慈悲
- 2012年03月13日(火) 文:kenyou
- 仏声人語
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2012年3月11日、東日本大震災から丸一年が経ちました。全国各地、いろんなところであの震災のことに想いを馳せる行事が開かれ、多くの方が亡くなられたことを悼まれた方も多いのではないでしょうか。私は西本願寺で開かれた東日本大震災一周忌法要にお参りできるご縁があり、ご本山で満堂の参拝者と共に手を合させていただきました。
お勤めが始まる前に、本願寺の勧学、梯實圓和上のご法話があったのですが、和上は「慈悲」についてのお話をしてくださいました。『仏説観無量寿経』というお経の中の「仏身を観ずるをもつてのゆゑにまた仏心を見たてまつる。仏心とは大慈悲これなり。」という言葉を紹介して下さり、「慈悲」についてのお話をしてくださいました。「仏」という存在に思いを馳せることは、仏の心を見ることであり、仏の心とは、大いなる慈悲の心である。というお言葉です。仏教は、慈悲の心を大切にするという特徴があります。「慈悲」というのは、共に悼み、共に悲しむ心であり、相手の本当の幸せを願う心です。「慈」という言葉は、サンスクリット語の「mitri(マイトリー)」あるいは「mitra(ミトラ)」という言葉が語源で、何の見返りも求めず相手を思い遣り、しかも誰にでも平等な、純粋な友愛を意味します。そして「悲」という言葉は、「karuna(カルナー)」という言葉が語源で、人の痛みを共に悲しみ、それをなんとかしたいという抜苦の心を意味します。ただ単にかわいそうという憐憫の思いを持つだけではなく、それを何とかせずにはおれないというこの「悲」という心から、「慈」という人の幸せを願う心が生まれてくることから、「悲」という痛みを共感する心こそが「慈悲」の根本です。そして、その完全なる「慈悲」の心を備えたのが「仏」という存在であり、その心を聞かせていただくことが、大切な事であると、和上はお話くださいました。
続けて和上は、次のようなこともお話くださいました。人の幸せとは何かいうことを考えたとき、私たちは自分の幸せ、あるいは自分の親しい人の幸せを思います。そして心の何処かで、自分が幸せになるために、他人に不幸を押し付けても良い、という思いも生じます。自分が辛い時、なぜ私がこんな目に、という思いが生まれてくるのはそういう心があるからです。しかしそれでは、不幸な人が増え、自分のところにも必ず不幸が押し付けられます。これは顛倒した考え方です。本当に人の幸せ、あるいは自分の幸せを思うのであれば、まず人の幸せを願うことからはじめなければなりません。自分がたとえ不幸であろうとも、人の幸せを願う生き方出来る方を「菩薩」といいます。私たちはそのような「菩薩」のような生き方はできませんが、自分の幸せばかりを思うあまり、他人の不幸さえ願ってしまうという浅ましい心を恥じ、少しでも人の気持ちを想像し、そして人の幸せを願う生き方をしていくことが大切です。それによって初めて、人としての本当の幸せに出遇うことができるようになるのではないでしょうか。そのようなことをお話くださいました。





