友達100人できるかな

「ともだち」っていい響きですよね。
何か安心します。

「ともだち」といって、まず思い出す歌は「友達100人出来るかな」
子どもの頃みんなと大きな声で希望一杯で歌ったなぁ。

最近の歌でいえば、やはりケツメイシの「トモダチ」
↓ 
http://musicfinder.yahoo.co.jp/shop/p/53/66701/Y013984
(「トモダチ」の歌詞)

懐かしのトモダチが集まった時の定番曲です。

でも、同じ時間を共有し、一緒の空間をともにするのがトモダチかな。
離ればなれになっても、つながっていることってありますもんね。


今、テレビをみていると「テレビ初公開絶対聞きたい講演会」という番組でヤンキー先生こと、義家弘介先生が

友達とは楽しみことを一緒に過ごす人ではなく、

本当の友達とは、苦しみを分かち合うことができる人。

と言っていた。

本当に苦しい時悲しい時って、「人の絆」って実感しますね。

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シャカミュージック第2弾

○時代は仏教讃歌!

いきなりですが、テノール歌手・秋川雅史さんの歌う「千の風になって」が、今年になってオリコンで1位になりましたね。
作詞者不明、アメリカ発祥と言われていますが、詩に表されている世界は「仏教」そのものだなと思います。「この世の死が終わりではない。ほとけさまとなって、いつもいつも大切な人を救うはたらきをする。大切な人に至り届く」という考え方が仏教にあるのです。
秋川さんの歌われる「千の風になって」が、聴く人すべての胸を打ち、自然に涙がこぼれてしまうのは、きっとほんとうのことが歌われているからなのでしょう。


さてさて、お待たせしました。シャカミュージックの第2弾。
今回も4者4色の曲をご紹介します。もちろんバックボーンはどれも同じです。

○伊藤公朗&美郷さん
伊藤公朗さんの深いシタールの魅力に浸れます。そしてこの曲を聴くと僕は矢も立てもたまらずインドに行きたくなりました!ダイナミックでかつメロディアス。美郷さんのうたも幻想的でマッチしています。
「ヒンドゥー教の4大聖地のひとつ、バドリナート寺院に住む聖者 D.R. Parvatikar に、外国人でただ1人弟子入り」された伊藤さんの音楽は、お寺という伽藍でのライブで聴いてみたいなと思います。
Anjali Indian Music

○白鳥ちあきさん
ほんとうに心洗われるような、ほっこりあたたかな気持ちになるような曲です。
ご自身でも大切な曲と言われているこの曲を、シャカミュージックに載せてくださって有難いことです。
西本願寺の聞法会館をはじめ様々な場所でライブ活動をされています。今回紹介させてもらった「ありがとう」の続編とも言える曲を、現在製作中ということです。楽しみです。
ちあきのきもち

○DOGMA13
言わずと知れたメリシャカメンバーの舞蹴さんですが、同時に地獄の表現者という。。
聞く者があっと驚く衝撃的な地獄のスラッジコア。 せぼねにゾクゾクくるよ(笑)
現代に地獄を歌うトップランナーとしてひた走る稀有なアーティストです。ライブがみたい!
DOGMA13

○おまけびと
この曲はアコースティックライブなどで演奏することがよくあるのですが、「メロディが耳から離れない」とよく言われます。ライブを聴きに来て下さった方の子どもさんが口ずさんでいるのをたまたま聞いて、すごく嬉しかったことがあります。
おまけびとオフィシャルサイト

これからも、仏教を背景に持たれて音楽活動をされている方を、どんどん紹介していきたいです!
シャカミュージック第3弾もお楽しみに!
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絵本「ともだち」

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せっかく「ともだち」というコラムでメンバーが書いているので、これを紹介しましょう。

この絵本は2年ほど前、アパートの近くにある書店で雑誌を立ち読みしようと入った時に出会いました。
何気なく新刊のコーナーに眼をやると絵本の上部だけが見える状態になっていて、吸い込まれるように買ってしまいました。

「ともだちって○○なひと。」
ともだちとはどんな存在なのか、いろいろな形式で表現してあります。

自分がこれまで出会ったきた友達とのエピソードを思い出しながら読んだり、ともだちの気持ちを考えていなかったかなと反省させられることもある、そんな絵本だと思います。

最近、大人向けの絵本もありますよね。これは子供でも大人でも男でも女でもそれぞれの立場で考えることができる一冊ですよ!
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寺子屋トーク 潜入レポ。

