おてんとう様
- 2009年12月28日(月) 文:tatsuya
- 仏声人語
- comments(0)

年の瀬、あともう少しで新年を迎えます。
この時期になると思い出す言葉があります。 それは、友人から送られてきたメールの言葉。以前、メリシャカでも紹介させて頂きました。
こんな言葉です。
かつて或る僧曰く、 正月に朝日を拝む人は多いけれど、大晦日の夕日を拝む人は少ない。 毎年大晦日の夕日を眺め、 おてんとう様、今年一年ありがとうございました、と感謝する。 そういう事を出来る人は豊かな人生をおくる事が出来るのではないでしょうか。
この言葉を見て、ハッと思いました。
暮れも押し迫ったこの時期になると大掃除・年賀状・・・と来年にそなえての準備に追われ、一年を振り返ることもなく過ぎていきます。この言葉にであい、今年はどんなことがあっただろうかと、じっくりと手帳を振り返ってみる。すると、忘れていることばかり。こんなこともあったんだ、あんなこともあったんだと。時間に追われて生活をしている中で、感謝の心どころか、あったことさえも忘れ去っている。
今年ももうすぐ終わり。
ゆっくりと自分と向き合う時間をつくってみよう思います。
ライブ前日。
- 2009年12月25日(金) 文:キッスィ
- 仏声人語
- comments(2)

今日はクリスマス。みなさんはどんな1日でしたか?ボクのクリスマスは「明石家サンタ」を見ることが恒例となっています。
あれだけは見逃せない!知ってる方は知っているでしょう。24日の深夜に、視聴者から不幸話を聞いていくという番組です。
人の不幸ってなんであんなに楽しいんでしょうか。
「「脇見するな」の看板に見とれて前の車にぶつかった。」
「10日で離婚しました。」などなど。
深夜見れない時は録画してまで見てしまう、そこまで好きな番組です。
そんな独身のおっさんですが何か??
それはそうと。
いよいよメリシャカライブは明日になりましたね。ボク自身も当日微力ながらお手伝いさせてもらいます!
おそらく受付〜会場あたりをうろうろしていると思うので、オバマ大統領似の濃い顔見かけたら気軽にお声かけてくださいね。
オバマと言えば・・・ついこの前、研修で京都に行ったんです。その研修の休憩時間。
「キッスィさん、有名人で誰かに似ているって言われません??」
「言われるよ。金メダリストの北島康介とか。」
「いや、北島康介ではなくて・・・」
(えっ北島ちゃうの!?じゃいったい誰々???)
この時点でかなり恥ずかしい。
自分を過大評価したようなこと言ってしまった!!そんなつめたーい空気になっていくのをまざまざと感じる。
そして周りにいた数人から失笑。
ひっさびさに顔が赤くなるような思いでした。
「オバマ大統領に似てるって言われません?」
「確かに最近言われるけど・・・」
人によって似ているっていう感覚って違いますよね。
似ているって、科学の世界だと○○%似ているという判断はできるけど、人間の感覚は人によって様々。
ということは、人間の「似ている」という感覚は、流動的であり、不確定的なものとも言えるなーと思った。
法話の中で、このことを「物差し」に例えることがある。
自分が測る度合いと、他人が測る度合い。それは同じものでも数値が違ってくる。人それぞれの物差しで測るので、感じる度合いが違うのである。
そうなると、自分の感覚ってとっても不確定的なものだなーと思ったんです。
でも、その不確定的な感覚を持っているからこそ、一人一人違う感覚を持っているからこそ、この世界が成り立つのである。
音楽でもそうだろう。同じアーティストでも好きな曲はみんな違う。違うけど、同じ目的の人たちが集まり、1つになる空間がある。
違う感覚を持った同士。ライブに来られる方は、前後左右にいる初めて会った方たちとも同じ目的・違う感覚を持ちながら、1つになっていきましょう!
合言葉は「メリシャカ!」で!
moon dance / アン・サリー
- 2009年12月21日(月) 文:とし
- 子供と一緒に聴きたい音楽
- comments(0)
いよいよメリシャカライブが近づいて参りました!
