メリシャカナイツ3 『残り3ヶ月の人生だとしたら・・・』開催
- 2009年05月29日(金) 文:チスイ
- メリシャカナイツ
- comments(2)
先日5月26日に、京都×メリシャカナイツ第3夜
『残り3ヶ月の人生だとしたら・・・』 ―緩和ケアに携わる僧侶―。
が開催されました。
新型インフルエンザの影響が心配されましたが、今回も30名以上の方に参加いただきました。参加いただいた皆様、本当に有難うございました!
今回もまず、簡単なお経のお勤め、ご法話から始まります。

法話は愛媛の僧侶、深水さん。今回のテーマに直結したお話で、お父さんとの死別をご縁として感じられたご自身の思いを話してくださいました。
淡々と語られる深水さんの言葉一つ一つが深く心に響き、頷かせていただきました。この法話に感化されて、このイベントが他人事ではなく自分のこととして受け止められるようになったと僕は思います。
さて、本題『残り3ヶ月の人生だとしたら・・・』です。
今回のゲストは、昨年京都の城陽市に開設された「緩和ケア専門クリニック」に常駐僧侶として勤務される阪本尚樹さんです。
緩和ケアに携わる僧侶として、医療の現場最先端で活動されています。キリスト教のホスピスは歴史がありますが、浄土真宗の僧侶が病院に常駐するというのは、まだ歴史が浅く、阪本さんはご苦労されていると思いますし、その中で感じたことを是非お聞きしたかったのです。
阪本さんはパワーポイントを使って分かりやすく、「緩和ケア」について説明して下さいました。

今の医療は、医者・看護士・薬剤師だけでなく、ソーシャルワーカーや宗教者も一つのチームとして治療に当たります。身体の痛みだけではなく、患者さんの心の痛み、不安、死への恐れについて総合的に対応していくことが大切です。
そして、チームの中心には患者さんがあり、そのご家族に対するケアも同時になされていきます。
阪本さんは浄土真宗の僧侶として、緩和ケアに向き合います。死が終わりではない「浄土に往き生まれる」いのちであるということ、未来を失うと現在を生きている意味も失うが、「浄土」という未来をいただくことによって死の受容されることについて、特に力を込めてお話くださいました。
その後は質疑応答。
今回は3名看護士さんもお忙しい中参加してくださり、現場の生の声を聞かせて下さいました。看護士さん自身にも精神的な支えや、拠り所が必要であり、病院に宗教者がいることはそうした意味でも期待しているとのことでした。

「残りわずかな時間で患者さんに何ができるのか?」
「他宗派の患者さんへの対応の仕方は?」
など質疑応答も活発になされました。
自らの浄土真宗に対する信仰について先ほど深く語られた阪本さんは、一方で患者さんに信仰を押し付けることは絶対にされずに、ただ寄り添うことしかできないこともある現実を教えてくださいました。
その後、いよいよ参加者の方に「臨死体験」をしていただくことに!?
ご講師の阪本さんからお話をお聞きして、一体どんなことが行われるのだろう?まさか実際に息を極限まで止めるとか?そこに何か見えるのか!?など僕はバカなことを考えていました(苦笑)
しかし、その内容はまさしく「臨死体験」でシビアなものでした。
「この作業はしんどさをともなうもので、しんどくなったらやめて下さい」と阪本さんはおっしゃいます。
そして参加者に一枚の紙と鉛筆を配り、こんな作業をしていただきました。
ネットを御覧の皆さんも宜しければしてみてください。
紙にはこう書かれています。
1、あなたが大切にしている物を3つあげてください。
2、あなたが大切にしている人を3人あげてください。
3、あなたの趣味・活動・気分転換を3つあげてください。
4、あなたの将来の夢を3つあげてください
参加者が皆書き終えた所で、阪本さんは用意されてきたパワーポイントで、話を始められます。
『残り3ヶ月の人生だとしたら・・・』
ある日会社に出かけようとしたら、急に腹に痛みが・・・
病院に行くと急遽検査をすることに・・・
医者から癌が宣告される・・・
それは自分が実際に癌という病に侵されていたらとシュミレーションすることで体験する作業だったのです。
「先ほどあげた大切なものを一つ消してください」
阪本さんはその物語の要所で静かにそう言われます。
だんだん自分にとっての「大切なもの」「大切な人」「趣味」「夢」がひとつひとつ消されていく喪失感を僕たちは味わいました。
この作業が本当につらい。どれを消そうか真剣に悩みました。
しかし、死ぬということはそういうことなのでしょう。普段見つめようとしていませんが、死は100%誰しもの上に必ず起こるのです。
後半になると選べない自分がいました。特に僕にとっては「家族」と「信仰」。究極の選択を迫られたように感じます。
「この作業を通じて、自分にとって今一番何が大切なのか気付くことができます」と阪本さんはおっしゃいました。
日頃は当たり前と思っていることが、実は文字通り「有ること難い」ことであったのか、大切なものの中にあったのか気付かされる作業でした。
今回のメリシャカナイツは、宗教のど真ん中の問題「死」がテーマでした。皆、真剣にお話を聞いて、しかも自分のこととして「死」を見つめることができたと思います。
自分の「死」自分の身近な方の「死」。その中で何が大切で、今何ができるのか。
イベント後には、看護士さんにご自身の悩みを実際に相談に行かれる方もいらっしゃり、参加者同士でも話が盛り上がりました。
阪本さんにお聞きしたいことが、後になっていっぱい出てくると言われた若い方(イベント初参加)もいらっしゃいました。
本当にこのイベントを行えて有意義であったと感じます。第3回にしてメリシャカナイツがイベントとして充実してきたなとも感じました。
個人的にはおまけびとの演奏もさせてもらい、「盆参りの唄」を歌わせていただき有難うございました!
また、メリシャカナイツでは、参加費のうち100円を、「世界の子どもにワクチンを」日本財団(JCV)に寄付させていただいているのですが、なんと浅野さんのブログを通じて匿名でご寄付がありました。
「先日〈世界の子供にワクチンを〉と云う活動を知り感銘を受けました。20円あれば一人の子供にポリオワクチン接種が出来るそうですね。私も子供達の幸せを願って、今日支給された定額給付金の中から心ばかりですが同封させて頂きますので若院様から募金箱へよろしくお願いします」
と書かれてあったそうです。
そのお気持ちが本当に有難く、胸が熱くなりました。
次回は『チベット仏教 チベット問題』で7月29日19時 開催予定です。
お楽しみに!
『残り3ヶ月の人生だとしたら・・・』 ―緩和ケアに携わる僧侶―。
が開催されました。
新型インフルエンザの影響が心配されましたが、今回も30名以上の方に参加いただきました。参加いただいた皆様、本当に有難うございました!
今回もまず、簡単なお経のお勤め、ご法話から始まります。

