エンディングノート
- 2012年03月24日(土) 文:キッスィ
- 仏声人語
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映画好きなボクは旅行先や布教先で時間できると、映画見に行くことがよくある。
昨年の10月、札幌で長期滞在していた時に、時間があったので「エンディングノート」という映画を見た。
ある男性が退職後して、さぁ第2の人生!と思っていた矢先、胃がんが発見される。
何でも自分で決めて進めていきたい性格で、がん告知後、自分の死の段取りをし始める様子を実の娘がドキュメンタリー映画として撮ったものだ。
似て非なるもの
- 2012年03月19日(月) 文:sakulla
- 仏声人語
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似て非なるもの。
例えば、「鰻と穴子」とか、「素麺と冷麦」とか、「埴輪と土偶」とか。
例えば、「ドラゴンとゴンドラ」とか、「ひまつぶしとひつまぶし」とか。
見た目が似てても全く別物だったり、字面が似てても全く別物だったりと、探してみれば結構ある。
そして、そのどれもが間違ってしまったときには笑い話になったりする部類のもの。
だが、私には、似てても違うということを意識し、その違いを心にかけている言葉がある。
それは「批判と非難」である。
慈悲
- 2012年03月13日(火) 文:kenyou
- 仏声人語
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2012年3月11日、東日本大震災から丸一年が経ちました。全国各地、いろんなところであの震災のことに想いを馳せる行事が開かれ、多くの方が亡くなられたことを悼まれた方も多いのではないでしょうか。私は西本願寺で開かれた東日本大震災一周忌法要にお参りできるご縁があり、ご本山で満堂の参拝者と共に手を合させていただきました。
君と僕とアミダ様の法話А崟犬ることは信じること」
- 2012年03月10日(土) 文:チスイ
- 仏声人語
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「信じる」って何だろう?
「信じる」
ゝ燭錣此△修了が本当だと思う。 例)火星人を信じる。つちのこを信じる。
⊃用する、信頼する。 例)妻を信じる。銀行を信じる。
信仰する。 例)神仏を信じる。
ネットで調べて自分なりに3つに分類して見た。例は自分で付けてみた。
しかし、これはあくまでも、「自分が」信じるという意味で、どこまでも「疑い」をはらんだ「信じる」だと思う。
僕たちは本当に信じている人に対して「ワタシはアナタを信じてる!」とは敢えて言わない。夫婦間で急にどちらかが、そう言ったならばその人何かきっとやってますね(笑)
「信じる」ところには必ず「裏切り」や「疑い」がついてまわる。僕は明日が来ると信じているし、家族も一緒にいてくれると信じている。他にも色々信じている。信じていないと生きていけないからだ。
生きるということは信じることだ。
しかし、明日が必ずくるとは限らない。僕が信じているもの全ては、移ろい、崩れ、離れていく。
「信じる」
ゝ燭錣此△修了が本当だと思う。 例)火星人を信じる。つちのこを信じる。
⊃用する、信頼する。 例)妻を信じる。銀行を信じる。
信仰する。 例)神仏を信じる。
ネットで調べて自分なりに3つに分類して見た。例は自分で付けてみた。
しかし、これはあくまでも、「自分が」信じるという意味で、どこまでも「疑い」をはらんだ「信じる」だと思う。
僕たちは本当に信じている人に対して「ワタシはアナタを信じてる!」とは敢えて言わない。夫婦間で急にどちらかが、そう言ったならばその人何かきっとやってますね(笑)
「信じる」ところには必ず「裏切り」や「疑い」がついてまわる。僕は明日が来ると信じているし、家族も一緒にいてくれると信じている。他にも色々信じている。信じていないと生きていけないからだ。
生きるということは信じることだ。
しかし、明日が必ずくるとは限らない。僕が信じているもの全ては、移ろい、崩れ、離れていく。
人生には3つの坂がある。
- 2012年03月01日(木) 文:るる
- 仏声人語
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「人生には3つの坂がある。登り坂、下り坂。そして、まさか」
法話でよく語られるこの言葉を、改めてかみしめています。
人は、思いもかけない出来事に遭遇した時に、「まさか」とつぶやきます。
多くの場合は、よくない出来事であろうかと思います。
私にとってすでに日常となってしまった、震災で被災された方や避難されている方との日々のやりとりの中で、何度も何度も耳にする言葉の一つです。
まさか、こんなはずじゃなかったのに、、という思いとどう向き合っていくのか。
どう受け止め、どう乗り越えていくのか。
これからの支援というものは、根本的には、そこが問われている気がします。
もうひとつ、日々の中で印象的な言葉に、「生き残った私たち」という言葉があります。
私はそれを、被災されたからこその言葉だと思っていました。
ですが、本当は、毎日毎日、自分が生きているということは、生き残っているというのと同義なのかもしれません。
まさか、は誰にでも起こりうることであり、私たちは日々生き残りながら生きている。
その人生を、どう生きていけばいいのか。
これには、宗教が果たす役割も、大きいでしょう。
誰かや何かを犠牲にしてやるというのではなく、3つの坂を共に歩いていくことができたら、と改めて思う3月です。
法話でよく語られるこの言葉を、改めてかみしめています。
人は、思いもかけない出来事に遭遇した時に、「まさか」とつぶやきます。
多くの場合は、よくない出来事であろうかと思います。
私にとってすでに日常となってしまった、震災で被災された方や避難されている方との日々のやりとりの中で、何度も何度も耳にする言葉の一つです。
まさか、こんなはずじゃなかったのに、、という思いとどう向き合っていくのか。
どう受け止め、どう乗り越えていくのか。
これからの支援というものは、根本的には、そこが問われている気がします。
もうひとつ、日々の中で印象的な言葉に、「生き残った私たち」という言葉があります。
私はそれを、被災されたからこその言葉だと思っていました。
ですが、本当は、毎日毎日、自分が生きているということは、生き残っているというのと同義なのかもしれません。
まさか、は誰にでも起こりうることであり、私たちは日々生き残りながら生きている。
その人生を、どう生きていけばいいのか。
これには、宗教が果たす役割も、大きいでしょう。
誰かや何かを犠牲にしてやるというのではなく、3つの坂を共に歩いていくことができたら、と改めて思う3月です。
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