チケットはおよそ1週間でソウルドアウトし、追加チケットも即日で終了。向井秀徳さんをお招きするだけにある程度の予想はされていたものの、企画自体に期待してくださる声も多方面から聞かれ、予想以上の反響にメンバー一同盛り上がっております。 当日は、ツイッターでの実況も予定されているそうなので、気にかけてくださる方はどうぞサイトをチェックしてください。
さて、「子供と一緒に聴きたい音楽」。
前回のエントリーにおっぱいの話が出たので、少し便乗してアルバムを紹介します。
赤ちゃんにとっておっぱいは、人生のすべてと言っても大げさではないほどに大きな存在でしょう。おっぱいから栄養をもらい、おっぱいから母の愛情を感じ、おっぱいから安心をもらう。
阿弥陀如来という仏さまをあらわす時にも、よく母の愛情に例えられますが、「仏さまはおっぱいだ!」と言われる方までおられます。おっぱいはいつの日か離れていきますが、大人になってもやはり、栄養・愛情・安心というのは生きていく上で、根底から私を支えてくれるものです。
チケットはおよそ1週間でソウルドアウトし、追加チケットも即日で終了。向井秀徳さんをお招きするだけにある程度の予想はされていたものの、企画自体に期待してくださる声も多方面から聞かれ、予想以上の反響にメンバー一同盛り上がっております。 当日は、ツイッターでの実況も予定されているそうなので、気にかけてくださる方はどうぞサイトをチェックしてください。
さて、「子供と一緒に聴きたい音楽」。
前回のエントリーにおっぱいの話が出たので、少し便乗してアルバムを紹介します。
赤ちゃんにとっておっぱいは、人生のすべてと言っても大げさではないほどに大きな存在でしょう。おっぱいから栄養をもらい、おっぱいから母の愛情を感じ、おっぱいから安心をもらう。
阿弥陀如来という仏さまをあらわす時にも、よく母の愛情に例えられますが、「仏さまはおっぱいだ!」と言われる方までおられます。おっぱいはいつの日か離れていきますが、大人になってもやはり、栄養・愛情・安心というのは生きていく上で、根底から私を支えてくれるものです。
|
最高の味
- 2009年12月17日(木) 文:sakulla
- 仏声人語
- comments(0)

sakullaの出産記録・エピソード6
今回はオッパイ(母乳)についてのお話。
私の場合、産んですぐ赤ちゃんが保育器に入ってしまって、そばにはいなかった。
それを聞いた人に「夜中とか赤ちゃんが泣いてオッパイを催促しないからラクでいいね」と言われたことがある。
だが、それはそれで、それなりの大変さがあったので、体験した自分もビックリしたくらいだった。
夕方に出産し、そのまま赤ちゃんと離れ離れになったとき、オッパイのことなんて考える余裕もなかった。
だが、その日の深夜、看護師さんが母乳マッサージをすると、白い液体が滲み出るようになる。
その少量の母乳を針のない注射で吸い取って、赤ちゃんのいるNICUへ持っていく。
次からは自分でマッサージをして母乳を搾り、だんだん分泌量が増えると、今度は電動搾乳器が病室に運び込まれ、両方のオッパイから同時に母乳を搾り出す。
この時、左右の胸からそれぞれ搾り出される母乳を受け止めるボトルを、両手で一本ずつ持っているので、結構疲れる。
ボトルに溜まった母乳を、今度は母乳パックという保存用のビニール袋に詰めて、日付などをテープに書き込み封をする。
これを昼夜問わず3時間おき、1日8回繰り返す。
入院中は、深夜ナースコールで起こされ母乳を搾り、家に帰ってからは目覚まし時計で真夜中も2回起きては、レンタルした電動搾乳器で母乳を搾る。
搾り続けることで、赤ちゃんが自力で吸えるようになったとき、また退院してからも母乳が出る状態を維持することができるわけだ。
更に、母乳は業務用の冷凍庫なら3ヶ月は保存可能なため、家で冷凍したものをNICUへ持っていくと、面会時間以外は解凍した母乳を看護師が赤ちゃんにあげてくれる。
早産した母親の母乳は、通常の母乳より栄養価が高く、無駄にするわけにはいかない。
赤ちゃんの泣き声で起こされないため、寝過ごしてしまいそうにもなったが、その意識が寝不足の私を支えてくれた。
で、ここからは全くの余談だが、母乳を放置すると分離をし、半透明の液体にクリーム色のドロドロしたものが浮いてくる。
哺乳瓶に入れ、冷蔵状態でNICU持って行くのを忘れてしまったとき、帰ってから冷蔵庫を開けると分離した母乳が待っていた。