法話は愛媛の僧侶、深水さん。今回のテーマに直結したお話で、お父さんとの死別をご縁として感じられたご自身の思いを話してくださいました。
淡々と語られる深水さんの言葉一つ一つが深く心に響き、頷かせていただきました。この法話に感化されて、このイベントが他人事ではなく自分のこととして受け止められるようになったと僕は思います。
さて、本題『残り3ヶ月の人生だとしたら・・・』です。
今回のゲストは、昨年京都の城陽市に開設された「緩和ケア専門クリニック」に常駐僧侶として勤務される阪本尚樹さんです。
緩和ケアに携わる僧侶として、医療の現場最先端で活動されています。キリスト教のホスピスは歴史がありますが、浄土真宗の僧侶が病院に常駐するというのは、まだ歴史が浅く、阪本さんはご苦労されていると思いますし、その中で感じたことを是非お聞きしたかったのです。
阪本さんはパワーポイントを使って分かりやすく、「緩和ケア」について説明して下さいました。

今の医療は、医者・看護士・薬剤師だけでなく、ソーシャルワーカーや宗教者も一つのチームとして治療に当たります。身体の痛みだけではなく、患者さんの心の痛み、不安、死への恐れについて総合的に対応していくことが大切です。
そして、チームの中心には患者さんがあり、そのご家族に対するケアも同時になされていきます。
阪本さんは浄土真宗の僧侶として、緩和ケアに向き合います。死が終わりではない「浄土に往き生まれる」いのちであるということ、未来を失うと現在を生きている意味も失うが、「浄土」という未来をいただくことによって死の受容されることについて、特に力を込めてお話くださいました。
その後は質疑応答。
今回は3名看護士さんもお忙しい中参加してくださり、現場の生の声を聞かせて下さいました。看護士さん自身にも精神的な支えや、拠り所が必要であり、病院に宗教者がいることはそうした意味でも期待しているとのことでした。

「残りわずかな時間で患者さんに何ができるのか?」
「他宗派の患者さんへの対応の仕方は?」
など質疑応答も活発になされました。
自らの浄土真宗に対する信仰について先ほど深く語られた阪本さんは、一方で患者さんに信仰を押し付けることは絶対にされずに、ただ寄り添うことしかできないこともある現実を教えてくださいました。
その後、いよいよ参加者の方に「臨死体験」をしていただくことに!?
ご講師の阪本さんからお話をお聞きして、一体どんなことが行われるのだろう?まさか実際に息を極限まで止めるとか?そこに何か見えるのか!?など僕はバカなことを考えていました(苦笑)
しかし、その内容はまさしく「臨死体験」でシビアなものでした。
「この作業はしんどさをともなうもので、しんどくなったらやめて下さい」と阪本さんはおっしゃいます。
そして参加者に一枚の紙と鉛筆を配り、こんな作業をしていただきました。
ネットを御覧の皆さんも宜しければしてみてください。
紙にはこう書かれています。
1、あなたが大切にしている物を3つあげてください。
2、あなたが大切にしている人を3人あげてください。
3、あなたの趣味・活動・気分転換を3つあげてください。
4、あなたの将来の夢を3つあげてください
参加者が皆書き終えた所で、阪本さんは用意されてきたパワーポイントで、話を始められます。
『残り3ヶ月の人生だとしたら・・・』
ある日会社に出かけようとしたら、急に腹に痛みが・・・
病院に行くと急遽検査をすることに・・・
医者から癌が宣告される・・・
それは自分が実際に癌という病に侵されていたらとシュミレーションすることで体験する作業だったのです。
「先ほどあげた大切なものを一つ消してください」
阪本さんはその物語の要所で静かにそう言われます。
だんだん自分にとっての「大切なもの」「大切な人」「趣味」「夢」がひとつひとつ消されていく喪失感を僕たちは味わいました。
この作業が本当につらい。どれを消そうか真剣に悩みました。
しかし、死ぬということはそういうことなのでしょう。普段見つめようとしていませんが、死は100%誰しもの上に必ず起こるのです。
後半になると選べない自分がいました。特に僕にとっては「家族」と「信仰」。究極の選択を迫られたように感じます。
「この作業を通じて、自分にとって今一番何が大切なのか気付くことができます」と阪本さんはおっしゃいました。
日頃は当たり前と思っていることが、実は文字通り「有ること難い」ことであったのか、大切なものの中にあったのか気付かされる作業でした。
今回のメリシャカナイツは、宗教のど真ん中の問題「死」がテーマでした。皆、真剣にお話を聞いて、しかも自分のこととして「死」を見つめることができたと思います。
自分の「死」自分の身近な方の「死」。その中で何が大切で、今何ができるのか。
イベント後には、看護士さんにご自身の悩みを実際に相談に行かれる方もいらっしゃり、参加者同士でも話が盛り上がりました。
阪本さんにお聞きしたいことが、後になっていっぱい出てくると言われた若い方(イベント初参加)もいらっしゃいました。
本当にこのイベントを行えて有意義であったと感じます。第3回にしてメリシャカナイツがイベントとして充実してきたなとも感じました。
個人的にはおまけびとの演奏もさせてもらい、「盆参りの唄」を歌わせていただき有難うございました!
また、メリシャカナイツでは、参加費のうち100円を、「世界の子どもにワクチンを」日本財団(JCV)に寄付させていただいているのですが、なんと浅野さんのブログを通じて匿名でご寄付がありました。
「先日〈世界の子供にワクチンを〉と云う活動を知り感銘を受けました。20円あれば一人の子供にポリオワクチン接種が出来るそうですね。私も子供達の幸せを願って、今日支給された定額給付金の中から心ばかりですが同封させて頂きますので若院様から募金箱へよろしくお願いします」
と書かれてあったそうです。
そのお気持ちが本当に有難く、胸が熱くなりました。
次回は『チベット仏教 チベット問題』で7月29日19時 開催予定です。
お楽しみに!
象駆輪金剛力士座像
みなさん、仏像はお好きですか?
最近は、鑑賞用としての仏像本が多数出版され、多くのメディアに取り上げらる仏像たち。みうらじゅん氏が会長の「阿修羅ファンクラブ」というものまで出て来ました。昨今は空前の仏像ブームです。
仏像と言えば、飛鳥時代から室町頃までのものがほとんどですが、今回紹介するのは、現代の造形作家が手掛けた作品です。
その名も、象駆輪金剛力士座像(ぞうくりん こんごうりきしざぞう)。

