見られているという視点
- 2009年12月13日(日) 文:kenyou
- 仏声人語
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皆さんメリシャカ。メリシャカライブまでもう2週間を切りました!年末に向けてバタバタする時期ではありますが、私も参加させていただけるということで、今から非常に楽しみです。
さてさて、年末、ということで、そろそろみなさんも、今年一年を振り返ったりすることがあるかと思います。皆さんにとっては、どんな一年でしたでしょうか。やり残したことはありませんでしょうか?
私は今年、一つ心残りというか、後悔したことがあるのですが、それは東京国立博物館で開催された阿修羅展に行けなかったことです。みうらじゅん氏などの仏像好きが盛り上げて、大変盛況だったようですが、機を逃してしまって行けずじまいだったことは、思い出しただけでもため息が出てしまいます。あの憂いを帯びたお姿に魅了された方も多かったようで、阿修羅好きを指して「アシュラー」なんて造語が生まれたりもするほど人気が出たようです。
阿修羅像に限らず、ここ何年か、仏像がブームになっていたように思います。私も仏像が好きで、京都などに行く際には、必ず良い仏像がありそうなお寺を事前に調べて、仏像目当てでお参りに行ったりしておりました。美しく繊細、ながらも時に激しく情熱的に彫り上げられた仏像を前にしますと、造形美はもちろん、その迫力にゾゾっと肌が粟立つような感覚になり、見れば見るほど、その魅力にハマっていきました。仏像、カッコいいな、と。
ところが先日、ある先輩のご法話を聞く機会があったのですが、そのご法話の中で、今仏像ブームと騒がれているが、仏像を見る、ということばかりが言われている。確かに仏像と言う、仏様の姿に彫られたものを、私たちが見ているのだけれども、仏様を前にした時、忘れてはならないのは、仏様に私が見られている、ということと、その仏様の目にうつる私は、どんな姿・生き方をしているのかということを考えることではないか、ということを話してくださいました。
私はその話を聞いて、ハッとしました。確かに仏像を前にしたとき、私のこの目で、仏様の姿を見ているわけでありますが、同時に仏様の側から、私の姿が見られているのです。仏様の視点から見た私。それは一体どんな姿をしているのでしょう。
その答えは、お経の中にあります。お釈迦様は『仏説観無量寿経』というお経の中で、「なんじはこれ凡夫(ぼんぶ)なり。心想羸劣(しんそうるいれつ)にしていまだ天眼をえざれば、遠く観ることあたはず」というようにおっしゃっておられます。「心想羸劣」というのは心が弱く劣ったものであるということを意味し、「いまだ天眼をえざれば、遠く観ることあたはず」というのは、いまだ世のすべてを正しく見つめる智慧の眼を得ていないため、自己中心的なものの見方に陥り、物事を正しく見通すことができない、という意味で、そういう私のことを「凡夫」であるというようにおっしゃっておられます。
さらに親鸞聖人は、この「凡夫」というのは、自己中心的な想い、何でも自分通りにせずにはおれないという煩悩が満ちあふれた存在で、満足ということを知らず、怒りや憎しみ、妬みの心が死の間際まで消えることがなく、その自らの心が生み出す煩悩というものに振り回される迷いの存在である、というようにおっしゃっておられます。
つまり、仏様の目に映る私というのは、とんでもなく愚かで、さまざまな苦悩に苛まれ、常に不安の中に埋没している、哀れな姿をしているのです。
しかし、仏様の目は、決してそんな私を愚かだなと、見下げている冷たい目ではありません。智慧の眼で私の真実の姿を見通されたが故に、哀れな私を救わずにはおれないという、慈悲の心が仏様の目やお姿には溢れているのです。
私たちは、つい自分は常に正しい存在であると思ってしまいます。けれども、決してそうではありません。仏様の側から見れば、なんとも危うく、迷ってばかりの存在であります。しかしながら、自分からそういう事実になかなか気づくことはできません。
ですから、仏像を見るということを通して、ただ単に仏様の姿を見るのではなく、私自身の姿もまた、仏様に見られているものであり、仏様の目に映る私の姿はどういったものなのかということを正しく見つめる機会にすることが、仏像を見る上で大切なことなのかもしれませんね。
仏様に見られているという視点。これを忘れないようにしていきたいものです。
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