ヨーグルトのような、柔らかいチーズのような…、醍醐とはこういうものを言うのかもしれないと思ったりした。
仏教辞典には、【醍醐】とは「バターを煮とかした時にできるクリーム状の浮きカスで、乳酪の最も精製された最高の味のもの」とある。
だが、中国から伝来した醍醐は、中世の日本でも作られていたらしいが、その正確な精製法は失われているため、どのようなものかは定かではない。
では、なぜ乳製品みたいなものが仏教辞典に載っているかというと、醍醐は数ある経典の中でも涅槃経こそが最高であることを例えるものだったからだ。
牛より乳を出し、乳より酪を出し、酪より熟酥を出し、熟酥より醍醐を出す
仏の教えもまた同じく、仏より十二部経を出し、十二部経より修多羅を出し、
修多羅より方等経を出し、方等経より般若波羅密を出し、般若波羅密より
大涅槃経を出す
このように、最後に行き着く最高の教えは、牛乳の精製の最後に行き着く最高の味と同じ…というわけで、これが醍醐味の語源である。
もっとも、私のオッパイはそれほど大層な味ではなかったが…。
ちなみに熟酥(じゅくそ)をサンスクリット語で「サルピス」といい、これはカルピスの語源らしい。
…なんか収集つかなくなってきたが、結局何が書きたかったんだろ?
まぁ、こんなときもあるさ。
見られているという視点
- 2009年12月13日(日) 文:kenyou
- 仏声人語
- comments(0)

皆さんメリシャカ。メリシャカライブまでもう2週間を切りました!年末に向けてバタバタする時期ではありますが、私も参加させていただけるということで、今から非常に楽しみです。
さてさて、年末、ということで、そろそろみなさんも、今年一年を振り返ったりすることがあるかと思います。皆さんにとっては、どんな一年でしたでしょうか。やり残したことはありませんでしょうか?
私は今年、一つ心残りというか、後悔したことがあるのですが、それは東京国立博物館で開催された阿修羅展に行けなかったことです。みうらじゅん氏などの仏像好きが盛り上げて、大変盛況だったようですが、機を逃してしまって行けずじまいだったことは、思い出しただけでもため息が出てしまいます。あの憂いを帯びたお姿に魅了された方も多かったようで、阿修羅好きを指して「アシュラー」なんて造語が生まれたりもするほど人気が出たようです。
阿修羅像に限らず、ここ何年か、仏像がブームになっていたように思います。私も仏像が好きで、京都などに行く際には、必ず良い仏像がありそうなお寺を事前に調べて、仏像目当てでお参りに行ったりしておりました。美しく繊細、ながらも時に激しく情熱的に彫り上げられた仏像を前にしますと、造形美はもちろん、その迫力にゾゾっと肌が粟立つような感覚になり、見れば見るほど、その魅力にハマっていきました。仏像、カッコいいな、と。
ところが先日、ある先輩のご法話を聞く機会があったのですが、そのご法話の中で、今仏像ブームと騒がれているが、仏像を見る、ということばかりが言われている。確かに仏像と言う、仏様の姿に彫られたものを、私たちが見ているのだけれども、仏様を前にした時、忘れてはならないのは、仏様に私が見られている、ということと、その仏様の目にうつる私は、どんな姿・生き方をしているのかということを考えることではないか、ということを話してくださいました。
私はその話を聞いて、ハッとしました。確かに仏像を前にしたとき、私のこの目で、仏様の姿を見ているわけでありますが、同時に仏様の側から、私の姿が見られているのです。仏様の視点から見た私。それは一体どんな姿をしているのでしょう。
その答えは、お経の中にあります。お釈迦様は『仏説観無量寿経』というお経の中で、「なんじはこれ凡夫(ぼんぶ)なり。心想羸劣(しんそうるいれつ)にしていまだ天眼をえざれば、遠く観ることあたはず」というようにおっしゃっておられます。「心想羸劣」というのは心が弱く劣ったものであるということを意味し、「いまだ天眼をえざれば、遠く観ることあたはず」というのは、いまだ世のすべてを正しく見つめる智慧の眼を得ていないため、自己中心的なものの見方に陥り、物事を正しく見通すことができない、という意味で、そういう私のことを「凡夫」であるというようにおっしゃっておられます。