青空をバックにした金剛力士が、なんとも言えない異彩を放っています。
この造形物はイベント用のため、素材は発砲スチロールですが、それを一切感じさせない大迫力!
全体像はご覧のとおりです。

仏教の守護神である金剛力士像は、怒りを外と内に秘めた阿形と吽形の2体が対になっているのが原則。その阿形と吽形が、名前のとおり、仏教とゆかりの深い“象”をモチーフにしたバイク「象駆輪」に乗った姿がとってもクール!
高さは2m40僉▲丱ぅの長さは3m60僉B腓さから来る迫力もさることながら、表情とみなぎる筋肉に釘付けになります。
もう少し寄ってみましょう。
type “a” 阿形

type “un” 吽形
ん〜、飲み込まれそうになるほどの迫力です!
仏像を評するには相応しくない言葉かもしれませんが、めちゃくちゃカッコよくてSexy。今回は野外で撮影しましたが、これが室内ならまた違った趣きになりそうです。
細部までスキがなく、背中の筋肉も見逃せません。

この作品を手掛けたのは、造形作家の清河北斗。
アニメから映画まで様々な造形作品を手掛ける造形会社「アレグロ」の第一線で10年勤め上げ、その造形力に磨きをかけて、2009年にスタジオ Hotを設立。目下売り出し中の若手作家です。
「象駆輪金剛力士座像」は、5月31日-6月1日、富山県最大のお祭り「山王まつり」の期間中、富山市のグランドプラザに展示されます。すでに県外からのオファーもあり、他でも目にする機会が出てくるかもしれませんが、近県にお住まいの方は、ぜひ生で味わってください。
【清河 北斗(kiyokawa hokuto)】
1974 富山県黒部市宇奈月町に生まれる
1994 東京芸術専門学校 卒業
1996 個展 東京銀座ギャラリーK
1998 東京都池袋(株)アレグロ 入社
2008 同社退社 富山へ転居
2009 スタジオ Hot 設立
現在、仏像原型、イベント造形物、舞台美術など各種、制作活動中
最近は、鑑賞用としての仏像本が多数出版され、多くのメディアに取り上げらる仏像たち。みうらじゅん氏が会長の「阿修羅ファンクラブ」というものまで出て来ました。昨今は空前の仏像ブームです。
仏像と言えば、飛鳥時代から室町頃までのものがほとんどですが、今回紹介するのは、現代の造形作家が手掛けた作品です。
その名も、象駆輪金剛力士座像(ぞうくりん こんごうりきしざぞう)。

青空をバックにした金剛力士が、なんとも言えない異彩を放っています。
この造形物はイベント用のため、素材は発砲スチロールですが、それを一切感じさせない大迫力!
全体像はご覧のとおりです。

仏教の守護神である金剛力士像は、怒りを外と内に秘めた阿形と吽形の2体が対になっているのが原則。その阿形と吽形が、名前のとおり、仏教とゆかりの深い“象”をモチーフにしたバイク「象駆輪」に乗った姿がとってもクール!
高さは2m40僉▲丱ぅの長さは3m60僉B腓さから来る迫力もさることながら、表情とみなぎる筋肉に釘付けになります。
もう少し寄ってみましょう。
type “a” 阿形

type “un” 吽形
ん〜、飲み込まれそうになるほどの迫力です!
仏像を評するには相応しくない言葉かもしれませんが、めちゃくちゃカッコよくてSexy。今回は野外で撮影しましたが、これが室内ならまた違った趣きになりそうです。
細部までスキがなく、背中の筋肉も見逃せません。

この作品を手掛けたのは、造形作家の清河北斗。
アニメから映画まで様々な造形作品を手掛ける造形会社「アレグロ」の第一線で10年勤め上げ、その造形力に磨きをかけて、2009年にスタジオ Hotを設立。目下売り出し中の若手作家です。
「象駆輪金剛力士座像」は、5月31日-6月1日、富山県最大のお祭り「山王まつり」の期間中、富山市のグランドプラザに展示されます。すでに県外からのオファーもあり、他でも目にする機会が出てくるかもしれませんが、近県にお住まいの方は、ぜひ生で味わってください。
【清河 北斗(kiyokawa hokuto)】
1974 富山県黒部市宇奈月町に生まれる
1994 東京芸術専門学校 卒業
1996 個展 東京銀座ギャラリーK
1998 東京都池袋(株)アレグロ 入社
2008 同社退社 富山へ転居
2009 スタジオ Hot 設立
現在、仏像原型、イベント造形物、舞台美術など各種、制作活動中
直葬とは?
- 2009年05月27日(水) 文:tatsuya
- 仏声人語
- comments(2)

