって、お経を読んでいました。

ある日、小学5年の僕は放課後、友達と一緒に近所の棟上げに向かい、お餅が投げられるのを今か今かと待っていました。そこの今回建つ家は大きく立派で、投げられるお餅の数も多かったのです。
そして、お餅だけじゃなくて、お菓子や、後でお酒と変える木の札、そしてなんとお金まで投げられるという噂でした。僕はどきどきして、今日はいっぱい取ってやると意気込んでいました。

祝詞が終わりいよいよ餅投げが始まりました。持って行ったビニール袋にお餅を拾って入れていると、僕の頭上からなんと「缶入り水ヨウカン」が降ってきたではありませんか!
なんと、頭の上にまるで隕石のごとく缶が降り注ぎ、頭から血が噴出し始めたのです!

その後あまり覚えていませんが、家までなんとか帰ったのは良いものの、血が止まらなくて救急車で病院まで運ばれてしまいました。傷口は浅くて、少し縫うだけで直ったのですが、棟上げをした家の人は大変申し訳ないことをしたとお詫びに何度も来て下さいました。

しかし、その時僕が一番驚いたこと、それは血まみれになりながらも、自分の頭に降ってきた水ヨウカンの缶を拾って袋に入れて持ち帰っていたという驚愕の事実!です。ぼっこぼこの水ヨウカンの缶を、なぜ拾おうとする、自分よ。
「そんなに食べたかったのかい?」子どもの頃の自分にそう問いかけたいです。

今回あきらかになったことは、僕の欲の心は根深いな、「人よりいっぱい拾ってやる」という思いは際限がないな、ということ。
もう一つ言えるのは、子どもの頃から降ってくる水ヨウカンを除けられないような、ぼーっとしていたやつだったのだなというダブルショック!!
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さらに美味く食べる為に

自他共に美味しいものを食べることが大好きなゲレロです。でもスイーツという言葉が大嫌いです。甘い物とか甘味とかお菓子でいいじゃないか。
あとkensho君の話に絡むとメロンと甘瓜が食べられません…



さて、私はうんちくをたれるほどのグルメではありませんが、何処のあの店が美味しいと調べたり、聞きつけたりして出かけたりと、美味しいものを食べる事が趣味というかライフワークと化しています。フラッと入ったお店が美味しいととても嬉しくなりますね。

しかしです!たとえ美味しい料理であっても、1人の場合は別ですが一緒に食べる相手次第で美味しくも不味くもなります。
その辺りの欲求がとても強く、料理があんまり美味しくなくても一緒に食べた人々と楽しく頂ければ、美味しかったり…またその逆もしかり。美味しく頂くにはその場の雰囲気でどうにでもなると感じています。

ここで雰囲気を壊す事とは?というの語るには、一般論私論混合で毒も含まれており、デリケートな問題なので控えますが(長くなりますし)、とにかくスマートな食べ方とよい会話を心がけて、素敵な食事の時間を過ごすことで美味しい食べ物がさらに美味しくなりますよ!。
食べる前には感謝して「いただきます!」を忘れずに。

ちなみに…楽しくご飯を食べられる人が理想の人。魅力ある人はご飯の食べ方も素敵です。
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メディア情報 緊急告知!

現在発売されている、10代の女性向け雑誌「ジッパー」にお寺特集ページがあって、メリシャカ!が紹介されています。お寺座ライブ記事には、おまけびとの写真が!


もう明日に迫っているので緊急告知!
メリシャカ!が明日NHKで紹介されます。

6月10日(日)夜23時00分〜全国放送のNHKの情報番組NHKつながるテレビ@ヒューマン
最近のお寺エンターテインメント事情ということで、メリシャカのコンテンツ「シャカミュージック」が取り上げられるみたいです。児玉龍典さん、おまけびとも登場ということです。お楽しみに!



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好き嫌い


Kenshoです。
皆さんは食べ物で好き嫌いはありますか?

幼少時代の僕はほんとに好き嫌いが激しい子どもでした。(今でもねぎは大の苦手ですが・・・)
そんな子どもだったので、母が栄養を考えて出してくれる食事は、ほとんどといっていいほど食べることが出来ませんでした。
家族ですし屋に行っても、注文するのは卵、いか、卵、いか・・・そのくらいしか食するものがありませんでした。おかげで、栄養が偏りすぎたせいか色んな病気にかかっていたことを思い出します。

幼稚園の時、給食が嫌で嫌でたまらなく、嫌なら家に帰ろうと判断し幼稚園を抜け出して、本当に家に帰ってきた記憶があります。
毎回帰るわけにもいかず、仕方なく給食を食べていましたが、嫌いな食材が出てくると机の下から遠くへ投げていました。
それほど好き嫌いが激しい子どもでした。

そんな時代から何十年経過した今では、さすがに(ねぎ以外は)出された食事は美味しく頂いています。


考えてみますと私たち人間というのは、自分勝手な生き物です。
日頃おいしく頂く牛肉も、人間においしく食べられるために牛として生まれてきたわけではありません。
私たちは、生き物を品物のように扱う世の中に対して、別の角度からいのちをとらえ直すことが必要ではないでしょうか。