先日としさんが應典院という大阪のお寺で行われる寺子屋トークについての告知がありましたが、実際に行って来ました!その潜入レポをしてみたいと思います。

あっ潜入といってもちゃんと表から入りましたので。

日本で初めて看取りに取り組むNPO「なごみの里」代表の柴田久美子さんの講演と、地域ケアにかかわる今井信行医師と應典院の秋田光彦住職を交えて三人でのパネルディスカッションが行われました。

「なごみの里」は島根県隠岐諸島の人口700人ほどの知夫理島(ちぶりじま)にあって、病院も食堂もない小さな島です。
柴田さんの自宅を開放して幸せな最期を看取るという活動をしているNPOで、病院でなく高齢者の自宅でもない中間的な場所で、高齢者が望む死を守る社会を作りたい、
人生の99%が不幸でも1%が幸せなら、その1%の幸せをみんなの手でかなえたい、そして看取りのときも幸せだと思えるような人生にしてさしあげたい、
という柴田さんの力強い取り組みを優しくにっこりした表情によって話されて、大いなるものに包み込まれるような感覚にさえなりました。

実際に入所されていた100歳のおばあちゃんの話を交えて高齢者の方と真正面から向き合う柴田さんの話は壮絶そのものでした。
でもそれをつらいとも言われず、むしろ看取るというのは美しい景色で、そしておばあちゃんになり代わって感謝の心が移ってきました、という言葉には強さと優しさが同居していました。

「何の専門的なことも持ち合わせていないただのおばさんです」と言い切った小柄な柴田さん。
高齢者の方のことを「高齢者様」と言われるのがとても印象的でした。

「死」は怖いものでも何でもなく、みんなに等しく訪れるものです。
触れてはいけないものとしようとしている風潮がある現代で、それを正面から他人事ではなく、自分も確実に受け止めていかないといけない問題である。
生きているのが当たり前ではなく、生きる=死への歩み、という方が当たり前なのだろうと思いました。
その受け止めこそが、地域での看取りの必要性につながるのだな・・・と。


最期に・・・パネルディスカッションで三人の方が共通して言っておられたのが「場の力」でした。
死に最大限のエネルギーを注入していき、一人の命に焦点を当てていく。そこなんでしょうね。

この應典院ではこのようなトークイベントだけではなく、演劇やライブなど様々な活動をされているお寺で「学び・癒し・楽しみ」を基本理念として若者文化や地域コミュニティの中心地となっています。
写真は應典院がお寺との繋がりを持ってもらうのを目的に作った、生前に個人でお墓を持てる生前個人墓「自然」です。お寺は生きている人のためにあるですね!!


應典院
●應典院ブログ
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繋がることの不思議

ども、ケンユウです。

えーっと、今回のテーマは「友達」ということで、皆さん書かれてますが、このテーマで回りだして、「友達」ってなんだ?ってことを初めて考えてみたかもしれません。
それくらい、友達と言うのが、当たり前の存在と言うか、周りにいて当然のように思っていたのだと思います。
でも、よくよく考えてみると、大学の時の友達は、主に関西より西にいる人が多いし、お坊さんの友達は、それこそ全国に散らばっていて、今実際に気軽に会ったり、くだらない話や、腹を割って話ができる友達、というのは、結局自分の住んでいるところの友達だけ、なんですよね。
そう思うと、いて当たり前の友達のはずなのに、なかなか会えないでいる、というのは、ちょっと寂しい事です。
でも、普段なかなか会えなくても、会えば話が弾むし、久しぶりに会って懐かしいはずなのに、なぜかそれを感じなかったりと、友達と言うのは、離れていても、どこか繋がる部分のある人たちなのかもしれません。

それと、最近よく思うのが、人と繋がりを持てる、出遇うことの不思議さ、でしょうか。
実はこのメリシャカに集っているメンバーは、当初私は全く知り合いがいなくて、たまたま『彼岸寺』というサイトで駄文を書いているところから、としさんと出遇い、そこから輪が一気に広まったように思います。
それまでは、年齢も住む場所も違って、全く関係、繋がりの無かった人たちですので、出遇うことなどなかったかもしれない人たちのはずなのに、今こうして出遇い、いろんなことを語り、メリシャカという1つの事を共有できているというのは、本当に不思議な事だし、有り難いことだな、と感じます。
まあ、最近は特に、SNSなど、ネット上のコミュニティを介して、出遇うはずも無かった人と繋がりを持ちやすくなった時代、なのかもしれません。
それでも、必ずしもそこで「友達」と呼べる人と出遇うことができるとは限らないわけですから、やはり「友達」と呼べる人と繋がり合えるというのは、当たり前の事などではなくて、ものすごく不思議な事、喜ぶべきことだな、と感じます。
いろんな「友達」との出遇いがあって、今の自分がいるわけでもありますしね。

遠く離れてしまって、なかなか会えない友達もたくさんいますが、いろんな友達に出遇えた、と言う不思議さに感謝しつつ、その繋がりを大切にする意味でも、今年はできるだけ多くの友達に会いに行けたらいいなあ、なんて思ってます。
もちろん、新しい出遇いもね。
その時は皆様、よろしく、です。
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トモダチプライス

キッスィです。皆さまいかがお過ごしでしょうか?