直葬という言葉をご存じですか。
私は数年前に葬儀に関するシンポジウムで初めて聞きました。
直葬とは、葬儀をしないでそのまま火葬場へ直行する亡き人のおくり方である。
先日のNHKテレビのある番組で「増える直葬その背景をさぐる」という番組が放映された。
そこでは、4人に1人が直葬というおくり方をしている現状が報告された。
この直葬は以前は経済的困窮者が主だったが、社会的に認知されてきているという。
直葬を選ぶ理由(NHK番組より)
_搬欧北堆任鬚けたくない
→金銭的(葬儀費用直葬20万円前後 一般葬儀150万円前後)
∋劼匹發篆汎發いない
自分の価値観にあった葬儀
さまざまな理由があるが、なぜか直葬なのだろうか?
私見を述べれば、葬儀の意味合いが見えなくなっており、また核家族化の中で、他人に迷惑をかけたくないという気持ちが強いのではないかと思う。
「村八分」という言葉が表すように、昔はあらゆる行事を村ぐるみで行っていた。
「いってきます」と家を出れば「どこへ行くの」という近所のおばちゃんの声が聞こえてきた。
そんな近所の人たちに育てられてきた。なので、死ぬ時も一緒。
町の人が力を合わせて通夜・葬儀を執り行った。
迷惑をかけずには生きていけないことをみんな知っていたのだ。
それが核家族化になり、しかも社会でのつながりが希薄になっていく中で、
迷惑をかけたくないという気持ちが強まってきたのかも知れない。
あと、葬儀が儀式化してしまった側面がある。
本願寺ブックレットには浄土真宗の葬儀の意味合いについて以下のように述べられている。
・・・・・・・・・・
葬儀とは、不思議な縁によってであい、ふれあった人とのこの世でのご縁が尽き、人生最後のお別れをする儀式です。亡き人を縁として、改めて、生かされているいのちの尊さを知らされ、かけがえのない人生を大切に生きる心を教えられる時であり場であります。古くから、浄土真宗の葬儀では死を「生死無常の知らせ」として亡き人を偲び、『正信偈』が読まれ、「葬儀から中陰」を通して、お念仏の教えに出遇う仏縁とされてきました。
一体「葬儀」は誰のために、何のために行うのでしょうか。人が死ぬということは、遺族にとっては、その人との永遠の別れを意味します。死者に対する「追慕の思い」と、死者に対する「礼を尽くす」「供養する」という気持ちからの現れといえるでしょう。しかし、葬儀本来の意味を問うことがなければ、葬儀は単なる死者への形だけの儀礼に終始し、形骸化してしまいます。
・・・・・・・・・・・ブックレット基幹運動11真宗の葬儀より
上記で指摘する通り、葬儀の本来の意味を問うことなく、形だけに終始した結果が形骸化を招いているのではないかと思われる。
葬儀とは、亡き人との別れを通して、私が生かされているいのちの尊さを知らされ、かけがいのない人生を大切に生きる心を教えられる瞬間であります。なにより、亡き人を通して、念仏の教えが伝えられていく時でもあります。
忘れてはならないこと、私はオクリビトであると同時に、オクラレビトでもある(O先生のお言葉)。
ただ単に直葬を批判するのは簡単だが、私にとって葬儀とは?を考える大切な時であるように思う。
本当に相手のことを思うとは。
- 2009年05月25日(月) 文:キッスィ
- 仏声人語
- comments(0)

また今月も友達の結婚式です。髪切るように毎月の恒例行事になってきました。
自分の時はこうしよう、と参考にさせてもらってます。ただねぇ・・・こうしようというイメトレだけでは現実味ないっすねぇ。
ここ1か月の間に2回も遠い親戚に会うことがありました。
「あなたの結婚が心配なのよー。」
【あの〜。それしか話題はないんですか?】
相手のことを思って・・・ということをよく耳にする。
僕の場合、結婚してほしいという思いやりから言ってくれてるのだと思うが、当の本人からしたらホント余計なお世話である。
したくても出会いが無くてできない場合もあるし、結婚には興味はない・したくないという場合もあるだろう。
その人の状況や考え方を無視して、一般的傾向だけで相手に押し付けるのは、多様化してしているこの御時世、厳しいことなのかもしれない。
そうなると、相手のことをちゃんと踏まえて、しかも相手がリアルタイムに考えていること・求めていることをやってあげるのが一番の理想。
てことは、相手の見えないココロの奥底まで入り込まないとできない・・・。
正直、そこまではムリ・・・。
だったら全くやらなくてもよい。
てことはないですよね。
100%相手の思うことをしてあげることはできないけど、少しでもそれに近づけるようにする。それが人間社会で気持ちよく生活していくことかなーと思います。
特に、そういうことをしてもらった時、人に対してヤサシイ気持ちになりますよね。それを広げる。てかそういうことは自然に広がっていって欲しいですね!!
そのこと感じた映画があったのでちょいと紹介してキッスィの卑屈コラムとします。
それは【グラン・トリノ】。
見た方もいるかもしれませんね。ネタばれすれすれで書いておきます。
ストーリーは、奥さんを亡くした老人と、隣に引っ越ししてきたアジアの少数民族の少年との交流を描いたもの。気難しく不器用な性格の老人とシャイで控えめな少年が対照的で、少しずつ家を行き来するようになる。
そんなある日少年の家が襲撃される。その犯人は少年と同じ少数民族出身の青年たちだが、その犯人たちからの再襲撃を防ぎ平和に暮らすために老人が立ち向かう方法とは・・・。
ちなみに、この老人の奥さんは熱心なキリスト教徒で、牧師さんから懺悔に来るように、というシーンが何回も出てくる。でもメリシャカでキリスト教を勧めているわけではないことは付け加えておきますね。
要は、相手を思いやる方法はその人自身のキャラクターと、相手の状況によっても変わるだろうけど、お互いの信頼関係という見えないけど大事なもので繋がっていく。それが人間の世界でしょうね。
結婚の話題なんて野次馬的興味で言ってるのが大半なんだろうけどさ。最近は抵抗力もついてきて「結婚の話はやめてね」と断っといて話をするようになりました。
理想
- 2009年05月22日(金) 文:とし
- 仏声人語
- comments(0)

