柱も痛いんよ

kenshoです。やっとこさ、夏本番の暑さになってきましたが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
僕は夏風邪を引いてしまい、自分の声も誰かわからないような声になっています。

さて、この時期になると各都道府県で盛り上がっているのが、夏の高校野球の地区大会でしょう。
僕の故郷の広島は強豪がひしめく激戦地です。
ちなみに僕の母校の崇徳(そうとく)高校は、去年の広島県大会で準優勝をし今年も期待をしていましたが、今年は初戦敗退という結果でした。
1年生の秋から4番を打っている井上君という選手は、負けた後ベンチで泣き崩れている選手とは別に、ただ呆然と「よくわからない。信じられない」とただ一人立ち尽くしていたそうです。
1年生から4番を打ち去年は準優勝で、3年生になった今年はもちろん決勝までの6試合をやるつもりで、初戦敗退の事実をなかなか受け入れることは出来なかったのでしょう。高校野球は勝つチームの感動もありますが、負けたチームに対する私たちの悲しむ慈しむ感情が自然に湧いてくるという点でも感動を受けるのでしょう。

さてさて、夏の話題はそこそこにしてメリシャカコラムの「イタイ話」ですが、皆さんも幼少の頃こんな思い出があると思います。
一生懸命遊んでいると柱か何かに体をぶつけて、痛くて我慢できずぶつかった柱にやつ当たりをしませんでしたか。
子ども心に頭の中では、「この柱が悪いんだ。柱をたたいてやろう。」と思っていたはずです。
柱をたたくことによって、自分の腹立ちをしずめ、その場をおさめようとしたのでしょう。

僕の第一子が12月に産まれる予定です。

子どもが成長していくにつれ、僕の幼少時代と同じような光景を目にすることでしょう。
そんな時、
「痛かったじゃろう。かわいそうに。父さんがなでてあげちゃるけえね。でもね、痛かったじゃろうけど、この柱も痛かったんよ。父さんと一緒にこの柱もなでちゃろうね」と慰めたい。

人生の苦しみに出会ったとき、苦しみを与えたと思われる相手を探し出し、その相手を責めることによって己を納得させようとする習慣を、知らず知らずのうちに自分にも子どもにも植え付けていないだろうか。
己だけが主張せず相手の立場を充分に理解したいものです。
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インド?


キッスィがインド旅行で訪れた場所を紹介する第四弾!忘れた頃に更新です。(笑)
前回はこちら。
前々回はこちら。
前々々回はこちら。

今回はサンチー。
マディヤ・プラデーシュ州の州都ボパールから北へ67?、サンチーは前回までのナーガルジュナコンダ・アジャンタ・エローラに比べるとだいぶ北に位置します。
そのサンチーには何があるのかというと・・・アショカ王が建てた現存する最古の仏塔があって、それがほぼ完全な形で残っています。

アショカ王(紀元前268年〜232年)について簡単に説明しますと・・・。
マウリヤ朝の三番目の王として即位した人でインドを初めて統一。でも、めちゃめちゃ残酷な性格で、暴虐王と呼ばれていた。
インド東部のカリンガ王国を征服した際に数十万人の犠牲者を出して、その悲惨な状況を目のあたりにしたアショカ王は深く後悔し、仏教に帰依、武力政策を放棄したという。
その後の王は仏教を厚く保護した。仏典の編集事業を行ない、インド中に8万以上の仏塔を建てさせた。サンチーもその事業の一環であった。


サンチーは仏塔が建設された紀元前3世紀頃から仏教信仰の場になっていきました。広大なデカン高原の大地を見渡すことの出来るこの丘は瞑想など修行のためには理想的な場所であったようです。
紀元後11世紀までこの地は栄えるけれども、インド仏教の衰退とともに訪れる人々の足も遠のき廃墟になった・・・13世紀にイスラム軍の侵攻により、インドの仏教は滅亡していまいます。
うーん、なんとももったいないことですねぇ。19世紀に発見されて、現在では世界遺産にも登録されています。

サンチーには三つの仏塔が残っていますが、その中で一番大きな仏塔が第1塔で、その東西南北にある門には様々な彫刻がほどこされており、釈尊の誕生・成道(悟りをひらく)・説法などの様子がたくさんの動物と共に見ることができます。
紙芝居のように場面によって描かれていて、順番に見ていくと1つの説話になっていきます。