先日ちょいとインド・タイに行ってきました。二つの国に行ったのですが、それぞれ旅のスタイルは全く違うものでした。
インドはお坊さんたち20人ほどのツアー、タイは一人で個人旅行です。
一回の旅行でなぜこうなるのか。

タイ国際航空を使って関空→バンコク→インド(観光)インド→バンコク→関空の行程だったんですが、帰りにバンコクでみんなとは別れて一人で旅をさらにしてました。

旅先でよく聞くフレーズがあります。
「アナタトワタシ、トモダチ。トモダチプライス。イマダケトモダチプライス。」

そう、土産物屋です。しかも割とカジュアルな青空店舗でよく聞きます。

それにしてもよく海外に行くと話しかけられるんです。
タージマハルでカメラ持ったインド人が近寄ってきて、日本人なんて珍しいだろうから一緒に写って欲しいのか!?と思い上がってたら、カメラ渡されるし・・・。しかもこの建物入れろとか注文多いし!
デリーの博物館でも、同じツアーのメンバーと数人で見物していても外国人に話しかけられる、っていうよりカメラ渡されるのはなぜか僕なんです。まぁ選ばれたんやからヨシとしましょ、と思うようにしています。

初めて会った外国人ともトモダチ、10年以上付き合いのある人とも友達、
ぜんぜん会ったことないけどともだち、知り合いの知り合いで知っている友だち。
いろんなトモダチの形態あります。

トモダチって、点と点の関係ではないのかなーっと思うんです。
この世の中でこんなに多くの人がいる中で、知り合ってともだちになるチャンスはなかなかない筈です。
僕がインドに行かなかったらトモダチプライスを提示してくれた方とも会わなかったかもしれない。
しかもその方がその日にお店を出していても他の対応をしていたら僕とは話をしなかったかもしれない。
僕も話しかけられて立ち止まらなかったらトモダチプライスも出てこない。そしてお互いがトモダチと思えるような会話が不可欠。
いろいろな条件がピタッと重なった時でないと成立しないことだと思うんです。
X軸を場所・Y軸を時間という座標軸にしてみると、自分のXとY・インド人のXとYの値がお互い一致した時。それは後にも先にも今しかない。もっと言うと、そこにZ軸の気持ちの通じ合いの度合いも一致しないと成立しないかもしれない。
それは偶然の一致とも言うかもしれません。

でも、

それって、偶然だったんでしょうか・・・。自分でインド行きを決定し、青空店舗の近くを通りがかり、
そのトモダチと話してもいいかなと思い、と選択肢がいくつかあったのにそれに決めたからであり、
よくよく考えてみると自分でそこに至るまでのきっかけをちゃんと作っている気がします。
偶然にもいきなり話しかけられた、と思っても偶然の必然かもしれません。

そのすごい確率の必然であえたことに驚くとともにトモダチになれた!?ことに感謝しないといけないですね!

結局、トモダチプライスは交渉決裂してしまいました・・・。ただのしつこい呼び込みだっただけ!?
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A Little Help From My Friends

自慢する訳じゃないけど、僕は友達というか、知り合いも含めてあまり人脈は無い方だと思う。あまりフレンドリーなほうではないので。恥ずかしがり屋さんで、なかなか思い通りにコミュニケーションができないことが多い。
しかし、その割にはいい出会いに恵まれて、これまで約30年の記憶を遡ってみると、その数少ない友に助けてもらったり助けたり、泣いたり笑ったり、怒ったり怒られたり、いろんな出来事があったが、総括すると良い思い出を沢山残すことができた。
それで何が言いたいかというと、僕のこれまでの人生はまあまあよいものだったなあということです。
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オトナのともだち  by るる

ともだち。

不思議ですね、ともだちってさ。
人間の成長の過程で、仲間を求め社会性を身につけていく時期があります。
ここで、たいていの人は「お友達のみんなと仲良くしなさい」と教えられる。
でも、やっぱりキライな子や、どうも話が合わない子とかが出てきて、
ほとんどのオトナが教えてくれない感情を経験することになる。
友達とけんかして、ちょっとだけ要領よくふるまえる子はオトナに怒られずに、
ちょっと要領が悪かった子はオトナの目にとまる。
そして、ものすごく理不尽にしかられちゃったりするんだ。