お寺に入ってはや10年以上。
今年は36歳になる年で、初老が視界に入ってきた。
お坊さんなりたての頃は、「こんなお坊さんになりたい!」とか「こんなお坊さんにはなりたくない!」などと、頭の中でいろいろ考え、理想を膨らますだけ膨らませて、それとはかけ離れた自分ともがく日々。また、いろんな人からのいろんな期待に、応えるべきか応えざるべきかと悩み、聞き流す柔軟性もない。いざ応えようと思った時も、その力がなく無力さに泣くこと多し。
「期待されているのは有難いこと」とは言うものの、期待に応える術のない者には耐えがたい苦痛。そんな悶々とした想いは、死ぬまでずっとループし続けるものだと思っていた。
が、ふと気付いてみると、そういう想いが今はだいぶ薄れている。
どこかに置き忘れたのか、感性が鈍ったのか、自己防衛が働いているのか、今は忘れているだけで、ある日突然ダムが決壊したように溢れ出てくるのか。
それは正直よくわからないが、自分の考えは知らない間にだいぶ変化している。
今はただ、与えられていることを少しずつこなす日々を送っていて“やりたいこと”と“やりたくないこと”、という選択はなるべくしないように心がけている。
やりたいと思ったことをやれたとしても、一緒に喜べる人がいなければ、やりたくないことに変わっていくこともあるし、やりたくなかったことをやってみると、意外に人が喜んでくれて、やってよかったと思うこともある。
つまりは、自分の場合、関わった人が笑顔になるかどうかがとても大きく、自己満足で完結出来るものは何も持っていない。
20代は思考と悩み、
30代は行動と苦労、
40代は、自分の方向を定めて力の入れどころを明確に。
「仏法には、明日と云う事はあるまじき」
とは聞かされているものの、理想の40代に向けて今を生きたい。
受け継ぐエニシ
- 2009年05月17日(日) 文:sakulla
- 仏声人語
- comments(0)
母が私を妊娠していたときのこと。
既に長女が生まれていて、次は男の子をという暗黙の重圧が母の肩にかかっていて。
だが、お腹の中の子が女の子であることを知らされた途端、母の血圧が上がり、その血圧は下がることなく現在に至っている。
母の高血圧を私のせいにされても困るし、こういうことを聞かされたら、普通子供は傷つくだろうと思ったりもするのだが…。
幸いなことに、繊細な心は母のお腹に忘れてきたようだ。
それにその重圧は、違う形で私の肩に小さい頃からかかっていたから、母に同情こそすれ怒る気になどなりはしない。
両親から、お寺の跡取りになれと言われたことはないけれど。
姉に継ぐ気がないと分かったときから、自分の進む道が目の前に現れたような気がして…そこから逃げたら、母が可哀想だと何となく思ったりした。
私の場合、跡を取るということは、婿を取るということと同義。
婿を迎えたら、跡継ぎを生むことも付随する。
微妙な田舎で、無言ではなく有言の圧力。
お寺を支えてくれている人々の思いは、時に有り難く、時に重く圧し掛かる。
政治の世界では、議員の世襲を制限する動きが出てきているようだ。
政治というと『金』が絡むものと、蚊帳の外からはオイシイ世界のように見えるもの。
例えどんな大志を抱いていようとも、その旨みを知るからこそ、その世界へと足を踏み込む二世三世が後を絶たないという想像が付きまとう。
苦労知らずのボンボンに、大根一本の相場も知らない金持ち議員に、不況に喘ぐ市民生活の何が分かるのかと、怒声を上げたくなる心情も無くはない。
だが、周りに外堀を埋められて、担ぎ上げられ、地盤を守れという重圧から、選挙に出ざるを得なかった二世三世議員もいるのだろうと、十九世僧侶になってしまった私は何となく思ったりもする。
きっと、僧侶の世界も同じようにオイシイ世界と思われているのだろうけど…。
兼業寺院で、平日は勤めに出て、土日は法務に励む父の背中を見て育った者にとっては、大した旨みも見えなかったわけで。
どの世界にもピンキリはあるものだ。
「世」を「襲う」と書いて「世襲」。
物騒な言葉だが、「襲」には「受け継ぐ」という意味の他に「上に重ねる衣」という意味合いも持つ。
肩に掛けられているのは、衣ではなく、衣の形をした人々の想い。
歴史が長ければ長いほど、それだけの人々とのご縁と支えがあったということ。
それゆえ、代々受け継がれることによって重みを増し、放り出すことのできないものへと変化する。
たとえ望まざる衣でも、掛けたからには、その重みに相応しい人間となるために、相応しい僧侶であるために、常に自省が必要だ。
何より怖いのは、その衣の重みが自分のものだと思い、大手を振るう勘違い。
威を借ることの愚かさは、地盤に甘えていると見なされた二世三世議員に対する非難の声でも気付けるはず。
そうはなるまいと、思っていても思い通りにいかないことが常だけど。
苗字を私の姓に変えてくれた人と出逢えたから、互いに羽織る衣の重みを確認し合うこともできるだろう。
そうしていれば、そのうち受け継ぐものがあることを、素直に喜べる心持ちにもなるかもしれない。
さて、小さい頃から掛けられていた私の重圧は、結婚することで軽くはなった。
そしてもう一つの重圧も同時に軽くなり、高血圧とは無縁の状態になったのだが…。
その話はまた次の機会に。
既に長女が生まれていて、次は男の子をという暗黙の重圧が母の肩にかかっていて。
だが、お腹の中の子が女の子であることを知らされた途端、母の血圧が上がり、その血圧は下がることなく現在に至っている。
母の高血圧を私のせいにされても困るし、こういうことを聞かされたら、普通子供は傷つくだろうと思ったりもするのだが…。
幸いなことに、繊細な心は母のお腹に忘れてきたようだ。
それにその重圧は、違う形で私の肩に小さい頃からかかっていたから、母に同情こそすれ怒る気になどなりはしない。
両親から、お寺の跡取りになれと言われたことはないけれど。
姉に継ぐ気がないと分かったときから、自分の進む道が目の前に現れたような気がして…そこから逃げたら、母が可哀想だと何となく思ったりした。
私の場合、跡を取るということは、婿を取るということと同義。
婿を迎えたら、跡継ぎを生むことも付随する。
微妙な田舎で、無言ではなく有言の圧力。
お寺を支えてくれている人々の思いは、時に有り難く、時に重く圧し掛かる。
政治の世界では、議員の世襲を制限する動きが出てきているようだ。
政治というと『金』が絡むものと、蚊帳の外からはオイシイ世界のように見えるもの。
例えどんな大志を抱いていようとも、その旨みを知るからこそ、その世界へと足を踏み込む二世三世が後を絶たないという想像が付きまとう。
苦労知らずのボンボンに、大根一本の相場も知らない金持ち議員に、不況に喘ぐ市民生活の何が分かるのかと、怒声を上げたくなる心情も無くはない。
だが、周りに外堀を埋められて、担ぎ上げられ、地盤を守れという重圧から、選挙に出ざるを得なかった二世三世議員もいるのだろうと、十九世僧侶になってしまった私は何となく思ったりもする。
きっと、僧侶の世界も同じようにオイシイ世界と思われているのだろうけど…。
兼業寺院で、平日は勤めに出て、土日は法務に励む父の背中を見て育った者にとっては、大した旨みも見えなかったわけで。
どの世界にもピンキリはあるものだ。
「世」を「襲う」と書いて「世襲」。
物騒な言葉だが、「襲」には「受け継ぐ」という意味の他に「上に重ねる衣」という意味合いも持つ。
肩に掛けられているのは、衣ではなく、衣の形をした人々の想い。
歴史が長ければ長いほど、それだけの人々とのご縁と支えがあったということ。
それゆえ、代々受け継がれることによって重みを増し、放り出すことのできないものへと変化する。
たとえ望まざる衣でも、掛けたからには、その重みに相応しい人間となるために、相応しい僧侶であるために、常に自省が必要だ。
何より怖いのは、その衣の重みが自分のものだと思い、大手を振るう勘違い。
威を借ることの愚かさは、地盤に甘えていると見なされた二世三世議員に対する非難の声でも気付けるはず。
そうはなるまいと、思っていても思い通りにいかないことが常だけど。
苗字を私の姓に変えてくれた人と出逢えたから、互いに羽織る衣の重みを確認し合うこともできるだろう。
そうしていれば、そのうち受け継ぐものがあることを、素直に喜べる心持ちにもなるかもしれない。
さて、小さい頃から掛けられていた私の重圧は、結婚することで軽くはなった。
そしてもう一つの重圧も同時に軽くなり、高血圧とは無縁の状態になったのだが…。
その話はまた次の機会に。
モヤモヤの元
- 2009年05月13日(水) 文:kenyou
- 仏声人語
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皆さんメリシャカ。ケンユウです。
つい最近の話ですが、今年一番の落ち込みを経験しました。いや、そうは言っても、そんな大した事ではなく、どうしても行きたかったライブがあったのですが、その日がちょうど住職不在の日で、そこにお通夜のお参りができたために行けなくなってしまい、なかなか地方に来てくれないアーティストだったことと、初めてライブが見れるという大きな期待をしていたために、落ち込んでしまったわけです。
我ながらちっぽけな話であるなとも思うのですが、やはり私自身としては、楽しみにしていたライブに行けないということは非常にがっかりでしたし、かと言って、大切なご家族を亡くされたご遺族の気持ちを考えれば、そんなことで落ち込んでいる場合ではないし、僧侶として、私用よりも悲しみにくれるご遺族のためにお勤めさせていただくことが大事なことは分かっているのですが、けどやっぱり残念で、なんと言いましょうか、誰が悪いわけでもないですし、気持ちの持っていきようがなくて、モヤモヤとしてしまったわけです。