さらに親鸞聖人は、この「凡夫」というのは、自己中心的な想い、何でも自分通りにせずにはおれないという煩悩が満ちあふれた存在で、満足ということを知らず、怒りや憎しみ、妬みの心が死の間際まで消えることがなく、その自らの心が生み出す煩悩というものに振り回される迷いの存在である、というようにおっしゃっておられます。
つまり、仏様の目に映る私というのは、とんでもなく愚かで、さまざまな苦悩に苛まれ、常に不安の中に埋没している、哀れな姿をしているのです。
しかし、仏様の目は、決してそんな私を愚かだなと、見下げている冷たい目ではありません。智慧の眼で私の真実の姿を見通されたが故に、哀れな私を救わずにはおれないという、慈悲の心が仏様の目やお姿には溢れているのです。
私たちは、つい自分は常に正しい存在であると思ってしまいます。けれども、決してそうではありません。仏様の側から見れば、なんとも危うく、迷ってばかりの存在であります。しかしながら、自分からそういう事実になかなか気づくことはできません。
ですから、仏像を見るということを通して、ただ単に仏様の姿を見るのではなく、私自身の姿もまた、仏様に見られているものであり、仏様の目に映る私の姿はどういったものなのかということを正しく見つめる機会にすることが、仏像を見る上で大切なことなのかもしれませんね。
仏様に見られているという視点。これを忘れないようにしていきたいものです。
真理に気付く
- 2009年12月08日(火) 文:kensho
- 仏声人語
- comments(0)

世間ではクリスマスシーズンで、町並みがイルミネーションで綺麗に施されていますね。
特に東京はここぞとばかりに競うように各所で飾られています。
皆さんここ数年でイルミネーションが綺麗になったと思いませんか。
数年前から電飾が電球からLED(発光ダイオード)に変わり、かなり様変わりしたように思います。
電球は周りに色を付けての表現しかできなかったものが、LEDでは光そのものが白・青と輝くのでとても綺麗に鮮明に輝いて見えます。
しかも寿命が通常の白熱電球などと比べてかなり長く、今後蛍光灯や電球に置き換わる光源として期待されています。
なかでも青色LED開発では2001年8月、中村修二(現・カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授)が職務上で1993年11月に発明した(特許法上、職務発明という)「404特許」を巡って元勤務先の日亜化学工業を提訴し、同特許の原告への帰属権確認ないし譲渡対価を巡って係争したことで皆さんの記憶に新しいことだと思います。
開発とは新しい技術や製品を実用化すること。つまりcreate(創造すること。作り出すこと。)ですが、宗教はいかがでしょうか。
よく宗教は開祖が作り出したといわれますが、そうではありません。
仏教では、お釈迦様をはじめとして開祖と呼ばれる方々は、真理に気づかれたのであってcreateしたのではありません。
親鸞聖人も一番早く解決する道を、先人の教えにならって、見つけ出されました。
成功をめざす。目標は?
- 2009年12月02日(水) 文:るる
- 仏声人語
- comments(0)

師走になり、本屋さんの新刊がならんでいる棚をみると、自己啓発ものがどんどん増えていくことに気がつきます。努力して成功をすること、を推奨するのが最近の主流のようです。
お金が儲かる、仕事ができる、いい女である、メモがとれる人、人を引き付ける力、自己管理ができる、ライフワークバランス…目指すべきはどうやら、“仕事も家庭も大事にし、経済的にも恵まれた人生を謳歌できるパーフェクトな人間”ということになるようです。
さぁて。
これのどこが、何が、「成功」なんだろう?
じゃ、そういうものがない人生は「失敗」なんでしょうか?
もちろん、努力をされて成果を上げ、人間的にも尊敬すべき素晴らしい方というのは確かにいらっしゃる。
だけど、みんながそうであるとは限らないですよね。
というか、そうでなければならないってことでもないわけです。
目標があるのは素晴らしいこと。
でもその目標が、欲望だけを生み、自分を縛りつけ、他人や他人が大事にしているものを傷つけたり蹴落としていないかどうか、気をつける必要があるんじゃないか、って思います。
今年ももう最後の月になりました。
新年に目標を建てた方、目標は達成できましたか?
私は・・・ダイエットには失敗してますがね。。苦笑。
新しい目標を建てるにあたり、心静かにこの1か月を送りたいと、思っています。
Page: 1/1 | ▲ Top