そんな私は意地悪な子なのかしら、って悩んだり。
どうしてあいつは僕をいじめるんだ、って怒ったり。
オトナって勝手だ、と漠然と感じたり。
仲良くしなさいって言われたって、キライなものはキライだし、合わないものは合わない。
それは、子どもでもオトナでも同じ。
仏様でもないかぎり、全ての人を平等に思うことなんて、絶対にできないのだ。

大事なのは、どうしてキライだとか思うのかってこと。
ねたみ、そねみ、やきもち・・・そういう自分の気持ちを見つめることができるか?
そして、それが何に起因しているか、見極めることができるか?

オトナは、「仲良くしなさい」や「いじめてはいけません」ではなく「なぜキライだと思うのか考えなさい」と教えるべきではないのかな?
自分の中の気持ちを見つめる、その手助けをしなければならないのではないかな?
幼い頃から、考える力を養ってほしいなぁ。
お寺には、学校や家庭で教えないことがありますよ。
それを手伝ってくれる、厳しくてやさしいまなざしがありますよ。



数知れない人々がいるこの世界で、自分の人生に関わった「ともだち」という存在。
これって、ものすごい縁だと思う。
単なるクラスメイトだったり、幼馴染だったり、何となく気が合う子だったり、いろいろあるけど、
通過していくだけの縁に囲まれた人生の中で、価値観を共有して笑い合って相談ごととかして、
琴線に触れる何かがあって、いつまでも大事に思っていられる存在。
いったい、何分の何の確率で出遇えたんだろう。

稀有なことだ。
だから、大事なのだ。

何気なく縁が切れてしまった友達もいる。
もう二度と会えないかもしれない。
でもそんなこと、あの時は思わなかったよね。
理不尽なオトナの仲間入りをするようになって、初めて分かる。
「お友達を大事にしなさい」っていう、その意味が。

今、私の周りにいる「ともだち」に、遠くはなれて暮らす「ともだち」に、
出遇わせてくれた縁に、最大限の感謝を。

次、kawashimaさん、よろしくです!

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心の開発−キリスト教−

ども、sakullaです。
NGO・NPOと宗教を結ぶ市民フォーラム第2期 『心の開発(かいほつ)・宗教(スピリチュアリティ)・地球市民(NGO・NPO)』という連続講座があり、その第1回が先日2月8日に開催され、私も参加してきた。

第1回目はキリスト教。
早稲田奉仕園スコットホールという教会を会場にし、本田哲郎氏をむかえ、「愛することより大切にすることを求めたい」というテーマでのお話だった。

本田氏はフランシスコ会の司祭であり、釜ヶ崎反失業連絡会共同代表でもある。
だから本田氏の現場は大阪・釜ヶ崎を指す。
釜ヶ崎は西日本最大と言われる日雇い労働者の就労場所であり、野外生活者も多数抱えるその場所で、彼らを支援し、彼らと共に生きることで見えてきたことを、いくつか話された。

私たちはすぐ、「相手の立場に立って考えよう」とか「同じ目線で考えよう」とか思ってしまうもの。
本田氏も、釜ヶ崎の人々のことを考えるために、彼らと同じ立場に立ってみようと、日雇い労働者と同じように働くことから始められた。
2、3年して、すっかり溶け込んだ自分を見て、相手と同じ立場になったと思ったその時、そこには決して理解などできない、彼らの孤独や悲しみがあることに気がつく。

そして、「どんなに頑張っても、相手の立場には立てない」ことを知ったという。

相手の立場に立ったつもりになるのは危険なこと。
相手の気持ちを考えたつもりでも、それは私を相手に当てはめただけで、私の考えでしかないのであり、偏見や差別とはそういうところから生じるのだという。

理解とは英語で【UNDER STAND】と書く。
本当に理解したいのであれば、「相手よりも下に立つ」。
そして相手への尊敬心を持たなければ、理解することなどできないという。

またSMAPの『世界で一つだけの花』の歌詞にある「ナンバー1よりオンリー1」について、思うところを話された。
これは人を大切にし合い、互いの違いを認め合うことを歌っている。
一つとして同じ花などないし、どんなに厳しい状況にあっても、釜ヶ崎の人々は小さい花を一生懸命に咲かせている。
けれど、大輪の花を咲かせたくても、小さい花しか咲かせられない…そこでオンリー1で良いと言われても響かない。