ここもナーガルジュナのようにすごーくすごーく田舎で周りにはなーんにもありません。お店も少し歩いても見つからないくらいです。
インドの昔ながらの風景と人柄に触れることができる、インドらしい土地といえるでしょう。
あちこち観光するのではなく、のーんびりしたい、ボーっとしたいのであれば是非オススメの土地です。

これでみなさんもインドに行ってみたくなりました??
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心の段差

ちょっとの段差につまづいて膝をついた。

家の中は、建て替えときに祖父母に合わせてバリアフリーになっている。
階段以外、生活空間で足を上げる機会が少なくなった。
段差のないことが、私の中で当たり前になってきている。

バリアフリーに慣れると、段差があることを忘れてしまう。
段差があることのほうが、悪いことのように思えてくる。
小さな段差に敏感になり、つまづくと目くじらを立ててしまう。

人と人との関係も、なんとなく似てるなぁと思えてきた。

すべてが同じなわけはないし、並べば平坦になることもない。
それぞれが違うのだから、それは当然のこと。
だけど、違うなりにも同類と判断したグループはできるわけで。
そうすると、そのグループに入らないものの違いに対して、敏感になってくる。
自分の価値観で、違うものを、時には嫌悪し、攻撃し、差別し、排除する。
違って当然ということを、認めることができなくなる。
そういう心の段差が生じることもあるということ。

「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」

『阿弥陀経』という経典にある一節。
浄土に咲く蓮華の華のことで、それぞれがそれぞれの色に光を放ち合い、照らし合っているさまを説いている。

一人一人の持つ特質を発揮し、また発揮されたものを受ける止める。
せっかく違うのだから、その違いを認め、違いを尊重し、違いを愛する…そういう心持ちでありたい。

「みんなちがって みんないい」

まったくその通りだ。

段差をなくすことが根本的な解決ではない場合もある。
段差があることを知る、認識する。
まず、そこから始めないと、たまに遭遇する段差に驚き、排除しようと躍起になる。
自分のほうがスタンダードだと、ぶつかり合うこともあるかもしれない。
段差はあって当然という認識。
その上で、その段差を超える懐の深さというか、なんというか…。
まあ、そんなものが、人間同士それぞれが関係することによって培われていけたら…。

などと、つまづいて膝をついたまま考えてた。

それは本堂での法事が終わり、墓地へ移動する途中のこと。
お参りの方々の目の前で転んで、持っていた携帯用の鐘が虚しい音を響かせながら飛んでいった。
その状況のあまり痛さと恥ずかしさに、思考が現実逃避したらしい。

誰にも手を差し伸ばされなかったことに、自分の魅力のなさを痛感する…。
肉体的にも精神的にイタイなぁ。

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おばあちゃんの智慧袋

「痛い話」で思い出すのは、昨年末の捻挫です。本当に痛かった。すぐに病院に行けば良かったが、忘年会に行きたかったので、そのまま足を引きずって飲みに行ってしまった。それがより悪化した原因のようです。でも、その話は築地本願寺のテレフォン法話でさせていただきました。ぜひ、お聞き下さい。
 ↓  ↓
http://www.tsukijihongwanji.jp/tsukiji/howa.html
(これは築地本願寺3分間法話でいろんな話が放送されています)


で改めて、「痛い話」を考えていると、グラグラッと地が揺れました。新潟県中越沖を中心とする震度6強を観測した地震でした。千葉にいた私も震度3の揺れを感じました。報道番組からは、地震により全壊した家屋、行き場を失い避難所で生活せざるを得ない人たち、倒れた電車の姿が伝わってきます。


その中で、全壊になった家屋から助け出される女性の姿が映し出されていました。
「大丈夫ですか」という消防員のかけ声、「痛いよ」「助けてくれ」という家屋に体をはさまれている女性の叫び声がします。緊迫した状況であります。そんな中「がんばれ」というそばにいた消防団員の声が聞こえてきた。その消防団員は自分は何もできずに、助けたいという一心で出てきた言葉なのでしょう。


そのシーンは、私に3年前の新潟大地震の時のある被災者の方の言葉を思い起こさせました。
それは、新潟のおばあさんの「地震にあったことは災難だったけれど、人の優しさに出会うことができてうれしかった」という言葉です。


人類が万物の霊長といったところで、長い地球の歴史に比べれば、ほんの少しの歴史であります。私たち人類が地球を間借りしているといってもいいかもしれない。そのため、地球の変動=災害に悩まされてきたのが、人類の歴史でかもしれません。災害を経験するたびに嘆き、喪失感が生まれてきます。