仏教では、五戒といって人間がしてはならない五つの戒めがあり、その一つに不殺生戒があります。自分自身が生きることを願うならば、同時に他のいのちもまた保証しなければなりません。
しかし現実には、他のいのちを食べずには生きることができない私たちがいます。

いただきます
とは、有難い、申し訳ないといろんな気持ちが込められている言葉です。
他のいのちを奪わないと生きられない私たちだけれども、感謝の気持ちを持って頂くことにより、いのちを粗末にしてはいけないという方向に広げていくことができるのではないでしょうか。

そんなことを思うと、簡単に好き嫌いなんて言えなくなります。
ねぎも有難く調理法を変えて頂こうと思います。

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おいしいとウマいは違う

特撮ヒーロー助教授のshinkiです。
皆さんは食事をする時に『おいしい』と『ウマい』を使い分けてますか?
私は、厳しく使い分けてます。

国語辞典によると
・おいしい
 →(1)物の味が良い。(2)都合が良い。利益になる。好ましい。
・うまい
 →(1)飲食物の味が良い。(2)技術・技量などがすぐれている。etc…

とあります。
つまり、どちらも食べ物の味に対して良い表現であることには変わりはないのですが、
『うまい』の方は明らかに『飲食物』とあります。
これを個人的に噛み砕くと…
・おいしい
 →雰囲気も含めた表現。
・うまい
 →舌のみで味わう表現。

と解釈できます。つまり山に行って『空気がおいしいよね〜』といいますが、『空気がうまいよね〜』とはあまり言わないハズです。

実は、私は食事の味にはめっぽうウルサいのですが、その理由はやはり『いただきます』のこころだと思います。『いただきます』の意味は、『いのちをいただきます』…つまり私の糧となることに感謝の意をこめる言葉です。
しかしこれは、食べる側の言葉であって、作り手(料理を作る人)ももちろん”いのち”に対して感謝しながら作る必要があって当然だという思いがあります。言わば、人の”いのち”の一部となるものを作る訳ですから、命がけで作れよ!的なものがあって当然だと思う。

命がけで料理作れば、マズい料理なんて出来る訳がない…
だって料理って人間に与えられた能力の1つですから。でも家庭で毎日料理を作る人にとってみれば、出来が良い時もあれば、そうでない時もある。『作る側に身になってみろ!』って言われそうなので一応断りを入れますが、決してそのようにマズいものを作ること自体を問題にしてるのではなくて、なんとなく作り手の気持ちって”いのち”に対してないがしろにされてきたんじゃないかって思うんですよね。

だからたまには、料理人は作る前に『いただきます』を。

合掌
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永平寺での体験。


先日、メンバーのタツヤさんと財団法人仏教伝道協会が主催する「実践布教研究会」という研修会に参加してきた。
それは、日本の仏教はいろいろな宗派があるけど、仏教を広く普及させるために宗派を超えて交流・意見交換し、さらに会場となった宗派についての「こころ」を学ぼうというものである。

毎年会場が変わるけど。今年は永平寺での開催。

キッスィやタツヤさんは浄土真宗の僧侶なんだけど、行ってみたらまず驚かされた。浄土真宗以外はほとんどが坊主orスキンヘッドなのだ。
メンバーの写真見たら分かるけど、タツヤさんはいわゆるスキンヘッド。そしてキッスィは短髪ながら髪の毛はしっかりある。

なんか浮いてる!?(髪の毛以外の理由で浮いてるという苦情は受け付けませんので。あしからず。)

この時ばかりはタツヤさんがうらやましく、そして目立たなくなっていた。

永平寺で印象だったのは坐禅と食事。

まず坐禅。
坐禅は1回約40分。薄暗い禅堂で頭の中を「無」にして精神統一しないといけない。
でも・・・。
そんなのはなかなか無理な話。頭の中を最近聞いてる音楽がグルグルまわっていて、でも途中でその曲の続きが思い出せなくて、もどかしい時間を過ごしていた。ホンマはもどかしいという思いさえいけないんだけど。
そういう関係ないことばかり考えていた開始10分。左の肩にポンポンと呼びとめられるような感覚。そしてすぐピシャッと警策(きょうさく)の音が辺り一面に響く。
さっそく叩かれてしまった・・・。


次は食事。
食事作法は他の宗派よりも厳しいらしい。
応量器という器を使って、器を置く→食べるものを入れてもらう→(食べる)→食後の器をしまうという一連の動作を順番に行っていく。
食事するだけで一時間半もかかり、食べるというよりは生きるための一つの修行という印象だ。
胡坐で食事をするけど、正座でないのに足がしびれてしまった・・・。


普段自分の宗派の状況しか見ていないので、いろんな角度から見れて見つめることができてよかったと思う。
なおさら自分の宗派について興味を持った研修だった。

来年は高野山での開催らしい。興味のある寺院関係者は来年いかがですか?
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