違いを認めるのは大事なこと。
けれど、小さく咲いている花を、弱く小さくされている人を、何よりも尊重し大切にすることは、もっと大事なことなのである。

そして、その小さくされている人のために、どういう行動を取るかということに焦点が移った。

キリスト教は博愛、とくに「隣人愛」を説いている。
聖書にある愛にもいろいろあるが、「隣人愛」の愛とは「アガペー」であり、「相手をその人として大切にする」という意味がある。

隣人を愛し、敵を愛す。
愛そうとしても、愛せない人はいる。
親や友人と同じように、誰をも愛し大切にすることなどできない。
だが、【アガペー】とは相手を無理にでも親や友人のように愛そうと思うのではなく、相手を自分と同じように大切にするということだ。

自分を大切にするように、相手も大切にする。

そこに互いの尊厳を認める関わりが始まるのであり、これこそイエスの言いたいことだったと続けられた。

相手を大切にすることとは、相手が次の一歩をどこに置こうとしているのかを知ることだという。
何をしたいのかと、相手を思いはかり、自問自答することは大切にすることではない。
何をしたいのかを、相手に聞くことから、どうするかを考えて、伝える。
自分の思い込みを脱したところに、相手を大切にする関わり方があるのだ。

本田氏は最後にこう結ばれた。

  人間は宗教によって救われるんじゃない。
  怒り・痛み・悲しみ・苦しみ・憎しみ、そういうあらゆる感情を共感し、共有する。
  そうやって、どうしていこうかと共に考えるところに、救いがある。

それが本田氏が現場で見た救いの形。
その言葉に、私の僧侶としての全てが問われたように感じた…。


さて、第2回は2月21日(水)に、「仏教」…「援助」が「大きなお世話」にならないために―お釈迦さまが説く「慈しみ」というテーマで、アルボムッレ・スマナサーラ氏のお話を聞かせていただく予定。
単発参加も可なので、皆さまもどうぞ。

お問い合わせ・お申し込み先
  開発教育教会(DEAR):http://www.dear.or.jp/index.html
  アーユス仏教国際協力ネットワーク:http://www.ayus.org/

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気軽に♪

友達ですか〜♪
募集中ですw

ではその友達について!

「僕はどうしようもなく情けない性格であります。」
・・・いきなりな発言ですいません。。。

僕〜、勉強は死ぬほど嫌いだし、仕事も嫌いだし、口ばっかで行動力ないし、、、
駄目な所は数えれば限がないんです。。。ハァー

そんな中「あんたこのままでいいの?」っと励ましてくれる友がいます。
そうです!それが「友」だと思います。

『漢字源』で調べたら、両手でかばう腕が変じて「友」だそうです。
仲良くかばい合い、助け合う関係です。

「金の切れ目が縁の切れ目」そんな関係じゃないですよね。

辛い時、何気なく傍に居てくれたり、声をかけてくれる方ですよ。
相手の辛い気持ちが分かる、理解したい、助けたいと思ってくださている。
少なくとも僕と向き合ってくれる人であります。無関心じゃ出来ません。

当然、優しい言葉だけの関係じゃありません。時に無茶糞に人格否定まで行くぐらいの激を飛ばされ、その激でヘコタレルこともありしたが、僕自身のことを思ってのことです。

あまり、リアルにはそのことを書きたくありませんが、
友は大事です。宝であります。

勉強会を誘ってくれる同郷のチスイ君にOっ君。彼等のお陰で何とか勉強に向う機会に出会わせていただいてます。
バンドでは、先輩が僕に「ギター弾いてる?」と発破をかけていただくださっています。
普段から、なにかといろんな人から激励されています。で今日があるんですよ!なんとかね!!

・・・僕は細身で頬がコケて唇の色が悪いから、
   「ご飯食べてる?」「マタ痩せたね」「体調悪い?」ってよく言われてました。
長年、僕のキャラは心配キャラだったんでしょうか、定着していたように思います、、、。
言うより言われる方が多い。。。それだけじゃ無いでしょうがw

もちろん僕だって友を励してますよ〜!

ん?そんな心配なヤツから心配されたくない?

なに!したいんですよ〜!!!

して欲しい人、挙手でお願いしますww


・・・・・・・・・・・・・・・・


やっぱ、輝いた友を見るのは気持ちがいいもんでしょ!当然、自分自身も輝いた人生でありたいですけど。お互いがそう想い合える関係は とてつもなく素晴らしいことだと思います。

僕は良い友に囲まれています。感謝、感謝であります。

唯、その関係に甘んじてダラダラしてると、かばうことさえ出来なくなりますので注意が必要ですが、、、(僕自身のこと)

友よ!励ましあって行きましょう、、、ウワッハハハ。

駄文、失礼しました。
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