でも、その経験を通してみえてくる世界もあるのです。そこに目を向けていき、大切なものを感じ取っていくのが人類の智慧なのかもしれません。痛みや苦しみがあると「なんでケガをしてしまったのか」とその事実ばかりに目がいってしますが、ちょっと離れてみると、そこに大切なものが落ちているかもしれません。そんなことを、新潟のおばあちゃんが教えてくれました。


今回の震災被害が少しでも早く復興することを願うばかりであります。

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恋に落ちる世界

恋に落ちると眩暈を起こす友人に会った。

彼女の目に映る世界の、男性の話を聞くのが好き。

彼女は男と女の友情はないという考えの持ち主。
だから男性に会うと、彼女はまず、その男性が自分に気があるかどうかを感じ取る。
自分に気がない男性だったら、興味をまったく示さない。
そして、気がある男性でも、色気がなければ興味はない。
けど気があって、しかも色気があると、彼女は眩暈を起こして、自分が恋に落ちたことを知る。
そして、「私を落とせるなら落としてごらん」と視線を送るという、彼女の伝わり難いアプローチがその瞬間から始まる。

気があるかどうかを、どういうふうに感じ取るのかと尋ねると、
「私は敏感だから、雰囲気で分かる」
彼女はそう断言する。

だが、眩暈を起こした恋が成就したことはないともいう。

それは、私から見たら全て勘違いだとツッコミたくなる話だけど。
彼女にしたら、至極当然の成り行きらしい。

「人は皆、一人ひとり異なった世界を見て、見たものを異なった世間として理解しているはずである。
それでも、誰もが自分の見ているものは他人が見ているものと同じだと思い込んでいる」

なんとなく、『邪魅の雫』という京極夏彦の小説にある一説を思い出した。
男性の何気ない仕草に色気を見るものもいれば、その仕草に不快感を覚えるものもいるように。
見ている対象は同じでも、その対象への意味づけが異なれば、見ている世界も変わるのだろう。

「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によって作り出される」

おシャカさまの残された言葉を集めたとされる『ダンマパダ』の冒頭にもあるように、私の見る世界は私の心によって作り出されたもので、他者の見る世界とは別物だ。
あらゆる現象は、ただ心の現れに過ぎないという思想を、仏教では唯心と言い、それが唯識へと発展する。
だけど、この心もまたコロコロ変わる不確かなものだから絶対的なものじゃないという、とても複雑な考え方をする思想。
このスペースだけじゃ、到底説明できやしないので以下省略。

さっきの小説の一説には続きがある。

「思い込むのみならず、差違を認めない者、差違を生じること怖れている者が殆どである」

友人は、その恋は勘違いであると、私以外から既に何度も指摘されている。
けれど彼女は他者との違いを歯牙にもかけず、恋に落ち続けている。
私には、他者との違いを認め、それでもその違いを恐れず、マイペースに歩く彼女の世界は、とても眩しく魅力的に見えるのだ。

彼女に、色気がある人を芸能人でいうなら誰かと尋ねると、
「テリー伊藤」
彼女はそう断言した。

やっぱり、彼女の見る世界は面白い。


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傷つけた痛み

「痛い」といえば、骨折したことも痛かったし、自転車に乗っていて車に軽くはねられた事もありますし、親知らずも痛かったですねぇ・・・。
肉体的な痛みではない「痛い」だと、運転中、不注意で前の車にぶつかってしまった事や、ついこの間、高速道路で、追い越し車線をずーっと走っていたら、それが違反で、覆面パトカーに捕まった事、などでしょうか。
あとは、失恋というものも精神的にかなり「痛い」経験ですね。

でも、自分がいろんな怪我や失敗や失恋した事以上に「痛かった」事は、自分の言葉や行いによって、好きな人の心を深く傷つけてしまった事、そしてその事に気付けなかったこと、傷つけたことに気付いても、その人の気持ちをしっかり受け止められなかったこと、かもしれません。
自分としては、その時、相手のことをちゃんと愛していた、と思いますし、大事にしていたつもりでした。ですから、もちろん傷つける気なんてサラサラ無かったですし、傷つけている、と知っても、自分では大事にしているつもりでいたので、それを信じたくなかったし、相手の気持ちを理解することはできませんでした。