で、そういう悩みと言うか、辛いことに遭遇した時によく考えるのですが、自分は何で、こんなに辛かったり苦しかったりするんだろうか、その原因は一体何だ、ということに、気持ちの整理をつける意味でも、思いを馳せたりします。
それで最近分かってきたんですが、どうも、自分が辛い思い、苦しい思いをしているのは、自分自身の中に、ある誤った考え方があって、それが原因となっているんじゃないのか、という答えにたどりつきました。
その誤った考え方と言いますのは、「何でも自分の思い通りにしたい」という願望と、「何でも自分の思い通りにできるんじゃないか」という誤解です。
仏教では、私たち人間がもつ苦しみを、大きく八つ挙げています。それが四苦八苦と呼ばれるもので、生老病死に、大事な人でもいつか必ず別れねばならない愛別離苦、嫌な人にも遭わなければいけない怨憎会苦、欲しい物が手に入らない求不得苦、フィジカルとメンタルを通して感じる不快感、五蘊盛苦というものなんですが、そういう苦しみの原因も、上にあげた「願望」と「誤解」にあるんじゃないかなあ、と。
つまり、その誤解と願望が満たされた時は良いんですが、満たされない時に、苦しみが生じると言う仕組み。
ライブの件で言うと、"ライブ行きたい、けど行けない"という状況は、「自分の思い通りにできる」はずなのに、そうできなくなってしまった状況でありますし、「自分の思い通りにしたい」という願望も叶えられなくなってしまった状況であるために、私の心に、モヤモヤとしたものを生み出したわけです。
それと同じように、病や老いや死が苦となるのは、もちろん物理的に苦痛ということもあるでしょうけれど、何でも思い通りになるはずだし、思い通りにしたいと心のどこかで思っているのに、そうできない事柄であるために、とてつもない苦しみとなって来るのだと思います。
四苦八苦の他の苦しみもそうですし、仕事や人間関係や恋愛やお金に関する悩みや苦しみだって、同じような構造で生じるもので、何でも自分の思い通りになるし、思い通りにしたいというとんでもない「誤解」と「願望」が、心の奥底に、私たちの思考の基盤として存在しているから起こってくるんでしょうね。
仏教で言う煩悩って、そのとんでもない「誤解」と「願望」が正体なのかもしれません。
よく、自分にとって都合の悪いことが起こりますと、人や先祖や土地や神様や日にちや干支や星座などなど、なにかと自分以外の事柄のせいにしがちですが、そうなると腹立てたり、後悔の念で余計モヤモヤが増幅してしまいますし、逆に辛くても気持ちの遣り場がなくてモヤモヤしてしまう時もなかなかそれが収まりません。そういう時に、自分の物の考え方に問題がなかっただろうかと、今一度よく心を観察して考え直してみますと、ある程度気が紛れて、辛いことも飲みこめるようになるのでは、と思います。
もちろん、そんな簡単に辛いこと悲しいこと苦しいことがキレイさっぱり無くなるわけではないですけどね。想像を絶する悲しみ苦しみもありますし、なにより一番思い通りにならないのは自分の心だったりしますから…
それでも、一度試してみる価値はアリ、だと思いますよ。
京都×メリシャカナイツを始めた訳
- 2009年05月09日(土) 文:チスイ
- メリシャカナイツ
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何度か告知していますが、5月26日に京都×メリシャカナイツ第3夜『残り3ヵ月の人生だとしたら…』‐緩和ケアに携わる僧侶‐を行います。先日ゲストの阪本さんと打ち合わせをしましたが、参加者の方にはある作業をして「臨死体験」をしていただく予定です!?今回もアツいイベントになりそうです!
今日は、このイベントの企画と運営を手伝って下さっているアサノさんにご登場いただいて、メリシャカナイツを始めた思いをお話いただきたいと思います。それではアサノさんどうぞ!
お寺の法要などへ、お話を聞きに来られる方は、やはり年輩の方が中心です。それはそれでありがたいことなのですが、私と同世代くらいの若い方にも、仏さまの話を聞いてもらいたいと、常日頃感じていました。
そこで考えたのが、お寺に来てもらうのではなく、逆に街の中に出向いて、仏教を語るという試みです。
実は広島では既に、浄土真宗の若手僧侶の会「春秋会」が、バーでの法話会「オアシス法話」をされています。その歴史は古く、昭和62(1987)年からスターされていて、毎月一回の法話会が今なお継続されています。
私も約2年前、この法話会に参加させていただいたことがあり、是非、同じようなことを自分たちでもしたいと考えていました。でも、なかなか都合良く場所を提供してくださる飲食店の知り合いもありませんし、集客的にも自身がありませんでした。
そうした中、昨年、「菅さん」という僧侶が、本願寺の近くのバーで法話中心のイベントをされ、私も知人に誘われ参加しました。イベント名は「仏教ナイツ」。その場所が、現在メリシャカナイツを開催している音楽とカレーうどんの店「VoNN」でした。
その時、いっしょに参加したチスイさんと
「自分たちの感覚で、ここでイベントできたらいいね」
と話しました。
私は集客に一番不安を持っていたのですが、超前向き思考のチスイさんは「だいじょうぶ!メリシャカがある!」と答えるのです。
私も以前から、メリシャカについては、チスイさんから聞いていたり、サイトもちょくちょく拝見していました。
ということで、後日「VoNN」を訪れ、ここでイベントをしたい旨をマスターに話すとすんなりOK。
どうぞど、どうぞということになり、メリシャカナイツを始めることとなりました。
イベントを始めるにあたって、決めたことがいくつかありました。
〜領靴任覆なに参加してもらい、感想を聞きたい
∩領靴一方的に話すのではなく、「話し合い」の時間を大切にする
イベントは全5回を区切りとして終了する
こ堂鵝▲董璽泙鮴澆韻董∧教の各分野に精通した講師(ボランティアで)を招く
ゥぅ戰鵐箸旅霖里箴匆陲里燭瓠各メディアにはたらきかける
参加費はなるべく低く抑えながらも、その中から慈善団体へ一定額寄付する
Дぅ戰鵐判了後、必ずサイトにて結果報告する
私はこの企画を、あくまで実験的に考えています。実際にイベントに参加してくださる方は限られていますし、ここだけで大きな成果は難しいでしょう。でも、成功にしろ失敗にしろ、行動することで見えてくる「何か」がきっとあると考えています。若い人々に仏教を伝えるためのヒントとなる「何か」。
メリシャカというサイトを通して、その「何か」を発信できたらなと考えています。
今日は、このイベントの企画と運営を手伝って下さっているアサノさんにご登場いただいて、メリシャカナイツを始めた思いをお話いただきたいと思います。それではアサノさんどうぞ!
お寺の法要などへ、お話を聞きに来られる方は、やはり年輩の方が中心です。それはそれでありがたいことなのですが、私と同世代くらいの若い方にも、仏さまの話を聞いてもらいたいと、常日頃感じていました。
そこで考えたのが、お寺に来てもらうのではなく、逆に街の中に出向いて、仏教を語るという試みです。
実は広島では既に、浄土真宗の若手僧侶の会「春秋会」が、バーでの法話会「オアシス法話」をされています。その歴史は古く、昭和62(1987)年からスターされていて、毎月一回の法話会が今なお継続されています。
私も約2年前、この法話会に参加させていただいたことがあり、是非、同じようなことを自分たちでもしたいと考えていました。でも、なかなか都合良く場所を提供してくださる飲食店の知り合いもありませんし、集客的にも自身がありませんでした。
そうした中、昨年、「菅さん」という僧侶が、本願寺の近くのバーで法話中心のイベントをされ、私も知人に誘われ参加しました。イベント名は「仏教ナイツ」。その場所が、現在メリシャカナイツを開催している音楽とカレーうどんの店「VoNN」でした。
その時、いっしょに参加したチスイさんと
「自分たちの感覚で、ここでイベントできたらいいね」
と話しました。
私は集客に一番不安を持っていたのですが、超前向き思考のチスイさんは「だいじょうぶ!メリシャカがある!」と答えるのです。
私も以前から、メリシャカについては、チスイさんから聞いていたり、サイトもちょくちょく拝見していました。
ということで、後日「VoNN」を訪れ、ここでイベントをしたい旨をマスターに話すとすんなりOK。
どうぞど、どうぞということになり、メリシャカナイツを始めることとなりました。
イベントを始めるにあたって、決めたことがいくつかありました。
〜領靴任覆なに参加してもらい、感想を聞きたい
∩領靴一方的に話すのではなく、「話し合い」の時間を大切にする
イベントは全5回を区切りとして終了する
こ堂鵝▲董璽泙鮴澆韻董∧教の各分野に精通した講師(ボランティアで)を招く
ゥぅ戰鵐箸旅霖里箴匆陲里燭瓠各メディアにはたらきかける
参加費はなるべく低く抑えながらも、その中から慈善団体へ一定額寄付する
Дぅ戰鵐判了後、必ずサイトにて結果報告する
私はこの企画を、あくまで実験的に考えています。実際にイベントに参加してくださる方は限られていますし、ここだけで大きな成果は難しいでしょう。でも、成功にしろ失敗にしろ、行動することで見えてくる「何か」がきっとあると考えています。若い人々に仏教を伝えるためのヒントとなる「何か」。
メリシャカというサイトを通して、その「何か」を発信できたらなと考えています。
大人の悩みに子供の涙
- 2009年05月08日(金) 文:チスイ
- 仏声人語
- comments(0)