しかし、そう言う自分の想いは結局独りよがりな「つもり」でしかなく、相手の受け取り方や、感じ方、考え方というのに大きなギャップがあって、相手からすれば、私が大事に想っている「つもり」でいても、それが感じられなかったのでしょうし、私には傷つける「つもり」はなかったとしても、たくさん傷ついていたのです。
なのに、その自分と相手の違いを認めることなく、自分は大事に想っているのだから、と自分の想いばかり押し付け、相手の気持ちというものを理解しようとしなかった。これもまた、相手を傷つける事になったのだと思います。
もちろん、人と人は違うものだし、相手の気持ち、感じているものを100%理解する、ということは、不可能かもしれません。でも、違うからと言って、相手の気持ちに寄り添っていくことが出来ずに、相手を傷つけ続けたことは、今でも悔やまれるし、考えると、心が痛みます。

私は、別れた後になって、好きな相手のことを傷つける、ということの「痛さ」というものに気付いたわけですが、本当は、その「痛み」に、一緒にいる時に気付くべきだったし、それ以上に、自分のしたことで相手が傷ついているということ、そして相手の気持ちというものをよく考え、受け止めていかねばならなかったのだと思います。

自分のしたことを正当化するつもりではありませんが、どれだけ好きな相手であっても、恋愛をして一緒にいる中で、傷つけてしまう事って、きっとあると思います。
もちろん、一番大切なのは、そうならないように相手に思い遣りを持って接することなんですけど、どれだけ好きで、思い遣っているつもりでも、感覚に違いがある以上、気持ちのすれ違いや、思慮が足りずに、傷つき、傷つけられる事もあるでしょう。
だからこそ、自分の想いばかりに目をやって、自分を正当化するのではなくて、相手の気持ちをしっかり考え、受け止めようとする事が、相手の痛みを知るためにも、負わせてしまった傷を癒すためにも、大切になってくるのでしょうね。


まあ、私が今感じる痛みなんかよりも、その時の相手はもっと傷ついて、心の痛い思いをしていたでしょうから、本当はこんな事言えた義理ではないのでしょうし、今更こんなことを言っても、相手が傷ついた事を帳消しに出来るわけではありません。
こうして後悔している事すらも、もしかしたら、単なる自己満足や自己愛から来る、独りよがりなものに過ぎないのかもしれないですけど、ね。。。
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熱視線。

イタイ話・・・そういえば骨折したことがない、ということをまず思った。
割とスリムな方なのでポキッといきそうなものだが、案外しぶといらしい。

それは置いといて。
僕は普段からのほほーんと生きている印象を持たれがちである。
でもそれはある意味当っていて、楽観主義なのも合わさって、いたーい視線をもいたーいとも思わずに生きてきた気がする。

特に海外。

「旅の恥は掻き捨て」とはよく言ったもんで、まさにそれを地で行くようなことをよくやったものだ。


とある国のバスターミナルにて。

「○○行きのバスはどれ??てか、どれ?どれ?」

とその場で騒ぎ立てる1人の日本人。ただ通りがかっただけのおっちゃんに詰め寄る日本人。
怪訝そうな顔をされながらも、バスまで同行してくれて、さらにバスの運転手の人にまで「この日本人○○行きたいらしいからよろしく」
と言ったかどうかは分からないけれども、無事目的地まで行くことができた。

おそらく周りにいた人はまさにいたーい眼で僕を見ていたに違いない。

今思えば、物怖じしない青春だったような気がする。


いったいどんだけの世界の人々に迷惑かけてるんだろう。そう思うと愕然とした。
迷惑をかけながらも人々とつながっていく自分がいて、そしてみんながいる。

これからもいろんな人に迷惑をかけていくかもしれない。
旅行だけでなく、実生活でも迷惑をかけるかもしれない。
いや、すでに迷惑をかけているかもしれない。

それでも僕と接してくれる。

接してくれる・・・裏返せば見ず知らずの僕へのやさしさとも言えるだろう。
それを感じることこそ周りに対する感謝のココロなのだろう。

いたーいと思う視線が実は裏を返せばあたたかいココロなのかもしれない。
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[予定] 平成画僧展〜イラストボンズ参上〜


お寺に隣接して、ギャラリー&カフェを経営されている「お寺ハウス」より、僧侶のイラスト展「平成画僧展」が開催中です。以前こちらでも紹介させて頂いた、イラストレーターの中川学さんをはじめ、宗派入り乱れて僧侶アーティストが集合。中川さんは先日行われた築地本願寺での「節談説教布教大会」のポスターも担当されています。

最終日15日には、南米アンデス音楽デュオ「ロスアイレス」や女性僧侶のシンガーソングライター鈴木君代さんのライブ、中川学さんの絵が動くショートフィルムの上映、日蓮宗のボンズクラブ代表杉若恵亮さんと法然院の梶田真章さんのトークなど、盛りだくさんな内容です。

僧侶とアートがであうとき。
お寺ハウスと重ねて、要チェックイベントですよ!