みうらじゅん結婚しましたね。このゴールデンウィークで一番びっくりしました。
第2子ご懐妊とも!おめでたい!
お祝いに、みうらじゅんの歌で僕が一番好きな曲をyoutubeでエンドレスに流しました。
久しぶりにセンチメンタルな気分になりました。
曲はコチラ
みうらじゅん結婚おめでとう!色々あるね。人生は!
話はガラッと変わりますが、例えば、どうしても許せない人がいるとします。
考え方など、どうしても分かり合うことが一生できそうにないなと思う人が、
皆さんにはいませんか?生きていれば1人2人くらいいらっしゃるんじゃないでしょうか?
僕は僧侶だけどいます。いるんですよ。これが。
ニッチもサッチもいかないくらい、気が合わないし許せないという人です。
なんでそんな風に考えるのかが全く分からない、とまで思ってしまいます。
愛と憎しみは紙の裏表と言いますが、そういう人はえてして自分の近いところにいるんでしょうね。
無関心ではいられないから、腹が立つということは、逆に自分にとって重要な人だからでしょうか。
ある僕の尊敬する僧侶(であり不動産会社の社長)さんに、そういう話をしていたら、
「でも、向こうにはちゃんと向こうの考え方があって、向こうの立場ではそれが正しいんだよ」と言われました。
なるほど。向こうには向こうの正義がきちんとあるのでしょう。
その人その人それぞれに正義がある。
正義を振りかざし手を挙げる瞬間、正義は正義ではなくなるのでしょう。
どこまでも人は「人間皆裁判官、他人有罪自分無罪」です。
続いて、こうおっしゃいました。
「その大嫌いな人が、お浄土に往生間違いなしなんですよ。
これが浄土真宗の見方です」
静かに笑われながらおっしゃった僧侶(不動産会社社長)さんの言葉に、
ガゴーンと僕は脳内が揺さぶられた感じがしました。
メリシャカナイツ第4夜は、正義とは一体何ぞや?テーマは「チベット問題」です。
その前に5月26日、皆さん京都×メリシャカナイツ第3夜お出で下さいね!
今日のGW
- 2009年05月05日(火) 文:kensho
- 仏声人語
- comments(0)