■会 期
 2007年7月4日(水)〜15日(日)11:00〜18:00
 ※9日(月)と10日(火)は休廊です。
■会 場
 ギャラリーおてらハウス
■イベント『トーク&ライブin大善院本堂』
 ・7月15日(日)祇園祭宵宵山 PM17:00(開場)PM17:30(開演)
 ・大善院本堂(おてらハウスのあるお寺)
 ・ライブ(ロス・アイレス&鈴木君代)& トークライブ(参加画僧による)
 ・入場料/前売り2000円 当日2500円 1ドリンク付き
■お問い合わせ
 ギャラリーおてらハウス
 ・京都市下京区新開町397-9・075-351-5156
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親しらず

最近親知らずを抜いたのですが、これが実に痛かった。
3年くらい前に歯医者にかかった時に、この親知らずは抜いた方がいい。しかし真横から生えているので歯茎を切開して骨を削って抜くことになります、と戦慄の告知を受け、あまりの恐怖に失神しそうになった。もちろんそんな恐ろしいことは出来ぬと断りそのまま放置しておいたが、3年の時を経ていよいよ痛くなってきた。
再び同じ歯医者にかかり、即刻手術しなければいけない、このままだと他の歯もダメになる、一刻の猶予もない状態だ、すぐ紹介状を書くからそれをもって口腔外科のある総合病院へ行きなさい、と脅されて、遂に観念した。

そして手術の日がやってきた。当日は緊張と恐怖で朝から震えていた。
手術台に載り、最初に麻酔を立て続けに5本くらい打ってから、痛いとき押すブザーを手渡され、目隠しをされて、口が閉じないようにストッパーを噛ませて手術は始まった。
初めカリカリやってるけど全然何をしてるかわからない。切開してるのだろうか。キュインキュインガリガリ骨を削ったりグリグリしてるうちに痛みはどんどん高まってきた。そして力任せに顔を押さえつけてエイ!エイ!と歯を引き抜こうとしたときは気絶しそうな痛みで思わずブザーを押した。

抜いた歯は、今後役立つことはまず無いとは思うが捨てるのもしのびないので、引き出しの奥にしまってある。
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だから私は恋をする

「心から好きな人ができたら、本当に胸が痛くなるんだよ」

とは私の母の口癖。

幼馴染への初恋や、部活の顧問先生への憧れの気持ちや、初めて付き合ってくれといわれて舞い上がった思い出。
友情と恋愛感情との間に揺れたこと。
自分を再構成するかのような恋、好きと思うだけじゃ続けられない恋の経験もあった。
そのたびに、母は私の思いを見透かしたように言ったものだ。
「心から好きな人ができたら、本当に胸が痛くなるんだよ」

私もお年頃になるにつれ、こんな思いをするなら恋なんてしなければよかったと思ったことだって、あるわけで。
不思議なことにそれが終った頃から、母はその口癖を言わなくなった。
見透かされていたんだろうか。
恐るべし、母。


ただ楽しいだけの、ただときめくだけの恋はもうできないと知ったとき、人は、「本当に胸が痛い」という経験をする。

大事なのは、その痛みをどうするか。
その痛みが何に起因しているかを見つめられるかどうか。
総合的複合的に絡まっている痛みをひとつひとつほぐしていった時、最後に残るのは何だろう。
何を選び、何を捨てるか。
それによって、次の生き方が決まる。「私」の成長がある。

失った温もりや、過去を思い出す痛み。
相手を責めたくなる痛み。
傷つけられたプライドの痛み。
自我が壊れてしまいそうな痛み。
先を憂う痛み。
自分を責める痛み。

何が悪かったんだろうと考え、相手のせいだけにするか。
自分のこととして引き受け、省みるか。
その選択の差が、終った恋を腐らせるか新しい種に変えるかの差だろうと思う。

多分、この世界のたいがいの人は、恋をする。
そこには、教科書では教えてくれない大事な気づきがたくさんたくさん用意してある。

恋をして胸が痛いのは、その気づきが生まれる痛みなんだろうな。

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