ケンショウです。
GWまっただ中ですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
今年の僕のGWは出勤の日が休暇中もとびとびであり、広島に帰省することは出来ませんでした。
その代わりといったらなんですが、一泊二日で長野の車山高原というところのペンションに宿泊しに行きました。
今話題の、ETCの高速道路料金休日割引で1000円+首都高500円で片道1500円で着きました。
以前ですと、首都高併せて片道約4000円でしたので、往復ですと約5000円の割安です。
今年のGWは、長くて16日間休日というとてつもなく長い人もいるそうですね。
正月休みより長く、社会復帰するには当分時間がかかりそうです。
しかし、その長期休暇がある方は心から喜んでいる人は少ないのではないでしょうか。
16日間も長期休暇があるということは、裏を返せば社会から必要とさせていないということにもなりますし、不景気であるからの現象ともいえます。
先日テレビで、タレントのビートたけしが、「うかれてGWを遊んでいたら、GW後に会社がなくなっていた。」と社会風潮をもじっていましたが、笑い話ですまないかもしれません。
今日の日本は、100年に一度の不景気といわれています。
その中で、派遣切り・非正規雇用の切り捨てにあう方も少なくありません。
そこから見えてくるのは、効率よく生産し、少しでも金銭を集めるため、それを最善のこととして、人を労働コスト・生産コストとしか見ない。
そのことが答えであるかのような現代社会に生きている私たちがいます。
さて、ケンショウ写真です。

長野県 車山高原の牧場の牛です。
レンズ越しに、牛と僕との見つめ合いが数秒続き・・・少しドキドキしました。

数日前に目黒川沿いを散歩してしていた時です。
新緑に映える、綺麗な着物を召した女性が。
あまりにもマッチしていたので、後ろから激写しました。

僕の部屋のベランダから見える風景です。
隣は駐車場なので、日中は日当たり抜群。
シャッタースピードを1分間開放した写真です。
